山崎烝がある娘の所に熱心に通い詰めているらしい――そんな噂が新選組の間に広まっている。
その噂は勿論、千鶴の耳にも届くのが早かった。
「はあ、あの山崎さんがですか」
「そう、あの山崎君が、だよ」
屯所の縁側で千鶴とのんびりと茶を飲みながら何処か楽しそうに山崎烝の噂話をしているのは、沖田総司である。
総司が隣で煎餅を頬張る千鶴に言った。
「意外な話でしょ?」
「はい。私が此処に来てから随分経ちますけど、それまで山崎さんに、その手の浮いた話は全然聞きませんでしたから……。でも、山崎さんが通い詰めるほどの娘さんて、どういう女性(ヒト)なんでしょう」
「千鶴ちゃんも、この噂に興味あるんだ?」
「まあ、私も山崎さんの色恋沙汰に興味が無いとは言い切れませんね」
総司が千鶴の顔を覗き込んで聞いてきたので、千鶴も総司に肩を竦めて答える。
「千鶴ちゃん。普段から男装してるから忘れがちだけど、君も一応女の子なんだねえ」
「一応って、何ですか。私は仕方なく男装しているだけで、中身はれっきとした女の子ですよ」
総千鶴の答えに満足したのか、くすくすと笑い総司と、総司の態度に反発して頬を膨らませる千鶴と。
「まあまあ。そんなに山崎君の色恋沙汰に興味があるなら、その様子を覗いてみるかい?」
「え?」
「丁度、巡回の途中にその娘さんの家があるんだよねえ」
「……」
千鶴は総司の楽しそうな顔を見ていると、多分、巡回の道筋に『偶然』にもその娘の家があったとは思えなかったけれども。
どうする? 総司に迫られた千鶴は少しだけ息を吐くと、その巡回に同行する事に決めた。
その娘の家は、京の外れにあった。
「……あの小屋が例の娘さんの家なんですか?」
千鶴は不安そうにきょろきょろと辺りを見回している。
千鶴が総司に連れられた先は、小屋が一軒あるだけで、他には何本かの名前も知らないような木が生えているだけの、殺風景な場所であった。
もしかして、これも総司の『冗談』のうちの一つで、自分はその冗談に付き合わされただけだろうか。千鶴の不安は尽きない。
「千鶴ちゃん。門の所、見て」
「え? あ」
総司の示した先を見れば、小屋から一人の娘が出て来る所だった。
総司の話が真実であるというのを認識し、千鶴はほっと胸を撫で下ろした。不安が消えた所で千鶴は、くだんの娘を観察する。
娘は千鶴よりも頭一つぶん、背が高い。そして、千鶴よりも大人っぽく見えるので、彼女よりは年上のようにも思える。
そして。
「山崎さん」
「……こんにちは」
娘がある人物に気がついてその相手に駆け寄ると、顔が朱に染まったのが千鶴からも確認できた。烝もまた満更でもない様子で、娘を見詰めている。
「うわあ、あの噂、本当だったんですね!」
「ははは。山崎君にしては、結構可愛い子を選んだものだね」
二人の仲睦まじい様子を見て千鶴ははしゃぎ、総司も面白そうに二人を観察する。
と。
烝が娘に何か断りを入れて手を振った。娘も肯き、小屋に入っていく。
「あれ? あれで終わりですかね」
つまんないな。烝と娘の二人があっさりと身を引いたのを見た千鶴は、面白くなさそうに総司に呟いた――つもりだった。
「――何が終わりなんだい?」
「だから、山崎さんとあの娘さんの逢引があれで終わりだと思うと、つまらなくありませんか」
「別に、つまらないとは思わないが」
「え? そうですかねー。余り面白味の無い山崎さんに浮いた話があるってだけでも面白かったんですから、それ以上の展開があればより面白くありませんかねえ?」
「……俺は、雪村君にそう思われていたのか」
「え」
「面白味の無い男で、悪かったな」
「え、えええっ」
はあ。盛大な溜息を吐かれて、千鶴はようやく、今、相手にしていたのが山崎烝本人であるのに気がついた。
「沖田さん!」
千鶴が慌てて総司を方を振り返れば、総司は木陰にうずくまり、腹を抱えて笑っていた。
「何ですか、山崎さんが近付いていたなら知らせてくださいよ!」
「あはは、千鶴ちゃんが何処で山崎君の気配に気付くかどうか、見てたんだよ」
「見てただけって! 酷いですよそんなの!」
「千鶴ちゃん。君は、新選組隊士の一員でもある。もし、敵に後ろを取られたりでもしてみろ、今みたいに気付くのが遅かったらどうなっていたのか、分からない訳じゃないだろう?」
「あ……」
「だからさっき僕が千鶴ちゃんを放っておいたのは、自分で敵の気配に気付くという『勘』を養う訓練の一つでもあるんだよ」
「そ、そうなんですか?」
「そうそう。だから、千鶴ちゃんも為になっただろう?」
「……言われてみれば、そうですね」
千鶴は総司の話を信じて疑わず、素直に応じている。
千鶴と総司のやり取りを見ていた烝は、わざと大きな溜息を吐いて総司に言った。
「沖田さん。これ以上、雪村君で遊ばないでくれませんか」
「あはは、千鶴ちゃんが面白いくらいに僕の思い通りに動いてくれるから、つい、ね」
「え、今の、勘を養う訓練だったっていうのは……」
烝と総司の話を聞いていた千鶴は、慌てて二人に割って入る。
総司は千鶴に悪びれもせずに言った。
「ああ、さっきの訓練の話は半分冗談」
「ええっ」
また総司にからかわれていただけだと知った千鶴は、彼に怒りを覚えるが、総司はそれに補足するよう急に真面目な顔付きになって千鶴を諭すように言った。
「半分冗談で実を言えば半分本気だった。まあ、千鶴ちゃんも後ろを取られた時の相手の気配くらい感じ取れないと駄目だよ?」
「……む」
総司の言う事は確かにもっともで、千鶴では何も反論が出来ない。
「……あのぅ、話し合いは終わりましたか」
「え? うわっ」
三人の後ろから遠慮がちに声をかけてきたのは、例の娘であった。
「い、いつから居たんですか」
「はあ、山崎さんがあなた達の所に行ってから、しばらくした頃です」
千鶴は突然の娘の登場に驚きを隠せない。
総司は娘の気配に最初から気付いたような口ぶりで千鶴に言ってのけた。
「ほら、素人の娘さんの気配にも気付かないようじゃ、隊士失格だよ?」
「うう……」
千鶴は総司に笑われるも、そう言われても仕方のない話であったので、がっくりと肩を落とした。
娘が少し緊張した面持ちで、千鶴に気遣うように言った。
「お茶を入れたんです。良かったら、うちへどうぞ」
娘の言葉を聞いて千鶴は顔を上げて総司と顔を見合わせる。
総司に確認を取れば彼は千鶴に肯くだけで何も言わなかった。
千鶴はそれが総司の承諾の合図であると認識し、娘の言葉に甘える事にした。
「紹介が遅れた。彼女は、佐山百合という」
「佐山百合です」
その後、千鶴と総司は娘――佐山百合によって、小屋の中へと案内された。烝から娘の紹介を受け、百合もまた二人を歓迎するように名を名乗ったのである。
小屋の中心には、囲炉裏があった。四人は囲炉裏を囲んで座る。
百合の手で、千鶴と総司の前にお茶が出される。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
百合が千鶴にもお茶を運んできた。千鶴が最後である。
「あの……、お二人は、どういう関係なんでしょうか」
千鶴は好奇心が抑えきれず、二人の関係をどちらにでもなく問い質した。
百合が烝を見る。烝は百合の視線に気付いて溜息を吐いた後、二人の関係性を千鶴と総司に話した。
「……彼女とは、店の給仕の仕事で知り合った」
百合は、京のとある店の給仕として働いていたという。そこへ、給仕としてその店に派遣されていた山崎烝が現れたのである。
「店では一番の新入りの私がお客さんに酷い目にあわされていた時、咄嗟に助けてくれたのが山崎さんで……、ええ、それからですね」
「酷い目、というのは?」
今度は総司が山崎ではなく何故か百合に照準をあわせてそれを聞いた。
「はあ、あの……」
百合はどういう訳か、千鶴を気にして何か話し難いようだった。百合が再び烝を見る。烝は構わない、と、目配せをし、百合に話を続けるように促した。
百合は目を伏せ、その後、何かを決心したように目を開けると、それについて話し始めた。
「……男の方に、その、いやらしい事をされそうになって、それで」
「そ、そうだったんですか」
なるほど、これは女である自分にも話し難い内容かもしれない。千鶴はそれに納得しそうになって、はた、と、気付く。
「あ、あの、百合さん? 私の正体を……」
「あなたの正体、というのは?」
百合は千鶴に何を言われているのか分からないという風に、小首を傾げる。
「あの、その」
「――百合さんは千鶴ちゃんの正体が可愛い女の子だって、気付いてるんだよねえ?」
総司は、千鶴が言い難そうにしていた内容をあっさりと暴露してしまった。
当の千鶴は総司の言葉に驚きを隠せず、慌てて百合を見やる。
「そうだったんですか?」
百合は総司の言葉を肯定するよう、千鶴に肯いてみせた。
「新選組の隊士にしては歩く姿が内股で、背格好や、その仕草から、何処か女の子らしいなとは思ってたんです。山崎さんからも、新選組に可愛らしい女の子が居るって、あなたの話を聞いた事があったんですよ。その子があなたの事ではないかと思いましてね」
か、可愛らしい子!? 千鶴は烝の自分の評価を聞いて、彼を見た。烝は千鶴から視線を逸らすように腕を組んだ。その話題については、だんまりを決め込むようだった。
百合が烝の様子を見てくすくす笑い、その後、言った。
「あなたがどういう理由があって男の子の格好をして新選組の中に居るのか分からないけれど、沖田さんや山崎さんにもその正体が分かっているようなら、私があなたの身の心配をしなくてもすむのでしょうね」
「百合さん……」
百合は女である自分が新選組という男所帯の中に居る身を心配したのだろう。千鶴は、百合のその話を聞いて彼女が自分を女の子扱いしてくれたのが嬉しく、少し感動してしまったのは、この場に居る男二人には内緒にしておこうと思った。
総司が何かを探るように百合に聞いた。
「それで、百合さんは、その店でまだ新入りという事は、京に住み始めて間もないのですか?」
「……はい。京に来て、一月余りです。それだから、店での一件の後、京に住み慣れている山崎さんに色々と手を貸してもらうようになったのです」
ねえ? 百合が烝を見る。烝も千鶴の視線は逸らせても百合の視線は逸らせないようで、照れ隠しに頭をかきながら、彼女を見詰めて肯いてみせた。
千鶴が二人の様子を観察しつつ、おずおずと百合に聞いた。
「あの、百合さんは、他に家族は居ないんでしょうか」
千鶴が話の合間に小屋の中を見回した所、一人用の布団しかなく、家具も少ないのを疑問に思っての事である。
「ああ……。私が一人で此処に暮らしているんです。家賃が安かったんですよ。そうでも、女一人では何かと物騒な事もありますし……。山崎さんが居てくれて本当に助かってるんです」
「そういう事なら、百合さんに何かあれば、僕達、新選組に頼ってもらっても構いません」
「沖田さん?」
千鶴は、総司が積極的に百合に関わろうとしている事が不思議で、総司に目を見張る。いつもなら、他人と関わりを持とうとしないあの沖田総司が、である。
千鶴の視線に気付いたのか、総司がそれに補足するように言った。
「百合さんの女の一人暮らしは何かと物騒だという話を聞いて僕達、新選組も、百合さんの助けになれれば良いと思ったんだよね。百合さんが『わざわざ遠方から』来ているぶん、京での一人暮らしは大変でもあるしねえ?」
「わ、それ良いですね! 私も、百合さんの助けになりたいと思ってた所なんですよ!」
千鶴は総司の何かを含んだ物言いに気付かない。
千鶴はただ、純粋に、百合の助けになれば良いと思い、胸を張って百合に向けて言い放った。
「でも、私……」
「百合さん。山崎君が忙しくて彼に頼れないと思った時は、遠慮なく、僕達を訪ねてきてください、ね?」
「……ありがとう、ございます」
百合は最初遠慮するも、総司が微笑めば、遠慮する理由が見付からない。百合は結局、総司と千鶴の好意に甘える事となった。
「それじゃあ、失礼しました」
「はい。いつでも、遊びに来てくださいね」
千鶴はその後も百合と話し込み、夕方近くになって総司と共に彼女の小屋を出た。烝はしばらく百合と居ると、総司に告げている。
「百合さんて、とても良い人でしたね!」
「千鶴ちゃん、百合さんが気に入ったんだ?」
「はい、とても!」
総司に問われ、千鶴は素直に答える。
「百合さんみたいなお姉さんが居たら、嬉しいですね」
千鶴は百合の柔らかな物腰を思い出し、浮かれたように歩く。
「……、これが彼女の手だったら怖いよねえ」
「え?」
総司の意味深な発言を聞いて、千鶴の浮かれた足が止まる。
総司がいつになく真剣な顔で、千鶴に言った。
「千鶴ちゃん。さっきの勘の話じゃあないけれど、彼女に不自然な所がなかったかい?」
「百合さんの不自然な所ですか? いえ、全然……」
千鶴は総司の言っている意味が分からない。
総司が千鶴に言った。
「敬語の使い方が変だった」
「え」
「敬語で訛り(ナマリ)があるのを隠していた。彼女の声音の調子で分かったんだ」
「……どういう、意味ですか。ああ、京なのに、江戸っ子で、江戸弁を話すのが恥ずかしかったからだとかですかね」
京の中で江戸の言葉を話すのは、中々に勇気がいるかもしれない。千鶴は思うが、総司は、そうじゃないと、あっさりと否定の言葉を吐いた。
「彼女の出身は江戸じゃない。江戸よりもっと西だ。京よりも西だね」
「西――」
西というのは、つまり。
総司の言いたい事が千鶴は分かった気がして、青ざめる。千鶴はだけども、それを信じたくないという思いが強かった。
千鶴の思いを見透かしたよう、総司が言った。
「千鶴ちゃん。山崎君の新選組内における本業は何だい?」
「まさか、そんな……」
総司の決定的な一言に、千鶴は口元を手で覆い隠した。
千鶴の声が震える。
「……山崎さんは、百合さんの正体を知っている上で、彼女に近付いているんですか」
そうでなければ。
どうなる。
千鶴は、仲良さそうに話していた二人の姿を――百合の烝に対する想いに触れて、目を伏せる。
総司はそんな千鶴の想い等、素知らぬ風に言った。
「今日の百合さんの話を聞いていると、どうも、その節があるね。彼女は山崎君が新撰組の一員であるというその正体を知っていたし、山崎君も百合さんの正体に気付いているようだ。千鶴ちゃん。これは、どういう意味か分かるかい?」
「……、山崎さんは土方さんの命令で百合さんが知っていると思われる長州勢の話を聞き出す為に彼女に近付いている。逆に、百合さんも山崎さんから何か――新選組に関する情報を聞き出す為に彼に近付いていた。最初はそうだった。だけど、二人は……」
「うん。正解。これが正解だとすれば、ややこしいな。どうしたらいいかな。土方さんでも回答が見付かるかなあ」
「沖田さん……」
うーん。総司にしては珍しく頭をかいて、何かを考え込んでいる。
千鶴も烝と百合の二人を思えば、どうすれば良いのか、分からなかった。
「……行きましたね」
「ああ」
百合は総司と千鶴が行ったのを確認して、小屋の戸を閉めた。
小屋では百合と烝の二人だけになる。
「山崎さん。あれで良かったんかのぅ? 沖田さん、きっと、私達の関係に気付いていると思うんじゃけど。それに、私の訛り隠しにも……」
百合の口調は千鶴の前とは違い、烝の前では積極的に訛りを使う。
「だろうな」
「山崎さん」
百合が大変な事態が起きているというのに、さっきから身動き一つしない烝に擦り寄る。烝はそんな百合を突き放したりはしなかった。
「もし、沖田さん経由で土方さんに、私と山崎さんの関係が知られたら、私達は――私は、山崎さんと離れてしまうんじゃけえ」
どうするの。百合は心配そうに烝を見ている。
烝が頭をかきながら百合に弁解するように言った。
「雪村君一人、沖田さん一人ずつだけなら何とか誤魔化せたが、今回は沖田さんが同行していたからどうしても逃れられなかった。それで君を二人に紹介してしまった。新選組の隊内でも俺達の噂が広まっていたようだし……、これは、俺の失策だ。噂話は噂話で収束していれば良かったんだがな」
一息。
「平隊士での間の噂話が幹部にまで――沖田さんにまで広まるとは思わなかった。そして、沖田さんが雪村君を連れて此処に来るのもな。沖田さん一人や、他の幹部連中を連れて来れば、俺が対応しなくても百合一人だけで対応できたものを。百合が彼等を見て恐がってさっさと追い払えば良いだけの話だからな。沖田さんが雪村君を同行させてくるとはね。これでは、二人を家に入れなくてはいけなくなる。これは沖田さんの百合の警戒心を弱める為の策だったのだろう。あの人は本当、抜け目がない。参ったな」
本当に参った風に天井を見上げる烝を見て、百合は思う。
「……、山崎さんのせいじゃない。私が一人では寂しいから、山崎さんに無理にでも此処に来て欲しいと言ったせいじゃ」
これは山崎のせいではない。自分のワガママのせいだ。百合は自分の失態に気付き、落胆する。
山崎は落胆する百合の頭を撫でながら言った。
「いや。俺は俺で、百合に会いたかったんだ。百合のせいじゃない」
「山崎さん……」
「……、まあ、策が無いという事もない」
「本当?」
山崎は不安が拭えない百合に微笑み、言った。
「沖田さんに俺達の関係がばれたという話を逆手に取ればいい。俺が君を土方さんに紹介するように手配する。こちらも雪村君を使えば、何とかなるだろう」
「で、でもそれじゃあ……!」
「君の『本当の』正体を隠した上でだ」
「そんな風に、上手い具合に土方さんを言い包められるん? 土方さんは、沖田さんよりもずっと頭が良いんじゃろ?」
「多分、上手くいくと思う。百合は、俺の言う通りに動けばいい」
「山崎さん……」
「そもそもは、だ」
山崎が百合の手首を掴み、自分の方へと引き寄せる。百合はそんな山崎の行動を拒まず、それに応じるように彼の胸元に顔をうずめた。
「土方さんが俺と百合を引き合わせたようなものだ。それだから、あの人の策も悪かったという訳だな」
「……そうじゃな。土方さんの命令がなければ山崎さんも、私を見付けてくれんかったんじゃけえ」
百合と烝の関係の始まりは、土方が長州の人間達が懇意にしているらしい店があるので、調べて来いと、そう烝に命令を下した事だ。店を出入りしている長州の人間を調べ、何か隠し事が見付かれば早急に土方に知らせるのが烝の仕事であった。
しかし。
間違いが起きたのは、百合が京の客に尻を触られて迷惑がっている所を、烝が見ていられずに彼女に手を貸してやった事だった。
百合が自分を助けた烝に頭を下げる。烝も軽く百合に応じるだけですませた。この時は、この一件で終わる。終わったはずだったが、その次の日も、その次の日も、烝が見ていない所で百合がいつまでも客に絡まれて仕方がないので、烝がそんな百合を見かねて店に連れ出したのである。
烝が百合に、何故にそんなにも客に絡まれるのかと問えば、百合は烝に自分の言葉遣いのせいだと話した。店の中でうっかりと長州の訛りを使っている場面をあの客に見られたせいだという。
その客は京の人間ではあるが、新選組とは全く関係の無い一般人であった。恐らく、百合の方言をからかって彼女を馬鹿にするのが楽しかったのだ。たちの悪い男に絡まれたものだ。
更に、百合の仲間であるはずの長州の人間達が、鈍臭い百合と手を切ろうとしているらしいという情報も烝の耳に入ってきた。
烝は、百合の境遇を気の毒に思うようになった。最初はただの同情に過ぎない。
とうとう、百合が仲間に切られたという話が烝の耳に入ってきたのは、それから間もなくの事である。
百合は店を首にされて、泣く泣く故郷に帰ると烝に話した。故郷に帰るのは良いが両親は既に他界していて、身寄りが無い、とも。
何故、百合は烝に自分の不幸な身の上を話したのか。
それを聞いた烝は百合に何を思ったか。
ただ、その時二人は、互いに手を取り合って、その手を離さなかった。
烝は百合の純粋な気持ちに耐え切れなくなって、百合に自分の身の上を明かした。自分は新選組隊士の一員で、この店にも長州の人間の同行を調べる為に派遣されてきたのだと。百合もその対象であると、真摯に告げたつもりだった。自分の正体を明かせば、流石に彼女も自分に寄り付かなくなるだろう。そう思った。
それなのに。
百合はそれでも自分に付き従うと、はっきりと、その意志を、烝に告げたのである。
これには、流石の烝も百合に参ってしまった。
百合の意志を聞いた烝は結局、百合が長州藩――討幕派を抜け出す覚悟があるならこれからも手を貸す事を打診したのである。百合はその日のうちにその覚悟を決めて、烝の言いなりに動くようになった。
この小屋も、烝が百合の為に手配したものだ。
烝は烝で、長州に通じる百合が居れば、今後も自分の仕事に役立つだろうと軽く考えていたが、まさか、百合と付き合っていくうちに彼女に本気になるとは夢にも思わなかったのである。
これもまた、運が悪いと言えるのかどうか。
「……もし」
「何じゃ?」
「もし、俺の策が上手くいかなかったら、その時は――」
烝は百合を見ていると、これ以上の話が出来なかった。彼女であれば――自分が何を言っても何でも受け入れてくれそうなその強い眼差しを見ていると、その先の話が出来なかったのである。
百合であれば、このとんでもない提案もあっさりと受けてくれそうで、怖かった。
「何じゃ。何を言いかけたん? 策が失敗したら、二人で逃げようと言ってくれると思って期待してたんじゃけどなあ?」
「――」
くすくす。百合は冗談ですと言わないばかりに笑みを浮かべるが、烝は笑えなかった。
「まあ、でも」
百合が間を置いて、
「――私と二人で逃げるなんて卑怯な真似、『新選組』の山崎さんには出来ないと思うけえ、いくらなんでも有り得んじゃろうな」
言い切った。
烝は百合の言葉を聞いて、目を見張った。
「百合」
「私、何か変な事を言ったんかのぅ?」
百合は自分が出過ぎた真似をしただろうかと、烝の態度を見て焦る。
「……いや、何も」
「そう」
烝に言われて百合は安堵する。
「お茶、もう一杯、いる?」
「え」
「もうカラじゃけえ」
「ああ……」
百合に言われて烝が気付けば、手の中にある湯のみの茶はカラッポだった。
百合が立ち上がり、烝の湯のみを受け取る。
烝は、今の――百合の自分が新選組の一員であるという部分を強調してきた事に、内心、驚いた。
百合はまだ自分をそんな目で見ているのかという苛立ちが募った事と、確信めいたその百合の言い分に納得している自分が居る事と、そして百合は未だに長州側の人間であり自分をまだ騙しているのではないかと――そんな疑惑を抱いた自分に驚いていたのである。
「……俺は」
「山崎さん」
百合に呼ばれて彼女の方を見れば、自分にお茶の入った湯のみを差し出していた。
「百合」
「何じゃ?」
「――俺は、君の為なら鬼になっても良いと思った」
「山崎さ、」
烝は茶が入った湯のみを床に置き、代わりに百合を抱き締める。
烝のいきなりの行動に、百合が驚く。
百合はしかし、烝を拒む素振りを見せない。
烝もまた、もし百合に拒まれたとしても、彼女を此処で離すのが馬鹿馬鹿しいと思っていた。
烝が百合の耳元でささやく。
「二人きりの時は、烝でいい」
「……烝」
百合は自然と目を閉じて、烝のそれを待つ。
二人の唇が、重なり合う。
烝は百合の唇を味わいながら、思う。
ああ。
これで、どちらが先に毒を飲んだのか、明白だ。
百合が未だに自分を騙しているとしても、それはそれでいい。自分が再び百合を繋ぎとめてやればいいだけの話だ。
その為なら、あの薬を使って鬼にでもなって良いと――烝は本気でそう思った。