今日は朝から、雨が降っていた。
六月の梅雨らしく、朝、通学中はけっこう激しく降っていて、昼頃から次第に小雨に変わってきたけど、放課後になっても結局、野球部がグラウンドを使う事が出来ず、練習は中止となった。
「雨の日って、楽しいよね。私、雨の日が好きだな」
「……それ、本気で言ってるのか?」
私が話しかけた彼、阿部隆之君は朝から不機嫌そうだ。
私と阿部君は同じクラスで、住んでいる所も同じ区域だったので、雨の日で野球部のグラウンドが使えない日は、こうして一緒に帰る事が多かった。
野球が出来ない日の阿部君は、いつも不機嫌だから私は気にせず話を続ける。
「天気予報で明日は雨です、と言われたら期待して、浮かれるんだよね」
「俺は、野球の練習が出来なくて雨の日が嫌いだけど。どういう訳があって、雨が好きなんだ?」
阿部君の疑問を、私が余裕で答えた。
「だって、新しい傘を見せられるじゃない」
「まあ、確かに晴れた日に新品の傘を持って来る奴は居ないな。沢木の傘も、新品な訳?」
私の話を聞いて阿部君が、私の差している傘を見ている。
私が持っている傘は、赤と緑のチェックの何の面白味も無い柄で。
「ああ、これね。小学生の頃から使ってるから、新品ではないよ」
「へえ、けっこう長い間、使ってるんだな。そういえば沢木は、ペンケースから下敷きから文房具類は全部、年季の入ってるものばかり使ってる気がするけど」
「あ、うん。あれも小学生の頃から変わらず使ってるんだ。物持ちだけは良いんだよね」
ああ、阿部君は私の持ち物まで見てくれているのか。少しだけ、嬉しかった。
「それじゃあ、さっきの新品の話は沢木では当てはまらないな。矛盾している。何か、ほかに理由でもあるのか。雨が好きなのが」
「うっ」
阿部君に指摘されて私は、言葉に詰まった。
確かに、傘以外の理由が私にはあった。
けれども、その理由のうちである当の本人を目の前にしてその理由が言えるかどうかは正直、微妙だった。
私が悩んでいる間、阿部君が私の顔をじっと見ている。真剣な目で。
そんな目で阿部君に見られたら、私がどうにかなりそうで、怖い。
でも、私はそんな阿部君が好きで。クラスの皆は同じ野球部員でも花井君と違ってとっつきにくいとか言うけど、私は違った。私は、阿部君を好きになってから、密かに彼を観察していた。その中で阿部君は優しい人だと、私の中でもう結論が出ている。
でも気がかりが一つだけあった。それは、阿部君と同じクラスでその上、野球部のマネジをしている篠岡さんの存在で。篠岡さんは自他共に認める野球マニアで、その知識量は半端ではなく、誰も適わない。篠岡さんと阿部君が楽しそうに野球の話をしているのを目撃するたび、私の心は沈んでいく。
私は、同じ地域というくらいしか、阿部君と接点が無いし。
だけど。
「沢木」
「え、えーと。思い切って言うけど」
阿部君が私に続きを促す。
ええい、こうなればヤケだ。当たって砕けろの精神で挑戦しろ。この機会を逃せば一生、後悔するかもしれない。そう思うと、私は阿部君と向き合ってそれから。
「雨の日だとこうして、阿部君と一緒に帰れるから。だから、私は雨の日が好きなんだよ」
ああ。言ってしまった。阿部君を前にして、言ってしまった。私は俯いて、阿部君の返事を待った。
だけど、阿部君から何の返事も返って来ない。私は不安になって、恐る恐る阿部君の様子を盗み見る。
あれ。
阿部君が耳まで赤くしているのは、私の気のせいだろうか。
阿部君は口を手で覆ってしばらくの間、硬直していた。
「あの」
「あー。ちょっと待って。今、頭の中整理してるから」
今、阿部君の頭の中で何が動いているのだろうか。私は阿部君の言う通り、彼が動けるまでしばらく待った。
「ええとつまりその、沢木は」
明らかに動揺しながら阿部君が私に向けて、確認をしたのは。
「沢木は、俺の事が好きなのか。その解釈で間違っていないのか」
うう、改めて口に出すと恥ずかしいけど。私は精一杯の想いを言葉にして、阿部君へぶつける。
「そ、そうだよ。私、阿部君が好きでずっと、見てたから。雨の日だと、野球部の練習が中止になるでしょ。そうしたら私、阿部君と帰れるから……、晴れの日より雨の方が好きだな、て思って、それで」
ああ、阿部君にちゃんと私の想いは伝わっただろうか。
緊張しっぱなしで、ちゃんと舌が回らない。ああもう、泣きたい気分だ。私の気持ちを知ってか知らずか阿部君は、何かを決心したような目を向けてそして。
「俺も、沢木が好きだよ」
え。
今、何て。
私は阿部君の言葉を心の中で反芻(はんすう)する。
沢木が好きだよ。沢木が。それはつまり私が。阿部君が私を好きだよって。まさか。嘘。嘘じゃない。
「沢木、大丈夫か」
「え、でも何で……、私、クラスの中でも地味な方であんまり目立たないし、篠岡さんのように野球の知識もあんまり無いのに……」
慌てる私を見て阿部君は、溜息を一つ。
あああ、やっぱり今の阿部君の言葉は聞き間違い?
「俺は、沢木をずっと見ていたんだ。だからそれで、沢木が物持ちが良いのも知ってたし、同じ地域だからってわざわざ、好きでもない奴とと一緒に帰るほど、俺は心も広くない。それに女が篠岡レベルの野球の話も出来て当たり前だとは、思ってないし」
「……」
この時の私は、随分間の抜けた顔で阿部君を見ていた、と思う。
阿部君はどういう訳か、差していた傘を地面へ向けて畳んでいる。まだ、弱くなっているとはいえ、雨は降っているのに。
「沢木」
「は、はい」
私は阿部君にびくついて、背筋を伸ばす。
「……、全く。そんなに怯えられたら、抱き締めるのも、ためらうだろうが」
「えっ。だ、抱きっ」
私が言い終わるのを待たないで阿部君は、私を抱き締めた。
「沢木を見るたび、抱き締めたいと思ってたんだ。ようやく、俺の望んだ通りになった」
「……っ」
阿部君の言葉を聞いて私は思わず、涙があふれた。
「沢木」
「ごめん。今だけ、でいいから。大丈夫。これは、嬉し泣きだから」
いきなり泣き出した私を、阿部君が驚いている。私は阿部君に断ってから、声を押し殺して泣いた。
「……落ち着いたか」
「うん。ごめんね、色々」
阿部君は私が泣き止むまでずっと、抱き締めてくれていた。阿部君はやっぱり、優しい人だと感じた。
名残惜しいけど、阿部君が私から離れる。
間を置いて阿部君が、私に向けて言った。
「あのさ。俺からの提案なんだけど」
「うん」
私は阿部君の話に応じる。
「さっき、沢木が晴れの日は俺と一緒に帰れないから嫌だって言ったけど。週に一回はミーティングだけで終わる日があるんだ。そういう日は練習が無いから晴れの日でも沢木と一緒に帰れるから。そうじゃない場合も、野球部の休憩中だったら連絡を取れるようにするし、時々、マネジの篠岡の手伝いとかしてくれたら、俺と一緒に居られる時間も多くなると思うし……、どうだろう」
私は。
私はもう一度泣きたい気分だったけど、流石に阿部君の迷惑になるだろうと思って止めた。
「うん、それがいい。今度から、そうする」
私は阿部君の提案を、心から受け入れる。
「あ。もう、晴れ間が出て来たな」
「本当だ」
私は阿部君につられて、空を見上げる。
いつのまにか雨は止んで、雲の隙間から太陽の光が差し込んでいた。
「でも、今から晴れてもグラウンドは使えないか。残念だな」
「私は晴れた中を阿部君と一緒に帰れるのは、嬉しい。いつも、雨の日だけだったから。私の望みも、その通りになったよ」
「……、そうか。何でかな、俺も野球の練習が中止になったより、沢木の望みが通った方が嬉しい気持ちの方が、強いんだけど」
「お互いの望みが通った日だからだよ」
「そうだな」
それから私達は、自然と笑い合った。
今度からは、晴れの日も雨の日以上に好きになれる。
そんな予感がした。