その先にある未来

 しまった、と、思った時にはもう遅かった。

 気がつけば、深い穴の中に落ちている。

 しかし私は冷静に、穴の中で救助を待っていた。


「今回はどうかなー。来てくれるかな」

 さて。
 今回も期待の人は、駆けつけてくれるだろうか。


 私――朱音(アカネ)が落とし穴に落ちたのは、くのいち教室での昼休憩――食堂での食事も終わった束の間の自由時間での事だった。
「まあ、この時間、この場所を誰かが通りかかる確率は低いかな」
 私は穴の中で諦めたよう、呟いた。
 落とし穴。日常の生活の中で誰かが作った落とし穴に落ちるなんてと思うかもしれないが、此処、忍術学園では落とし穴が何処にあるか分からないうえで歩いている、それが日常である。
 それというのも忍術学園の敷地内と外は、忍術学園の生徒達――男も女も関係無く、悪戯とか、敵の侵入を阻止する為だとか、自分の実力を先生達に見せ付ける為とかに作った罠であふれているからだ。
 そして、落とし穴を作った生徒の名前は忍術学園の生徒であれば誰もが知っている。落とし穴を掘るのが趣味という、四年の綾部喜八郎だ。
 自分より年下の綾部喜八郎が趣味で掘った落とし穴は、その中でも初心者向けである。綾部の落とし穴に落ちるような忍術学園の生徒は、忍者失格といっても過言ではないだろう。落ちこぼれの一年は組の子達でさえ、綾部のそれを発見すれば、そこを楽々飛び越えてしまうほどである。
 それがどうして、綾部よりも年上のはずの私が、単純な落とし穴の罠にはまってしまったのか。
 半分は私の不注意、そしてもう半分は。

「朱音、お前がそこから土井先生に助けてもらう予定なら、それは期待外れだと言ってやろう」
「鉢屋君」

 上から私に向かってそう意地悪く言い放つのは、変装の名人として有名な鉢屋喜三郎だった。
 まさかこの時間、この道を通る生徒が居るとは思わなかった。昼休憩は上級生は下級生と、下級生は上級生との交流を楽しんでいる時間でもあったせいで。
 鉢屋君が呆ける私に構わず、続ける。
「俺が見た所、昼休憩の間でも土井先生は一年は組の子達の世話で、忙しいようだった」
「……そう。それならもう少し、穴の中で待ってみるわ」
 土井先生は、この時間はいつも、一年は組の子達か、練り物のせいで食堂のおばちゃんに捕まっているかのどちらかだ。でも今日の日替わり定食に練り物は無かったはずで、それなら鉢屋君の話は正しい事だ。私も土井先生のそれを知っているので、今更不満を言う事もなく穴の中で座り込む。
 と、そこで鉢屋君から的確なツッコミが入った。
「おいおい。此処は俺が居るんだから、俺に手を貸してくれと頼む場面じゃないのか」
「鉢屋君では、意味が無い」
 私は鉢屋君に遠慮無くそう言い返して、穴に落ちた際に泥まみれになった手をさする。
 実を言えば私が下級生の作った落とし穴に落ちたのは、土井先生に助けてもらえるのを期待して、わざと落ちたせいだ。前方に綾部の落とし穴があるなー、どうするかなと考えているうち、ぼんやりとして足を踏み外したのもあるけれど。
 これも、くのいちの術の一つにあるものだ。土井先生が、私のほどこした術に引っかかってくれるのを待っている次第である。
 鉢屋君は私が土井先生にその術をかけている最中であるのに気付いたうえで、言う。
「……、言ってくれるじゃないか。お前さ、そこまで――成績優秀で将来を有望視されている俺を振ってまで、苦労人の土井先生が良いわけ?」
「そうね。助けてくれるなら意地悪な鉢屋君よりは、優しい土井先生の方が良いわね」
 うん。
 鉢屋君には悪いけど私は、いくら成績優秀で将来を有望視されている男であっても、自分に意地悪をしてくる男は苦手だった。
 私の返事を聞いて、鉢屋君が鼻で笑うのが聞こえた。
「俺より、土井先生の方が酷いと思うけどね。前も言っただろう。土井先生は、くのいちとしてそこそこやっていけるお前より、落ちこぼれだけど良い子のは組の連中の事で頭がいっぱいなんだ。更に言わせてもらえれば土井先生は穴に落ちた間抜けなお前より、身近に居るは組の子達を心配するだろ。それが、分からないのか」
「……分かってる。そんなのとっくに、分かってるよ」
 私は鉢屋君の言葉に反論出来ず、穴の中でうずくまる。
 土井先生は、くのいちでそこそこやっている私よりも、落ちこぼれだけど精一杯頑張っている一年は組の子達で頭がいっぱいだって。くのいちで穴に落ちた私より、は組の子達の方を心配している事くらい、鉢屋君に言われなくても良く分かっている。
 それでも土井先生が穴に落ちた私に気がついて、それを心配して助けに来てくれる――そんな淡い期待を抱いて、何が悪いというのだろう。
 鉢屋君は私の様子を見たあとに盛大に溜息を吐いた後、少しばかり大きな声を出して言った。
「言えよ、俺に手を貸して欲しいって」
「嫌よ」
 此処で鉢屋君の手を借りてしまえば、私と土井先生の駆け引きが全て台無しになる。
 はぁぁ。再び、蜂谷君のわざとらしい溜息が聞こえてきた。
「朱音、諦めたらどうだ。土井先生は、は組の子達と居るんだから」
「諦めないわ。土井先生も、は組の子達から解放される時間だってあるでしょう」
「……」
「……」
 沈黙。
 いつもなら此処で鉢屋君の方が諦めて、何処かに立ち去ってくれるはずだったけれど。

「ああもう、いい加減にしろ!」
「わあっ」

 上からいきなり、鉢屋君が降ってきた。
 鉢屋君は穴の中につくなり、私の手首を強く握って引っ張ってきた。
「は、鉢屋君?」
「俺が、お前を助けてやる」
「だ、駄目だって。これは、私と土井先生の駆け引きなんだから。鉢屋君では、意味が無いって――」
「――これでは駄目か」
 鉢屋君の顔が、みるみる土井先生の顔に変わった。
 私は。
「……駄目よ」
「今、揺らいだだろう?」
 鉢屋君がニィ、と、意地悪な顔をして、私に接近する。
 土井先生の顔が間近にあるだけで、熱を帯びる。
 別人だと、分かっているのに。
「……だから、駄目だって。今すぐ、その変装を解いて。お願い」
「嫌だね」
 鉢屋君は力をゆるめず、私に迫る。
 穴の中で男女が二人きり。しかも、男に迫られている。
 あれ、これは少し、危険な状態ではないだろうか。
 鉢屋君は私の焦りを見抜いたかのように、更に言う。
「お前が望むなら、俺は土井先生になって土井先生の代わりに――」
 本格的に身の危険を感じた時だった。

「――朱音に鉢屋、そんな所で何やってるんだ」

 頭上から、呆れた声が降ってきた。
「土井先生」
 それに応じたのは私ではなく、鉢屋君だ。
 土井先生の冷静な声が続く。
「朱音のみならず、鉢屋まで二人揃って綾部の掘った穴に落ちて出られないのは、いささか、問題だな」
「いえ、俺はすんなり出られます」
 言って鉢屋君は私を置いて、言う通り、さっさと穴を出てしまった。
 穴の上で土井先生と鉢屋君が対面を果たす。
 そして。
「鉢屋、私の変装を解いてくれるか?」
「はいはい」
 鉢屋君は土井先生の言う事を聞いて、さっさとその変装を解いてしまった。といっても、鉢屋君の素顔ではなくて、いつも一緒に居る雷蔵君の顔だけど。
 鉢屋君は雷蔵君の顔で、穴に落ちている私を指さして、土井先生に言う。
「先生は、穴の中でぐずぐずしている朱音をさっさと引き上げてください」
「何で鉢屋が、朱音を助けない?」
「それを俺に聞きますかね? 愚問ではないでしょうか」
「……、そうだな。愚問だった」
 土井先生は鉢屋君を振り切った後に颯爽と、私が居る穴の中に落ちてきた。
 土井先生は私の方を向いて、それを確認する。
「朱音、何処も怪我は無いか」
「はい、何処も怪我していません」
「そうか、それは良かった。そろそろ、穴から出ようか。手を貸そう」
「は、はい」
 土井先生が、いつまでも穴に落ちたままの私を非難する事なく、手を差し出してきた。
 それだけで。
 それだけで、十分。
 十分過ぎるくらい。
 私は土井先生の手を取ると、あっさりと穴から脱出した。
 穴から上がった私は、土井先生と向き合う。
 そして。
「全く。五年の朱音が綾部の落とし穴ごときにあっさりと落ちるのはどうかと思うが、まあ、何事も無くて良かったよ」
「土井先生……」
 土井先生は言葉では呆れながらも、優しい声で私を心配してくれるのが分かった。
 私は、ようやく期待通りの展開がきて、体中が熱くなるのを感じた。
「……」
「……」
 そのまま、見つめあう。
 と。
 ごほん、ごほん。わざとらしい咳が聞こえて来た。
「二人とも、俺が居るの、忘れてませんかね」
「あ」
 土井先生が鉢屋君の咳で、慌てて私から視線を逸らした。
 くそう。鉢屋君さえ邪魔しなければ、穴から助けてくれたお礼という名目で、土井先生をお茶にでも誘えたのに。
 そしてそこで鉢屋君が土井先生に、余計な事を聞き出した。
「土井先生は、は組の子達と一緒だったのではないですか?」
「ああ。そこに丁度、山田先生が通りかかってね。きり丸達は、山田先生に任せて来たんだ」
「……、朱音の為だけに? それで、は組の子達も、山田先生も、それに納得したんですか?」
「いや、ほかに用事があったもので、は組の子達に構っていられなかった。山田先生もそれを分かっていて、私の代わりに応じてくださったんだ。は組の子達も、それに納得している。そのついでに此処を通りかかったら、偶然にも朱音と鉢屋が穴で言い合っている場面に遭遇したわけだ」
「……へえ? 偶然、ですか」
 鉢屋君の質問を冷静に答えてかわしていく土井先生と、それでも土井先生の偶然を疑う鉢屋君と。
 ふう。土井先生の溜息が聞こえて来た。
「そんな些細な問題はどうでもいい。そろそろ、昼休憩も終わって、午後の授業が始まる時間だ。お前達もさっさと教室に戻れ」
「はい」
 土井先生には少し未練がましく、鉢屋君には恨みがましく、私は二人にそれぞれの視線を送ってそこから離れた。
 と。
「朱音」
「はい?」
 教室に戻ろうとした私を引き止めたのは。
「鉢屋じゃなくても、鉢屋以外の男に何かされそうな時は、私を遠慮無く呼びつけてくれ」
「はい!」
 私は土井先生の言葉が嬉しくて舞い上がる。

 土井先生は、私の術にはまっている最中だ。土井先生がそうやって、は組の子達さえも振り切って私の所に駆けつけてくれているのは私に気がある証拠で、更に言えば私に首ったけで離れられなくなっている状態である。私はその確信を得て上機嫌で、くのいち教室の方へと引き返した。
 これで午後のキツイ実技の授業も頑張れそうだ。




 土井半助は朱音が行ったのを確認した後、未だに残っている鉢屋の方を振り返った。

「鉢屋は、どうしてまだ残ってるんだ」
「質問があります」
「何だ」

 半助は、授業内容についてなら快く応じるつもりだ。しかし、鉢屋の性格からしてそれは無いなと心で思う。
 鉢屋は半助を前にして堂々と、それについて問い質した。
「先に穴に落ちたのは、朱音と土井先生、どちらの方ですか?」
「……、見れば分かるだろう。朱音が先だ」
「見た通りならそうですね。では、質問を変えましょう。先に穴に落ちるように仕掛けたのは、どちらの方ですか?」
「……」
「無言ですか。返答が無ければ、一年は組の子達に今の出来事を吹聴しますけど」
「ああ、分かった分かった。私が先に朱音に仕掛けたんだ」
 半助は鉢屋に観念して、白状した。
 自分の周辺――五年や五年の友人達ではなく、一年、というのが鉢屋らしいと半助は思う。一年は組の子達に朱音との出来事が知られれば、一日もかからずあっという間に学園中に知れ渡ってしまうからだ。ほかの五年の手を借りるまでもない。しかも彼らは伝言ゲームに弱い。自分と朱音の関係が学園に――学園長にどう伝わるか、恐ろしいものがあった。
 一応、教師と生徒の親密な関係がほかの教職員や生徒に知れ渡ると面倒なので、朱音の卒業まで二人の関係を秘密にしている。
 鉢屋は半助の答えを聞いてそれが期待通りのものだったのか、満足そうに笑う。
「そうですか。俺が見る限りでは朱音は、自分が土井先生を術にはめていると思い込んでいるようでした。でも、朱音が土井先生をはめられるわけがないと思っていたんです。更に付け加えるなら、朱音にそう思わせるように仕向けたのも、土井先生でしょう?」
「……お前はやはり、他の五年と質が違うな」
 さすが、将来を有望視されているだけの事はある。しかし、優秀過ぎるのも問題だ。半助は鉢屋の頭の回転の良さに感心すると同時に、恐ろしくもあった。
「まあ、俺は口が堅い方なので、この件について他の先生方や一年の子達に告げ口するような卑怯な事はしません。ただ」
 鉢屋は笑みを浮かべたまま、半助に向かって言い放つ。
「ただ、今日の一件で、土井先生と朱音の関係が分かりました。土井先生も今日の一件で、俺が朱音に本気だって分かってるでしょう? だからそのぶん、今まで以上に朱音に攻めていきますから」
「……そうかい」
 半助は、強気の鉢屋と違って弱腰である。は組の生徒達から見ればそれはいつもの土井半助であり、この場面をあの子達が見ていれば「鉢屋先輩にやられっぱなしで良いんですか」と情けなく、そして、頼もしく背中を押されているだろう。
「朱音は卒業まで、俺と先生、どちらの穴に落ちていますかね」
「さあ。選ぶのは、朱音だからな」
 半助は肩を竦める。朱音が卒業までに自分と鉢屋のどちらを選んでいるのか、分からない。朱音が何かの拍子で――それこそ鉢屋の手で、ずるずると鉢屋の穴に引っ張られてそこに落ちているかもしれない。こればっかりは、彼女の意見を尊重し、その感情に任せるしかないと思う。けれども。
「でも朱音は、鉢屋の穴に落ちるような軽い女ではないよ」
「……それはそれは」
 土井先生も、言うな。さすがの鉢屋も、半助のこの反撃は予想していなかった。
 鉢屋もやられっぱなしは悔しいので、言い返す。
「俺も、土井先生の作った穴にあっさり落ちるような軽い女だとも思いません。俺は朱音に優しいだけの土井先生では物足りないと、そう思うように仕向けてやります」
「そうかい。せいぜい、頑張ってくれ」
 半助は朱音の方が自分に傾いているという余裕があるため、鉢屋の挑発も簡単に交わしている。しかし一つだけ気になる点があったので、鉢屋に聞いてみる事にした。
 それは。
「私は朱音に、優しいだけの男と見られているのかな?」
「……、朱音は土井先生をどう見ているか分かりませんが、此処で土井先生を知っている生徒達――は組以外の生徒達でも、優しい先生だと思われていますよ。虫も殺せないような善人で、それでよく忍者やってるよなと思われるくらいは」
「……そうかい」
 私はそんな、虫も殺せないような善人な男だっただろうか。半助を前にして肩を竦めて答える半助と、鉢屋から聞かされたその評価に少し戸惑う半助と。
 鉢屋はそんな半助を見て、意味ありげに口の端を上げる。
「でも俺は個人的に土井先生は、虫を殺せないような善人ではなくて、虫も逃げ出すほどの狂人であると評価しているんですけど――実際はどうなんですかね?」
「さあ、どうだかね」
 今度は半助が肩を竦める番だった。
 半助は気を取り直して、鉢屋に言う。
「ああ、もう授業が始まる頃だ。鉢屋もこんな所で油を売っていないで、教室に戻ったらどうだ」
「そうします」
 鉢屋は半助の言う事を素直に聞いて、さっさと持ち場へ戻った。
 半助は、鉢屋の背中を見詰めながら誰にも聞こえないよう、小さな声で呟いた。

「朱音との関係が鉢屋に知られたなら、私もぼやぼやしていられないな」

 半助は鉢屋も冗談で自分に宣戦布告をしたわけではない事くらい、分かっている。あいつは本気だ。こちらもいつまでも弱いのを装っていると、あの鉢屋の事だ、あっという間に追い抜かれて、朱音をかっさらわれてしまう。それだけは、避けたい気分だった。
 ……まあ、朱音は私に首ったけだからちょっとやそっとで鉢屋に転がる事はないだろうけれど。しかし用心のため、今からいくつかの罠を仕掛けなければいけなくなった。

 さて、どうやって鉢屋を穴に落としてやろうか。そしてあの鉢屋は、どうやって自分の穴を飛び越えていくだろうか。彼女をめぐって鉢屋と対決するのは中々面白い事になりそうだ。
 それから。

「……朱音には悪いが、私と鉢屋の間で揺れ動いてあたふたする朱音の姿も可愛いかもしれないなぁ」

 半助は裏でそう考える自分は生徒達が思うほど善人ではないよなと内心自嘲しつつ、

「さて、昼からも頑張ろう」

 表ではいつもの人の良い笑みを浮かべて今日も一年は組の良い子達が待っている教室へと、戻ったのだった。

この土井先生は、アニメ版ではなくて、原作版を基準にしています。鉢屋もそうです。何しろ、ここ何年も忍たまアニメを見ていないので彼等がどういう風な設定で動いているのか分からないし、原作の方が戦いでも死体とか平気で出てきたりドロドロしている感じがして好きなので(これは管理人の個人的な意見です)、原作を基準にした次第です。
念願の土井先生が書けたので、満足です。原作の土井先生もアニメと同じく、一年は組の子達とほのぼのしている時が多いですが、戦場ではその圧倒的な強さを見せつける部分は頼もしくて格好良いので、落乱の大人達の中では一番好きですね。

更新履歴:2014年08月13日