まるで誰かを追いかけている月を追うように、私はあの人を見ていた。
午前七時四十分、阿坂病院前のバス停から緑原高校行きのバスが到着する。
私、有坂可南子(ありさかかなこ)は余裕を持ってバスに乗り込んだ。バスの中は混み合ってはいなかった。私は後方にある席に座った。いつも、窓際の席を選ぶようにしている。
バスの扉が閉まりかけた時、だった。
「すみません、乗ります! 待って下さい!」
大きな声を張り上げ、歩道を全力疾走して来る男が一人。
バスの運転手は快く男が乗り込んで来るのを、待っている。こんな男、乗り遅れても構わないから発車して下さい。発車時刻はとっくに過ぎているというのに、乗客は何で文句の一つも言わないんだ。
「すみません」
息を切らしながら男はバスに乗り込んだ。
「今日も間に合ったなあ」
「毎朝、どうなるか見物じゃな」
男と顔見知りの乗客が、気さくに男に声をかける。男も記録更新中ですよ、とか言ってへらへら笑いながら応じていた。
……何なんだ一体。
「あ!」
……。
「有坂さん!」
……。
「有坂さん、おはよう!」
「……おはよう」
私が無視を決め込んでいたら、男は私の耳元で大声を出した。耳が痛いんですけど! 乗客からの目が痛いんですけど!
そして何故、私の了解も得ずに隣に座るんだ。ほかにも空いている席はあるだろう。
「いやー、今日も寝坊しちゃってさ。どうなるかと思ったよ」
……私を無視して一人で喋るのもどうにかして下さい。
「ん? どうしたの、元気無いね」
……あなたの元気が羨ましいとでも? 中村陽一さん。
そう、私の隣でへらへらと笑っている男の名は、中村陽一(なかむらよういち)。背広姿でムースできちりと髪を後ろで撫で付けている彼は一応、二十六歳で社会人だと私に聞きもしない事を話している。
「朝はこの年になってもやっぱりきついなー。低血圧って訳じゃないけどね」
「……そうですか」
私は窓から移り行く外を見ながら、中村さんに適当に相槌を打つ。これでいい。朝が苦手な私は、中村さんの話をマトモに聞くのも癪に障った。
朝、中村さんはいつも、ギリギリになってこの緑原高校行きのバスに乗り込んで来る。
中村さんは未だに時間配分がなっていないのか、時々、こうやって全力疾走しながら発車間際のバスを止めている。
最初、私がバスの中から目撃した中村さんは、手を振り上げて唇を噛み締め、ネクタイをも犠牲にして、本物のマラソンランナーのような切羽詰った勢いで、発車しようとするバスに向かっていた。扉を閉めて発車するバスに向かって中村さんが、「すみません、乗ります、乗ります! 停まって! お願いだから!」と必死になって大声で叫んでいたのも、今でも覚えている。
それらが功を成したのか、運転手さんは中村さんを待っていてくれた。
バスに乗り込んだ中村さんは、傍にある棒に捕まりながら息を切らしていた。全力疾走していたせいか、額や袖口から大量に汗をかいている。
バスが動き出した。
中村さんはそのまま席につくかと思えば、ふらふらとした足取りで運転手さんの元へ歩いて行った。
「ありがとうございます!」
中村さんは律儀にも、自分を待ってくれた運転手さんに頭を下げに行ったのだ。大声で運転手さんに礼を述べる中村さんの姿は、乗客からも好感触を与えただろう。
そう、私もその時、今時珍しい人だ、と中村さんに感心したものだ。
それがいけなかったのか。
中村さんはその後、空いている席はほかにもあったと記憶しているが、何故か私の隣に座って来た。前にも空いている席はあったのに、どうしてわざわざ後方にある私が居る席を選んだのか、未だに謎である。
椅子に座ってもまだ汗でぐっしょりと、体はぐったりと疲れている中村さん。中村さんはハンカチさえ手に取るのも間々ならないのだろうか。私はその時、そんな中村さんを気の毒に思ったのか、魔が差したのか、彼にハンドタオルを差し出していた。
「どうぞ」
「え」
私の親切心に、中村さんは目を丸くする。
「ハンカチで拭くよりはいいと思いますけど」
「あ、ありがとう!」
よく通る声で中村さんは私に礼を言った。
それからだ。
どういう訳かハンドタオルを手渡したその日から、私を探して隣の席に座るのも、中村さんだった(中村さんは律儀にも、私のハンドタオルを洗って返してくれた)。
中村さんがそうやって私が利用しているバスに乗り込んで来てから、もう、半年以上は経っている。その間、中村さんは私と同じように緑原行きのバスを利用している皆さんと、馴染んでしまった。
中村さんと同じく毎日利用している私でさえ、そういう状況になった事は無いのに。これも中村さんの人徳の成せる業だろうか。
中村さんの名前を知らない乗客でも遅刻して来る兄ちゃん、で話が通じてしまう。
お陰で中村さんに話し掛けて来る人も増えた。
阿坂病院前、午前七時四十分発、緑原高校行きのバスには一人の有名人が居る。
「次は終点の緑原高校、緑原高校でございます」
「あ、もう時間かー」
バスのアナウンスを聞いた中村さんが残念そうな調子で、私に言った。
私の方はこれで中村さんと離れられると思うと、清清しい気分ですよ、とはとても声に出して言えなかった。
緑原高校に到着する頃、バスの中に居るのは私と中村さんくらいだ。
朝が早い時間なのか、私以外の緑原高校の生徒の姿は居なかった。これ以前の時間か、これ以後の時間のバスを利用する生徒の方が圧倒的に多い。前者は部活等で朝が早い場合、後者は始業時間間際に到着する時間帯のバスを利用する場合だ。私の場合、そのどちらにも当てはまらなかった。