03:晴れ、後、曇り

 色んなヒトが居るもんだなと、俺は思った。俺もその中の一人かもしれない。

 朝。
 俺は家を出た途端、全力疾走で阿坂病院へ向かっていた。
 ヤバイ。
 俺はここでお約束の、食パンを口に入れたまま走ってみようとも思ったが、食パンを焼いている暇も無かったのでそれもお預けである。
 朝っぱらから全力疾走する羽目になったその理由、それは。
 寝坊してしまったからである。
 腕時計のデジタルは午前七時二十七分を表示している。このまま突っ走れば阿坂病院前のバス停まで、間に合わない事も無い。
 たとえ乗り遅れたとして、次の五十分発に乗っても、充分始業時間には間に合う。
 それでもここはやはり、三十五分発の成宮高校行きに乗らなければ、俺の面目は丸潰れである事は分かっていた。
 そう、三十五分発だと、あのヒトが乗って来るからだ。
 そして、山根と間島先輩との約束も忘れてはいなかった。
 どうして、こんな日に限って寝坊してしまったのだろうか。
 ヤバイ。
 間に合うか。

「――吉原君じゃないの」

「え」
 声をかけられ、反射的に振り返ってしまった。
 見れば、そこには中学校が一緒だった有坂可南子が居るではないか。
 俺は中学校は近所にあった学校に通っていて、そこは男子校ではなく、当然のように共学だった。
 俺が成宮に行ったのは、柔道絡みである。柔道の大会でこの辺では名を馳せていた成宮高校に、俺は進学を決めた。単純な理由だ。
 有坂可南子とは中学時代、どういう因果か、三年間、同じクラスだった。俺が柔道部で練習をしていると、それを応援しながら見ていた一人だったようにも思う。一応、断っておくが有坂含め、他の女は俺目当てで応援していた訳ではない、多分。大会にも来てくれたが、高校に入ってからはさっぱり、連絡が途絶えていた。
 中学を卒業して以来だ。朝、有坂と顔を合わせるのは。
 有坂の細身の身体に肩まで伸びた髪は年月を感じさせる。中学時代の彼女は髪を、うっとうしいからの理由で、短く切り揃えていたのを思い出す。目は大きく、クラスの中でも可愛い方で、明るく気さくな性格から、男でも女からでも人気があった。
「久し振りね」
「あ、ああ、久し振り」
 ここで暢気に立ち話をしている暇は無いのだが。
「吉原君、阿坂病院から、乗ってるでしょ」
「……何で知ってるんだ?」
「私、あの後出る緑原行きのバスに乗ってるのよ。成宮高校行きだと、あんた達で満員になるのが目に見えてるからね」
 成る程。
 俺があの時間帯のバスに乗っていて、有坂がその後に出る緑原行きに乗っているのだとすれば、道理で顔を合わせない筈だ。
 どういう訳か、俺達は連れ立って阿坂病院前に設けられた停留所へ向かっている。
「有坂は緑原高校だっけ?」
「そう。あんたの所とは違って、共学よ。羨ましいでしょ」
 ……俺は別に成宮高校を、そういう風に思った事は一度も無かった。いやだって、自分で決めて入った高校な訳だし。その頃から、男子校である事は分かり切っている。
 ただ、成宮に通っている大半の男達は共学の方がいい、と嘆いているようだった。岡田もその一人である。
「でも、今の時間で吉原君に会うとは思わなかったわ。いつも、正確にあの時間に乗ってるでしょ。今日はどうしたの」
 もう、今から走っても三十五分発のバスに乗るには絶望的だった。
 有坂のせいでバスに乗り遅れたのだと、言える筈も無く。
「寝坊してね。今日に限って」
 乾いた笑いで応じる俺に、有坂は頷く。
「珍しい。雨が降らなければいいけど」
 雨か。
 仰げば俺の曇った心とは裏腹に、空は全くの晴天で、雨等降る気配が無かった。
 ここで雨でも降ってくれれば、気分的にも高揚しただろうと思うと、実に惜しい。
「ねえ、男子校ってどんな感じ? やっぱり、男同士でくっつく子とか居るの?」
 ……何を言い出すんだ、いきなり。
 呆れる俺と違って、有坂は興味津々で居る。
 俺はそういう話を幾つか耳にした事はあるが、実際にその現場を目撃した訳でもないので、安易に言い触らす事は出来ない。
 ここは真面目に答えないといけない気がした。
「俺はそんな話、聞いた事無いけど」
「えー。そうなの? 同じ高校に居る男友達がさ、市内で女の子をナンパしようとして、声をかけたら男の子だったんだって。見た目、本当女の子っぽいらしいのよ」
 ……。
 何処かで聞いた話のような。
「で、聞いたらその子、成宮に通ってるんだって。女の子が男の振りしてるんじゃないかって、友達が疑いの目を向けていたら、学生証を見せてくれたらしいのよ。成宮高校ってあったから、それで男だって分かって」
「……その子、そいつらを凄い勢いで罵倒しなかったか」
「よく知ってるわね。そう、何か知らないけど街中で凄い暴言吐かれたって、その友達がげんなりしてたわ。まあ、その子にしてみれば、女に間違われた事に憤っても可笑しくは無いけど」
 ……ますます、何処かで聞いたような話だなあ。
「話聞いてるとさ、凄い美少女だったらしいのよね。美少年ならぬ美少女風だって。それでいて男でしょ。そんなに可愛い子だったら、幾ら男子校でその子が男だと知っていても、同じ男が放っておくとは思えないのよね。吉原君、その子について何か知らない?」
 知ってるも何も、もの凄く心当たりがあるんですが。
 俺はしかし、新たな火種を生みたくないが為に、思い切り首を横に振っていた。
「え、知らないの。残念。会ってみたかったんだけどな。でも、成宮にもそういう子って居るんだね。居たら居たで、同性愛の標的になりそうで面白いんだけどなあ」
 ……ここに山根が居なくて良かったと、心底思った。
 ああ、なんか頭が痛くなって来た。
「……どうして女って、そういう話が好きな訳?」
 これは前から疑問に思っていた事だ。中学時代、クラスの女がそういう事について、笑いながら話していたのを傍で聞いていた事があってからだ。因みに、そこには有坂の姿は無かった。
「さあ、自分の知らない世界だからじゃない? 私からしてみれば、そういう話に興味が有るだけかな」
「それでもあまり、そういう事を公言しない方が身の為だと思うけど」
 山根の為にも、有坂の為にも。
「うん。私は多分、吉原君だからこういう話をしてるんだと思うよ」
 え。
 有坂の動きが止まったので、俺もつられて動くのを止める。
 今のは一体どういう意味だろうか、考えていると阿坂病院前の停留所には緑原行きのバスが到着していた。
「ごめん。今のは、あまり深く考えなくていいから」
「ああ、深い意味じゃ無いってのは分かってるから、大丈夫」
 ……一体、何が大丈夫なんだか、自分で言っていて、その意味がよく分からなかった。
「それじゃ」
 有坂は手を振って俺に別れを告げた。
 緑原行きのバスは有坂を乗せて、無常にも俺の前を通り過ぎて行く。
「……吉原君?」
 今度は誰だ、と思って振り返ればそこには間島先輩が居た。
 え。
 間島先輩?
「どうしたんですか、こんな所で」
 俺は思ってもみなかった間島先輩の登場に、心底驚いていた。
「……ちょっと、所要で阿坂病院に立ち寄ってたんだよ。この辺で、立派な総合病院があるのは阿坂くらいだからね。市内にある総合病院まで行くには骨が折れるし」
 笑う間島先輩だったが、俺は笑える心境では無かった。
 間島先輩の言うよう、この辺で立派な総合病院は阿坂病院くらいなものだ。以外だと個人が運営している小さな病院が点在しているだけで、間島先輩が住んでいる田原区では、阿坂病院以上の設備が揃った病院を探すとなると、市内まで出なくてはいけなかった。わざわざ市内に出て通院するよりは、まだ阿坂病院を選んだ方がいい。
 それは分かるが、間島先輩がどういう訳で阿坂病院に用事があったのか、俺には皆目見当が付かなかった。
 見た目だけでは、間島先輩がケガを負っているのは分からなかったせいもある。
「あ、俺が何か具合悪くて阿坂病院に行ってると思ってるだろ。違うよ。そう、友達のお見舞いでね」
 ……そう言う間島先輩の表情が固いのは気のせいだろうか。
 それでも俺は、ここで納得した表情を間島先輩に見せる。
「そうなんですか」
「山根君には内緒にしておいてくれる? 彼にはあまり、心配をかけたくないし」
「分かりました」
「でも、君がこの時間のバスに乗るって事は――、山根君に託したのは失敗だったかな」
 あ。
 そうだ、今日は俺とあのヒトとの写真を山根が収める事になっていたのを、今になって思い出した。
「す、すみません! 今日に限って寝坊してしまって」
「俺は別にいいんだけどさ、まあ、今日の山根君の機嫌が良くない事は決定的だから、君も覚悟しておいた方がいいかもね」
 ……恐ろしい事をさらりと笑顔で言わないでくださいよ、間島先輩。
 それでも、間島先輩の予言は大体当たっていると思われるので、俺は覚悟を決めて間島先輩と一緒に阿坂病院前から午前七時五十分発の成宮高校行きに乗り込んだ。
「まだ、この時間だと空いてるね」
「そうですね。時間帯もあるんでしょう」
「後ろの方、席空いてるよ」
 俺は間島先輩に促されて、一番後ろの席へと向かう。
 どういう訳か、俺は一番後ろの席で間島先輩と一緒になって座っている。
 ……なんか、変な気分だ。
「さっきの人、吉原君の彼女?」
「え」
「ほら、バス停の直ぐ近くで女の子と何か話しながら歩いてたじゃない」
 うわあああ。
 見られてたよ! よりにもよって間島先輩に!
 最悪だ。
「彼女なんてとんでもない。近所に住んでる子で、中学校が一緒だったんですよ」
「へえ。そういえば、君は阿坂から乗ってるんだよね、いつも。山根君は始発から乗ってるんだろ?」
「そうですね。俺が阿坂から乗ると直ぐに満席になってるんで、後ろの方で席に座っている山根を探しに行くんですよ」
「山根君は君と、どうやって知り合ったの」
「……聞かないで下さい。その話は俺のトラウマになるんで」
 あれほど恐ろしい話を、間島先輩にするべきでは無い、と俺は一人で判断する。うっかり間島先輩にあの日の事を話した日には、山根からどういう鉄槌を受けるかわからんし。
「吉原君と山根君って傍から見ると凸凹じゃない。そんな二人に何があって、どうやって仲良くなったのか、ちょっと興味あったんだけど。そうか、残念だな」
 俺の方は、どうして山根が間島先輩にあれだけ懐いているのか、知りたかったんですけどね。
「ん、俺達の場合は俺が最初に山根君を、女の子扱いしなかったのが、大きいかな」
 あ。
 また声に出してたみたいだわ、俺。
「山根を見て女の子だって言わなかったんですか」
「そう。だってさ、成宮が共学になった訳でもないのに、女の子が居るのは変じゃない?おまけに、制服着てたしね。勘違いする方がどうかしている」
 やっぱり、間島先輩は凄い人だと、改めて実感する。
「何だかんだ言って山根君が書く記事は面白いって、評判なんだよ。皆、ネタだって分かって読んでるからね」
「間島先輩は、山根の虚言癖の話は……」
「知ってるよ。知ってて、利用した部分はあるけど――、多分、山根君には俺の浅はかな考え等、とっくの昔にお見通しだと思うけどね」
 俺は、間島先輩が山根の虚言癖を知っていた事は薄々感付いていたが、ここまでとは更々思ってもみなかった訳で。
「……俺は、君が羨ましいよ、本当」
 俺は間島先輩の本心等、分かる筈も無かった。間島先輩は何処を見詰めて、何を思いそう言ったのか。
 今の俺には、何も分かってはいなかった。

 で。
 成宮高校前のバス停には、山根と谷口が待ち構えていた。
「……何で、始が間島先輩と一緒に居る訳?」
 しまった、間島先輩についてどう言い訳するか考えていなかった。
 しかも、山根の目がいつも以上に据わっているし、谷口がいつも以上に笑顔で居るのが余計に怖かった。
「……偶然、吉原君と乗り合わせてね。俺の方は、阿坂病院にちょっと用事があったもんだから」
「病院に? 何でまた」
「友達の見舞いだって……って、間島先輩が、ね」
 山根の質問に間島先輩ではなく、俺が軽い調子で答えたものだから、山根は思い切り俺を睨んでいる。聞いたのはテメーじゃねえんだよ、と訴えているのが凄く伝わってますよ、山根君。
「吉原君が言ってるのは本当、だよ」
 流石の間島先輩も山根の怒りの前には焦りの色が出ている。
「ふうん。ま、いいけどね。デジカメには始じゃなくて、谷口とあの人のツーショットが撮れてるから」
 え。
 俺は慌てて谷口を見る。
「うん。今日に限って吉原君が居ないからさ、僕が代理で彼女のナイト役をやってあげたんだよ」
 マジで!
 それで、谷口がいつも以上に笑顔で居た理由が分かった。
「彼女、君が居なくて相当困ってたみたいだよ。まあ、当然だよね。知り合いがあの中に居ないってのは、彼女にしてみても心細いだろうし」
 うう、谷口の言葉一つ一つが俺の胸に突き刺さる。
「間島先輩、どうするの。今日、締め切りでしょ。このまま谷口代理で出す訳?」
「ん? ああ、そうだなあ。代理のまま出すのは信頼性に欠けるから却下ね。となると、やっぱりあれを一面に出すしかないかな」
 あれ、と言うのは例のUFO写真ですか。
 ああ、俺が寝坊した事によって多方面に迷惑をかけてしまうとは。
「何を一面に出すの?」
 傍で聞いていた谷口が興味本位で山根に尋ねるが、先に答えたのは間島先輩であった。
「見てのお楽しみ、だよ。あれ使うなら早く行って記事を仕上げないと」
「そうね」
 間島先輩に頷くのは山根である。
「じゃ、そういう訳だから、今日は一日、山根君を借りるよ」
 ……俺に言われても、と思ったが俺はこれ以上、山根の反感を買いたくはない為に、間島先輩に頷いておいた。
「行こうか」
「はい」
 間島先輩が自然に山根の手を取る。山根の方もそれに抵抗せずに、自然に間島先輩の手を取り合う。
 それはまるで。
「……恋人みたいじゃない、あの二人」
 俺の気持ちを代弁したのは、傍で俺と同じように見ていた谷口である。
 恋人。
 男同士でそれは有り得ないだろう、と頭の中では思いつつも、今朝、有坂と話していた言葉が過ぎる。

 ――あんなに可愛い子なら、幾ら男子校でその子が男だと知っていても、同じ男が放っておくとは、思えないのよね。

 いやしかし、間島先輩に限ってそんな事はある筈が無いと思うし、あったとしても、山根の方からそういう関係を持つ事は願い下げだと、そう、いつものように冷たく言い放っていてくれる事を、俺は信じたかった。
 そう、信じていたかった。
 そんな俺に追い討ちをかけるのは、やはり谷口で。
「僕、見たんだよね」
 谷口の言葉を受けて何を、と言い掛けて寸前でその言葉を飲み込んだのは。
 俺はここで、谷口の言う事は聞きたく無かったからだ。耳を塞いでいたかった。
 だから俺は。
「悪い。峰主将に用事があったんだ。ここで谷口の話を聞いている訳にはいかないんだよね」
「……ふうん。そう。それじゃ、僕は一足先に教室へ戻ってるよ」
「……ああ」
 谷口のその目は、俺の内側まで見透かしているようで、居心地が悪かった。
 最悪としか、言い様が無く。
 今日は、寝坊した俺も悪いが、それを取り巻く環境も悪かった。
 俺は逃げるように谷口から別れた。

「……で、何の用も無いのに俺の所へ来たのか、君は」
 呆れるように言うのは峰主将である。
 俺は二年の教室に居た峰主将を無理に呼び出し、問答無用で屋上まで引っ張って行った訳で。峰主将が呆れるのも、無理は無いと思う。
 俺はここで間島先輩と山根について、峰主将に話していた。
 峰主将は地べたにあぐらをかいている。俺はフェンスにもたれかかり、峰主将の話を聞いていた。
「あの間島君も、山根君を気に入っているようだし、そういう事があっても俺はおかしくは無いと思うけどね」
 峰主将が坊主にしている頭を、ぼりぼりとかいている。
 峰主将はいかにも何か格闘技をやっているような風貌をしている。坊主頭で、ガタイのいい男であり、全体的に濃いのが峰主将であった。細い間島先輩と正反対である。
「でも、俺は信じたくはないんですよ」
「それじゃ、それでいいんじゃないの」
 え。
「君がその話を信じたくなければ信じなければいいし、逆に信じようと思えば信じればいい。それは、吉原の自由だよ」
「……」
「そう、君が他人の事で思い悩んでいても始まらないよ。気になるなら、山根君に直接聞けばいい話じゃないか。吉原が山根君に直接聞くのがあれだったら、俺から間島君にそれとなく聞いてみるけど? それで吉原の気が晴れるならね」
 そうだ。
 峰主将の言うよう、気になるなら本人に直接聞けばいい話である。
 俺が押し黙っていると、急に峰主将が立ち上がった。
「――今までの君の話を聞いてると、吉原はその、谷口君とやらに踊らされてるような気がするんだけど」
 谷口か。
 思えば、俺は谷口の指摘を受けて間島先輩と山根の関係を疑い出した訳で。
 確かに、谷口に言われなければ二人の関係性等、気にも留めなかっただろう。
「谷口は二人について、何か知ってるみたいなんですよ」
「じゃあ、谷口君は二人について、何か決定的なものを目撃したのかもね。そうでなければ、ただ単に雰囲気で言ってるだけだとか」
「雰囲気でだけですか」
「女の子にさ、そういう話が好きな子って居るでしょ。実際はそんな関係じゃないのに、
二人一緒な所を見ただけでそうだって、思い込んで過剰反応する子がさ」
 ……有坂みたいなものだろうか。
「それが、女の子特有な感情だって、思い込んでるけど、たまに男でも、そういう風に見ている子も居るみたいよ。俺には到底、理解出来んが」
 俺にも理解出来ない世界です、それは。
「谷口君が、二人について何かその、決定的なものを目撃して言ってるならまだいいけど、さっき言ったような、雰囲気だけでものを言っている場合が、一番、タチが悪いと、俺は思う」
 成る程。
「……その可能性も、無くは無いですけど」
「うん。だからさ、まずは君がどうしたいのかを決めないとね。山根君を信じるか、谷口君を信じるか。それか二人について、素知らぬ振りを通すか。三択に一つの選択肢がある訳だ。それを君が自由に選ぶ事が出来る。結果については、それは自己責任になるけどね」
 山根を信じるか、それとも谷口を信じるか。
 あるいは素知らぬ振りを通すか。
 選べるのは、三つに一つ。
 さあ、どうする。
 ……どうすればいいんだ。
 頭を抱えていると、峰主将が俺を見ながら言った。
「吉原は少し、他人に気を遣い過ぎだと思うんだよね。少しは息抜きが必要だな」
「息抜き……ですか」
「そう、例えば――、彼女を作るとかね」
 か、彼女!
 峰主将の口から、そんな単語が発せられるとは思ってもみなかった俺は、素直に驚いてしまった。
 そのせいで、峰主将に睨まれてしまった。
 ……気をつけないと、本気の峰主将は山根より手に負えなくなるらしい、とは間島先輩の談である。危ない、危ない。
「……聞けば、バスの中で女性を助けたそうじゃないか。一度ならず二度も」
 あ、峰主将にもその話が伝わってましたか。
 因みに峰主将は間島先輩と同じく、田原区在住で、徒歩通学だ。学校から十分ともかからない距離に家があるそうだ。間島先輩と家が近いらしい。
「そういう出会いから、愛が生まれる時もあるからな」
 峰主将の口から愛が……。
 いや、笑っちゃいけない、ここは堪えなければ。
「……峰主将、実は、今朝に限って寝坊してしまいましてね」
「どういう意味だ?」
 俺は今朝に限って寝坊をしてしまい、彼女が乗って来るであろうバスに乗り込めなかった事を、峰主将に話した。
 そしてそれを聞いた峰主将が簡潔に一言。
「――最悪だな」
 そうです、最悪な展開ですよ、ははは。
「その女性と連絡の取りようが無いんだろ?」
「まだ、知り合ったばかりですから」
「まあ、明日もそのヒトが乗って来るかどうかは、賭けだな」
「……そうですねえ」
 屋上に吹き込む北風が、俺と峰主将の体を刺激する。
「寒いな。そろそろ戻るか」
「そうですね」
 俺と峰主将はそれぞれの教室へ戻って行った。
 俺が教室に戻る頃には始業時間までギリギリだったので、谷口と話をする機会には恵まれず、少なからず安堵していた。


 俺は今日一日、山根や谷口を避けて過ごしていた。
 同じクラスなので休憩時間になると、屋上まで行き、そこで一人で過ごしていた訳である。今の時期、屋上は寒いので一部の孤高な人間しか近付かないので、非難先にはうってつけであった。
 山根は記事を書くのが忙しいようで、俺に気にする事なく間島先輩と過ごしているようだった。谷口の方も岡田の相手に忙しいようで、俺に構う事なくいつもと変わらず教室の中で過ごしている。
 放課後になっても、俺は屋上で地べたに座り、フェンスに体を預け、空を眺めていた。
 相変わらずの、青い空。遠く、西の方から暮れ始めているのが分かる。
 冬なので、暮れるのも早い。
 ……なんか、誰からも相手にされないと寂しいもんがあるんですけど。
 いや、自分から避けてるんで贅沢は言ってられないわな。
 そろそろ、柔道部に行かないといけない訳で。
 ――どうしようか。
 サボリたい気分もあって、俺は中々立ち上がれずにいた。
「吉原! こんな所に居た!」
 キーン、と耳に響く大きい声。
 それは、岡田のものである、と直ぐに分かった。岡田も居れば谷口も居るのではないか、と警戒するも、そこに谷口の姿は無かった。
「何やってんの。随分探してたんだぜ」
 岡田がいつもと変わらず、無邪気な笑顔で近付いて来る。
「俺は一人になりたいんだよ」
「何言ってんの。それよりさ、吉原にお客さん」
「客?」
 俺は岡田に促されて、立ち上がる。
「間島先輩か?」
「違うよ。学校のヒトじゃなくてさ、そのヒト、高校前のバス停に居て、最初に気付いたのは谷口だったかな。で、谷口がそのヒトをカラフルまで連れて行ったんだよね」
 高校前のバス停で、学校の外での知り合いというと。
 有坂か?
 いや、有坂がわざわざここまで来るとは思えないし。
 その前に、谷口が有坂を知っている訳が無いし。
 それらを否定して、俺が知っていて、谷口も知っている外部の人間といえば、今の所、二人くらいしか見当が付かなかった。
 ……まさか、という思いが俺の中にある訳で。
 いやでも、そのヒトがここまで来るとは、有坂と同じ理由で考え難かった。
 まさか、あのヒトではなく、あの子の可能性もある訳で。
 ……。
 もし「彼女」ではなく、あの子だったら、最悪だと思った。
「岡田、そのヒトはどんな感じのヒトだったか?」
「どんなヒトって?」
「女か、男か。俺達より年が上か、とかあるだろ」
「あー、女だよ。しかも美人で俺らよりは年上っぽかった。吉原もスミに置けないよね。柔道ばっかでそんな浮いた話、吉原には絶対無いって思ってたのにさ」
 ……それはどうも。
 しかし、今の岡田の話であのヒトである事は、ほぼ確定か?
 もう一人の「彼女」が岡田より年上に見える筈、無いし。

「お、あそこ。あそこに谷口とそのヒトが待ってるよ」
 岡田に案内されて行き着いた先は、学校のすぐ傍にある喫茶店「カラフル」であった。カラフルは成宮の生徒御用達である。放課後にバスの待ち時間や部活の帰りに立ち寄って行く成宮の生徒は、多い。俺もその中の一人であった。
「いらっしゃいませ」
 扉を開ければ笑顔の素敵なお姉さんが出迎えてくれるのも、成宮の生徒の心をくすぐる。俺も何回か山根や柔道部の仲間達とこの店を利用している。彼女狙いでカラフルに通う成宮の生徒は少なくない。しかし聞けば、お姉さんは成宮の卒業生と結婚していると、これまた幸せそうな笑顔で言った。その話を聞いた時の峰主将の顔は未だに忘れられない。
「谷口」
 岡田が谷口の方へ駆け寄る。
 一番奥の席に、谷口と「彼女」は座っていた。
 思った通り、「彼女」は俺が予想していた、バスの中で会ったあのヒトそのもので、俺の心音が高鳴る。
「吉原君」
 俺を見て、笑顔を振りまくのはそのヒトで。
 うわあ。
 ヤバイ。
「じゃ、僕達はここで失礼するよ」
 谷口が席を立ち上がる。
「何で。俺、吉原達とここのサンドイッチ食べて行こうと思ってたんだけど」
「駄目だよ。こういう時は二人っきりにしておいた方がいいだろ」
 渋る岡田をたしなめる谷口。
 うう。
 谷口には本当、世話になりっぱなしだなあ。
「それじゃ、そういう事だから。裕司も行くよ」
「ええ~……。吉原、明日おごれよー」
 岡田の最後の言葉を耳にしつつ、俺は少し緊張した面持ちで彼女の向かいに座った。
 彼女の前にはコーヒーが置かれている。
「ふふ、バスの中以外で吉原君と話すのって、初めてじゃない?なんか緊張する」
「あ、あの、すみません、今朝は寝坊してしまって……」
 俺は恐縮してしまって彼女に平謝りする。
 その間にお姉さんが俺にコーヒーを運んで来て、俺の前に置いた。俺はコーヒーを頼んだ覚えは無かったので、お姉さんにその旨を伝えると。
「谷口君から、吉原君の分も必要だろうからって、先に注文があったんだけど。どうする?」
 谷口の仕業か。
 あいつには世話になりっぱなしなので、断る訳にもいかず、そのままコーヒーをお姉さんから受け取った。
「……ごゆっくりどうぞ」
 お姉さんはちらり、と俺の前に居る彼女を見たあと、俺達から遠ざかって行く。
 俺がぼんやりお姉さんを見送っていると、彼女の方からいつもの勢いで一気にまくし立ててきた。

「私、今朝は吉原君の姿が見えないから、どうしようかって思ってたの。吉原君が居ないと山根君も冷たいし。でも、そんな私の前に現れたのが谷口君だったのね。谷口君っていいヒトよね。吉原君が居ない理由もずばり、当てたしね。それでもやっぱり、私には吉原君が必要だと思ったわ。今朝の出来事で本当、痛感したの。吉原君じゃないと道が作れないっていうか、谷口君のような細い子だと、私と一緒に潰れてしまいそうになって、その間、私、不安でたまらなかったのよ。その点、吉原君だとあっさりと道が出来るし、皆も一目置いてるみたいだから、スムーズに行くのよね。安心して、吉原君と一緒に居られるんだわ」

 ………。
 ええと、俺はここで喜んでいいものかどうか、迷った。
 いや、ここは、素直に喜んでいいんだろう。目の前に居る彼女から誉められるとは、思ってもみなかった訳で。
 ――谷口には悪い気がしたけど。
 尚も彼女は俺に構わず話し続ける。

「ね、吉原君って何かスポーツやってるでしょ。その風体だと、格闘技とか。んん、でも、ボクシングって柄じゃないよね。吉原君の性格からして、しているとは思えないし。格闘技ってさ、見てると恐くない、あれ。いつ、死ぬかも分からないようなスポーツでしょ。やっている人の気が知れないって言うか。でも、格闘技やってる人の筋力って凄いよね。私、こんなんだからさ、筋肉ある人に憧れるのよね。あー、でも、筋肉丸出しの人は勘弁してもらいたいかな。ムキムキでも、服に隠れて見えない人って居るじゃない。一見しただけでは筋力あるように見えない人。そういう人が好きなのね、私。……って、ああ、ごめんなさい。呆れたでしょ、私一人で暴走しちゃって」

 ここでようやく、彼女が一息吐いて、俺に話が振られた。
「……いいですよ。俺も、あなたの話は好きですから」
 笑顔で応じる俺に、彼女も笑って置かれていたコーヒーを手に取り、口へ持って行く。コーヒーを飲んで喉を潤したのだろう、彼女はまた暴走し始めるかと思えば、しおらしく静かにゆっくりとした口調で話し始めた。
「……優しいね、吉原君って。私の話、そうやって静かに聞いてくれる人、私の周りには中々居ないのよね。皆、話の途中で呆れて帰っちゃうか、残っていてくれても、全然聞いてくれなかったりする人が殆どなの。まあ、こうやって長く話す私も悪いんだけど。それでも、静かに聞いてくれた人、吉原君入れて二人目かな。うん。確かに、二人目なんだけど、その人を数に入れてもいいかどうか、不明だわ。だってその人、存在していいかどうか分からない人だから」
 ……。
 ええと、俺は今の彼女の話にどう、反応を返せばいいか、見当が付かなかった。
 その人を数に入れていいかどうか、不明って。
 あ、彼女なりの言葉遊びで『人間』じゃないとか?動物で、犬とか猫とかなら、有り得そうだと思った。いやでも一歩間違えれば、俺は彼女から軽蔑されるかもしれない、が、それでも聞かずにはいられなかった。
「……あ、あの、その『人』って言うのは、猫や犬とかの動物ですかね?」
 恐る恐る彼女に尋ねる俺。
「『人』だよ。何言ってるの。私、最初から『人』だって言ってたよね。ん~、吉原君には説明無しじゃ、難しいかもね。私も最初、あの人については信じられなかったから。自分の存在にも今では信じられないの。自分がどうしてここに居るのか、何でここに存在するのか、吉原君、そんな風に考えた事、無い? 私は一度ならず何度かあるけどね」
「……一度くらいは、ありますけど」
「でしょ。それで、その答えは見付かった? 普通は見付からないよね。私がどうしてここに居るのか、誰も答えてくれないしさ。ここまで来ると哲学でも勉強しなくちゃ、分からないじゃない。哲学って、小難しい事言ってるように思うけど、結局は同じような事言ってると、個人的に思うのよね。辿り着く先は皆同じなの。生きていれば、いつか必ず死を迎えるもの、それと一緒」
 分かるような、分からないような。
 それでも俺は彼女の話を聞いていたいと、思ったけどその前に聞いておかなければいけない事があった。聞くには彼女の勢いが沈静化した時がチャンスだ、と思っていたので、今しか無い。
「……一つ、いいですか」
「何」
「あの、あなたはどうしてここに居るんですか。さっきの哲学的な質問ではなくて、ここは緑原より以降の区域だし、田原に用事があってそのついでで、来たようには思えないんですよ」
「あ、私、それについて何も話してなかった? ごめんね。話が長いわりに、肝心な部分はいつも欠けてるって、千夏ちゃんにも注意されたばかりだったのを思い出したわ。千夏ちゃんって、凄いのよ。私の友達なんだけど、美人さんで仕事も男顔負けでバリバリこなしてる。おまけに話す事も簡潔だしね。ことわざであるでしょ……ええと、そうだ、一を聞いて十を知るような子なのね、千夏ちゃんって。凄いよね。私にはとうてい、出来ないような芸をやってのけるのよ」
 ……また、話が逸れてますよ、お嬢さん。しかも勢いが復活してるし。
「ごめん。また、話が逸れたみたいだわ。あ、私がどうしてここに居るのか、って質問だったよね」
 彼女に頷く俺。
 そして彼女は息を吐いてとびきりの笑顔で、こう、悪びれもせずに言ってのけたのだった。

「決まってる。吉原君に会いに来たのよ」