昼休み。
今日も藤林杏は、隣のクラスへと足を運ぶ。
杏が毎日のように隣のクラスに行くのは、杏の双子の妹、藤林椋が居るのが原因だ。……それは、表向きの原因で、裏の原因を俺は知っている。
隣のクラスから、杏の怒鳴り声が此処まで響いて来る。春原、と叫んでいるのは間違いなく杏だ。同時に春原の悲鳴も聞こえて来る。哀れ、春原。
いやもっと哀れなのは、俺の方かもしれない。
「ただいま~」
疲れ切った表情で、杏が教室に戻って来る。
「全く、春原の奴、学習能力が無いから、嫌になっちゃうわ」
杏が俺の机に肘をついて、愚痴をこぼす。
俺は読んでいた本から顔を上げて、杏を見る。
「あのさ。見て分かると思うけど俺、読書中なんだよね。愚痴なら向こうでやってくれない?」
「何よ。副委員長なら、委員長の愚痴を聞くのは当然でしょ?」
杏が俺が読んでいた本を奪い取って、俺の顔を覗き込んで来る。……、これは反則ではないだろうか。可愛い。
俺はそんな雑念を取り払うように首を何度も横に振って、杏から本を取り返す。
「兎に角。俺は、昼飯を食った後で静かに本を読む、この時間が一番の至福なんだよ。その幸せな時間を、杏の愚痴で終わらせたくないわけ、分かる?」
「分からないわ。あんたは、私の愚痴に付き合う運命なのよ。これは、あんたが副委員長になった時から決まってる事よ。椋の占いにもその結果が出ていたわよ」
おいおい、椋の占いは「的中率ゼロ」が売りじゃなかったのか。
「とりあえず、読書代わりに私の愚痴を聞きなさい。読書よりか余程、為になるわよ」
為になるどころか、精神的ダメージの方が大きいんですけど!
「それでね、そこで朋也が……」
俺の意見も空しく、杏は昼休みが終わるまでずっと俺に向かって愚痴を言い続けた。
杏との出会いは、今思えば滑稽だった。
廊下で本を読みながら歩いていると、杏とぶつかり、本と眼鏡を落として慌てる俺を手助けしてくれたのが杏だったという、マンガみたいな出会い方である。
杏が何故かクラス委員長に任命されたのは、その後の事である。委員長が副委員長も決めていいという話になり、杏は教室全体をぐるりと見回した後で、俺を指差して、
「あんた、眼鏡かけていかにも委員長タイプだから、副委員長に決定!」
そう、言い切った。
俺は確かに眼鏡をかけて、いかにも委員長タイプだが、実際、委員長に向いていると自分でも自覚しているけれども、だからと言ってそれで副委員長に任命されるのは、自分の中で無い無い、と否定していたが。
そんな俺の意見は全く無視され、いつのまにか俺は副委員長になっていた。
それからというもの杏は、何かと俺につっかかってくるようになる。何でも俺に押し付けて、何でも俺に頼って来る。俺は俺で情けない事に、杏が可愛いのでついつい、引き受けてしまうのだった。
自分が杏を好きだと気付くのに、時間はかからなかった。
それは、いつものように杏の仕事を押し付けられた後の出来事だった。
「これ、あんたにあげる。いつも頑張ってくれる、ご褒美よ」
杏から手渡されたのは一本の缶ジュースだった。俺はジュースの銘柄を見て、息を飲んだ。
「……俺の好物、知ってたのか?」
「さあ? 私はいつもあんたが自販機でそれ買ってるのを、見てただけだから」
杏は素っ気無く言うが、少し頬が赤いのは俺の気のせいだろうか。気のせいだろうなあ、多分。
俺は杏が少しでも、俺の事を見ていてくれたのかと思うと、嬉しかった。
それから俺は本気で、杏に恋をした。
しかし、俺に手強いライバルが居ると気付くのにも、時間はかからなかった。
杏が隣のクラスへ足を運ぶ本当の理由。
隣のクラスには、杏の片思いの相手――岡崎朋也の存在があった。
岡崎朋也は学校内で有名な問題児の一人である。不良で、奴が時間通りに登校する姿を見た人間は少ない。自分の行きたい時間に学校へ来て、帰りたい時間に学校を出る。教師に背いて、自由気ままに過ごしているのが岡崎朋也だった。
正直、岡崎と自分は正反対の人間であると俺も自覚している。
杏の目当てが岡崎なら、岡崎と正反対の俺は杏の好みから外れている事になる。
最初から勝ち目の無い戦いに挑んでいるようなものだ。
だけど杏も、最初から勝ち目の無い戦いに挑んでいる。
今日も杏はめげずに、隣のクラスへ行ってしまった。
俺は昼飯を食べ終えると、本を取り出し腕時計を見る。そろそろ、か。
「ただいま~」
俺の読み通りの時間に、杏が帰って来た。いつものように俺の机に肘をついて、愚痴を言うのか、と思ったら今日は違った。杏は机に顔を伏せたまま、起き上がって来ない。
「……、どうした?」
俺は心配になって杏に声をかける。
「……私、どうすればいいのかな」
いつもの杏らしくない。
俺は本を読む振りを止めて、杏の様子を見る。
杏は俺に聞こえるよう、わざと大きな溜息を吐く。
「何があった。聞いてやるから、言ってみろ」
俺の言葉を待ち望んでいたかのように、杏が顔を上げる。
「あのね、朋也に色んな女の子が寄って来るのよ。三年の古河渚を筆頭に、風子ちゃんでしょ、ことみちゃんでしょ、それから二年の坂上智代までよ。しかも、椋も朋也に気があるみたいだし。私、人が良いから渚の手伝いまでやってるのよ。どうしろっていうの」
一気に吐き出した後で杏は、再び机に顔を伏せる。
確かに、最近の岡崎の周りには、周囲も羨むくらい、女が寄ってきている気がしたのは俺の気のせいではなかったか。
しかも。
「ことみちゃん、というのは、一之瀬ことみの事か」
「そうよ。あんた、ことみちゃんを知ってるの?」
「知ってるも何も、あの子は天才少女として有名だろ。この学校に居るとは聞いていたけど、俺は彼女の姿を一度も見た事が無かった。そうか、岡崎があの子をね。それは、羨ましい限りだ。杏、俺にも一之瀬ことみを紹介してくれないか」
俺は一之瀬ことみの噂をそれなりに知っていた。有名大学から「一之瀬ことみが欲しい」と言われるほどの、天才少女で。そうだ、俺はずっと、一之瀬ことみに憧れていたのを思い出す。俺は軽率な気持ちで、杏に一之瀬ことみを紹介してくれと頼んだわけだけど。
「……、何よ。やっぱりあんたも、一之瀬ことみな訳?」
「え」
俺は、杏の怒りが自分に向けられていると気付き、席を離れようと試みたが。
「あんたみたいな奴は、イノシシに蹴られて死んでしまえ!」
杏はそう叫ぶと、俺の頭を辞書の角で思い切りぶつけてきた。
俺は当然のようにその場で気絶し、次の授業に出られなくなってしまった。
まだ頭が痛い。
頭を抑えながら身体を起こせばそこは、保健室だった。俺は保健室のベッドに寝かされていたようだ。
辺りを見回すと、保健室には誰も居なかった。俺は保健室の戸を開けて、廊下に出てみる。廊下はしん、と静まり返って、どうやら今はまだ授業中のようだと判断する。
「おい、勝手に出て行くなよ」
俺が教室へ戻ろうと歩き出した所、背後から声がかかった。
俺は声をかけてきた人物を見て、思わず目を見張った。
「岡崎……?」
そう、振り返れば俺の目の前に、缶ジュースを二本抱えた岡崎朋也の姿があった。
「あんた、杏のクラスの副委員長なんだってな。杏からいつも話には聞いていたけど、本当に委員長タイプだな」
岡崎は俺を見るなりそう言って、一本の缶ジュースを投げて寄越した。
缶ジュースは、俺の好物のやつだった。
「それで良かったか。杏からお前の好物、聞いたんだけど。杏がそれにしてやってくれって泣きついてきたもんだからさ」
最後の部分は本当かどうか疑問だが、俺は、杏の気遣いが身に染みた。
「ああ……、間違い無い。でも今は、授業中だ」
「固い事言うな。もうすぐ休憩時間だ。先生は用事があって外出中だから、当分戻って来ない。保健室で飲もうぜ」
岡崎は俺の手を無理矢理引っ張り、保健室へと連れ込む。
「お前、授業に出なくていいのか」
保健室のベッドで男が二人腰かけ、缶ジュースを飲む。どういう図だと思いながら、俺は当然の疑問を岡崎へとぶつける。
俺の疑問を岡崎は、あっさりと答える。
「今更だろ」
「……今更か」
岡崎は何処か達観しているように見えた。
「杏がさ、お前を心配してたぜ」
ジュースを飲んだあと、岡崎が俺へ向かって言ったのは。
「いつも春原にやっているように辞書攻撃したら、気絶しちゃったって、俺を頼って来たんだ。そりゃお前、何だかんだで春原ならまだ抵抗力はあるけど、あんたみたいな一般人は杏の辞書攻撃はたまらないからなあ。で、俺と春原がお前を保健室まで運んだ訳」
「……なるほど。それなら、岡崎にも礼を言わないとな。ありがとう」
俺は素直に礼を言うが、岡崎の方は驚いてから、そして。
「寄せ。俺に礼を言う前に、杏に言えよ。杏が泣き付いて来なかったら俺達は、お前をほったらかしにしたままだったぞ」
「……杏か」
そういえば杏はどうして、俺に向かって辞書を使って攻撃してきたのだろう。
「俺は、杏に一之瀬ことみを紹介して欲しい、って頼んだだけなのに」
「マジかよ。そりゃ、杏も切れるわな」
俺の話を聞いた岡崎がおかしそうに笑っている。
「何で。杏は、俺よりも岡崎の方が――」
俺は言いかけて、慌てて口に手をやった。
「俺が、何」
しかし岡崎は俺の言葉を聞き逃さなかった。その真っ直ぐな目はとてもふざけているようには見えず、俺は岡崎から逃れられないと思い、杏、ごめん、と心の中で謝りながら観念する。
「杏は、岡崎が好きなんだ」
ああ、言ってしまった。
「どうして、杏が俺を?」
しかし、岡崎は動揺する事無く、冷静に対応している。
「杏が隣のクラスへ行っているのは、岡崎が居るからだよ。分かり切った事を、聞くな」
「それは、誤解だ」
誤解? 俺は岡崎を見る。
「杏は、お前と居るのが恥ずかしくて――、お前と喋る口実を作りたくて、俺達のクラスまで行っているんだ」
「え」
岡崎の言葉に、俺は動揺を隠せなかった。
「杏は乙女だから、ああ、これは本人の言葉を引用するとだな。私は乙女だからあ、君と居るとドキドキが止まらないの。だから、隣のクラスで一番面白い岡崎君と、一番からかい甲斐のある春原君の所へ行って、自分の心を落ち着かせてるのよ」
岡崎が身体をくねらせながら、杏の口調を真似ているが正直、男が杏の真似をやると気持ち悪い。
「とまあ、こんな具合でだな」
「そんなの……、信じられない」
「そうか? 俺達の所へ来て杏が話題にするのは決まって、副委員長の事だぞ」
岡崎が残ったジュースを一気に飲み干す。
俺は、岡崎の言葉が未だに信じられなかった。
だって相手はあの杏だぞ?
杏。
ヤバイ、俺の頭の中は今、杏だらけで。
「まあ、杏の気持ちはずばり――」
俺の悶絶に構わず、岡崎が言いかけた時。
「全部言うなあああ!!!」
保健室にいきなり杏が飛び込んできて、叫びながら岡崎に向かって分厚い辞書を放り投げた。杏の投げた辞書は見事に岡崎の頭にヒットし、岡崎は後ろに倒れ込んだ。
「岡崎、大丈夫か」
「……っ」
岡崎は涙目になって頭を抑えている。そんな岡崎に構わず、杏はつかつかと岡崎の前まで来て、奴の胸倉を掴み、そして。
「あんたねえ、さっきから聞いてれば私の想いを全部吐き出してどうするのよ! バカじゃないの! 私はそこまで言えとは、言ってないわよ!」
「き、杏、岡崎死ぬって!」
杏の暴挙に岡崎は白目をむいている。俺は必死で杏を止めて、岡崎から離れさせる。
「うえ、死ぬ所だったわ。ったく、自分は乙女だから何も言えないの、って言ってたから俺が代弁してやっただけなのにさ」
「うるさい! それが余計なお世話だって言うの!」
「へいへい。それじゃ俺は此処で退散するから、あとは、若いお二人でごゆっくりどうぞ~」
岡崎はそう言って茶化しながら、保健室から出て行ってしまった。
保健室に取り残されたのは俺と、杏の二人だけで。
「……」
「……」
「……座ったら?」
「……そうするわ」
黙って突っ立ったままで居る杏を、俺は自分の隣に座るよう、促す。杏は岡崎が居た場所、俺の隣に座った。
「……あのさ、頭、大丈夫?」
「大丈夫だよ。俺は案外、丈夫に出来ているから」
杏が心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。俺は、杏を安心させるよう、笑ってみせる。
「……」
「……」
そしてまた、沈黙。
「なあ、岡崎が言った事は本当なのか」
黙っていても埒が明かない。
思い切って俺の方から、杏へ切り出した。
杏は息を吐いてから、観念したように話し始めた。
「朋也が言った事は全部、本当よ。私、あんたを前にすると緊張して、胸のドキドキが止まらないから、いつも椋のクラスへ行って朋也達で緊張を解してから、あんたの所で話していたのよ」
杏は話を続ける。
「朋也達にあんたの話をしていたのも、本当。あんたに朋也達の話をしていたように、私はあんたの話もしていたのよ」
「そうだったのか」
今度は、俺が話す番か。
「俺は、杏が俺の好みのジュースを自分が頑張ってくれているご褒美だって言って、くれた事があっただろう」
「そんな事があったわね」
「そう。俺はその時から、杏が好きだったんだ」
俺は杏の目を見て、はっきりと言ってやった。
杏は。
「それね。種を明かせば、あんたが自販機でいつもあのジュースを買ってるのを見て、好きなんだなって思って、下心もあってそれを選んだのよ。成功だったみたいね」
此処で杏が、いつもの笑顔を俺に向ける。
そして。
「私、あんたの事が好きよ」
「俺も杏が好きだ」
俺は杏を、ベッドの上で抱き締める。杏は抵抗もせず、俺の腕の中に納まっている。俺は今日まで生きていて良かったと、心から思った。
というか、この体勢はヤバくないか? このまま杏をベッドの上に押し倒してしまいそうなんですけど!
「き、杏……」
「……何」
「俺は――」
と。
「遅れてすまんね、怪我人が運ばれたと聞いて、帰って来たんだが――」
戸を開けて入って来たのは、保険医だった。
俺と杏は突然の保険医の登場に固まる。
保険医は保険医で、抱き合っている俺達を見てからそして、
「すまん。邪魔した」
もう一度、戸を閉めて出て行ってしまった。
「いやあの、俺達は」
俺が慌てて保険医を引き止めようと立ち上がったが、それを制したのは杏だった。
「杏?」
「誤解でも何でもさせておけばいいじゃない。私はまだ、あんたと一緒に居たいから」
俺は。
仕方無いな、と苦笑しつつ、杏のワガママに付き合う事にした。