彼女は俺の想像を遙かに超えた人、だった。
「私ね、緑原にある研究所に勤めてるの。研究所って大袈裟かもしれないけど、桜木製薬って知ってる? 知らないよね、多分。あまりメジャーじゃないしね。私も勤め先がそこに決まるまで実際知らなかったしね。一応、そこの研究員として働いてるのよ。新薬開発が担当でね。あ、私の事、化学や数学の理数系に弱いって思ってない? 思ってるでしょ、顔に書いてあるもの。よく言われるし。私、こう見えて化学に強いのよ。化学の元素記号って何か面白いじゃない。見ているだけで何か萌えるって言うか。あ、また萌えるって言っちゃった。私、アニメやマンガが好きだから、よく使っちゃうのよね。それでその言葉の意味を知らない他人に引かれる事が何度かあったけど、今じゃもうそんな事を気にしなくなってる自分が怖いわ」
あはは、と彼女はあっけらかんと笑うが、俺もここで笑っていいのかどうか判断に迷う。大いに迷った。山根のあからさまに怪訝そうな顔を見ていると尚更。
俺達に構わず、更に彼女は続けた。
「私、桜木製薬に勤めるまでは京都に居たの。京都の……、ええと、桜木製薬とは別になるのかな、そこの研究所に。でも、ある事情から緑原って辺鄙な所に飛ばされちゃったのよ。緑原って緑が多くて空気も美味いって謳い文句があるけど、裏を返せば何も無い所じゃない。コンビニさえないのよ。これで私の人生終わったー、って悲観してたらね、千夏ちゃんが教えてくれたの。ここは如月君が選んだ場所だからって。ああ、成る程ねえ、って納得しちゃった。緑が多くて環境にも優しいし、何より余計な邪魔が入らない、いい所だわって。納得納得。それ聞いて以来、緑原が好きになっちゃった。現金だよね、私って」
また笑う彼女に、今度は俺も付き合って笑った。
しかし俺は、今の彼女の話を聞いて笑える心境ではなくなってしまった。
彼女の口から出た幾つかの知らない名前。
その中で個人として特定出来る名前は二人。
一人は「千夏ちゃん」と名前が女だ。だから安心出来る。問題はもう一人の方、「如月君」だ。
如月君のお陰で緑原が好きになったの、そう言う彼女に俺は。
俺はどうすればいいんだ。
出会って二日目で失恋決定か?
いや、そんな事は彼女自身に聞かないと分からない事である。聞かないうちに失恋を確定するにはまだ早い。
……多分。
「まあ、緑原に居る間は何にも無いけど、私が住んでるのは一応、市街地だしね。帰ればコンビニとかショッピングセンターとか、一通りは揃ってる訳よ。あー、でも、アニメがやってないのが辛いかな。だってここ、テレビ東京が映らないじゃない? 致命的だよね。どうして見たいアニメがことごとくテレビ東京限定な訳? 地方の人間をバカにしてるとしか思えない仕打ちだわ。最近はCS放送も活発になってきてるから、地方に居ても何の問題も無いんだけど。やっぱり、最強はテレ東でしょ? 東京の友達に何本か頼んでるんだけど、あの人そそっかしいからなー。予約忘れてないといいけど」
……俺は一体どうすればいいんだ。
「……始。この女、ヤバイんじゃないの」
彼女の直ぐ隣で山根が俺に向けて言う。小声ではなく、普通の音量で。
確かに山根の言うよう、ヤバイ女かもしれない。
それでも。
それでも俺は、目の前に居るこの女に惹かれつつあった。
見た目と中身が違う女だから、少なくとも俺には目が行くヒトだ。
それは山根に到底言える筈もなく、俺はただ押し黙って彼女の話を聞いていた。
「ああ、二人とも、今、私の事変な女だって思ったでしょ。いいの、隠さなくても分かるから。オタクは世間には厳しい目で見られるからね。でもそれを乗り越えたら真のオタクの称号が貰えるんだって。でもオタク友達から見れば私はまだその域を超えてないらしいの。その辺、難しいよね。定義が曖昧だしね。君は神を超える事が出来るか! ……なんて、アニメの次回予告みたいな台詞吐いちゃったりして。あ、言い忘れてたけど、私、オタクというよりは腐女子でね。腐女子って言うとヤオイ好きって思うかもしれないけど、いや、私も実際そうなんだけど、それよりも美少女系が好きなのね。美少女っていいよね、萌えるよね。彼女達を見ているだけでも目の保養になるわ~」
うっとりと明後日の方向を向いている彼女。
俺は貴女を見るだけで目の保養になるんですけど、とは思ったが、山根の手前、そんな事を面と向かって言える勇気は生憎と持ち合わせてはいなかった。
「でね」
「――好い加減にしてくれる?」
彼女が更に話し出そうとした所で山根の高い声が響いた。
ヤバイ、と思ったのは俺だけじゃない筈だ。
「あんた、バカじゃないの。何が悲しくて僕達があんたのその訳の分からない話を聞きたがっている訳。気持ち悪いのを通り越して真のバカだよ。真のバカ以外、何者でも無いね。僕は君みたいなバカげた女が一番、大嫌いなんだよね。隣に居られるだけでもゾッとする。出来る事なら、始と席を替わって欲しいくらいだ。始もいい迷惑じゃない。始もこんなバカ女相手にする事無いよ。バカな女は無視するのに限るしね」
容赦ない山根の言葉に、俺は彼女が泣き出すのではないかと気が気でなかった。
――が。
「でもね山根君、私が真のバカだったら、こんな所に居る訳ないわ。今頃、路頭に迷ってるでしょうね」
「は?」
あの山根が彼女に呆気に取られて、口を開けたまま間の抜けた顔を曝け出す。
……山根が呆けている所を見るのは久し振りだな、と俺は当事者の癖に何処かぼんやりと、第三者になって彼等のやり取りを窺っていた。
「うん。私は山根君の言うような真のバカじゃないと思うよ。だって一応、社会的な常識はある訳だし。一応、社会人だし。でもよく考えてみたら、真のバカな人ってある意味、凄いと思わない? 私、勉強が出来ないからバカだって決め付けるのは良くないと思うのよ。勉強が出来ない子でも皆、それ以外にも色んな得意分野が必ず一つはある訳だよね。真のバカな人っていうのは、それを抜きにしてバカな人って事でしょ。実際に居たらお目にかかってみたいよね。そして聞いてみたい。貴方はバカですかって。あー、でも、バカな人だったら素直に、はいそうですって、答えるかな? きっと、私達には想像もしないような答えが返って来ると思うんだけど、どう思う?」
いや、どう思う? と可愛らしく首を傾げて尋ねられても困るんですけど。
山根は山根で彼女の予想外の攻撃に固まってるし。
「ん、だからね、私はバカでもないし、かと言って偉い訳でも無いしね。その辺の定義も難しいよね。この世の中、神様に聞かないと分からない事だらけじゃない。肝心の神様は人の願いなんか全くの無視で生きている訳だしさ。あ、ほら、よく神様はあなたの中に居ます、って言うじゃない。でも私はあの言い分間違ってると思うの。そりゃ、神様は自分の中に居るかもしれないけど、実際は――」
「次は、緑原。緑原でございます」
彼女の言葉をバスの中に響くアナウンスが遮る。
彼女が語っている間にバスは緑原に到着していたらしい。
「やだ、もう、緑原? あわわ、どうしよう。お財布はここにあって、ええと、吉原君」
「え」
ジッ、と俺を見据える大きな目。
ただそれだけで、俺は。
「――よろしくお願いします」
彼女の言わんとしている事は分かっているし、たとえ山根がこちらを睨んでいたとしても俺は俺のやりたいように行動するつもりでいた。
俺はごく自然に――、さながら、童話に出て来る王子様がお姫様に手を取るように、彼女の手を取った。
俺より小さな彼女のその手に、俺の大きな手が包む。
感無量。
緑原に着いた頃はもう既に、バスの中は昨日と変わらず成宮高校の生徒達で満員状態となっていた。
俺が彼女の手を取って通路を歩けば周りに居る奴等から奇特の目で見られていたようだが(後で山根や谷口から聞かされた)、今の俺はそんな視線はものともせずに、無事に彼女を運転席まで送り届ける事が出来るか、ただその一点に集中していた。
そうだ、今俺は彼女(姫)を守る傭兵になりきっている。
姫の前を遮る邪魔な奴等は俺の強大なこの力で一掃してやる!
……そうだったらいいな、という妄想は尽きない。
「ありがとうございました」
俺が昨日と同じく力技で道を作り、そこを彼女が通りどうにか無事に運転席まで辿り着く事が出来た。彼女は料金を払い、運転手にそう言ってバスを降りて行く。昨日と同じ運転手だった。
降りた所で彼女はまだ乗降扉が閉じないうちに俺に向けて笑顔で一言。
「吉原君も、ありがとうね」
……。
ヤバイ。
無常にも乗降扉が閉まって行く。
それでもまだ彼女が笑顔で手を振っているのが見えた。
「……惚れましたか?」
「えっ」
すぐ後ろに居た運転手から笑みを含んだ小声で囁かれてしまった。恥ずかしい。運転手にも丸分かりかよ。
俺の顔が赤いのは自分でも分かる。
ああ、何て事だ。
俺にも柔道以外で夢中になれるものがあったとは。
俺にしてみれば、新たな発見だった。
「なあ、男に痴漢してとうとう警察に突き出されたんだって?」
……。
俺はバスが高校に着くと、今度は担任に用事があったので職員室へ行っていた。その間に今朝、バスの中であった話を聞いたのだろう、岡田が意気揚々として俺に近付いての第一声がこれだ。
「岡田君。その話、誰から聞いたの」
俺は平静さを保つ為、笑顔で岡田に尋ねる。
岡田にその情報を告げた犯人は一人しか見当が付かないが、念の為。
「山根からだよ」
――聞くまでも無かったか。
「昨日の山根君の話、聞いてなかったの?」
おお、谷口よ、いつもすまないね。
「昨日の話? いつの話だよ。俺、学校が終わる頃にはその前の話はたいてい、覚えてないんだわ」
ははは、と笑う岡田。
いや、笑い事じゃないと思うんだが、岡田君よ。
「そうそう、岡田君のその話、合ってるよ。吉原君が痴漢して警察に突き出されたんだ」
おいおいおい。
「谷口、嘘はいかんだろ」
「――君だけにいい思いをさせられては、こっちも立つ瀬が無いんでね」
……。
今、心成しか気の好い谷口が悪人に見えたのは気のせいか。
目の錯覚だろう、そうだ、そう思う事にする。
「マジで? うわ、災難だな、吉原。なあ、書類送検とかされちゃったりしたの? もし、俺がテレビのリポーターに吉原君について尋ねられたら、取り合えず涙ながらに彼みたいないい人は居ませんでした、って言っておくわ」
それはありがたい話だが、根本的に間違ってるよ、岡田君よ。
「……岡田君。俺がそんな風な男に見えるか」
「さあ、俺は吉原の趣味なんかわかんねえよ。でも、谷口から聞いた話は本当なんだから、信じるしか無いだろ?」
なあ、と岡田が谷口に同意を求める。
中学時代から付き合いのある谷口の話は信じるようにしているのか、岡田は。
谷口も気の悪そうに岡田に頭を下げる。
「ごめん、今、僕が言ったのは嘘だよ。吉原君は例によってバスの中で女の人を助けたんだよ」
「女の人? ああ、思い出した。それって昨日の話に出て来た女と同じか?」
「そう。結構綺麗なヒトでね。吉原君もその人に気がありそうな感じでね。傍から見てると面白いよ」
面白いって何が。
っていうか谷口はバスの中での俺と山根とあのヒトの会話を聞いていたのか?
「聞いていたって言うか、自然に耳に入って来たんだよ。気付かなかった?僕、君達の後ろで吊革持って突っ立ってたんだけど」
……気付きませんでした、はい。
って、また俺、思った事口に出してた?あわわ。
「彼女も話を聞いていると相当特異な人だよね。吉原君と合ってるかもね。君、そういうタイプのヒトが好みだろう」
俺の心を見透かしたように谷口が笑う。
うう、周りからはバレバレですか。
バスの運転手にでさえ見抜かれてしまった俺って一体……。
「――ああ、それで山根の機嫌が悪かったのか」
思い出したように天井を仰ぐ岡田に俺が反応を示す。
「機嫌が悪いって山根が?」
「そうそう。朝、教室に入るなりあからさまに不機嫌な顔してたんだよ。誰も俺に近付くな! オーラを出してたぜ」
深刻な話の割りに、笑う岡田に俺は理解出来なかった、が。
もしその話が本当なら、その山根に真っ先に声をかける事が出来る岡田の方が凄いわ。
「まあ、バスの中の一件が不機嫌の原因だとしたら、山根君の機嫌が悪くなるのも無理無いと思うけど」
岡田に頷くのは谷口である。
そういえば、山根にしては珍しく、口で彼女に一本取られた感じだったからなあ。男ならまだしも、女に口で負けるという事は山根の自尊心が傷付けられたのだろうか。俺からしてみれば幾ら口達者な男が居たとしても、女を口で負かすのは日本が日本産のロケットで、何の問題も無く、打ち上げに成功するくらい、難しい話だと思うんだが。
思うが、相手は山根なので俺の心配は尽きない。
「山根は例によって新聞部に居るんだろ?俺、ちょっと様子見て来るわ。間島先輩に八つ当たりしていないか心配だし」
「……今から行くのか? 今ならちょっと行くのは止めておいた方がいいと思うけど」
またか。
「谷口。お前、山根と間島先輩の間に何があったのか、知ってるのか」
「――何があったのか? ……ああ、そうか。そう来たか。君はまだ知らないんだよね。うん、それなら納得が行く」
うん、と自分で頷いて自己完結している谷口に、俺は納得が行かないんですけど。
「悪い事は言わないけどね。でも、二人の間に何があるのか知りたいなら、行ってみればいいよ。新聞部の机に二人が居なかったら、多分、奥の方、歴史書のコーナー付近に居ると思うから」
決してふざけている風でもない谷口にそう言われて、俺は教室を出て行く。
今の話で、谷口は俺の知らない山根と間島先輩を知っている、という事は理解出来た。
俺はその事を知って、谷口が山根の何を知っているんだと、不安が募るのと同時に、どうして山根は俺には何も言ってくれないのかと、多少の嫉妬心を抱いていた。
俺は釈然としない気分で図書室まで来ていた。
図書室の戸を開けて中に入る。そこには例によって数人の生徒達が課題や何かの調べ物をする為に居た。
俺は真っ先に新聞部がある机の方へと向かう。
俺は歩きながらどうか、山根と間島先輩が新聞部に居てくれる事を願った。もし二人がそこに居なかったら谷口の言う事を信じなければいけないからだ。
どうか。神様。
「始」
山根の、不機嫌そうな声が俺の耳に届く。
その声に俺は安堵する。
「やっぱり来たね、吉原君」
山根の隣でくすくす笑うのは間島先輩である。
俺はちょっと居心地が悪かった。
「あー……、ええと、岡田から山根が不機嫌だって聞いて、それで」
「あいつ、僕が不機嫌なのを承知で話しかけてくるんだ。全く、いい迷惑だよ」
「だからって岡田に嘘吐くなよ。今も俺が教室に入るなり痴漢して来たのか、って聞いて来たんだぜ」
「あー、あいつ、単純だからな。直ぐに人を信用するんだ。岡田は谷口が居なかったら、悪徳商法にも引っかかりそうじゃない?僕はそれを危惧して岡田に嘘を吐いている訳よ。そうする事で岡田も危機意識が生まれるでしょ」
「そういうもんか?」
「そういうもんだよ」
納得が行くような、行かないような。
「今朝の話も山根君から聞いたよ。君、また車内で女性を助けたんだって?しかも指名まで受けて、凄いじゃないか」
間島先輩の話に俺は大きく頷いた。
「多分、明日も乗って来ると思うんですよ、その人。俺がボディガードを引き受けた形になるんですかね、あれは」
山根に同意を求めるが、山根の方はどういう訳か俺からそっぽを向いている。
俺、山根に何かしたか?
そういえば、何で朝の件で山根が不機嫌になったのか、その理由を聞くのを忘れていた。やはり、彼女に口で負けたのが悔しかったのだろうか。
「山根、あの人はいい人だよ。その、ちょっと変な所はあるけどさ。口で負けたくらいで、そう落ち込むなって」
「……誰が誰に口で負けたのが悔しいって言った?」
おや?
俺の見当違いですか?
なんか、山根の機嫌が更に悪化したような。
「僕は別の所で腹を立てているんだ。まあ、柔道バカの始には一生分からないと思うけど」
いつにも増して刺々しい口調に、俺は降参の白旗を揚げるしかなかった。
「なあ、俺山根に対して何か酷い事、言ったか。悪かったよ、本当に」
「始は自分の過ちが何か分かってて、僕に謝ってる訳?」
「全然」
ここで、山根の盛大な溜息。
……何だ、一体。
「……始のそういう所が、僕は嫌なんだ」
「え」
沈黙。
「――いい加減にしないか」
その長いようで短い沈黙を破ったのは俺ではなく、かと言って山根でもなく、話には全然関係の無い間島先輩であった。
「俺もここに居る事を忘れてもらっちゃ、困るんだけど?」
「あ、そ、そうでしたね。すみません」
間島先輩に慌てて謝る俺。山根の方は間島先輩に何も言う事はなく、そっぽを向いたままでいる。
「……話を変えよう。昨日話したUFOの写真が出来上がったんだ。やっぱり、デジカメ本体の画面だけじゃ分からない部分もあったからね。パソコンに取り込んで、改めて現像してみたんだけど」
え。
マジですか。
「凄いじゃないですか。え、今、ここにあるんですか?」
俺は少しだけ興奮している。
「一部員の君にもこれがどうなのか、判定して貰いたいんだよね。このまま載せていいものかどうか、ちょっと不安になって来たから」
間島先輩は鞄の中から取り出した一枚の写真を机の上に置いた。
俺はそれを手に取り、じっくりと見入った。
緑原山の山頂付近からの上空一面が映し出されていて、その日は綺麗な満月だった事が窺える。
綺麗な満月だなあ、とぼんやりと思っていたら、間島先輩の細い綺麗な指がある一部分を指し示した。俺は間島先輩の指先に集中する。
満月の中央付近に何か「人影」のようなものが映っていた。
……人影?
よく目を凝らせばそれはUFO特集によくありがちな、丸みを帯びた飛行物体の影ではなく、人影のような、得体の知れない長細いものだった。まさしく「人影」である。
「何ですか、これ」
俺は素直に間島先輩に尋ねた。
「最初は鳥かと思ったんだよね。でもよく見ると鳥じゃないし。かと言って飛行機だとか、俺達が目指していたUFOと言ったたぐいの飛行物体でもない。俺にも正直、これが何なのか分からないんだよね」
「人間……ですかね?」
俺が思った事を素直に口に出した、その直後。
「――バカ?」
沈黙を保っていた山根に一蹴されてしまった。
「人間がどうしてそんな所に居る訳。考えるだけでもバカらしいじゃないか」
「うん、まあ、普通は山根君の考えが尤もな訳で、こんなの一面に載せても信じる人は居ないと思うんだよね」
……信じた俺は一体……。
俺は今、ちびまる子ちゃんでお馴染みの青筋線が額に出ていると思って頂きたい。
「ま、正体が何であれ、ネタコーナーに載せるのはいいと思うんだ。それだったらネタで読む人も多いと思うし。で、問題は一面記事な訳だけど」
ネタコーナーは厳格で有名な体育教師、浅原輝彦(32)と保険医の水野忠志(43)とのホモ疑惑から、学校七不思議にまつわる怖い話特集等、何でもアリのネタコーナーである。
まあ、担当記者が山根泰明となっているので、少なくとも俺以下山根と同じクラスの人間は信じずにネタとして読んでいるのが殆どである。山根を知らない人間でも、本日のネタコーナーと銘打っているので、ネタの記事を信じる人間の方が少ない。だから厳格な体育教師、浅原も笑って許せる程度に収まっている。約一名を除いては。
ああ。
メインの記事がネタコーナーに移った分、穴が開いた一面記事をどうするか、と間島先輩と山根はここで悩んでいた訳か。
と。
ここで間島先輩の視線が俺に向いている事が分かった。
「何ですか」
「……君の話を一面に持って来てもいいかな?よくよく聞けば、明日もその女性が乗り込んで来るみたいだし」
マジで!
「光栄です。間島先輩のお役に立てるなら、この身を悪魔に売ってでもいいですよ」
「……大袈裟過ぎなんだよ、始は。たかだか学校新聞くらいで」
それはそうかもしれないけど、俺にとっては一大事に変わりない訳で。
柔道の大会以外で、個人で学校新聞に載った事が無い人間からしてみればね。
「よし。じゃあ山根君、後は頼んだよ」
「え」
間島先輩が愛用のデジカメを山根に手渡す。
間島先輩は学校新聞では写真も担当している。資料の整理や記事を書くのを手伝うのが山根の役目であって、山根が写真を撮る事自体、珍しかった。
俺の疑問を山根が先手を売って解答する。
「僕がバスの中の様子を、写真に収める役を貰ったんだよ。間島先輩はバス通学じゃないから、車内の様子が分からないからね」
「山根がか……?」
「何だよ、その目は。今の時代、デジカメくらい扱えなくてどうするんだ」
それはそうだけど。
山根には悪いが、なんか不安になるんだよ。
「山根君には操作方法教えてるから、多分、大丈夫だよ」
多分、じゃ説得力無いですよ、間島先輩。
「まあ、兎に角今回の一面は僕にかかってる訳だから、慎重にやるよ。間島先輩の記事がボツになる事は避けたいしね」
その言葉は信じてもいいですか、山根君よ。
「僕がデジカメを向けている間は、せいぜい、君も誇らしくさしずめナイトのように、彼女を守ってやるんだね。そうしないと記事が盛り上がらないじゃない。谷口辺りにそれを邪魔をする役目でもやって貰った方が、もっと盛り上がるかな?」
いや、それは丁重にお断りをしておかなくては。
山根だったら実際に谷口に頼みそうで怖いわ。
谷口と言えば。
山根に聞いておかなくてはいけない気もするが、間島先輩が居る間はあの話は聞けない気がした。
……何となく。
「始、そろそろ教室に戻るか」
「そうだな」
山根に俺は頷く。
「山根君、写真の方、楽しみにしてるよ」
「任せておいてよ」
……そのやり取りは何処か男と女がよくやる合いの手で、それは傍から見ればまるで恋人のようだったが、俺は黙っておいた。
教室へ戻ると谷口や岡田が俺達を待っていた。
また山根に騙された岡田が文句を言うが、これまたあっさりと山根に言い負かされてしまった。
谷口に泣き付く岡田。岡田を慰める谷口。昨日と状況は変わらない。
「所で、間島先輩と言えばそろそろ、学校新聞が出来上がる時期じゃないの?」
谷口が話題を変えて、その話を山根に振る。
山根に振った訳だが、俺のバスの中の話が一面記事に載るという話題を谷口にしたくて仕方が無かった俺は、あっさりと、その内容を暴露しようとしていた。
「聞いて驚くなよ。俺が――」
「始」
おっと、いけない。
ネタが変わったとしても、一面記事は発表まで伏せておくのが原則である。幽霊部員でも新聞部部員である事には変わりないのだから、その規則は守らなくてはいけない。そうじゃないと山根と間島先輩に申し訳が立たない。
「俺が、何?」
谷口は岡田と違って授業もちゃんと聞く方で、人の話もちゃんと聞く人間である。ここで谷口を誤魔化すのは至難の業であった。
俺は山根に助けを求める。
谷口に勝てる相手はこの時は山根くらいしか思い付かなかった。
俺はしかし、助けを求める人物が誤っていた事を、後悔する羽目になるとは知らずに。
「……この柔道バカが、今朝の女を犯したい欲求にかられてるんだよ」
おいおいおいおい。
「マジで? うわ、俺も男として賛同する部分はあるが、それは妄想だけに留めておけよ! マジで!」
マジで引くなよ、岡田君よ。
というか、岡田君でもしてるのね、そういう妄想を。
「そんなに欲求不満なら、18禁ゲームでいいのがあるけど、どう?」
「18禁ゲーム? 岡田、そんなのするのか?」
……ここで岡田の話に乗った俺が悪かった。
「18禁ゲームはいいぜ。なんせ、俺に従順な女の子達がわんさか居るからな。今までツンとしていた女が徐々に俺の手によって心の内をさらけ出して、最後には俺に身体を明け渡すんだ。こう、うるうるした瞳で訴えるのって、男から見れば、何かぐっとくるもんがあるよな! ご主人様、どうぞ、不埒な私を犯してくださいって、言ってるようなもんだぜ。これで萌えない男は居ないと思うけど、どうよ。そんなソフト、何本か知ってるから、吉原にも今度貸してやろうか。俺の萌えはツンデレなんだけど、お前の萌えは何か分からないからな。あ、電波系の女が萌えなら一本、いいのがあったんだけど何処やったかな。電波系の女にも色々あってだな、それで」
更に話し出しそうな勢いの岡田に、俺はすっかり参っていた。
……おーい、谷口、そろそろ俺に救いの手を!
「岡田君。ゲームもいいけどさ、俺までオタクショップに誘うのは止めてくれよ」
谷口に今度、何か奢ってやらないといけないな。うん。
「え、俺一人で市内まで行くのってなんか寂しいじゃん。谷口一人暮らしだから、後で寄れるしさあ」
岡田の言うよう、谷口は市街地で一人暮らしをしている。実家暮らしの俺としてはかなり羨ましい話だ。
「僕は君みたいにオタクグッズに興味無いんだよ。オタクショップといえば、驚いたのがさ、岡田君ととある同人誌専門店に行ったときに、まだ二十歳前後かな、綺麗な女の人がある同人誌を買っていたのを見たんだけ、ど」
ここで谷口の動きが止まる。
何だ?
「……まさかね。そういう偶然は有り得ないと思ってたんだけどなあ」
「どうしたんだよ」
また自分だけで浮遊している谷口に、俺は疑問を投げかける。
「いや、まだ確信が持てないからこれは保留にしておいてくれないか」
谷口は肝心な部分をはぐらかすのが上手いと、俺は思う。
「……僕はオタクが大嫌いだ。気持ち悪い事、この上無いね」
ここで山根が吐き出す言葉は何処か重みがあった。
俺は山根のようにオタクに対して過剰な偏見は持っていないが、岡田や彼女のように、訳の分からない萌え話をされると引いてしまう部分がある訳で。
まあ、山根の育った環境や心情を察すれば彼のオタクに対する嫌悪感は否定出来ないものがあった。
「じゃ、山根にも俺のオススメ18禁ゲームを貸してやろう!」
どうしてそこでそういう発想が出て来るんだ、岡田君よ!
ああ、ほら、山根の機嫌がますます悪くなってるじゃないか。
「山根だったら何が萌えかな。うーん、吉原と違って、山根の萌えってあまり想像出来ないんだけど。やっぱりスポーツ万能少女とかかな? 明るめの子が出て来る作品なら幾つか持ってるし。必要なら、何本かセレクトして――」
あ。
ヤバイ。
谷口も岡田に見切りを付けて席を離れつつあるし。
これはそろそろ山根の範疇を超えそうか?
「――好い加減にしろよ、この***男!」
ああ。
ここからは山根の台詞は幾つか伏字になっております。そうしないと、規約に引っかかるもんで、はい。
「何が萌えだ? バカじゃないの。僕はそういう人種が一番、嫌いなんだよね。気持ち悪いし。見てよ、聞いてるだけで鳥肌が立ってるよ。そもそも、二次元の女を脱がせて***や***をやってまで自分が優越感に浸りたい訳? 二次元としか恋愛が出来ないって、それは凄く可哀想だよね。哀れだよ、もの凄く哀れだ。僕はまだ、君達のような趣味は持ち合わせていないんだ。これからも持つ必要も無い。随分と、バカげた話を延々としてくれたもんだよ、君も、あの女も。節操というもんがないんだよね、君達にはさ」
あの女、というのは恐らくはバスの中で会ったあの人の事だろう。
山根はあのヒトの事が気に入らないみたいだが、俺は俺であのヒトの事が気に入っている。その自覚はあった。
山根は尚も執拗に岡田を責め続けた。ここでは恐れ多くて書けない台詞も幾つか吐き出している訳で、それは授業が始まるまで続き、これには流石の岡田も山根には相当参っていた。
「流石にあれには懲りたみたいだね」
一日の授業が終わった後でも、岡田は席に伏せっていた。いつもなら放課後になると部活に入っていない、帰宅部の岡田は漸く帰れると、嬉々として教室を出て行くのだが、今日はそれが無い。今の谷口の台詞が岡田の状況全てを物語っているように思う。
「山根は朝から不機嫌だったからな。それを刺激した岡田も悪いけどな」
「まあね。怖いもの知らずな所があるからね、裕司はさ」
「どうする」
「僕が一応裕司に声をかけて、バス停まで引っ張って行くよ。君はこれから柔道部だろ」
谷口も岡田と同様、帰宅部だったりする。
「山根君は」
「……まあ、放っておいた方がいいと思う。間島先輩と一緒なら、岡田のような被害は出ないと思うし」
ああいう状態の時の山根を更に刺激するのは良くない。どうせ、翌朝になればいつもの山根に戻っているだろう。今までもそうだった。
「そうかな。吉原君がそうだから、山根君も間島先輩の所に居るんじゃない?」
「え?」
何を言っているんだ、谷口は。
俺は谷口が言っている意味がさっぱり分からなかった。
「もう少し、山根君を見てあげた方がいいよ、吉原君」
「……」
これ以上山根の何を見ろと言うんだ。
「まあ、明日の朝、また君があのヒトを助けるかと思うと、山根君がまたどう出るかが見物なんだけどね」
あ、そういえば。
「……谷口、山根から何か頼まれなかったか?」
「何を?」
「何も頼まれていなかったら、別にいいんだよ。とりあえず、俺は柔道部へ行くわ」
峰主将は時間にうるさい人だからな。
「そう。それじゃあ、また明日」
俺はここで谷口と別れた。
そして俺は柔道をしている間は山根やあのヒトの事は一度、白紙に戻すのだった。
柔道に専念しているうちは、いい意味で、現実逃避が出来る。多分、岡田のゲーム好きと変わらないだろう。
そうしているうちに今日が終わって行く。
明日は、山根が学校新聞へ載せる為に、俺とあのヒトとのツーショットを撮って貰えるのだ。
俺は寝る時に、これがきっかけとなって、あのヒトとの関係が少しでも進展してくれないかな、と少しだけ明日に期待を抱いていた。そのせいか、今夜は興奮してしまい、ぐっすりと眠れそうに無かった。