05:研究所にて

 見知らぬ世界の中で、俺は彼女を守りたいと、思った。

「ここは……」
「ここ、結界の中になるのかな」
 彼女がぐるりと辺りを見回し、普通に言った。
 結界?
 俺達が向かうべき場所は、その、一応、桜木製薬の研究所では無かったんではないでしょうか?
 今、俺と彼女が居るのは、真っ白な部屋の中、だった。
 白い壁。それ以外は何も無い場所。ドアも無ければ窓も無く、机や椅子と言った、基本的な家具も無かった。
 ただ、四角い白い箱の中に、俺と彼女は立っている。
 さっき居た闇の中よりは幾分かマシだが、今度は何だ。今度は何処へ飛ばされた訳。
 彼女に一連の疑問を問いかけても、明確な答えは返ってこないだろう、その自信はあった(駄目じゃん!)。
「あの、ここから出る事は……」
 俺は恐る恐る基本的な事を、彼女に尋ねてみた。
「ねえ、吉原君。ここからでも、月は見えると思う?」
 ……。
 俺は不本意ながらも、彼女に倣って天井を仰ぐ。
 しかし、そこにあるのはやっぱり白い天井だけで、彼女が望むような景色は無かった。
「うん。吉原君ってやっぱりいい人だね」
 満面の笑みを浮かべている彼女とは裏腹に、俺は疲労感に襲われる。
 俺は彼女にからかわれているのだろうか?
 沢木さんにしたってそうだ。白衣を着ているからと言って、部長だからと言って、何処となく胡散臭い人だった。もしかして、沢木さんの実態は、テレビの関係者――プロデューサーかもしれない。それとも、あの若さからしてADとか?
 何処からだ?
 一体、俺は何処からこの人達に騙されている?
 それすらも曖昧で、薄気味悪かった。
 俺は疲労感から、その場に座り込んだ。彼女は立ったまま、気丈に前方を見据えている。
「吉原君」
「……何ですか」
「吉原君は、神様って信じる方?」
 神様か。
 もし、神様が居るなら、今の俺の状況を説明してくれ。
「私は神様を信じてるわ。だって、私がこうして吉原君と話しているのも、その神様のお陰だしね。私は本当はこの世には存在してはいけないの。それを期限付きでこうして居られるのも、神様の力だから。私は最初、心を奪われてあの闇の中の世界で余生を過ごす羽目になっていたのよ。でも私はそこから這い上がり、こうして光ある世界に留まる事が出来た訳。沢木さんと、千夏ちゃんの援助があったから、私はこうして生きていられるの」
 ……。
 俺は今の彼女の話を信じる余力は生憎と、持ち合わせていなかった。何も言う事が出来ずに、ただ押し黙っている。
 それでも。
 それでもその話に偽りは無いのだと思えたのは、今まで起こった現象の事例があるせいか、それとも物悲しい目をしていた彼女のせいだろうか。
「だから、吉原君が道で月の話をしてくれた人が、私の言うあの人なら――……」

「……其処に居るの、吉原始だろ?」

 不意に響いた聞き覚えの無い声に、俺は立ち上がる。
 男の声だったが、それは沢木さんのものでは無かった。まだ声変わりもしていない少年のものである。
「静君」
 彼女が天井を仰ぎ、声の主だろうと思われる、名前を呼ぶ。
「吉原始と……、ああ、あんたも居るのか。なら、話は早い」
 あんた、と言うのは彼女を指しているのだろうか。
「静君? その声、静君でしょ。もういいの?」
「もう、全部終わった後だ。あんたなら、そいつを連れてここから出られるだろ。座標は分かってるよな」
 静少年の生意気な声が俺の耳にも届く。
 彼女は静少年の声を聞いた後、有無を言わさず俺の手を取った。
「今度は、本当の場所に案内するからね」
 彼女はそう言って、俺はまた目の前が真っ暗になった。
 もう一度、その闇から開放された先に見えたものは。
 緑原山である事は一目瞭然だったが、先程居た山頂付近とは少し様子が違った。
 グラウンドだ。
 目の前に木造三階建ての校舎らしき建物があり、その前は当然のようにグラウンドが整備されている。俺はそのグラウンドの上に立っていた。それ以外はうっそうとした木々が生えている、山の中だった。
 学校と思われる建物では、一階と二階部分の廊下に明かりが灯っている。グラウンドには照明器具等は一切無かった。
「ここは……」
「あんたが吉原始?」
 さっき、白い箱の中で聞いた少年の声が響いた。
 前を見れば、詰襟の制服を着て剣道をやる人間なのか、竹刀が入れられているだろう、布で出来た筒を手にしている少年が目の前にいつの間にか立っているではないか。中学生だろうか、俺より年下に思えた。
「静君」
 俺の横に居た彼女が、少年の名前を声に出す。
「沢木からあんたの話は聞いてるよ」
 俺より年下なのに、随分と生意気な口を利く奴だな、と思ったが、ここで堪える。
 よくよく見れば、静少年は山根のように女のような顔立ちをしていたが、それは山根と違うものである、と判断したのは、可愛い、という表現が彼には似合わないからだ。言うなら、美人、とでも称する事が出来るだろう。美人で気高く何処となく品がある、そういう雰囲気が少年にはあった。
「……沢木さんは」
 沢木さんがテレビの関係者なら、この少年は劇団に所属する、エキストラの一人だろうか? 千夏さんも何処かの劇団に所属する、女優である、と言うのが真相ならまだ納得が行くのだが。
「あいつなら、後始末の最中だよ。修復作業に時間がかかるんでね」
 一体何の、とは聞かなかった俺は、いよいよ脳が麻痺して来ているのだろうか。
「千夏ちゃんは、千夏ちゃんは大丈夫なの」
 彼女が静少年に詰め寄る。静少年はそんな彼女を見下すかのような物言いで答えた。
「あいつが大丈夫じゃなかったら、沢木も後始末に動かないだろ。それくらい、解ってる癖に」
「……解ってても、心配になるのよう」
「あんたが奴等を引き連れて来た癖に、よく言えるな」
「……」
 静少年にはっきりと言われた彼女は、しゅん、と沈んでいる。
 ……何て奴だ。
 俺には二人が話している事が、何の事だかさっぱり分からなかったが、もし仮に静少年の言う事が正しいとしても、もっと他に言い方があるではないだろうか。彼女なりに必死になっているのは、俺の目から見ても明らかだ。
 俺は、彼女の哀しむ顔等――見たくも無いのに。
「……あんたさ、気の毒だね。こんな女に引っかかるなんてさ」
 静少年が俺に向けて言った言葉に、俺は思わず反論する。
「……別に、気の毒とは思わないけど? 彼女と会ったのは――、うん、ラッキーだったとは思ってるよ」
「……物好きだな」
 ああ、多分、周囲から見たら、俺は物好きなのだろう。
 物好きだと思われてもいいさ、俺は彼女の事が好きなのは変わり無いのだから。
「で、ここは一体何処なんだ」
 静少年は沢木さんや、彼女よりも正確な答えが返って来る確立が高そうだった。
「……研究所の前」
「いやだから、その研究所ってのは何処に」
 こんな所に研究所等、あるものかと、最初は思っていたが。
「あんた、目、悪い? あんたの目の前にあるじゃないか」
「え」
 俺は言われた通り、目の前を見詰めた。
 目の前にあるのは、やはり、木造三階建ての校舎であった。随分と古めかしく、築何年かは分からないが、多分、十年以上は経っているだろう。
「学校みたいだな……」
 俺は素直に見たままを言った。
 ここが桜木製薬の研究所だと言われて、誰が信じるだろうか。
「ここ、学校を改装した研究所なんだよ」
「え、本当に?」
 今まで黙っていた彼女からの情報に、俺は驚く。
 元が学校。道理で。
 というか、緑原の山の中に廃校まがいの学校があった事自体、驚きなのだが。
 緑原に団地が出来たのも、ここ、二十年間の間だと聞いている。それ以前の歴史はよく知らない。緑原に住んでいる岡田にでも聞けば、何か分かるかもしれない。
「兎に角、ここが桜木製薬の新薬開発の研究所に変わり無いんだ。……表向きはな」
 静少年の、何か意味を含んだその物言いに、俺は眉を寄せる。
「あんた、ここまで来たら、もう引き返せないよ。覚悟してあそこに行けよ」
「……」
 静少年が、手にしていたケースを学校の正面玄関がある方へ向ける。
 ここまで来たら、もう引き返せない。
 一体、何から。
 最初から彼女と関るって言う事は、ここから抜け出せない事になるのだろう。それならそれで、本望ではある。
「吉原君なら、大丈夫だよ。きっと」
 俺の隣で彼女が微笑む。
 そうだ。
 俺は彼女の言うよう、あの暗闇から生還出来たのだ。今更何が起こっても、動揺はしないだろう、多分。
 俺は意を決して、正面玄関の扉を開けた。

「やあ、いらっしゃい。待ってたよ、吉原君」

 俺を出迎えてくれたのは、沢木さんだった。
 俺は外観は学校だが、建物の中には研究所と言う名に相応しく、あの噂通り、化け物の標本なんかが置いてあるに違いない、と思っていたが、入った先にあったのは、下駄箱がある、何処の学校にでもありそうな昇降口である。
 俺はてっきり、入った途端、白い廊下があり、化け物の標本が並んだ棚が並べられた部屋でもあるのかと思って少し期待はしていたが、どうも様子が違っていた。
 なんだか、拍子抜けしてしまった事は、沢木さんには黙っておこう。
 沢木さんは、俺と彼女が白い箱の中に入る前と同じく、背広の上に白衣という格好で現れた。沢木さんが無謀にも、キックボードを使って山道を走って来ているのなら、白衣には木屑や泥がついていてもおかしくは無いと思うが、沢木さんの白衣にはそういう汚れは一切ついていなかった。
 俺はその事について言及する気も、その気力も一切無かった。
「まずはそうだね、健康診断を受けて貰おうかな。君、注射とか大丈夫だよね」
 沢木さんの言葉に俺は頷く。
 俺は自慢ではないが、学校の健康診断では一度も引っかかった事が無い、健康体である。
今更検査して何になるのだろうと思うが、ここは敢えて彼等の策略に乗る事にする。
「あ、その前に電話だね。検査の結果が出るまで時間かかるから。帰るのは十時くらいになると思うから、電話を貸してあげよう」
 十時?
 柔道部では、特訓に没頭する余り、学校を出るのが午後八時を過ぎる時があるが、それ以外では俺は九時までには家に帰るようにしている。門限も何も設けられていないが、流石に十時を過ぎれば親は心配するだろう。
 確かに、連絡を入れておかないとマズイ。
 沢木さんは廊下に備え付けてあった、今となっては珍しい、黒電話を俺に指し示した。ダイヤルで電話をかけるのは新鮮だな、と思いながら俺は自宅へ電話をかける。
 電話に出て来たのは、母親だった。
 俺は適当な言い訳を作って、友達の家に寄って帰るから、帰るのは十時過ぎになると思う、と母親にその旨を伝えた。母親は俺の嘘をさして気にする風でもなく、ただ、気をつけてね、とだけ言い残してそれで話は終わった。俺は受話器を置いた。
「いいお母さんだよね」
 傍で俺達の遣り取りを聞いていた沢木さんが言う。
 俺は俺で、母親を騙しているので気は悪かったが、今回ばかりは仕方が無い。
「うん。それじゃ、まずは保健室に行って採血ね。その後で普通の健康診断と変わらない測定があるから」
 沢木さんは俺より前を歩いている。
 俺に着いて来い、と言うつもりなのだろうか。俺は後ろでにこにこと控えている彼女を気にしながらも、沢木さんの後に続いた。静少年はいつの間にか何処かへ消えている。
 保健室は一階にあった。
 文字通りそこには事務机と椅子、薬品棚、そしてベッドが一つだけ置いてある、保健室であって、そこに居たのはまだ二十代の若過ぎる男の保険医であった。金に染めた髪に耳以外にも鼻や口にも銀で出来た丸いピアスをしている。どう見ても保健室とは場違いな気がするが、保健室に居るという事は、多分、保険医なのだろう。それらしく、白衣も着ているし。
「吉原君、こちら、長谷川陸君。彼が君の検査をしてくれるから。長谷川君はこう見えて、医療の免許はちゃんと取ってるから、大丈夫。長谷川君、こちらは吉原君だよ」
「あ、彼が例の? 長谷川です、よろしく」
 長谷川さんは外見とは裏腹に、中身は気の好いお兄さん、という感じだった。
 しかし、例の、とか、あの、と、言われる俺は、ここの人達にどういう風に紹介されているのだろうか。ちょっと気になる。
「吉原君、そこにある椅子に座ってくれる」
 長谷川さんに言われ、俺は教室でいつも座らされている椅子に、腰を下ろした。
「それじゃ、僕はここで見させて貰うから」
 沢木さんはそう言うと、自分で近くにあった椅子に座った。
「手始めに採血するから、腕出して」
「はあ……」
 俺は促されるまま、流されるままに居る。
 心の中ではもうどうにでもしてくれ、と叫んでいた。
 俺は長谷川さんに言われた通り、腕を差し出す。長谷川さんは慣れた手付きで注射器を扱う人だった。沢木さんは椅子に座ったまま、ジッと俺達の様子を見ていた。
 注射が終わると、言われていた健康診断は学校でやらされているのと変わりなく、事が進んだ。
 全部が終わるまで、三十分以上はかかったように思う。
 その間、俺は彼女を完全に見失ってしまっていた。
 検査結果が分かるまで、あと一時間はかかるらしい。
 時間はいつの間にか午後八時を回っている。
 さて、俺はどうすればいいんだ。
「吉原君、彼女とはバスの中で出会ったんだよね?」
 暇を持て余していた俺に、沢木さんが軽い調子で尋ねる。長谷川さんは、プリントアウトされた紙の束を持ち出し、保健室を出て、何処かへ行ってしまった。
「ああ……、俺の友達の隣の席に彼女が座っていたんですよ」
「あの時間帯は、成宮高校の生徒で満員になるからね。ここに無事、来られるかどうか、こっちも冷や冷やしたもんだよ」
「知ってて、彼女をあのバスに乗せたんですか」
 俺は少し、沢木さんの今の話に腹を立てている。
 あの時間帯のバスが、俺達で満員になる事を知った上で、彼女を乗せたと言う沢木さんに。だってそうだろう、女一人、あのバスに乗るには少しだけ勇気が要るんだ。終点で降りるならまだ問題が無いが、よりによって緑原である。
 俺は思い切って、沢木さんに尋ねてみた。
「……彼女は仕事だと、言っていましたけど」
「うん。今の所、彼女しか<キッカ>を察知出来ないからね」
 キッカ?
 菊の花の事でも言っているのだろうか。確かに、花に関しては男より、女の方が詳しい。
「吉原君は、神様を信じるかい?」
 彼女と同じ質問を、沢木さんにもされてしまった。
 俺は彼女に答えないまま、終わっている。
「……都合のいい時は、神頼みしますけど」
「うん。普通はそうなんだよね。信じるも信じないも、それは個人の問題だから。都合のいい時だけ神頼みか。僕もそのタイプかな」
 沢木さんは笑っている。俺はどう反応していいか、分からなかった。
「でも、悔しい事に、神様は本当に居るんだよね」
 ……真面目な顔をされて言われても、俺は困るんですけど。
「うん。それじゃ、質問を変えようか。神様は都合のいい時は信じるけど、鬼や妖怪と言うたぐいの存在を、君は信じるかい?」
 鬼や妖怪の存在。
 それは空想の中の世界にだけ存在する化け物だろう。俺は岡田と違ってマンガはあまり読まない方なので、それらの話には興味は無かった。
「神様も居れば、それに敵対するような生き物が必ず居るって事だよ。光が存在するには、闇も必要だろう、それと同じようなものだ」
「………」
 沢木さんの言う事は、およそ研究者らしく無い。これも彼女の言う、哲学の内に入るのだろうか。
「君はもう、神様を目の当たりにしているよ」
「……何を言っているのか、分かりません」
 俺には何の事だかさっぱり、理解出来ていない。
 沢木さんの話も、彼女の話も。
「検査結果が出たら、教えてあげるよ。君が<キッカ>で無い事が分かれば、僕も君にやって欲しい仕事があるから」
「……」
 俺はここに居ても仕方が無いので、彼女を探そうと思い、保健室を後にした。俺が出て行くのを沢木さんは引き止めもせずに、ただ笑って見送っているだけだった。

 俺は一階の廊下を一人、歩いている。
 職員室、とある部屋には沢木さんや長谷川さんと同じように、白衣を着た人が何人か居た。そこには何かの標本があると思われる筒型のガラスケースが並んだ棚や、薬が入っているだろう壜が並んだ棚があり、白衣を着た人の殆どが椅子に座って机に置かれている顕微鏡で何かを覗き込んでいた。
 最初からここの場面を見せられれば、俺はここが桜木製薬の研究所であると、納得しただろう。
 俺は彼等の研究(多分)を邪魔する真似はせずに、職員室は無視して通り過ぎる事にした。
 ほかにも色々見て回ったが、使われていない部屋も幾つかあり、使われている部屋は職員室で見た光景と然程変わり無かった。そしてその中に、彼女の姿は無かった。
「残るは二階だけか……」
 外から見た所、廊下に明かりが点いていたのは一階と二階だけである。
 昇降口に出る。
 二階の階段を上がろうとした、時だった。
「あれ、君……、此処は関係者以外立ち入り禁止だよ?」
 俺は二階から降りて来た人にそう言われても、セーラー服姿の女の子には説得力が無いぞ、と思った。
 二階から降りて来たその子は、セーラー服を着て、腰まで伸ばした髪を茶に染めていた。その髪が元の黒髪であったら、さぞかし一目を惹くであろうに、茶に染めているのは勿体無い。セーラー服のスカートは裾が膝の所まで、短く切ってあって、それでも俺の所からでは、ギリギリ、パンツが見えない(惜しい)。よく見れば化粧を薄っすらしている。女の子は多分、中学生だろうか。
「多分、俺はその関係者になってるみたいだから、大丈夫だよ」
「ふうん。私はあなたの事、聞いてないんだけど」
 俺も君の事は全然、聞いていないのだけど。
「新しく兵を入れたって話も聞いてないしー。むむ、そうか、あんた、<キッカ>ね!」
 階段の上からビシッと自信満々に指を指されたら、俺はどうすればいいんだ。
 キッカ。
 沢木さんも言っていた事だ。
「なあ、その<キッカ>って何」
 幾ら女が花に詳しいと言っても、目の前に居る子が花に詳しいとは到底、思えなかった訳だが。
「ええ、あんた、関係者のくせにそんな事も知らない訳? むむ、ますます怪しいわね~。そんなあんたは、静君に退治して貰うんだから!」
 静君と言うのは、あの静少年の事だろうか。
「静君の剣は、どんなものでも貫いて、あんたみたいな感染者は、コテンパンに伸され
ちゃうんだからねっ。覚悟しなさいよっ」
 ……と、言われても。
「何、<キッカ>のくせに、随分余裕だわね。気に入らないわ。どうせ、瑠璃ちゃんが捕獲したんだろうけど、私が成敗してくれよう」
 女の子は笑いながら開いた右手を俺に差し出す。
 今度は一体何が始まるんだ。
「……え」
 信じられない事に、女の子の右の手の平から、光の粒子が集まっているように見えた。数秒も経たないうちに、それらは光の塊となって女の子の手の平の上に浮いている。
 手品にしては、凝っているな。
「行っくわよ! 観念しなさいよッ」
 女の子は野球でピッチャーが構えるフォームで、その光の塊をボールのように扱っている。そのフォームだと、俺からもパンツ、丸見えだって気付いてないのか。……因みに色は白だ。
 その光の塊を投げる先は、やはり俺なのだろうかと、ぼんやりその子を見ていると。

「鈴、その人は<キッカ>じゃないわよ」

「えっ」
 女の子の後ろ、二階側に居て声をかけたのは、千夏さんであった。夕方、喫茶店で会った時と変わらない格好である。
 女の子の右手の平にあった光の塊はその声に反応して、消えていた。女の子が元の姿勢に戻る。
「吉原君、あなた、本当、運が無いわね」
「……ははは」
 千夏さんに呆れるように言われて、俺は笑うしか無かった。
 鈴、と呼ばれた女の子は俺と千夏さんの顔を交互に見ている。
「千夏ちゃん、コイツ知ってるの?」
 ……今度は年下の女の子にコイツ呼ばわりですか。
「吉原始君よ。鈴にはまだ話が行って無かったかしら。……彼女を認識出来る人の中の一人よ」
 最後の部分、少し調子を落として言う千夏さん。
「え、マジで? 嘘、だったら緑君がやってる事、意味あったじゃん!」
「……」
 鈴(呼び捨てで構わない)が歓喜の声を上げるが、またしても俺はさっぱりな話だった訳で。
「でも、あの子を認識出来るのは、感染者だけだって言う話なのに?」
「その辺は、長谷川君と沢木部長が調査してるわよ」
「瑠璃ちゃん、抜かり無いよね、昔から」
 千夏さんの話にうんうんと頷く鈴。
 ……というか、二人が邪魔して、二階に行けないんですけど。
 まあ、ここに千夏さんが居るのは都合が良いのかもしれない。
「あの、彼女を見ませんでしたか」
「……私は見ていないわ。あの子、仕事中でもいつもふらふらしてるのよ。また何処か、雲隠れしてるんじゃないかしら」
 それは、何と言うか、彼女らしいなあ。
「少なくとも二階には居ないわよ」
「そうですか……」
「へえ、本当に認識出来てるんだね~」
 俺は驚く鈴を無視して、後、見ていない所は何処だっただろうか、と思案していた所へ。
「あ、吉原君発見!」
 彼女か、と思ったら長谷川さんだった。
 ……外見とは違って、なんか子供みたいな人だな。
「こんな所に居たのか。検診の結果が出たから、もう一回、保健室に来てくれる?」
「あ、はい」
「陸ちゃん、コイツの話、知ってた?」
 鈴が階段から降りたかと思うと、長谷川さんに向かって言った。
「鈴ちゃん、来てたんだ。さっき、静君に会ったよ」
「嘘、何処で?」
 長谷川さんの言葉に鈴は色めき立つ。
「体育館の方。多分、稽古でもしてるんじゃないの」
「ありがとっ」
 鈴は一目散に正面玄関から外へ出て行ってしまった。
 ……何なんだ、一体。
「鈴ちゃんはああ見えて、健気だからねー」
 笑う長谷川さんの後に、俺は黙って着いて歩く。

「や、探険はもう終わったかい?」
 保健室へ入ると、相変わらず笑みを浮かべた沢木さんが居た。
「さっき、階段でまだ中学生くらいの女の子が居たんですけど……」
「鈴ちゃんかな?」
 沢木さんの言葉に、俺ではなく、長谷川さんが頷く。
「静君にも会ってるんだよね」
「多分」
「後で紹介するよ。彼らはウチの貴重な戦力だし」
 戦力?
 あの子達が、化学に通じてるようには見えないんですけど。
 という、俺の認識は後で間違いだった事を知る。
「……ええ、検診の結果、状態は良好で、<キッカ>の疑いは無し、と出ました」
 沢木さんが診断書らしき紙の束を、俺ではなく、沢木さんに見せる。
「成る程。成る程。やっぱり、僕の目には狂いは無かったね」
「……勘弁してくださいよ」
「約束は約束だよ、長谷川君」
 がっくりと肩を落とす長谷川さんに、沢木さんは得意の笑みを浮かべている。
「如月君の言う事は間違いじゃなかった。それが実証されたんだ。良かったじゃないか」
「ですが……」
「まだ何か?」
「……何でもありません」
 渋る長谷川さんに強気な沢木さん。その遣り取りだけを見れば、やはり、沢木さんが部長だと言う事だけはあると、俺は感心する。
「とまあ、君が<キッカ>では無い事が判明した。約束通り、僕達の事情を話そう」
 そういえば、俺が<キッカ>で無ければ、彼女の事を話してくれると、沢木さんは最初の方で言っていた。
 俺はここでようやく、これは全部騙しでした、という看板を手にしたタレントが、そこの戸から入って来るのだろうか、と身構えていたが、実際は違った。

「彼女が空間使いと言われるのは、君も体験して解ってると思うけど、所謂、瞬間移動のような力を持っているからだよ。普通、世間で言われる瞬間移動と違うのは、何処にでも神出鬼没のような事を言われるけど、彼女の場合は特定の場所、彼女自身が行った事のある場所だけ、移動が可能になる。そこが違うんだよね。あとは、彼女が言っていたように、彼女と手を繋いでいれば――」

「あの、ちょっといいですか」
「何だい」
「全部、本当の話なんですか」
 俺は真面目な顔で沢木さんに真面目に尋ねる。
「……今までの君の体験で、何処から騙しだと思う?」
「……」
「これは全部、本当の話だよ。そう、君が彼女とバスの中で会った時からね」
 俺の内情は沢木さんに見透かされていたのだろうか。
 俺は反論する事は出来ずに、沢木さんの話を腰を据えて聞く事にした。長谷川さんは机に肘を突いて俺達を見守っていた。


 沢木さんの話は長く、要領を掴むのが大変だった為に、後で俺がノートにまとめたものをここに記して置く事にする。
 まず、彼女が「空間使い」と呼ばれる所以について。
 その呼び名通り、彼女は空間を自由に移動出来る力を持っている。しかし、それは彼女が一度は行った事のある場所に限られている。彼女と手を繋いでいれば、その手を繋いでいる人間も一緒に移動が可能となる。ただし、定員は彼女を入れて二名が限界だと言う。それでは瞬間移動という、超能力とは違うので、研究所内部では、こういう呼び方が定着したようだ。
 次に、神様と鬼の存在について。
 神様の存在を信じる訳では無いが、沢木さんによれば、確かに「神」と信じて疑わない力を持った人が存在するらしい。その人が「明日、世界が滅亡する」と言えば、本当に世界が滅亡してしまうとか。……にわかに信じ難い話ではあるが、少なくとも、沢木さん達は信じていると言う。
 鬼はその神様を殺すべく、暗躍するもの達の事を総じて言う。それは闇の中で生きる妖怪であったり、俺達と同じ人間であったりするそうだ。鬼は時に、神様を信じて恐れる人間までもを陥れる。鬼の好物は昔から人間の肉であると決まっているんだよ、と沢木さんは笑っていた。そしてその鬼達が最終的に手に入れたいのは、神様の肉。神様の肉を食らえば、永遠の命が手に入ると、鬼達の間では、言われているらしい。
 「キッカ」について。
 神様では無く、鬼に魅入られた人間、鬼に取り付かれ感染した者を、鬼の花と書いて、「鬼花(キッカ)」と呼ぶ(菊の花とは全然関係無かった。道理で)。
 その人間は鬼に取り込まれた事、自分が鬼花である事に自覚は無く、日々を過ごしている。鬼は鬼花と化した人間を徐々に弱らせて行く。ついには鬼花となった者は俺が居たあの暗闇に引き擦り込まれ、発狂し、しまいに生きたまま鬼に食われてしまう。
 その暗闇から抜け出るには、やはり彼女が言ったように、彼女の力を使って出るしか道は無いらしい。そしてその感染者はまだ初期の段階であれば、沢木さんの所へ行けば助かる可能性はあるらしい。
 沢木さんの研究所は、表向きは桜木製薬の新薬開発部とあるが、裏ではその鬼退治を買って出ているそうだ(静少年が口にしていたのは、この事だった)。
 そして。


「……で、君にやって貰いたい事があるんだよ」
 ここまで話終わった沢木さんが俺に向けて言った。
「何ですか」
 今までの話を聞いて、俺はどうせロクな事では無い、と予感していたが、沢木さんの目がいつになく真剣だったので、思わず応じてしまった。
「吉原君に、その鬼花を探して貰いたいんだ」
「……はあ」
「いいかい、これは重要な任務だ。僕達が逃がした鬼を、君に捕まえて貰いたいんだ」
「……はあ」
「あれ、乗り気じゃないね。普通、君くらいの年なら、重要な任務と聞いて、喜んで応じる筈なんだけど」
 ……。
 俺は今までの体験が仇で、非常に疲れているだけですよ。
 確かに、岡田辺りなら喜び勇んで応じるかもしれないけれども。
「兎に角、僕達が逃がした鬼を捕まえる役目、引き受けて貰えないかな」
「何で俺なんですか」
 気を取り直して言う沢木さんに、俺は普通に聞いた。
「いや、あの、そう普通に返されると、非常に言い難いんだけどね」
 沢木さんは何処か明後日の方を向いている。
「部長、観念して白状したらどうですか。ここまで来て、吉原君が断るとは思えないんですけど、俺は」
 今まで黙っていた長谷川さんが声を上げる。
「ううん、それもそうなんだけど」
「何ですか。俺は、長谷川さんの言うよう、ここまで来たら引くに引けないですから」
「……そう? そう言ってくれるのはありがたいよ、本当」
 沢木さんは俺の言葉を聞いて、右手で両目を覆い、涙ぐんでいる。それがわざとらしく感じるのは、この人だからだろうか。
「で、何で俺なんですか」
「君、成宮高校の生徒だろ?しかも朝、あのバスを利用している一人だからだよ」
「……それ、どういう意味なんですか」
 非常に嫌な予感がするんだけれど。

「うん。実は、その逃がした鬼、あのバスで通学してる、成宮の生徒の一人が鬼花になっている可能性があるんだよね」

 ……。
 ええと、ちょっと待ってくれ。
 沢木さんは参ったよね、と本当に参っている感じはせずに、実際参っているのは俺だった。
 あのバスの中に鬼花が居る。
 それが俺では無く、あのバスを利用している誰か、という事になる。それには山根も含まれる訳で。
 ……マジですか。
「鬼は人から人に感染する性質を持っているから、バスの中の人が学校に入って、その中でその人よりももっと自分好みの弱ってる人が居れば、その人間に食らいつく。だから、一概にバスの中の人物には特定出来ないんだけど、あのバスに鬼花が居る可能性は大きいんだよ、学校よりもね」
「……あの、どうやって発見するんですか」
「検査キットを」
 沢木さんが言うと、長谷川さんが机の中からビニール袋に入った注射器を取り出した。まさか、注射器を使ってやれと?
「普通は、血液検査ですむんだけど、吉原君にはこれかな」
 そうは思ったけど、長谷川さんが注射器が入っていた袋の中から、一枚の青い画用紙を取り出した。画用紙はB5サイズだ。長谷川さんはそれを沢木さんに手渡す。
「出来れば、生徒の唾を貰って、この紙にそれを染み込ませて、そのまま色が変わらなかったら陰性ね。それが難しかったら、髪の毛でいい。一本の髪の毛を取って、この紙に貼り付けて僕達の所へ持って来て欲しいんだよ。もっといいのは、その子の血が欲しいんだけどね、こればっかりは流石に無理だよね」
 長谷川さんなら彼の言うよう、その外見で俺達の学校やバスに行くには難しいかもしれない。無理がある。
「僕達だと、成宮高校に侵入するのも、あのバスの中へ行くのも難しいからねえ。丁度、吉原君みたいな子を探してたんだよ」
 沢木さんなら、事務員やサラリーマンの格好で学校やバスの中に簡単に潜り込めそうな気がしたが、もし、実際にやっていたら俺は引くだろう。なんかこの人、胡散臭いし。
 俺が沢木さんからその青い画用紙を受け取る。一見、普通の画用紙である。
「鬼花の子が軽い症状で居ればいいんだけど、重度の症状であれば、早急な対応が必要となる。……その時は吉原君、今みたいな調子で居てくれよ」
「……」
 それはどういう意味ですか、とは今の空気の中で、俺は言う事が出来なかった。
 その意味を知らない方が、俺は良かったんだ。
 そして、俺は成り行きで、沢木さんからの重大な任務を引き受ける事となった。
 もうこんな話、岡田くらいしか信じる人間は居ないだろうな、と思いながら。