俺、吉原始が満員バスの中で出会ったのは、一風変わった女だった。
俺が毎朝利用するのは阿坂病院前のバス停に停留する、午前七時三十五分発、成宮高校行きのバスだ。
バスは定時通りに阿坂病院前に到着し、俺や待っていた他の成宮高校の生徒達を乗せて発進する。
後部にある乗降扉から中に入ると、バスの座席が全部、成宮高校の生徒達で埋まっていた。この時間帯で俺が乗り込んだ時には、座席に座れる事は殆ど無い。風邪の流行によって集団で休みがあった日だとか、修学旅行で一学年丸ごと居ない日だとか、そういう日くらいしか座席に座れる事が無いのである。
俺は通路を歩いて友人が座っているだろう、後部座席の方へ向かう。
通路はまだ人一人が余裕で歩けるくらい空いているが、これから先、成宮高校に到着する頃には一人も歩けないくらい、通路が成宮高校の生徒で埋まっているだろう事は安易に予測出来る。そして俺が降りるのはその成宮高校なので、後ろの方へ移動しても気にする事はなかった。
俺は「それ」に、友人の山根泰明を見付けた時に気付いた。
一番後ろの座席から数えて二番目、右側の通路側の席。
「彼女」は山根の隣に座っていた。
まだ年の頃は二十代前半と言った所か。スーツ姿で化粧をしている所から、俺より年上には見える。ふわふわ波打つ長い髪に、白い肌に映える赤い唇。
寝ているのか、目を閉じたまま顔は天井を向いていた。
目が閉じていたのでここは俺の想像に過ぎないが、可愛らしい感じの人だと思う。そして隣に座っている山根と比較して、立った時は山根と同じ、小柄な人だと推測する。
……やばくないか、この人。
まず、真っ先に彼女の心配をしたのは理由があった。
それは。
……まあ、追々分かる事なので、今は控えておこう。
俺は気付けば、じっと彼女の寝顔を観賞していた。
俺が乗り込んでからバスが一回停留所に止まった。その停留所でまた幾人もの成宮高校の生徒達を乗せて、バスは再び発進する。
「……あれ?」
その時だ、その声を聞いたのは。
最初、その高い声から目の前に居る彼女が目を覚まし、寝顔を眺めている俺に対して非難の声がかかったのかと思った。そりゃ十分以上、知らない男からじっと寝顔を見詰められていては、女であれば誰でも気持ち悪いだろう。下手すれば痴漢と間違えられて警察行きである。
嫌な冷や汗が、額から流れ落ちる。
「え、いや、俺は貴方の寝顔なんか見てませんよっ。通報だけはどうかっ勘弁をっ」
「何、言ってんの。来てたなら、声くらいかけたらどう」
よくよく聞けば、その素っ気無い声は彼女の隣に座っている俺の友人、山根泰明のものであった。
……間違いやすいんだよ、その声は!
喉まで出掛かっていた所で、言葉を飲み込む。
山根は女らしいその顔立ちと、高いその声のせいでよく女に間違われる。おまけに背も160センチ台と、男にしては低い部類に入るので、街を歩けばその可愛らしい顔も手伝って、ナンパ野郎に声をかけられる事が多々あった。話を聞けばシャツにズボンと、何処からどう見ても男物の服を着ているが、奴等からはどういう訳か、ボーイッシュな彼女と山根を捉えているようだ。
山根は女に間違われる事を酷く嫌うので、俺も気を遣ってなるべくその話題は避けるようにしている。
ついでに俺はと言うと、背は170センチを上回り、小学生の頃から柔道をやっているせいか体格も良い方で、体力にも自信があった。何処からどう見ても普通の「男」である。山根のように女に見間違われる事はまず、無いだろう。
「……ひょっとして、僕とこの女を間違えた訳じゃないだろうね」
う。
それは思い切り図星な訳で、山根に睨まれては俺は素直に白状するほかなかった。
「彼女が起きて俺に声をかけて来たのかと……」
「へえ、そりゃ、大した自惚れだね」
……。
今、鼻で笑っただろ!俺は気付いてるぞ!
俺はここで山根を蹴りたい衝動にかられたが、いかんせん、バスの中であって、おまけに寝ている彼女の手前、自分が不利であるのは明白な為、一歩手前で踏み止まる。
俺は山根より出来た人間である、と示した訳だが、当の本人は俺に気にする事はなく、ただ彼女を一瞥する。
「この女、僕と同じ始発から乗ってるんだよ」
成る程。
山根からの情報に、俺は益々彼女が心配になって来た。
「……何処で降りるか分からないけど、大丈夫かな」
「さあ。もし、あの状態になる事を知ってて一人で乗り込んでるなら、彼女、良い度胸してるよね」
確かに。
女一人で乗り込むよりは、男連れの方がまだマシだろう。
「そんなに心配なら、始が彼女に声をかけて助けてあげればいいじゃん。そうすれば、始の株も上がるぜ、多分」
「でも、今、寝てるし」
「……本当、良い度胸してるよ、彼女」
呆れるように息を吐く山根の気持ちは、俺も分かる。
彼女の寝息が俺の耳にも届く。……何となく、くすぐったい気分。
さて、目を開けた時、彼女は現実を垣間見てどうするのか。
……まあ、終点の成宮高校で降りるのであれば、俺の不安は消えて無くなるのだけど。
俺と山根は寝ている彼女に遠慮しないで、普段の声で今日の授業内容だとか、今日の予定等、当たり障りの無い話をしていた。結構な音量だったと思うが、それなのに彼女は起きる気配が無い。全く無かった。
……山根の言うよう、彼女はある意味良い度胸をしている。
俺が成宮高校行きのバスに乗り込んで、二十分余りが経とうとしていた頃。
「次は、緑原(みどりはら)。緑原前でございます」
バスの中であらかじめ用意されている行き先案内がアナウンスされる。
「え、み、緑原?」
突然、寝ていた筈の彼女が目を覚ました。山根を飛び越えるように、身を乗り出して慌てて降車ボタンを押す。
……よりにもよって緑原かよ!
俺は彼女に若手芸人の如く、突っ込みたい気分だったが、ここは大人しく彼女の動向を見守るしかなかった。
緑原は成宮高校の一歩手前に設けられた停留所である。
「す、すみません。降りますんで……」
降りるのに俺が邪魔なのだろう、彼女は俺にそう言って席を立ち上がる。
彼女の大きな目が、俺を映している。俺もここで漸く目を開けている彼女を捉える。
――可愛い。
……一瞬、ここで時が止まれば良いと思った。
このまま見詰め合い、そのまま抱き締めて――、って、俺は何を考えている!
「あの」
「あ、ああ、すみません」
山根の視線が痛いのは気のせいか。気のせいだろう、きっと。
俺は慌てて彼女が降り易い様に自分の身を移動させようとする、が。
「痛い」
俺の隣で吊革に掴まって立っていた奴と身体がぶつかってしまった。隣に居る奴は俺の知らない奴だったので、降りる人が居る事を示した上で「すまない」と、簡単に済ませた。
「すみません。……って、えええっ」
目を覚ました彼女が驚くのも無理は無い。
俺が退いてもまた体格の良い男達が通路を塞いでいる。よく見れば通路は成宮高校の生徒達で満員状態である。すし詰め状態とはこの事で、しかも体格の良い育ち盛りの男達が通路をを塞いで彼女の行く手を遮っていた。
女も数人居て満員状態ならまだ彼女も救われただろう。しかし、何処をどう見回してもこのバスには同じ制服を着た男達しか居ないのは、彼女の目から見ても明らかだ。運転手も含め、このバスに乗っているのは99%、男である。男、男、男。むさくるしい事この上無い。
そう、何を隠そう成宮高校は男子校であった。
朝の登校時間帯、この路線のバスを利用するのは成宮高校の生徒に限られる。成宮高校が男子校と知っているのか、一般の客、特に女は別の路線を使うか、時間帯をずらしているようだった。たまにサラリーマンや中年の叔母さんが乗って来るくらいである。
「え、ええと、あの、その、すみません、私、降りるんですけど……、ええと」
しどろもどろで彼女は行く手を遮る男達に頭を下げながら、なんとか運転席まで行こうと試みるが、そこは体格の差もあって小さな身体の彼女では身動きが取れない状態に陥ってしまった。今、彼女が居るのは後部にある乗降扉の方だろう。
彼女がそうこうしている間に、バスはとっくに緑原に到着していた。
「え~、お降りのお客様はお早めにお願いします」
しびれを切らした運転手がマイクで呼びかける。
「降ります、降ります!」
しかし、彼女のか細い声は男達の騒音によって掻き消されてしまった。
このままでは、運転手は生徒のいたずらと見なして、彼女に気付かないままバスを発進させてしまうだろう。
ああ、見ていられないのは俺だけか。誰も彼女を助けようとしないのは何でだ。
「始」
彼女のお陰で席が空いたというのに、未だに突っ立っている俺に山根が声をかける。
「何、突っ立ってる訳」
「あー、今、座れる気分じゃ……」
「誰も座れとは言ってないよ」
……はい?
「今こそ、その無駄に大きい体格を活かして、彼女を助けたらどうなの」
……無駄な、という部分は気になったが、そこを無視しても山根の言い分は理解出来た。
ここで男を見せろって事ですか。
よし。
「行って来るよ」
覚悟を決めて、俺は山根が言う巨体を活かして男達を掻き分けて行く。途中で非難の声が上がったような気がしたが、俺は気にせずに突き進む。
そして彼女が居る所まで到着。
「お降りのお客様は~」
ここでまた運転手のアナウンスが入ったので、俺は彼女の手を取って声を張り上げた。
「あ、居ます! 降りる人が居ますんで、もうちょっと待ってください!」
柔道部で鍛えた俺の声は男達の騒音など物ともしない。運転席まで響いた筈である。その証拠に、今まで騒いでいた生徒達がぴたりと、会話を止めたくらいだ。同時に、俺と彼女に視線が集まる。
「あ、あの……」
「あー、ちょっと退いてくれる。悪いね」
俺は彼女の手を掴んだまま、静寂に包まれたバスの中、通路を塞いでいる奴等を掻き分けながら歩いて行った。なるべく笑顔で応対するのは、穏便にすませようという魂胆があるからだ。彼女はすまなそうに、俺の後を着いて行く。ありがたい事に、俺のお陰で彼女に気付いた幾人かは黙って道を譲ってくれた。
数分を要して、俺と彼女は漸く運転席まで行く事が出来た。
「え、ええと、お金」
動揺しているのだろうか、鞄の中から財布を取り出そうとしている彼女の手は小刻みに震えていた。無理も無い。群れている野獣の中に一匹、うさぎが迷い込んだのと同じな訳で。
バスの運転手も彼女を気の毒そうに見守っている。
「ありがとうございました」
運転手に向けて言ったのか、俺に向けて言ったのか定かではないが、彼女はお金を払いながら礼を述べた後、ふらついた足取りでバスを降りて行った。
彼女が降りたのを見届けた運転手が、乗降扉を閉める。
俺は今更山根の所へ戻る気が無かったので、そのまま前の方で吊革を持って立っていた。
バスから降りた彼女の姿が窓から見えた。降り立った彼女に友人と思われる女の人が彼女に向けて駆けて行く。そのまま二人は抱き締め合った。
恐らく、彼女の友人はこのバスが男子校の生徒ですし詰め状態になる事を知っていたに違いない。彼女を心配しての行為という事が、遠くから見ていて想像が付いた。
そして。
何を思ったのか、友人から離れた彼女は笑顔でバスに向けて一礼した。
……。
俺に向けたものだろうか、何か、感慨深いものがあった。
ああ。
人助けって何か、素晴らしいね。
彼女がもう、これに懲りてこのバスを利用しないと思うと、少し残念な気もしたけど。
バスは再び、成宮高校へ向けて発進する。
その頃にはもう、バスの中は再び男達の騒音に包まれていた。
「よう、吉原。お前、バスの中で痴漢したんだって?」
「は?」
成宮高校行きのバスは無事に学校に到着した。
俺は学校へ着くと、柔道部の主将に用事があったので三年の教室へ行っていた。山根は俺より早く二年の教室へ行っている筈だ。
俺が自分の教室へ戻った時、同じクラスの岡田裕司からそう尋ねられた。岡田は徒歩で通学している。
「誰から聞いた」
いや、聞いても一人しか居ないのは分かっているが、念の為。
「山根からだよ。お前、山根と同じバスだろ」
やっぱり。
「違うよ。吉原君は女の人を助けたんだよ」
俺と岡田の話に入って来たのは俺達と同じバスを利用している、谷口明だ。
谷口の他に、このクラスであの時間帯のバスを利用しているのは何人か居る。今朝の俺の勇士を知っている奴等がその話を触れ回っているに違いないのだが、山根の場合は真実を知っていても嘘を言う癖があるのでトラブルが耐えない。クラスの皆も山根が嘘吐きなのは知っているので、今の岡田の話を信じる人間は居ないと思う。
山根の話を疑わずに信じるのはこのクラスでは単純明快な岡田くらいなものである。山根も岡田が面白いくらいその嘘に引っかかるので楽しいオモチャを手に入れたとしか思っていなかったりする。山根に目を付けられた岡田は気の毒としか言い様が無かった。
「でも、俺が山根に聞いた話だと、痴漢に間違われて運転手に突き出されたって」
山根は何処だ! 何処に居る!
山根の嘘だと分かっていてもいい気分はしないのは当たり前だ。
「山根君なら、間島先輩の所だよ」
俺がクラスの中で山根を探していると、谷口がそう教えてくれた。
間島先輩というのは間島新一の事である。俺達より一学年上の先輩で、山根と同じ新聞部に所属している。そして新聞部の部長であった。
……新聞部?
「あいつ、間違った情報を間島先輩に教える気か!」
「山根君なら、やりかねないよね。でも、間島先輩ならそんな情報、鵜呑みにしないと思うから大丈夫だよ」
そうだ。
谷口の言う通り、山根と違って間島先輩は人が出来ている。信頼性が大事の、新聞に山根の情報だけで俺の勇士をでっち上げる事はしない、筈だ。
……多分。
……。
「俺、ちょっと山根の様子見て来るわ。俺の人生、あいつのせいで狂わされたら嫌だし」
「……今、図書室には行かない方が良いと思うけど」
「何で」
「……何となく」
困った風に笑う谷口。困っているのは俺なんですけど。
俺は自分の事が心配なので、取り敢えず新聞部の部室がある一階まで行く事にした。
新聞部は図書室の一角にあった。
図書室だと調べ物がしやすいから、と言うのは間島先輩の談であるが、実際の所、他の部に使えそうな教室を取られている為、苦肉の策として図書室になったのだろう。
部員名簿には俺を含め、数人が在籍しているが、実際、毎日図書室へ行き、部員として活動しているのは山根と間島先輩くらいなものだ。
俺も一応、新聞部に所属しているが、月一のミーティングに顔を出す以外は、柔道部に生命を捧げている。他の面々も新聞部より優先する部があった。新聞部は幽霊部員という奴等が殆どを占めていると言っても過言では無かった。
実質、総部員数は二名。
それでも部が保っているのは、やはり、間島先輩の人徳によるものだと思っている。
一応、図書室では朝早く来て課題や調べ物をしている生徒も居るので、俺は静かに通路を歩く。
図書室の隅、角の方にある四人掛けの机に「新聞部」と書かれた張り紙が張ってあった。しかし、山根と間島先輩はそこには居なかった。
ひょっとして入れ違いになったとか?
もしかして、山根の情報を間島先輩が信じたとか?
いや、間島先輩に限ってそんな事は……。いやいや、でも、山根に言いくるめられたら間島先輩も信じたりして……。
……。
「ねえ」
「うわあっ」
いきなり後ろから肩を叩かれ、その弾みで大声を上げてしまった。
図書室に居た皆さんが、俺をいっせいに睨む。
俺はすんません、と一言謝って後ろを振り返る。
そこに居たのは山根と、間島先輩だった。
さっき、俺の肩を叩いたのは山根である。
山根に文句を言おうと口を開きかけた所で間島先輩から話を振られた。
「やあ、君の勇士は山根君から聞いたよ。是非、記事にしたいと思うんだけど、どうかな」
間島先輩は爽やかな笑顔を俺に向けて言う。
もし、ここが共学だったなら、間島先輩はさぞかし女にモテていただろう。爽やか過ぎるその笑顔に、クラッと来ない女は居ない。更に眼鏡をかけている所から、真面目そうで誠実そうに見える。……実際、真面目で誠実だったりするから、嫉妬する気も起こらんわ。
山根から聞いた、と言う間島先輩の話に、俺は慌てて首を横に振った。振りまくった。
「俺は痴漢なんかしてませんよ、断じて」
「何言ってるの。僕はちゃんと、間島先輩に君が女の人を助けた話をしたんだけど」
意外だ。
そうだ、朝のごたごたで忘れていたが山根は間島先輩の前だと素直な奴になるんだった。
これも間島マジックというやつか。
「そうそう。その話を聞いたんだよ。最近、ネタに困ってたから、この話を使わせて貰っていいかな」
マジで。
「俺の勇士が学校新聞で一面を飾る訳ですね?」
「一面じゃないよ。隅の穴埋め記事になるんじゃない」
……山根、教室に戻ったら覚えておけよ。
「一面は、別の記事になると思う。最近、ここら辺で、というか、緑原周辺でUFO目撃証言が相次いでるだろ?」
UFO?
何ですか、それ。
「始はそんな事も知らないの。今、校内中で噂になってるじゃない」
俺は全然、その話を耳にした事がないのだけど。
初耳だった。
「これだから柔道バカは困るよ。自分の事以外、眼中にないんだから」
はあ、と大袈裟に溜息を吐く山根。
ああ、俺は柔道バカですよ。今の所、柔道が生き甲斐なんだから当たり前だ。
新聞部に所属しておきながら、世間の情報に疎いのは仕方ない。
開き直る俺に、間島先輩が説明してくれた。
「俺と山根君で先週の日曜日かな、緑原山(みどりはらやま)で夜中に張ってたら、それらしい物体が飛んでるのを発見してね。見事、カメラに収める事が出来たから、今月はこの記事を一面に出そうと思ってるんだよ」
……マジで?
緑原は四方を山で囲まれた所で、山地を切り開いて出来た閑静な団地があり、山の中には訳の分からない施設も幾つかあった。環境に優しく、空気も美味しい、というのが緑原の謳い文句なんだそうだ。しかし、その分団地の中には品揃えが悪い寂れた商店街があるだけで、今では現代人には欠かせないと思われるコンビニすら無かった。
緑原の隣の区域、田原に俺達が通う高校、私立成宮高校がある。成宮高校がある田原区は緑原に比べれば駅もあるし立体駐車場が設けられた映画館も併用する、巨大ショッピングセンターがあった。コンビニもある分、緑原よりは幾らか発展している地域だと思う。
緑原にある緑原の山は何の変哲も無い山で、獣道だけで構成されている為にまず一般人は近付かない。登山する人間でもあまり面白みの無い山なので近付かなかった。たまに緑原にある学校で体育の時間に使われるくらいだ。
山の中に何か施設か研究所らしきものがあるらしいが、それらの区域は関係者以外立ち入り禁止となっているので誰も近付く事は無かった。そこはある研究所らしい。
一時期、その研究所で化け物を作っているのではないか、というとんでもない話が出たくらいだ。昔から居る住人があそこは製薬会社の研究所だ、と言っていたので、結局その噂は都市伝説になる事はなく、直ぐに沈静化した。
間島先輩と山根はそんな山の中で一晩中、そのUFOの為に過ごしていたのだろうか。一部員の俺としては、居たたまれない気持ちになった。
「どうして連絡くれなかったんですか。連絡くれれば、俺も助手くらい、やりましたよ」
「そういえば、君も部員だったね、確か」
山根が言う。
幽霊部員だけどね。でも一応、新聞部に籍を置いているのは確かな訳だし。
「一応、部員名簿にある奴等には連絡したんだけどね。日曜日だったんで、皆何処かへ行っていたみたいで、結局、時間通り集合場所に来たのは山根君一人だったという訳」
でも俺には連絡がありませんでしたが。
俺が言うより先に、山根が状況を説明する。
「始が連絡網の最後だったんだよね。それを僕が知って、始には連絡しないように間島先輩に言付けておいたんだよ。君、日曜日だからと言って、朝まで山の中で過ごしていられないだろう。月曜には柔道部があるし」
確かに。
翌日、柔道部の特訓が控えている。特訓も学校も無い日曜日は、体を休めるには打ってつけで、体力が要る山登りのせいで翌日の特訓に支障が出ては元も子も無い。
「すみません、大それた事を言って」
「いや、別にいいんだよ。記事は今週中にも校内の掲示板に貼られると思うから、楽しみにしておいてよ」
ああ、そういう所が爽やか過ぎるんですよ、間島先輩は。
それでも俺は、間島先輩に頼まれればやっぱり、成宮山のUFO写真撮影には付き合っていただろう。
山根の気遣いには感謝するが、行くか行かないか、それは俺が決める事であったりするので、余計な事をしてくれたと思った。
ひょっとして、世紀の発見の目撃人として、間島先輩と共に世界中に名が轟いたのかもしれないのに。
間島先輩は俺の内情を悟ったのか、苦笑しながら山根を庇うように言う。
「山根君は吉原君を思って、俺が君に連絡しようとしているのを止めたんだよ。吉原君は柔道部じゃ貴重な存在だからね。知ってると思うけど、柔道部の主将の峰君とは同じクラスなんだ。吉原君の活躍は峰君から良く聞かされてるよ。俺もそれを知っているから、山根君に言われたからじゃない、柔道で頑張ってる吉原君の事を思って連絡は控えたんだよね。だから、余り、山根君を責めないでくれよ」
柔道部の峰正美主将は勝ち星を挙げても、部員を人前で褒める事は滅多に無かった。峰主将が間島先輩と同じクラスだという事は知っていたので、間島先輩の話はあながち嘘じゃない、と思う。
峰主将に褒めらたと言うのは、素直に嬉しいものだ。
……まあ、そういう事なら別に山根を責める事はしませんよ、俺は寛大な方だし(単純と言われる事もあるけど)。
「――山根君は、本当、吉原君の事が好きなんだよね」
そ、そうですか?
山根からは微塵もそんな事を感じた事はないんですけどね、俺は。
でも。
そう言う間島先輩の顔が曇ったように見えたのは気のせいだろうか。
俺は不意に山根を見た。
山根は今までとは違って居心地の悪そうに、間島先輩から顔を逸らしている。
あれ。
何なんだ、この嫌な空気は。
「始、そろそろ授業が始まるからクラスに戻るよ」
「え」
「いいから早く」
「あ、ああ」
俺は山根に促されるままに図書室を後にする。
間島先輩はどうしたんだろう。
「なあ、俺、何か変な事言ったか。最後の方、間島先輩、ちょっと様子が変だったけど」
「始は人の事を気にしすぎだよ。あの間島先輩だって調子が悪い日があるんだし」
そりゃそうかもしれないけど。
「ああ、そうだ。それと、UFOの話題が一面記事に載るって事、クラスの皆や柔道部の人達には言うなよ。記事が発表されるまで知らない方が楽しめるから」
「ああ、うん、分かってるよ」
間島先輩と山根の努力の結晶の末に、UFOらしき飛行物体をカメラに証拠を収める事が出来たのである。それを俺が横から茶々を入れる筋合いは何処にも無い。
それよりも、今気になるのは。
……可愛かったな。
「……まだ、あの女の事考えてるの」
「え、俺何も言ってないけど」
山根はエスパーか!
「口に出して言ってたよ。可愛かったなって」
俺は思ってる事を気付かない間に口に出す癖が昔からあるらしい。
「ふうん、始はあんなんが好みな訳?」
「……まあ、好みなんだけど」
そこは否定しない。
いやだって、実際可愛かったし。
人形みたいで、性格や仕草も俺とは大違いな感じの人だ。多分。
「でも、あの女が今回の件で懲りてあのバスをまた利用するとは思えないけどね」
「あー、俺も思った。勤め先が緑原なんかな。あの時間帯なら緑原の路線は成宮以外にも出てるしなー。俺も直通止めて、別の路線使おうかな」
これは冗談で言った事だが。
「――駄目だよ、そんなの」
山根は俺の冗談を本気に捉えたようで、必死な目をして俺の腕を掴む。
――まるで別の路線のバスを使うなと、訴えているかのように。
山根は見てくれは女だが、中身はれっきとした男である。男にそんなに必死になられても、と思うが、山根の可愛さはその辺を歩いている普通の女とは一味違った。男でも山根が男であると知りつつも、間違ってくらっと来る時があっても不思議じゃない。
不思議じゃないが、俺は山根に対してそんな感情を抱いた事は無かった。生憎と全く、全然、その気は無い。
断じて、無い。
多分、山根も俺よりはまだ線の細い間島先輩に惚れられた方が本望だろう。
「え、いや、冗談だよ冗談。直通じゃないと遅刻するしな」
「……そうだよね。有り得ないよね」
どういう訳か、山根は俺の話が冗談である事に気付いたのか、心底安堵しているように見えた。
「それに君、路線変更したら乗り継ぎの時に、どのバスに乗ればいいかどうか分からなくて迷うでしょ。始は柔道バカだから、そういう事には脳が回らないんだよね」
……。
さっきの山根は何処へ行ったのか、もういつもの山根に戻っていた。
教室へ戻ると、谷口と岡田が出迎えてくれた。
岡田は真相を山根から聞いて俺が痴漢した事が嘘だと分かると山根を非難したが、山根はさらっと一言、こう言ってのけた。
「信じる方が悪いんだよ」
更に山根は続ける。
「それに、あのバスの中でどうやって始が痴漢出来る訳。少し考えれば分かる事だと思うけど」
山根の言い分は尤もで、岡田は言葉を詰まらせる。
岡田は谷口からあのバスの中の悲惨さを聞かされ知っていた。山根もその事を知っているので、岡田は余計に不利な立場に陥っている。
それでも諦めの悪い岡田は山根に食ってかかる。
「男が男に痴漢する例もあるって聞いた事があったんだよ」
岡田君よ、それは何処で聞いたんだ。
山根は岡田の反撃に動揺する事なく、冷めた目で岡田を見返す。
「始がそんな趣味の持ち主だったら、僕はとっくの昔に縁を切ってるよ」
それもそうだ。
「谷口ー、俺、何でこう山根に騙されるんだよううう」
「素直なのは裕司のいい所なんだからさ、余り気にする事はないよ」
岡田はとうとう、山根に言い返す気力も精神力も奪われて情けない顔を谷口にさらけ出す。谷口はそんな岡田を見捨てる事はせずに、よしよしと、子供にあやすように岡田の頭を叩いている。
ここで不意に谷口と目が合った。
俺と谷口はお互い苦労するね、と目と目で慰め合った。岡田は谷口とは中学から一緒らしく、いつも人の好い谷口が騒がしい岡田の面倒を任されていたらしい。それを聞いた俺は何故か谷口に親近感を覚え、谷口の方も何かと問題のある山根の世話をしているのが俺と知って近付いて来て、互いに互いを慰めあう仲になった。
友人の事で気苦労が絶えないのは俺も谷口も同じだった。
「そうだ。谷口、図書室行ったけど、なんもなかったぞ」
「え、何が」
「お前、俺が図書室に行く前になんか知らんけど、行かない方が良いって言ってたじゃん。それ聞いて何かあるのかと思ったけど、全然何も無かったけど」
「……そう。何も無かったら、別に気にする事は無いよ。僕の勘違いだったかもしれないし」
「……ふうん」
俺は谷口の話が気になっていた。
多分、谷口は山根と間島先輩の間に何かあったのではないかと、勘ぐっているに違いない。
それが先程の間島先輩の様子と重なるが、今回、俺はその事は谷口には話さずにいた。俺のせいで、山根と間島先輩の間に新たな溝が出来たらそれこそ切腹して詫びるしかないのだから。
俺はその後も山根と間島先輩の関係、そしてあの女の事で悶々としながら一日の授業を受けていた。授業内容は殆ど覚えていなかった。
放課後は柔道の特訓があり、その間だけはそれらについて忘れる事が出来た。俺はそれを終えてからまた帰宅の途に着くのだった。
翌朝。
俺はいつもと同じく同じ時間に阿坂病院前から、成宮高校行きのバスに乗り込む。
そして友人の山根を探しに通路を歩く。
それはもう、山根と友人になったあの日から、俺の中に染み付いた習慣になっていた。
一番後ろの席から数えて三番目、右側の窓際の席に山根が座っているのを発見する。
そして同時に。
「あ、噂の吉原君だ。おはよう」
やけにのんびりした声が俺の耳に届く。
……。
これは夢か?
まだ俺は覚めない夢の中に居るのか?
俺は俺の事など目もくれないで、窓の外を眺めていた山根に問いかける。
「山根、俺は目が覚めているのか?」
「……君が正気ならね」
素っ気無い山根の返事は確かに現実味があった。
「私が何で君の名前知ってるのか、って思ったでしょ。実は、吉原君が来る前に隣に居る山根君に聞いてたのよ。びっくりした?」
いや、俺は別の意味でびっくりしてるんですけど。
そう。
山根の隣には、昨日俺が助けたあの女が平然と座っていた。
しかも何故か機嫌が良いのか、笑顔で俺を受け入れている。
その笑顔がいいなあ、と思ったのは山根には内緒だ。
許されるならもう少し、彼女とこのままで居たいと思ったのも、内緒にしておく。
それでも、俺は彼女に忠告しなければいけない立場な訳で。
「あの、これより別の路線使った方がいいんじゃないんですか。そうしないと、また昨日みたいにもみくちゃにされますよ」
そうだ、俺はそれを心底心配している。
「無駄だよ。僕も同じ事何度か言ったけど、彼女、全然耳貸さないんだ」
そういえば山根は始発から彼女と一緒に居るらしい。
俺も始発から乗れば彼女と山根のように長い時間、話せていたかもしれない。そう思うと、俺は山根が羨ましかった。
「次で降りてもちょっと時間は遅れるかもしれないけど、緑原行きのバスが出てるから、それ使うと良いですよ。このバスを使うよりは空いているし」
「そうそう、始の言う通りにしておいた方が身の為だよ」
「ん~、忠告はありがたいけど、これも仕事なんだよね」
俺と山根の忠告も構う事なく、これまたのんびりとした調子で彼女が言う。
はい?
何でこのバスに乗る事が仕事なのか、俺と山根はさっぱりで互いの顔を見合わせる。
彼女は俺達に気にする風ではなく、始終笑顔でそこに座っていた。
まるでそこが自分の指定席かのように。