11:望

 余りの山根の変貌振りに、俺は二の句が告げなかった。
「……鬼と同化した人間は、鬼花となる。そう呼ばれる所以が――、鬼であるにも関らず、花のように美しいからだよ」
 俺の横で溜息を吐くのは沢木さんだった。
 鬼であるにも関らず、見るものを圧倒させる程の美しさを併せ持つ、それが鬼花。
 俺は沢木さんのその話には納得する。
 納得はするが、その後は。
 その後、山根はどうなる。
「……、山根は……、どうなるんです」
「さて、どうなるかな」
 沢木さんは、まるで他人事のように言った。
「……ふふ、こんなものか。満月ではないのが悔やむが、仕方あるまい」
 山根から発せられた声は、山根のものでも、谷口のものでも無かった。
 山根が俺の方を見た、と思えば――。
「……っ!」
 何時の間にか、俺の顔を覗き込むまでに接近していた。
「……この声に、聞き覚えは無いか」
 山根から発せられるその声は、以前、俺が闇の中で聞いたあの老婆のもので。
「そう、私はあの時、闇の中であんたの中に響いた声だよ。……其処の鬼が邪魔をしなければ、コイツは私の獲物だったのに」
 其処の鬼、と言って指を指されるのは、彼女だった。
 彼女は俯いたまま、山根を見ようともしない。
「ようやく外に出て、獲物が二匹、かと思えば――、この様だ」
 山根が俺から離れて辺りをぐるりと見回す。
 今、この場に居るのは俺と彼女、岡田に沢木さんに鈴に静少年である。確かに、山根、いや鬼花にとっては不利な状況かもしれない。
「……調子に乗るなよ」
 静少年が刀の先を山根の首筋にあてがう。
「おい、元は山根で……」
 そうだ、元は山根の身体である。
 俺は焦るが、静少年は容赦無く刀を、引いた。
「焦るなよ、小僧が」
 鬼花が静か少年の刀を引く直前で、その鋭利な刃を構う事なく握り締める。
 鬼花の手は当然のように、血が染み出ていた。刀の先からその血が滴り落ちる。
 鬼花はそのまま手を軽く動かす。
「……っ!」
 静少年が、鬼花の手一本で刀ごと、投げ飛ばされた。
 鬼花の手にあるのは、静少年の刀だけだ。
「こんのっ、よくも私の静君を! 受けなさい!」
 鈴が手の平に光を集め、それは次第に球体へと変化する。
 同じだ、研究所での光景と。
 鈴は例によって野球でピッチャーが構えるフォームで、その光の球体を鬼花へと投げ飛ばした。
 その球体は見事に、鬼花の腹部目掛けて飛んで行くが、俺が見た最後の光景だった。
 気付いた時にはもう、白い部屋の中に、俺は立っている。
「……此処」
 そうだ、此処は。
 白い部屋。窓も家具も何も無い白い部屋の中。
 結界。
 あの日、研究所へ行く前に通された部屋だった。
「おい、山根はどうなったんだ! 此処から俺を出せ!」
 俺は声を上げる。
 しかし、俺の声に誰かが応じてくれる気配は、無かった。
「……山根、谷口」
 俺はこの二人がどうなったのか、どうなってしまったのか、知りたかった。
 あのまま鬼花と成り果てた山根の行く末は――。
 ああ、考えるだけでも嫌になる。
 それでも、俺は。
「出せよ! 俺は此処に居る意味が無いだろう! 何で俺を此処に入れた!」
 俺は出来るだけ、思い切り声を張り上げる。
 柔道で鍛えた声を舐めて貰っては困る。
 此処から、この中の外に聞こえるよう、思い切り声を搾り出す。
「出せつってんだろう!」

「――やっぱり、吉原君は凄いよ」

 声が、届いた。
 俺の声が、届いた。
 ――彼女の耳に。
 今、俺の前に彼女が立っている。
「やっぱり、凄いよ。声、私の所にまで届いたから」
 揺るぎの無い微笑み。
「……あの、此処は」
「前も言ったよ。結界の中。鬼封と鬼花の戦いに、吉原君を巻き込む訳にはいかないからね、その対策」
「でも、山根はどうなるんです。それに谷口だって……」
 俺は情けない事に、彼女に縋り付く。
「……大丈夫だよ。私の力があれば、山根君の所まで行けるよ。……どうする?」
 どうする。
 山根の所へ行っても仕方無いかもしれない。俺には何も出来ないかもしれない。
 けれど、それでも――。
「……行きます、連れて行って下さい」
 俺は決心して彼女の手を取る。
「うん、それでこそ吉原君だよ」
 彼女が俺の手を握り返す。
 そして目の前が真っ暗になった。


 俺が今立っているのは、闇の中で。
 そう、何時か、俺が連れて来られた闇の中だった。
 この中に山根が居るのか?
「私の手を取っていれば歩けるから。私の手を離さないでね」
 彼女の言葉に俺は頷く。
 俺は彼女に連れられて闇の中を歩いている。
 何処まで歩いたのか、あれから何分経ったのか、今の俺は知る術は無かった。
「あそこに居るのは、山根君だよ」
「え」
 彼女に言われた方を見れば、確かに山根の姿があった。
「……山根」
「……始」
 俺と山根は闇の中で対峙している。
「始の言う事は、本当だったんだな」
「……」
 山根の目は光が無いように思えた。
 それでも俺は負けずに山根に話し始めた事、それは。
「……山根、俺は今まで何を見ていたんだろうな」
「……」
「俺は本当、山根を見ていなかった。山根が間島先輩を見る目と同じように、俺も山根を見下していたんだ」
「……」
 俺は、彼女の手を強く握る。
 彼女はどう思うだろう、俺達の事を。
 それでも俺は構う事無く話しを続けた。
「俺は山根と同じだけど、山根を間島先輩と同じ目には遭わせたく無い、そう思っている。……今後も俺には、山根が必要なんだ」
 俺の言葉に山根は目を閉じ、少し間を置いてから再び目を開けて俺を見る。
「……この間、話したよね。僕には間島先輩以外に好きな人が居るって」
「……ああ」
 俺は知っている。
 山根の好きな人が誰かと言う事を、もう知っている。
 知っていて、今まで何も言おうとはしなかった。逃げていただけだ。
「僕が好きなのは、始だよ。知ってるんだろう」
「……知ってるよ。あんな事されて、気付かない訳無いじゃないか」
 俺は山根に苦笑する。
「そう。始は柔道バカでその上鈍いんだ。僕があそこまでしてやらないと、僕の気持ちに気付く事は無かったよね」
「……酷い言い様だな」
 俺の顔は引き攣っているのが自分でも分かる。
「どうして俺なんだ」
 俺は疑問に思っている事を、山根に聞いた。
 そうだ、どうして俺なんだ。俺よりは間島先輩の方が良いだろうと、思うが。
「……入学式の日、君、僕に言っただろう。僕の名前を聞いて、良い名前じゃないかって」
「ああ」
 確かに俺は、山根の名前を聞いた後、そう言った。
「……初めて、だった」
「え」
「初めてだったんだ。僕の名前を聞いた後で、良い名前だと言ってくれたのは、始が初めてだったんだよ。今まで、僕の名前を聞いてその後で、逆に女っぽい名前の方が良いんじゃないかって、何時もバカにされてたから」
「……山根」
 全く嫌になるよと、山根は笑みを浮かべる。
「僕は……、ただそれだけで舞い上がったんだ。それからずっとだ。……でも、始に言われてから気付いた。僕がバカだった。始の気持ちを無視してあんな事……。でも、僕の気持ちは何も変わってはいないんだ」
「……」
 俺は。
 簡単な事を口にしなければ、山根に言ってやらなければいけないと、想った。
「……俺は、前も言ったように、山根を受け入れる事は出来ない、けど」
「……」
「けれど、友達としてその関係がずっと続けば良いとは思っている」
 俺は言い終わった後で、息を吐き出した。
 此処まで言うのに、どれだけ時間がかかったのだろう。
「どうかな」
「……本当、鈍いな始は」
「え」
 山根が告白する。
「……本当は、あの時よりも前に始への想いは冷めていたんだ。多分、本当に僕は間島先輩の事が、好きだったんだと思う。けれど、間島先輩は僕がまだ始に未練があると思っていた。僕は間島先輩にしびれを切らして、始にあんな事をした。……間島先輩の為に」
「……そうか」
「……でも、僕は間島先輩に何も言う事が出来ないまま、間島先輩の最期を見てしまった。だからだろう、君達の言う鬼に、痛い所を突かれてこうして取り込まれてしまった。バカだろう、僕も」
 山根が笑う。
「……ああ、バカだよ。そして俺もバカだ。山根を助けに、此処まで彼女と来たんだからな」
「……それもそうだな。本当、始はバカだよ」
 俺と山根は顔を合わせて笑った。
 山根と笑うのは何時以来だろうか。
「……所で、始はどうやって此処から抜け出すつもりだ」
 山根が俺に尋ねる。
 俺は隣に居る彼女を見る。
「うん。私の空間使いの力があれば、此処から抜け出せるよ」
 彼女の言葉に、山根が眉を寄せる。
「……あんた、一体何だ」
「私? 私はあなたと同じ鬼花であり、その成れの果て」
 それが、彼女の正体だと言われても俺と山根はその意味が解らなかった。
「成れの果て?」
「うん、普通、鬼花になったらあの人達、鬼封の手でやられちゃうのが普通なんだけど」
 彼女は俺と山根を交互に見て、笑う。
「私は消えたく無かった。消えたく無かったから、神様にお願いしたの。このまま生かして下さいって。あなたの為なら何でもしますから、って」
「……」
 俺と山根は顔を見合わせる。
「私は神様と取引をした。鬼花となる人間を闇から救う事を条件にね。私はその条件を受け入れ、自由に外に出られるようになった」
「……そんな事が」
 有り得るのだろうか。
「強く願えば、何でもなれるよ。鬼にも、人にも。でも、神様は意地悪で、完全な力を私に与える事はしなかった。私は外に出るには不完全だった。誰かの声が無いと、実体を持てなかった。満月の時に限ってなら、緑原山なら、満月には私の声も姿も普通の人間なら、見る事が出来るのよ」
 ああ、そうか。
 恐らく、間島先輩が緑原山から撮影した月に浮かぶ人影の正体は、彼女だったのだろう。
 有坂が話していた一連の噂も、彼女や神守の人達が関っているに違いない。その真相を確かめる術は無いけれど。
「あの時……、最初、山根君とバスの中で会った時、覚えてる?」
 彼女が山根に問い掛ける。
 山根は少し迷ってから、頷いた。
「……あんたは、僕が荷物を置く位置に、居たんだ」
「そう。私、声をかけられるかどうかドキドキしてたの。そしたら、隣に居た山根君が声をかけてくれた。だから、嬉しかった。実体を持つ事が出来たから。だからその後来た吉原君にも私が認識出来たのよ」
 ……そうか。
 最初に彼女を見付けたのは、山根だった。
 元々は山根が鬼花であり、その鬼花が間島先輩へと移行したのだろう。
 その事を、沢木さんは俺に告げる事はしなかった。
「私は二人に感謝しなくちゃいけない。私がこうして居られるのもね、二人が私が存在する事を、認めてくれたから」
 ありがとうと、彼女が俺と山根に向けて微笑む。
 ……俺は。
 俺は彼女に何がしてやれるのだろうかと、考える。
 山根の方は照れ臭いのか、彼女から顔を逸らす。
「……それは良いけど、此処からどうやって出るんだ」
 この暗闇の中から。
 それは彼女の空間移動の力を使えば良い。
 しかし。
 この力を使うには人数制限がかかっている。
「……私の力は、どちらか一人、残って貰わないと、駄目なんだけど……、でも、一人を残したら、私が行く前に鬼に気付かれてしまう」
「……」
「今度、鬼に気付かれたらただではすまされないわ。私の力ではどうにも出来ない」
「……何だよ、役立たずだな」
「……うっ」
 山根の容赦の無い一言に彼女は肩を落とす。
「……俺が残るよ」
「始」
「此処は俺が残った方が良い。あなたは、山根を無事、沢木さん達が居る所まで、送り届けて貰えれば良いですから」
 そう、此処は俺が残った方が良いだろう。
 二度もこの闇を体験している分、山根を一人残すよりは断然良い。
「……始はそれで良いのか」
「ああ。いざとなればこの声で、彼女を呼び寄せるから」
 俺の声は何処に居ても、何処までも届くのだから。
「……始は、ずるいな」
「何で」
 山根が俺を見上げる。
「始はそうやって、僕の出来ない事を容易くやってのけるんだ。僕は当分、始には適わないだろうね」
「……山根」
「でも何時かは、この女も始も超えてみせるよ。背もまだ諦めていないんでね」
「……そうか」
 何時かは山根が俺を追い抜く時が来るかもしれない。
 俺はそれでも、構わないと思った。
「……それじゃあ、手を離すね」
 俺は此処で彼女と手を離した。
 あの時と同じように俺の身体が浮遊している。
 無重力状態で、気持ちが悪い。
「始」
「……お前、よく此処、平気で立っていられるな」
 山根は彼女の手助け無しで、平然と立っている。
 それが何を意味しているのか、俺が気付くのが遅過ぎた。

「――当然だろう、僕が山根君を支えているのだから」

 山根の背後から現れたのは、谷口だった。
 先刻の鬼花とは違い、姿も声も、何時もの谷口と変わらない。
「……どういう、事だ」
「……あ」
 山根の方も目を剥いて後ろに谷口が居るのを、確認する。
「……谷口も、無事だったのか。良かったよ、それなら谷口も一緒に」
 一緒に帰ろう、と言おうとして俺は寸前で止めた。
 谷口の目が、青く輝いているのに気付いたせいだ。
「……谷口、お前一体」
「僕の名は明理(めいり)。君達で言う所の、神狩でもある」
 神狩。
 神を狩る者。
 俺はもう一度、彼女の手を引いて闇の中で、安定感を保つ。
「鬼とは……、違うのか」
「……君は、鬼花になる前の鬼がどうやって生み出されるか、知ってるか」
 生み出す?
 どうやって。
「神なる存在が居て、その神の手によって、神守や鬼封が生まれる。人が人を作るのと同じようにね。そう、それを考えれば鬼を生み出す存在が居てもおかしくは無いだろう?」
 鬼を生み出す存在。
 
 ――神様も居れば、それに敵対するような生き物が必ず居るって事だよ。光が存在するには、闇も必要だろう、それと同じようなものだ。

 研究所の中で沢木さんの話が、俺の中で再生される。
「外に居る鬼花は、僕が媒体としていた谷口明と言う人物を君、山根が取り込んでいる。それらが全て合わさって出来た芸術作品だよ、あれは」
 芸術作品。
 俺はその明理の言葉に背筋を震わせる。
「……谷口は、それでどうなったんだ」
「谷口明は、生まれながらにして鬼だった」
「……な」
 谷口自身が鬼そのものだと、明理は言う。
「鬼は、ある女の力によって生み出される存在だ。神守が神の手から生まれるように」
 ある女とは誰の事を指しているのだろうか。
「彼女から産み落とされた鬼はその存在自体が脆い。生まれて間もなく死ぬ事もある。だから人間の女の手を借りるんだ」
 人間の女の手を借りる。
 それはつまり。
「普通の人間の女が産んだ子供に鬼が取り付くんだよ」
「……っ」
 俺は口元を抑える。
「谷口明と言う子に憑いた鬼が僕、明理と言う訳だ。谷口明自身は、僕が取り付いた時点でその存在は無いと言って良い」
 ……生まれながらにして鬼というのはこの事か。
 俺はあまりの事実を聞き知り、愕然となる。
 だから谷口は、沢木さんの検査方法では何の反応も出なかったのか。
「こうやって人の力を吸い取り生き抜く鬼は、次の使命を我等が母親から与えられる。神を殺せ、と」
「……」
「神を殺すには、ある程度の力の蓄えが必要だ。何十年もかけて力を保存して行く。その力を解放するには月の満ち欠けも影響して来る」
 月。
 そう、あれは彼女の好きな月。
「月が満月であれば、鬼の力は全開になり、鬼花や神守の力を借りずとも人の前に姿を見せる事が可能になる」
 それが、神狩の正体。
「逆に新月や雨で月が見えない場合は、力が弱まり人の前に行く事すら不可能になる。でも、其処に居る女は神との取り引きでそれを可能にした」
 俺は彼女を見る。
「……本当、バカな奴だ。鬼であるという事を否定し、人に執着した結果だ」
「……私は、鬼なんかじゃ……、無い」
 彼女の声は震えている。
「我等が母は、お前の愚行を許す気は無いよ。それは、覚悟出来てるんだろうね」
「……」
 彼女は何も言う事は無かった。
「……あんたが助かる手はあるけどね」
「え」
 此処で初めて彼女が顔を上げて、明理を見る。
「あんたが助かる手が一つだけある。あんたが今まで奴等から受け取った情報をこちらに手渡しその上」
 明理が山根の腕を掴み、俺に向けてもう一方の手を差し出す。
「山根と吉原の二人を我が母のイケニエに差し出せ」
「……何、バカな事言ってるんだ」
 俺は此処で彼女の手を強く握ったまま、明理を睨み付ける。
「俺は此処から、山根と彼女と一緒に帰るつもりだ。あんたの指図を受ける筋合いは無いよ」
「始……」
「逃げるなよ」
 山根が俺の方へ動くのを、谷口の腕が止める。
「君は取り込んだ鬼の言う事を聞くもんだよ。外で鬼封の奴等と戦っている鬼花が負けてしまえば、君も僕達と同様、消滅するからね」
「……な」
 明理の話を聞いて、山根の顔が青くなる。
 それでは、俺は今、あの鬼花の中に居るのか。
 俺は、明理に言われる前からそうではないかと、この闇の中に山根が居た所から、思っていた。
「そうだ、君の力と僕の力を外に居る鬼花に送ってやる必要がある。僕一人の力では、鬼花は鬼封に負けてしまうだろう。一人より二人、いや三人の方がより強力になる」
 谷口は此処で俺を見詰める。
「どうだ。僕に手を貸さないか。そうしなければ、山根君は鬼封の奴等にやられてしまうよ」
 俺はその話が真実かどうか見極める為に、彼女を見る。
 彼女の方は俯いたままで、否定する事も無かった。
「……俺は」
「そう。早い所、決断した方が良い。今夜は下弦の月だから、鬼花の力も半減しているからね。向こう側もその制約があるとはいえ、一対二では圧倒的にこちら側が不利だ。僕一人で奴等と遣り合うには自殺行為だよ。それを見越して、吉原君に振られておまけに間島先輩まで去られた山根君を、この場に連れて来たんだけどね」
 谷口は山根を前にして、平然と口にする。
 だから谷口は、気が弱っていた山根を取り込む為にあの場へ連れて来たのか。
 ……俺は、どうすれば良い。
「……吉原君、大丈夫。私が全部悪いの。私のせいだから、これは私が何とかするから、だから……、大丈夫だよ」
 俺の隣で彼女が何時もの調子とは違う、震える声で言った。
「あの日……、私が初めてバスに乗った日に、山根君を見付けたの。山根君、私を見てくれた。私が居る事を知ってくれた。だから私、嬉しくなって山根君の存在を、鬼に知らせた」
「……え」
 彼女は山根を見ている。
「私、鬼だったから。鬼だから、鬼を呼び寄せる事が出来るの。私の力に共鳴して、鬼が寄って来る。……吉原君を研究所に連れた日でも、吉原君を白い部屋、結界に閉じ込めたでしょ」
 俺はその日の事を覚えている。
 静少年や鈴、長谷川さんと出会った日でもあるからだ。
「あの日も……、私が連れ込んだ鬼を静君達が退治してたのよ。私が鬼を呼び寄せる媒体になっているから。だから、全部、私のせいなの。私が悪いの。山根君をこんな目に合わせたのも、全部」
「……そんな」
 全部、彼女のせいか。そんな事が有り得るのか。
 そしてそんな話を一体誰が信じると言うのか。
「明理」
 彼女が初めて明理の名を口にする。
「私はどうなっても良いから、山根君と吉原君を解放しなさい」
 以前、闇の中で聞いた時と同じ、強い調子で彼女が明理に言い放つ。
「……じゃあ、あんたが神を殺してくれ」
「え」
 明理の言葉に彼女の顔色が曇る。
「あんたが神を殺してくれないか。あんたは神の居場所を知っているんだろう? 神を探してさ迷う僕達と違ってね」
 ……何だ?
 明理は神様の居場所を知らないのか?
 神様の居場所を知らないで、どうして神殺しが出来る。
「……僕らの中で神と会えたのは、あんたが最初だ。僕達のように、鬼封と神守を相手にする事なくね。あんたは神に選ばれたんだよ」
 谷口の話から推測するに、鬼の奴等は神の居場所を知らずにこの世をさ迷っている。神を殺すように女から命じられても、その居場所を知らなければどうにもならない。そして神守や鬼封の人達と交えて来た。外で鬼封と戦う鬼花のように。その中で彼女は特別に神と会う事が許された訳だ。
 ……だから、あの時、谷口が岡田の身辺を聞こうとしていたのだろうか。
 谷口は岡田が神守の人間であるという事を、見抜いていたのだろう。
「……私は、あなた達に、あの人を売る事は、出来ません」
 それが、彼女の出した答え。
「そうか。それじゃ、僕はこの二人を貰うよ」
 谷口の手は山根の腕を掴んだままで、もう一方の手が俺の方へ伸びる。
「――始!」
 山根が渾身の力を込めて、谷口の腕を振り払い、俺の方へ手を伸ばす。俺はすかさず山根の手を取った。
 其処に、迷いは何も無かった。
 そして俺は山根の手を、無理に彼女の手に滑り込ませた。
「始」
「……お願いします」
 俺は彼女から離れて、頭を下げる。
「分かった。山根君の事は、大丈夫だから。此処から抜け出せれば、部長達が保護してくれる。山根君と分離した鬼は次第に、力を弱らせる。其処を静君に叩いて貰えれば、鬼だけを完全に封じる事が出来るわ」
「……始は」
「吉原君なら、大丈夫だよ」
 尚も心配する山根に、気丈に答えるのは彼女である。
 彼女と山根が俺の前から消える。
 その途端、俺の目が回った。
 気持ちが悪い。先刻の非では無かった。
 俺はそんな中でも、前方に居るであろう谷口を見た。
 谷口と別れる前に、一つだけ聞いておきたい事があったせいだ。
「……谷口、お前、岡田の事を最初から知っていたのか」
 谷口が岡田が神守である事を知っていたのかどうか。
「いや。僕は知らずに岡田君に近付いた。岡田君も同じだろう。でも、互いに互いの関係を知っていたんだろうね。岡田君が神守である事を。僕が神狩である事を。吉原君は知ってるか、神守も神狩も人には無い信号を周囲に流している。だから互いを知らなくても何時の間にか近付いているんだ。神狩は神を殺す為に、神守は我らが母を封じる為にね」
「……」
 谷口は何処か遠くを見詰めている。
 谷口はもう、自分が終わりに近い事を知っている、そんな風に思えた。
「……吉原君、君は此処からどうやって抜け出すつもりだい。僕が消えれば、この闇は永遠に広がり、新たな鬼が君を食ってしまうだろう」
 これは谷口の最期の忠告か。
「……俺には、声がある。この声で彼女を呼べばいい」
「そうか。でも、名前はどうする。名前が無ければあの鬼を呼ぶ事は出来ないよ」
 ああ、そうか。
 俺は彼女の名前を知らない。
「あの鬼は哀れな鬼だよ。鬼となったのに、何時までも人に執着した。神に選ばれたはいいが、神守では未だ化け物扱いだ。君と山根君が未だに彼女を見る事が出来るのも、神守の奴等が操作しているからだろう。君達が神守から外れれば、いずれ彼女の事すら分からなくなってしまうよ」
 ……俺は、それでも。

「それでも、良いよ。俺の前に彼女が居る事は事実なんだから」

 それは揺るぎの無い想い。
「……そうか」
 谷口は目を閉じる。
「僕はもう、そろそろ行くよ。岡田君が呼んでいるからね」
 俺は谷口が足元から消えて行くのを、間近で見ていた。
 ああ、これで終わりなのか。
 結局、俺は谷口に何もしてやれなかった。
 そして俺は闇の中に一人、取り残される。
 揺ら揺ら、身体が浮遊する。
 何処まで行っても続く闇の中、俺は一人さ迷っている。
 何処へ行けば良いのか見当が付かず、動かない方が良いと思い、ジッとしていても身体が勝手に動いてしまう、そんな世界だった。
 俺はこのままこの闇の中に居るのだろうか。
 早く、彼女の名前を呼ばなければいけなかった。
 名前。
 彼女の名前は何が良いだろうか。
 実は、一つだけ彼女に相応しい名前を、考えていた。
 以前、図書室で読んだ月の本の中に記されてあった名前を、俺は口にする。

「――望!」

 俺は今まで出した事の無い、最大級の声で彼女の名を呼んだ。
 俺の声に反応して、彼女が姿を現した。
「……吉原君」
 彼女が笑顔で俺の方に手を差し向ける。俺も迷わず、彼女の手を取った。

 目の前にあるのは、例の研究所だった。
 校舎の正門前には、沢木さんと千夏さん、そして岡田が立っている。
 山根の姿は其処には無かった。
「山根君なら、こちら側で保護しているよ」
 俺が聞くより先に、沢木さんが報告する。
「疲労感がたまっているから、安静中。長谷川君が診ているから大丈夫だよ」
「……そうですか」
 俺は岡田を見る。
「谷口は、俺の手で封印した。これは鬼封には出来ない仕事だ」
 そうか。
 谷口が岡田が呼んでいる、と最期に言ったのは、こういう意味だったのか。
 谷口は岡田の手によって、ある場所へ封印されたのだろう。そう、この山の何処かに。
「此処が鬼花を祭る山なのは、じいちゃんから聞いただろう?」
 俺は岡田に頷く。
「此処なら月が間近に迫って見えるからね。丁度良いんだ。如月の奴が決めた事だけどさ、谷口が安らげる場所になるなら、悪くは無いと思ってる」
 岡田が笑う。俺も釣られて笑った。
「それにしてもよく、彼女を呼べたな」
 俺に感心を寄せるのは沢木さんである。
「……月の本で読んだんですよ。望はボウ、と読んで満月を意味するらしいんですけど、どうせならノゾミ、と読んだ方が良いじゃないですか。希望の意味も込めてるんですよ」
「満月に希望を見出すでノゾミか。良い名前ね、望」
 俺が彼女に考えた名前を、千夏さんが早速口にする。
「うん、私にピッタリな名前でしょ。千夏ちゃんも部長も、今度から私をこの名前で呼んでね。あ、研究所の皆にも教えてあげなくちゃ!」
「え、ちょっと……」
 俺の制止も聞かずに、彼女は校舎の中へ入って行く。
 沢木さんが俺の肩に手を置いて一言。
「……見返りを期待してたんだろうけど、無駄だったね」
 ……そうですね、でも元から彼女に多くを期待していませんよ、俺は。
 俺は心の中で涙する。
「僕達は彼女が現れてから、鬼のサンプルとして記号で呼んでいたんだ。彼女の情に流された千夏ちゃんからそれは止めようって言われてね」
「私達も彼女に相応しい名前を考えていたんだけど、どうも上手くいかなくて。でも良かったわ、これで彼女も人間らしく名前で呼び合う事が出来るから」
 沢木さんに続いて千夏さんが俺に向けて笑みを浮かべる。
「さて、それじゃ吉原君はこれからどうする。一応、今回の件はこれで片付いたからね。吉原君が此処に居る理由はなくなる。……あの鬼から聞いていると思うけど、我々と接点が無くなれば、望と二度と会えなくなる」
 俺は沢木さんの話を聞いて、少しだけ迷う。
 このまま彼らと関る事が無ければ、今まで通り平穏な日々が送れるだろう。でも、それを承知で沢木さん達と共に行動を起こすとなれば、彼女に二度と会えなくなる。
 さあ、どうする。
「……始」
 校舎から出て来たのは山根だった。長谷川さんに付き添われている。
「もう、良いのか」
「ああ、何とかね」
 山根が俺の前まで近付く。
「で、始は何を迷ってるんだ」
「山根」
「僕はもう、コイツ等と関る気は一切無い」
 山根の決心は固いようで、俺が何を言っても聞かないだろう。
 当然だ、あんな目に遭ったのだから。
「此処での治療が終わったら、僕は元の生活に戻るよ。始はどうするんだ」
「俺は……」
 どうする、どうすれば良い。
「……始はとことん、バカだな」
 山根がわざとらしく溜息を吐く。
「山根」
「此処へ来て何を迷う必要があるんだ。始は今まで、バカ女の為に行動して来たんだろう。だから今後もどうなるか、本当は分かってるんじゃないのか」
 ――そうだ、答えは最初から決まっている。
 迷う必要は、何処にも無い。
 俺は決意する。
 沢木さんも千夏さんも長谷川さんも、俺の答えを待っている。
 彼らなら、俺の言いたい事も分かっている筈だ。
「――俺は……」


 朝。
 阿坂病院前から、午前七時三十五分発、成宮高校行きのバスに、俺は何時ものように乗り込む。
 有坂とはあれ以来、顔を合わせた事は無かったが、風の噂では新しい彼氏が出来たらしい。その彼と上手くやっているようだ。
 俺はバスに乗り込んだ後、比較的空いている通路を歩いて山根が乗っている席を探す。谷口の姿は当然のように無かった。
 そして彼女の姿も其処には無かった。
「おはよう」
「おはよう」
 何時ものように山根の荷物を退かして、俺がその席に座り挨拶を交わす。
「昨日の課題、やって来たか。何時にも増して多かっただろう」
「俺、古文の訳が分からなかったんだけど……、後で教えてくれるか」
「……始は本当にバカだなあ」
「……はは」
 何時もと変わらない会話が続いている。
 峰主将も、復活して柔道部の主将を辞める事は無かった。
 あれから驚いた事が一つだけあった。
 谷口は元から居ない事になっている。そう、この世から谷口明と言う人物は、元から存在しない事となっていた。これも神守の力によるものかどうかは、定かでは無い。教室の谷口の席は空いたままで、その事について誰も深く考える事は無かった。
 岡田が時々、その席を懐かしむように見ている。
 彼ら、神守と関る事を止めた山根の記憶にも、翌日にはもう、谷口の姿は無かった。
 でも、俺の記憶にはきちんと谷口の姿はあった。
 それが何を意味するのか。
「始、今回も部活が終わった後、緑原山に行くのか」
「ああ。望さんと会う約束をしているからな」
 俺が答えると、山根は心底呆れた表情を、俺に向けた。
「……君達、バカじゃないの。何も毎回緑原山で会わなくても、此処ら辺でも良いデートスポットはあるだろ。田原のショッピングセンターには映画館もあるんだからさ」
「俺達はそれで良いんだよ。あそこ以上に良い所は無いからさ」
 俺は山根に怯む事は無く、笑っている。

 あれから俺は今後も、沢木さん達と関る事を選んだ。
 俺は彼女の為に何かしてやれる事はある、それを見付ける為に、そうなる事を強く望んだ。
 沢木さん達は俺の決意に批判する事は無く、快く受け入れてくれた。
 そして俺は部活が終わった後、緑原山へと向かう。
 それが俺の習慣になっている。
「吉原君、今夜も月が綺麗だよ」
 鬼気迫る月の下で彼女、望さんが笑う。
 そう、緑原山でなら望さんと会えるから。

 ……俺は今宵も月の下で、彼女と過ごしている。