04:月と闇の世界

 決まってる。吉原君に会いに来たのよ。そう、笑顔で言う彼女に俺は。

「……俺に、ですか」

「そうよ。だって、朝、吉原君に会えなかったからね。谷口君に吉原君は、って尋ねると多分、興奮して眠れなかったんじゃないかって笑ってたよ。吉原君でも興奮して眠れない時があるんだね。私もしょっちゅう、眠れない日があるけど、なんとか頑張ってあの時間のバスに乗るようにしてたのよ。そういう命令があったから、仕方なくなんだけど。でも、吉原君に会えたから、これが楽しみの一つになってるんで、これはこれで良かったかなって思ってるの、不思議と。早い時間から活動するのは健康的だって言うしね。それから、毎回会ってた人に会えないと、私の方から会いに行く癖みたいなんがあるらしいって、千夏ちゃんからも言われてたのよね。多分、その癖で吉原君に会いにここまで来たんだと思うの。だって私、吉原君の事が好きだから」

 ……。
 谷口のヤツ、彼女にそんな事を吹いていたのか。
 道理で朝、バス停で会った谷口は何処かタチの悪い笑みを含んでいた訳だ。
 いや、実際、写真を撮られると言う事で、興奮して眠れなかった訳だけど。
 ああ、でも、それを帳消しにしてやってもいいくらい、今の俺は機嫌はすこぶる良かった。朝の事なんか忘れてしまうくらいの勢いで。

 ――だって私、吉原君の事が好きだから。

 彼女の最後の文句が、俺をここまで有頂天にさせていた。
 が。
「うん。それで、谷口君に言われたのよ。不束者ですが、吉原君をお願いしますって。あの子、いい子ね。私、気に入っちゃった。今度は朝、あのバスで三人一緒になっててくれないかな。それは無理な注文だったらいいんだけど。三人って、吉原君と谷口君と山根君ね。山根君も可愛いから好きなのよ。性格も可愛くていいよね、山根君って。あの容姿なら、山根君、モテまくりじゃない? 女の私からみても羨ましいわ」
 ……。
 これはいわゆる「皆、大好き」と言うヤツですか?
 好きな女から見事に一言、「好き」だって言われて舞い上がる男を余所に、女の方は自分が好きな食べ物と大して変わらない感情で「好き」だって言っていたという、少女漫画によくありがちな展開ですか?
 女のその一言でぬか喜びした男を、最後には地獄の底まで突き落とすという、最強の落ちだと、俺は涙する。――心の中で。
「そういえば、今日は山根君の姿が見えないけど、どうしたの」
 ……彼女に多くは望みません。
 俺は今日、その事を心に刻み込んだ。
「山根は新聞部の活動が大詰めを迎えているので、多分、今日は遅くなるんじゃないですか」

「山根君、新聞部なんだ。だから朝、デジカメ持ってたのね。乗り合わせた時にデジカメいじってたから、何なんだろうって思ってたの。聞いても素直に答えてくれそうにないじゃない、山根君って。山根君は吉原君なら何でも答えてくれそうな気がするけど。あ、そうそう、さっきの答え、まだ聞いて無かったわ。吉原君は何の部活に入ってるの? 文科系じゃないよね、多分。その年にしては身体が大きい方だから、スポーツ関係である事は間違いないでしょ。当たってる? その顔は当たってるって顔だよね、うん。ああ、でも、サッカーとか野球とかじゃなさそう。日焼けしてないし。外ではなくて、室内でやるヤツじゃない? それだったら、剣道とか空手かな。それとも柔道?」

「あ、それ当たりです。俺、柔道部なんですよ」
「そうなんだ。柔道って言えばオリンピックだよね。ヤワラちゃんだよね。私、あのマンガ好きだったの。小さな女の子が、次々と自分以上の身丈はある、男達を投げ飛ばして行くのが、けっさくだったわ。私なんか、あのマンガの影響受けて、こんなんでも柔道ならもしかして男達をあっと言わせる事が出来るんじゃないかって、子供の頃に――……」
 ここで彼女の動きが止まった。
 彼女は何を思ったのか、俯いて顔を手で覆っている。
「子供の、頃に――」
「どうか、したんですか」
 俺は心配になって身を乗り出して、彼女の顔を覗き込む。
「……あの」
 返事が無い。
 ……どうしたんだろう、一体。彼女の身に何が起きたのか。
「今、知ったんだけど」
 ようやく声が出た彼女が顔を上げる。
 顔を上げた事で、彼女と俺の距離が近くなっている。俺は慌てて席に座りなおした。
「私、どういう訳か、子供の頃の記憶が飛んでるみたいなの」
 はい?

「うん。話の内容からして、さっき私、吉原君に子供の頃、ヤワラちゃんを真似て柔道を始めてみた、って言おうとしたんだけど。でも、柔道を始めた記憶も真似事だけど、やっていた記憶も無いのよ。あろう事か、ヤワラちゃんを見ていた自分の記憶も無い訳。ヤワラちゃんの話は知ってるのよ。有名な柔道漫画だって事くらい、知ってるの。でも、その映像が浮かんで来ないって言うか――、絵柄は知ってるのよ、勿論。ヤワラちゃんがどんな感じの子だったかっていうのも。それでも、私には自分がそのマンガを読んでいた記憶も、アニメを見ていた記憶も無いのよ」

 ええと、それはつまり。
 ヤワラの内容は知っていても、それ自体を自分で見た記憶が無い、と。
「……子供の頃の記憶が曖昧な事なんか、よくある話ですよ」
 俺は彼女を安心させるよう、笑ってそう言ってみた。
「人から教わったんじゃないですか。これこれこういうマンガがあるからって感じで。だから自分で見ていた記憶が無いとか、そのせいで、自分で見た事があると思い込んでいたとか」

「……その可能性も無くもないけど、それ以外でも、私、小さい頃に両親と遊んだ記憶とか、小学校の頃の自分とか、全部飛んでるみたいなの。幾ら子供の頃の記憶が曖昧だって言っても、小学校や中学校であったイベントくらいは覚えてるもんでしょ。それも曖昧だとしても、修学旅行で何処へ行ったとか、自分が通っていた小学校の名前くらい、言えるよね。一応、私くらいの年になっても。――でも、私、それが言えないの。修学旅行で何処へ行ったのか、何処の学校に通っていたのかさえ、思い出せないのよ。これって変だよね、おかしいよね。あれ、私、どうしちゃったんだろう」

 マジですか。
 彼女からは焦りの色が出ているので、俺は彼女が嘘を吐いているようには思えなかった。
 俺は。
 俺はどうすればいいんだ。
 ここでまた笑顔で、彼女が安心するような言葉を投げかければいいのか。
 それはただ、彼女の不安を煽っているという事だけは、さっき、実証したので却下する。
 記憶が無い。それに気付いた。俺の話で。
 俺にはその事で罪悪感があり、それで今焦る彼女を放っておく事は出来ないと、思った。
 だから。
「あの、一度外に出てみませんか。そうする事で気分も良くなると思うし」

「ありがたい申し出だけど、それはちょっと遠慮してもらいたいかな、私としては」

 突然、俺達の間に割り込んで来たのは。
「千夏ちゃん」
 彼女が割り込んで来た声に反応してその人の名前を口にする。
 千夏ちゃん、この人がそうなのか、と俺は目の前に現れた人に、失礼ながらも、まじまじと見詰めてしまった。
 男のように短くした髪、濃い化粧、その中でも無駄に濃く塗っている赤い唇。胸元や腕、耳に光るはダイヤをあしらった金のアクセサリーだった。しかし、それらを嫌味なく自然に付けているのには感心する。美人である事には変わりないが、穏やかな彼女と違って、気の強そうな人である。彼女の言うよう、スーツを着こなし、まさに仕事をしている女、という雰囲気があった。モデル並の体型が一目を惹いている。
 それでか、さっきから俺達の方に視線を感じていたのは、と妙に納得してしまった。
「ふうん、あなたが吉原君? 初めまして、井川千夏です。聞いていると思うけど、この子とは仕事仲間なの」
 俺がじろじろ見ていたのに気付いていたのか、千夏さんも俺の顔を覗き込むようにしてじろじろ見ている。千夏さんは薄っすら笑みを浮かべていた。
「千夏ちゃん……」
 彼女が不安そうな眼差しで千夏さんを見上げる。
「だいじょうぶ。あんたの言いたい事は分かってるわよ。それで、私がここまで派遣されたんだから」
「でも私、どうしていいか分からなくなって、それで」
「だから、だいじょうぶよ。如月君が、なんとかしてくれる。いつだってそう。彼の力、知らない訳じゃないでしょ」
「……うん」
 ……。
 如月君、の名前が千夏さんの口から出た途端、彼女は落ち着きを取り戻したように、大人しくなった。
 それだけで、俺は。
「あの」
「……何」
 俺に応じたのは彼女ではなく、千夏さんの方である。彼女と違って、千夏さんは何か聞き辛かったが、俺は意を決して千夏さんに問いかける。
「如月君、というのは……」
「あなたが知っても、得にならないわよ。むしろ、危険だわ」
 強い調子で千夏さんに言われても、俺は何の事かさっぱりで、何に気を付けるべきなのかも、分からなかった。
「さ、もう行きましょう。あんたが無理を言うから、私が渋々外出許可を出したのに、こうなってしまっては立つ瀬が無いわね」
「……ごめん」
「謝るのは私じゃないでしょ。帰ったら、部長のお叱りが待ってるわよ。それだけは覚悟しておきなさい」
「ううう、私、あの人苦手……」
「だから言ったでしょ。自業自得よ。あ、それから」
 机の上にあった伝票を手にして、千夏さんが俺に向けて言った。
「ここの支払いは私がしておくわ。一応、私の方が社会人だし、この子のせいであなたに迷惑かけたみたいだから。だから、遠慮はしないで頂戴」
 ……ここのコーヒーは他よりは少し高いのでありがたかったけど、どうせなら俺が彼女の分まで払いたいと言いたかったが、言い返せる雰囲気でも無かったので、黙っておいた。
「あんた、とろいんだからさっさとしなさい」
「う、うん。分かってる」
 千夏さんに言われて彼女の方も焦りながらも、机の上に置いてあった鞄を取り上げる。
 ……本当に、だいじょうぶだろうか。
「あ、千夏ちゃん、ちょっと待って」
 俺から通り過ぎようとしていた彼女が振り返り、俺に向けて笑顔で、言ったのは。

「今日はありがとう。また、明日」

 ……ッ。
 今、俺にゲームではお馴染みの、HPが表示されていたら、彼女の今の一言によってゼロまで下がっている筈だ。即死状態である。
 また、明日。
 明日、また会える、その約束が彼女からあった訳で。
 魔力を持った彼女のその言葉は、俺の心は最悪だった、今日一日を洗い流すくらいの威力を持っていた。
 ああ。
 俺は彼女の為なら何だってやれる、そういう意識が生まれているのを自覚している。
 峰先輩、これが「愛」ってヤツですか。
 多分、そうに違いない。
「吉原君」
 ぼうっとしていた俺に声をかけてきてくれたのは、お店のお姉さんであった。
「今の人、凄く素敵な人ね。どっちが吉原君の彼女になるの?」
 お姉さんは少し、興奮しているように見えた。
 ……噂好きなお姉さんだからな、ここは釘を刺しておかないと。
「……今日あった事、山根や柔道部の人達には言わないでくださいよ」
「うん、分かってる。それにしても、吉原君、年上が好みだったの? 君もやるわね」
 ふふふ、と笑うお姉さん。
 岡田といい、お姉さんといい、そんなに俺はマトモに彼女が出来ない風な男に見えるのか。
「ご馳走様でした」
 俺はここに居ても仕方がないので、早々に席を立つ。
「もう行くの。山根君は?」
「……だから、今日山根は新聞部で忙しいんですってば」
 俺一人の時は、皆必ず「山根君は?」と尋ねて来る。
 俺も好い加減、それにうんざりしていた。
 彼女でさえ、山根を気にかけている。俺はそれが何処か気に入らなかった。

 店から外に出ると、外はもうすっかり暗くなっていた。
 ああ、そういえば断りも無しに、部活をサボッてしまった。明日の特訓が倍になるのは覚悟しておかなくてはいけないだろう。峰先輩はああ見えて、というか、見た通り、熱い人だからな。
 一応、成宮高校前のバス停に行ってみる。いつもの時間帯ではないので、調べてみると、次に到着する市街地行きのバスの時間までまだ間があった。
 俺は今更、喫茶店「カラフル」に戻る訳にも、かと言って学校まで戻る訳にもいかなかった。
 どうやって暇を潰そうか。
 田原は緑原と違ってコンビニくらいはあるので、俺はバスの時間が来るまでそこで暇を潰そうかと考え、住宅地の中へ入って行く。
 街灯や家の明かりがあるとはいえ、夜の住宅地は静かで自分の足音しか聞こえないとなると、中々恐ろしいものがあった。
 吐き出された白い息が寒さを物語っている。
 コンビニへ寄ったら肉まんでも買おう、そう決意して歩いていた、その時。
「こんばんわ」
「え、あ、こ、こんばんわ」
 前方から歩いて来た人と挨拶を交わす。
 俺は知らない人と挨拶する気も、習慣も無かったが、向こうから律儀にお辞儀までしてきたので、俺の方もつられてその人にお辞儀までしてしまった。
「今宵は、月が綺麗ですね」
 お辞儀をしてきた人が言う。
 その人は俺より少し、背が高い男の人だった。顔は暗がりでよく分からない。多分、声の質からして若い人だろうか、年配の人には見えなかった。
 道には俺とその人しか居なかった。多分、その人は俺に向けて言っているのだろう、俺もその人に倣って夜空を仰ぐ。
 その人の言うよう、確かに頭上には綺麗な月が輝いている。今日は満月が少し欠けた状態だった。
「惜しいな。今日みたいな晴れていて澄んでいる空の日は、緑原の山からなら、月が綺麗に臨めるんですけどね」
 その人が言う。
 穏やかなその声に、俺も思わず反応してしまった。
「俺も、緑原山から撮った月の写真を見せて貰ったんですよ。本当、月が普段見るより綺麗に撮れてましたよ」
「それは、見事な月でしたでしょう。緑原山はこの辺で月を見るには最適な穴場ですからね」
 それは、知らなかったな。
 間島先輩はその事について、知っているのだろうか。
「月に、興味がおありですか」
 その人が俺に聞いてくる。
 俺は素直に首を横に振った。
「そうですか。俺は、この年になっても月に興味がありましてね。ロマンを求めて、という訳ではないんですが……、月に関しての、一通りの知識なら備えているつもりですよ」
 俺にはその人が笑っている風に見えた。だからと言って、今の話がその人の本心から言っているのか、冗談なのかは定かではないが。
「今の状態の月の事を、居待月と言います」
 へえ。
 俺は月に限らず、天体についての話は一般的な知識しか持ち合わせていない。月に関しては普通に三日月や満月と言う名称しか知らなかった。
 だから、今の人の話には思わず感心してしまった。
「……あなたは、月が好きですか」
「え、あ、嫌いな訳ではないですけど……」
 突然のその人からの質問に、俺は戸惑う。
 その時、だった。
「それならば」
 途端に穏やかだったその人の口調が厳しいものに変わっている。

「月に酔い痴れるは神ならぬ、鬼だと言う事を……、忘れないように」

 え。
 何を言っているんだ、この人は。
「君が彼女を気に入っているという事は、君は神ではなく、鬼の術にはまりかけている。どうか、鬼の誘いに乗らぬよう、努めなさい」
 何だって?
「彼女と居れば君は間違いなく、彼女の盾となって最悪、消滅してしまうだろう」
 はい?
 俺にはその人が言っている言葉の意味が、当然、理解出来ずに居た。
 俺が彼女の盾となり、最悪、消滅する?
 意味が解らなくて当然だと、俺は思った。
 そして。
 今、気付いたが俺の足が宙に浮いている。
 辺りは街灯も家の明かりも差さない完璧な暗闇で、俺はどういう訳かその中に居た。
「何だ……?」
 今まで、住宅地にあるコンビニを目指して歩いていた筈だ。
 暗闇の中で、自分の身体が浮いた状態で居る。地面に足が付いていない事が、これほど恐いものだとは知らなかった。宇宙飛行士の苦境が今更ながらに共感出来る。
「何だ、これ……、誰か」
 気持ちが悪い。吐きそうだ。
 誰か居ないか、辺りを窺っても誰も居ない事くらい、知っている。
 恐い。冷や汗とも脂汗とも分からない嫌な汗が、俺の額から流れ落ちるのが分かる。
 これはやはり、あの人の仕業なのだろうか。
 俺はあの人の優しそうな印象を受けて、挨拶に応じてしまった。それが失敗の元か。
「……くそっ」
 畜生。
 一応、ここから抜け出す術はあるだろうが、今の所、見当が付かなかった。
 どうすればいい。
 一体、どうすればこの暗闇から抜け出せるんだ。
 光も目印も何も無い、この暗闇から。
 このままここに居れば、狂ってしまうだろう。
 一刻も早くどうにかしないと、と思うが焦りが先行して思考が追いつかない。
 こういう焦っている時、誰かの顔を思い浮かべれば少しは楽になるかもしれない、と話していたのは峰主将だっただろうか、それとも間島先輩だっただろうか。
 俺は誰でもいいから、それを実践してみようと思った。今がその時なのだと、思う。
 目を閉じる。精神統一。
 最初に脳裏に浮かんで来た顔は、やっぱり山根だった。山根か。山根の奴、今頃どうしているだろうか。間島先輩とまだ記事作ってるのかな。っていうか、今、何時だよ。ああ、腹減ったなあ。
 ……山根には悪いが、色んな雑念があって、中々俺の今ある不安を拭う、という事にはならなかった。
 次に両親、そして谷口や岡田といった、級友達の顔が浮かんでは消えていったが、冷静さを取り戻して落ち着く、という心境には至らなかった。
 そして今、脳裏に浮かんで来たのは。

「……吉原君?」

 え。
 声。
 今さっき別れたばかりの彼女の、声がした。
 空耳だろうか。
「吉原君」
「……あ」
 声のする方に顔を動かせば、信じられない事に、そこには俺が今、一番思い描いていた彼女が立っていた。
 これは幻か?
 俺がそう思うのは、彼女の身体が俺と同じように暗闇の中で浮いていて、おまけに光を帯びていたからだ。
「吉原君、君がここに居るって事は、鬼に取り込まれちゃったの?」
 たとえ俺の見ているものが幻であっても、彼女の姿、彼女の声。
 それだけで、落ち着いて冷静になれる自分が居る。
「取り込まれたって……、ここは、一体……」
「鬼に取り込まれた人達が最初に迷う場所だよ」
 鬼。
 そういえば、道端で会った人も鬼とか神とか言っていたような。
「迷った挙句、この暗闇の中、恐怖に怯えて、狂気の沙汰となり、しまいには消滅してしまう恐ろしい場所」
 ……。
 どうして彼女はそんな所に居るのか。

「私、空間使いなのよ」

 はい?
 空間使い?
 何ですか、それは一体。
 俺が首を傾げていると、彼女の方から説明があった。

「私、空間使いなの。空間使いって言うのはね、空間を自由に移動出来る力を持ってるのね。そう言っても吉原君、何の話をしているのか、解らないと思うけど。まあ、簡単に言えば鬼に取り込まれた人間を、元居た場所まで戻す役目を担っている訳。でも、私が見付けられるのは、私が知っている人か、この暗闇に屈しないという、心の強い人、ここから出てやるという意思が誰よりも強い人に限られるわね。そういう強い思いが無いと、私の所まで届かないから。私が察知する事が出来ないのよ。それ以外の人……、私の知らない人や、心の弱い人なんかは、さっき、私が言ったようにここで狂って自滅してしまうわ」

 ……俺は運が良かったんだろうか。
 彼女と一応、知り合いな訳だし。
「逆に言うと、心の弱い人程、鬼に取り込まれやすいんだけど……、まさか、吉原君が取り込まれてるとは思わなかった。吉原君、私と違って、心の方は強いから。いつも堂々としているしね」
 ……そうだろうか。
 俺は彼女が言うよう、自分は心が強い人間ではない事くらい、知っている。
 今でも山根や間島先輩の事で心が揺らいでいるのだから。
「過大評価し過ぎです。俺は……、あなたが思っている風な男ではないですよ」
「……そうかな。私、人を見る目は優れているって、千夏ちゃんからでもよく言われるの。いつも仕事では失敗ばかりで、皆からの信頼性も無いんだけど、そこだけは信頼出来るって。今回の仕事も、千夏ちゃんにそれを買われてやっている訳だしね。吉原君は、自分を責めないでもっと気楽で居た方がいいよ。うん、それが一番、吉原君らしいと、私は思ってるからね」
「……」
 峰主将と同じような事を彼女にも言われてしまった。
「さあ、こんな所から一刻も早く出たいと思ってるでしょ、吉原君は」
「あ、はい」
「うん。さっきも言ったように、私、空間使いだから出口まで吉原君を案内してあげる。私の手、何処にあるか分かる?」
 光を帯びている彼女であった為に、俺は彼女の手が何処にあるのかは分かっていた。
 まさか。
「私の手を握っていて。そうしないと、はぐれてしまうから。はぐれると、今みたいな状態から一生、抜け出せなくなるの。気をつけて」
 ……彼女と手を繋ぐ、という行為が俺の心を刺激する。
 俺は恐る恐る、彼女の小さな手を握ってみた。
 暖かい彼女の手に、俺は少なからず感動している。
「それじゃ、私に着いて来て。普通に歩ける筈だから」
 彼女の言うよう、俺は普通に暗闇の中を歩いている。さっきまでは身体が宙に浮いていた感じで、気持ち悪かったが、彼女と手を繋いだ途端、地に足が付いたように自然と歩けるようになっていた。
 暗闇の中だと言うのに、不思議な、世界だった。
 目の前にあるのは何処までも続く闇と、光を帯びた彼女の姿。
 ただ、それだけだったのに。

「……おやおや。これはこれは、珍しい組み合わせですこと」

 不意に暗闇の中から声が響いた。
 それに合わせる様に彼女の動きも止まる。
「あなたにはこの人間は関係ありません」
「でも、その人間がここに居るという事は、私の獲物でもある。邪魔しないで貰おうか」
 女の、声。
 しわがれたその声は、俺には若い女のものであるとは思えなかった。
「だから、あなたには関係無いと言っているでしょう。私が居る限りは、あなたにこの人間はやれません。お引取りください」
 のんびりとした口調ではなく、いつもと違う強い調子で言い放つ彼女に、俺は少なからず驚いている。こういう一面もあるのか、と。
「あんたの独り占めかい? それは規約違反だと思うけどね」
「私にはこの人を無事、送り届けるという権利があります。あなたは私が得た権利を知らない訳、ないでしょう」
「……神様のお許しかね。あんたもいずれ、私達と同化する運命にあると言うのに、律儀な事だ」
 神様。鬼。空間使い。道端で会った謎の男。闇の中の謎のばあさん(声だけ)。
 俺は今まで出て来た訳の分からない状況を把握しようと努めてみたが、無理だった。
 俺には解らない事だらけだ。もし、この場に山根が居れば、二人の会話に鋭いツッコミを入れていると思うと、彼が居ない事が悔やまれる。
「私達は先を急いでいます。あなたに構っている暇はありません。それでは、失礼します」
「いいのかね。私達を敵に回せば、あんたの存在は」
 尚も食い下がるばあさんに、彼女は。

「……黙れ」

 鋭い彼女のその声に、俺は一瞬、背筋が凍った。
 地の底から這い出るような、冷たいその声に俺は恐怖を覚える。
「黙れ、と言っているのです。分かりませんか。これ以上、我らを愚弄するとあなたも消える事になる。その神様の力を知らない訳じゃないでしょう」
「我ら、か。……肝に銘じておこう。あんたが神に屈する人間である事を、ね」
 最後の部分を妙に強調したばあさんの声は、これ以上、俺の耳に届く事は無かった。
「……もうすぐ、だから」
「……」
 彼女との会話はそれきりになってしまい、暗闇から抜け出るまで、俺達は無言で過ごしていた。

「はい、到着」
「え、到着って、ここは……」
 時間にして、五分はあの暗闇の中を彼女と共に動き回っていたように思う。暗闇から抜け出た俺は一瞬、目が眩んだ。
 暗闇から抜け出した先はうっそうとした木々が生えた所だった。俺がさっき居た田原区ではない。山の中だと言う事は分かるが、もしかして。
「うん。ここ、緑原山の山頂になるのかな」
 マジですか!
 俺は柔道部の訓練で、緑原山には何度か登った事があった。何処かで見たような雰囲気だな、と思っていたら。
「ここ、私のいちばんお気に入りの場所だから。あまり知られて無いけど、ここからだと、月が綺麗に見えるのよ、知ってた?」
 彼女が夜空を見上げる。俺もつられて夜空を見上げた。
 彼女や道端で会ったあの人が言ったよう、普通で見るよりは月が巨大に、いつもよりは輝いて見えた。
「今の状態の月を、居待月って言うらしいですよ」
 俺は早速、道端で会った人から聞いた話を、彼女にしていた。
「吉原君、月に詳しいの?」
「あー、それ、さっき知ったばっかりなんですよ。俺があの暗闇に入る前、道端で会った人に教わったんですよ。その人、月に詳しいらしくて、ここが月の名所だって事も、知っていました」
「……その人って」
 彼女が何か言いかけた、その時。

「おお、二人とも、無事か!」

 ガサッ、と音を立てて茂みの中から現れたのは、背広の上から白衣を身にまとった、若い男だった。二十代だろう、三十代は行ってないように見えた。髪を女のように肩までのばし、それを後ろで一つにまとめている。そしてキックボードを持っていた。
 っうか、よくそんな格好で山登りが出来たなと、俺はその男を見て感心する。
 今まであった事が原因で、脳が麻痺しているのか、今はもう、誰が来ても何があっても驚かなくなってしまった。むしろ、呆れている、と言う方が正しいかもしれない。
「ええ、何で部長がここに居るの~?」
「千夏ちゃんは今、手が離せなくてね。代わりに僕が迎えに来てやったんだよ。ありがたく思えよ」
 男が笑って彼女の頭を撫でる。彼女は嫌がっている風だが、二人は笑っているので、恐らく彼等なりの挨拶みたいなものになるのだろうか。
「あ、君が吉原君?千夏ちゃんから話は聞いてるよ」
 千夏ちゃん。恐らく、喫茶店で会ったあの人の事を言っているのだろう。
 それでも皆、何で俺が「吉原始」である事を知っているんだ。
 彼女から話を聞いているとしても、それは恐らく特徴だけで、俺の顔等分かる筈もないのに。
 男が俺に近付いてきて、握手を求めて来る。
「初めまして。桜木製薬では新薬開発担当部の部長である、沢木瑠璃と言います。以後、よろしく」
「あ、吉原始です」
 俺も沢木さんににつられて握手に応じる。
 瑠璃、男では珍しい名前だなあ。
「うん。僕のばあさんが、僕が生まれた時、女だと勘違いして付けたんだよね。ばあさんが瑠璃色が好きだからという理由だけでさ。全く、いつも女に間違われるこっちの身にもなってくれよ、ってその時、僕に意識があったら文句言ってたよ」
 沢木さんが俺に自分の名前が付けられた経緯を説明している、という事は、また俺は勝手に思っていた事が口に出ていたのか。あわわ。気を付けないと。
 俺が心の中だけで反省をしていると、急に沢木さんが顔を覗き込んできた。
「うん。君は報告書にあった通りみたいだね」
「は?」
 俺は沢木さんの言葉に思わず口を開けて、間抜け面を晒してしまった。
 報告書? 何の。
「ひょっとして、まだ何も話していなかったりする?」
 沢木さんがしまった、という顔を彼女に向ける。
 なんなんだ、一体。
「部長、私はそこまでドジじゃないです。今のは、部長の過失ですよ」
「あちゃ~……。僕、やっちゃったみたいだね」
「あの、一体何の話をしているんですか」
 俺一人、置いていかないでくれ、という思いがあったので、俺は二人の間に割って入った。
「ううん。君が何処まで知っているのか、その程度にもよるんだけどねえ。彼女が空間使いだって事は知ってるよね、彼女とここに居るって事はさ」
「あ、はい」
 空間使いの意味すら分からないけれども。
「それ以外の話は彼女はしていないようだし……、ま、いいか。君もいずれ当事者になる訳だし、ここで黙っていても吉原君が大人しく引き下がるとは思えないしね」
 沢木さんが笑いながら俺の頭を撫でる。
 ……この人、人の頭を撫でるのが趣味なんですかね。
「桜木製薬って知ってる?」
 沢木さんが俺に尋ねるので、俺は素直に首を横に振った。
 桜木製薬と言えば、バスの中で彼女が自分の勤め先だと言っていた場所ではあるが、俺からしてみればその時初めてその社名を耳にしたのであって、その会社の実態など、知る由も無かった。
「まあ、地元の人間も知らない人が多いし、君が知らないのも無理ないか。それでも、緑原山に研究所がある、っていう噂は聞いた事があるでしょ」
 ああ、それは俺でも知っている話だ。
 一時期、化け物を飼育しているのではないか、という噂があった研究所である。……って、まさか。
「そう。その噂の研究所が桜木製薬の研究所になる訳よ。そういう噂があってもおかしくはない立地条件だからね~」
 ははは、と沢木さんが笑う。
 笑い事か。
「吉原君の家って、門限とかある?」
「特に、無いですけど」
「少し、遅くなるかもしれないから、親御さんに連絡入れておいた方がいいよ。携帯電話、持ってる?」
 俺はこの年にして、携帯電話を使った事は無かった。親の方針で、という訳ではなく、俺がただ単に機械類に弱いだけの話だ。
「それじゃあ、後で研究所の電話を貸してあげよう。おうい、何やってんだ。そろそろ、所に戻るぞー」
 沢木さんが俺達の会話を余所に、体育座りで月をぼうっと眺めていた彼女に声をかける。彼女の方も沢木さんの声に応じて、立ち上がる。
 ……本当、ここから見る月が好きなんだな、この人は。
「研究所って、ここからどのくらいかかるんですか」
 俺は山頂付近からそれらしい建物が見当たらなかったので、沢木さんに聞いてみた。
「あー、普通に行けば二十分くらいかな。その間、獣道以外の所も通らないといけないから、慣れてない人だと、その倍かかるけどね」
「……」
 マジですか。
「でも、だいじょうぶ。今回は彼女が居るからね」
 え。
 沢木さんの視線の先に居たのは、やはり彼女で。
「頼んだよ」
「吉原君、手」
 彼女が俺にさっきと同じように、自分の手を差し出す。俺は俺で沢木さんが一人でキックボードに乗ろうとしているのを見て、彼女を見る。
 まさか、沢木さんはキックボードで山道を行く気なのだろうか。無茶にも程がある。
「沢木さんは」
「私と空間を移動出来るのは、私を入れて二人が限界なの。部長はだいじょうぶ。図太い人だから」
「それ、誉めてんの、けなしてんの?」
 彼女の言葉を受けて、沢木さんが軽い調子で尋ねる。
「自分の今までの人生を振り返れば、分かりますよ。吉原君、少し、衝撃があるかもしれないけど、手は離さないでね」
「……はい」
 俺は。
 俺は今まで超能力等と言う、不可思議な現象を信じた試しがなかった、が。
 彼女の手を繋いだ途端、目の前が真っ暗になり――、再び目を開けた時には。
 自分の見知らぬ場所まで移動していたという、その事実だけがそこには残されていた。