九月:犬と紅葉と秋の空

 新学期。
 僕のクラスに待望の転校生が来た。
 名前は秋山紅葉(あきやまもみじ)。
 可愛い子なんだけど、僕にしてみれば彼女に話しかける勇気は無かった。

「紅葉ちゃん、一緒に帰ろう」
「うん」

 一週間も経たないうちに秋山は、すっかりクラスの皆と馴染んでいる。
 大半が秋山を「紅葉」と呼び捨てにしている。秋山本人も気さくな女で、皆からそう呼ばれる事に対して、何も文句を言う事は無かった。
 秋山も進んで自分を「紅葉」と呼んでくれと、言っている効果もあるのかもしれない。それは男も女も関係が無かった。
 だけど、僕だけは少し事情が違った。

「相田君、これ、運ぶの手伝って」
「あ、うん」

 秋山と僕は日直の当番が、いつも一緒になる。出席番号順であれば、僕と秋山が一番になるせいだ。
 可愛い秋山と一緒になるのは歓迎だけど、内心、緊張していた。
 先生に託されたプリントを、僕と秋山が小分けにして教室まで運ぶ。
 その最中に、秋山は。
「相田君はどうして、私を名前で呼ばないの?」
「え」
 誰も居ない廊下で僕は立ち止まる。秋山も立ち止まり、僕の顔をジッと見ながら僕の返事を待っているではないか。
「……秋山も、僕を名前で呼ばないじゃないか」
「相田君がいいなら、私も相田君を名前で呼ぶけど?」
 うっ。
 そりゃあ、友達の間では僕を名前で呼び合っているけど、女の子から(しかも気になる子から)名前で呼ばれるのは、気恥ずかしいものがあった。
「……名前で呼ばれるのは、抵抗があってね」
「何で。親しみやすくて、いいじゃない」
 秋山はそうかもしれないが、僕にとっては大きな問題である。

「とにかく、秋山と違って僕は嫌なんだよ。そう、軽々しく名前で呼ばれるのが」

 あ。
 しまった。
 勢いで何気無く言ってしまったけれど、秋山を見れば酷く傷付いた顔をしている。
「秋山」
「……ごめんね、私、相田君の気持ちを考えてなかったから」
 ……。
 そのまま秋山は押し黙ってしまった。
 気まずい。
 非情にまずくないか、今の状況は。
 僕は秋山に言う言葉が見付からず、そのままプリントを抱えて教室に戻った。

 それから僕と秋山は、一度も口を利かなかった。


 放課後、僕は友達とサッカーをした後で、家に帰る。
「ただいまー」
「お帰りー。あんた、紅葉ちゃんが散歩に行きたがってるよ」
「……はーい」
 母親に言われて僕は家でくつろぐ間もなく、庭に出る。
 庭では愛犬、紅葉が尻尾を振って僕に飛びついて来た。
 はいはい、そんなに自分を主張しなくても散歩に連れてってやるよ。
 紅葉は雑種である。見た目、柴犬に似ていた。雑種なゆえかどうか分からないが、他の犬より元気が良く活発に動いているので、僕も世話が大変だった。けど紅葉は他の犬より数倍可愛いし、家族の中でも僕に一番懐いているので、僕はそんな事は苦にならなかった。
 紅葉は僕が拾った犬で名前も僕がつけた。最初はカッコイイ洋風な名前にしようと幾つか候補を挙げていたが、呼び難い、それじゃ恥ずかしいだろ、という家族の反対があった為に、日本名である紅葉に落ち着いた。丁度、紅葉(こうよう)が綺麗な時期に紅葉を拾ったから、という単純な理由だったが、家族からも紅葉ちゃんという愛称で、今ではすっかり馴染んでいる。
「紅葉、行くか」
「わんわん!」
 紐をつけて、紅葉を家から外に連れ出す。
 ……これで分かる通り、僕は秋山を名前で呼ぶのは抵抗があったんだ。
 秋山の名前である紅葉と、犬の紅葉が同じ名前だから。
 秋山も、犬と同じ名前と知れば気を悪くするかもしれない。犬と同じように自分を呼んでいるのではないかと、余計な誤解を与えるかもしれなかった。
 僕はそれを一番恐れて秋山を名前で呼ぶつもりは無かったが、今日は別の部分で余計な溝を作ってしまった。


 僕と紅葉の散歩のコースは、夏休みが終わるまでは学校のグラウンドや学校に近い広場を通っていた。
 しかし、秋山が来てからはそのコースから外れて、何処か紅葉が遊べるようないい場所は無いかと模索する毎日が続いている。
 いい場所は見付けても、気付けば家から四十分以上も距離があったので、断念する。僕が紅葉を連れて歩くのも限界があったからだ。遅くなると親も心配するし。
 学校のグラウンドは僕にとっても、紅葉にとっても丁度いい場所だったんだけどなあ。
 もし、秋山がまだ学校に残っていたりして、それに僕と紅葉が出くわしたら。
 ……最悪じゃないか。
「紅葉、今日は何処を回ろうか」
「わん!」
 紅葉のその吠え方は、何処でもいいよと僕に訴えているようだった。紅葉は僕の気持ち等お構いなしに、前へ前へと進もうとする。
 ああ、紅葉は僕の気持ち等、何も知らないから気楽なものだ。
 僕も紅葉のように、何の気兼ねなく前へ前へ進めたらいいのに。
「……今日は商店街の方へ行ってみるか」
 僕は紅葉を見る。
「紅葉、行こうか」
「わん!」
 僕の言葉に応じるように、紅葉は元気よく吠えた。
 僕は紅葉と商店街の方へ向かって歩き始めた。

 商店街に着いて、僕は紅葉と端から端へ行くように歩いていた。
 店を見て回りつつも、悲しいかな、僕には持ち合わせが無いので冷やかしに終わる。
「相田君?」
 聞き慣れた声が、後ろから響いた。
 まさか、と思いつつ僕は恐る恐る振り返った。
「やっぱり、相田君だ」
 やっぱり、秋山だった。
 商店街の真ん中で僕と紅葉、そして秋山が出会ってしまった。
「……や、やあ」
 昼間の事もあるので、僕は穏便にすまそうと、秋山に返事を返した。
「相田君も買い物?」
「えーと……、いや、コイツの散歩でね」
 僕は足元に居る紅葉を指差した。
 秋山の方は今の時間、商店街を回っていると言う。
「可愛いー。これ、相田君の犬?」
「まあね」
 ああ、早くこの場から逃げてしまいたいのに。
「名前、なんていうの?」
 あ。
「名前て誰の」
「犬の名前よ」
 惚けても無意味か、畜生。
「えーと……、ジョ、ジョルジュ?」
 これは僕の中では洋風でカッコイイ名前候補、第一号だった。
「ジョルジュ? 男の子?」
「そ、そう、男の子で……」
 何を言っているんだ、僕は。
 こんなに嘘を吐いてまで、僕は。
 昼間は秋山を傷つけて、今は紅葉を傷つけている。
「……」
 このままじゃ、駄目だ。
「あの、秋山、実は……」

「相田君、わんちゃんが!」

 え。
 秋山の悲鳴に近い声に、逆に僕の方が驚いた。
 秋山の示す先を見ればどういう訳か、紅葉が商店街を突っ切るように走っているではないか。商店街を行き交う人達も、突然の出来事に戸惑っている。
 秋山と話していた僕は、手から紅葉を繋いでいる紐がゆるりと外れていくのに、気付かなかった。
 僕は紅葉を追いかける。秋山も責任を感じてか、僕の後ろを走って追いかけて来る。

「ジョルジュ!」

 僕が考案した恥ずかしい名前を、秋山は難なく声に出す。
 それでも紅葉は止まらなかった。
 紅葉はジョルジュという、ふざけた名前じゃないから。
 僕が本当の名前を声に出さなければ、紅葉も反応しないだろう。
 僕は後ろを走っている秋山を一瞥する。
 秋山は僕の為に、紅葉の為に走ってくれている。
 僕は。

「紅葉!」

 ありったけの声を張り上げて、僕は紅葉の名前を呼んだ。
「止まれ、紅葉!」
「わん!」
 紅葉は暢気に吠えて、僕と秋山が追い着く前に、商店街を抜ける前に止まった。
「紅葉、そこ動くなよ!」
 紅葉は僕の言葉が分かっているのだろうか。紅葉は今までの疾走が嘘みたいに、大人しく座って尻尾を振りながら僕達が追い着くのを待っている。
「……紅葉、お前な、僕から離れるなっていつも言ってるじゃないか」
 僕は座っている紅葉を優しく抱き上げる。紅葉も僕も走ったせいで、息が上がっていた。

「……その子の名前、紅葉っていうの?」

 あ。
 秋山の問題を忘れていた。
「ジョルジュじゃなくて?」
「……うん、ごめん。僕、秋山に嘘吐いてて」
 ああ、こうなればどうにでもなれ。
 僕は秋山に、この犬が紅葉だという名前であると、明かした。
「へえ。いい名前じゃない。紅葉ちゃんね」
 何か文句を言われるんじゃないかと冷や冷やしていたが、秋山は僕が思っている事と反対を言っている。
「秋山……、紅葉は秋山と同じ名前だぞ。漢字も同じだぞ」
「それが、どうかした?」
 秋山は全く意に介さない様子で、紅葉の頭を撫でている。
「いや、僕が犬の紅葉と同じように秋山を呼ぶ事は……」
「いやだ、そんな事気にしてたんだ」
 僕の告白に秋山はけらけらと笑った。
「こんなに可愛いわんちゃんと同じなら、名誉な事よ」
 ねえ、と秋山は紅葉に同意を求める。それに応じるようにタイミング良く、紅葉が吠えた。
 本当、調子のいい犬だよ全く。誰に似たんだか。

「それに、相田君はそんな人ではないでしょう?」

 え。
 それは一体、どういう意味で言ったのか。
「今日は楽しかった、ありがとうね。また明日」
 呆けている僕に構う事無く、秋山が手を振り僕に背を向けて行ってしまった。


 それから。
 僕と紅葉は、夏休み前と同じように学校のグラウンドを散歩のコースに組み込んでいる。
「相田君、紅葉ちゃん」
 秋山が僕と紅葉に向かって笑顔で手を振っている。
 学校のグラウンドで僕は秋山と一緒になって、紅葉と遊ぶようになった。
「小学校のグラウンドで、紅葉と一緒に遊んでたんだ」
 そう、秋山に告白したら、秋山も僕と一緒に紅葉と遊びたいと言い出した。
 僕は特に断る理由も無かったので(むしろ、歓迎している)、今では僕と紅葉と秋山の二人と一匹で、放課後になると小学校のグラウンドで遊んでいる。
「今日は、家からボール持って来たからこれで遊ぼうよ」
 秋山が僕と紅葉に向けて、手のひらサイズの小さなボールを掲げる。
 高い空に向かって。
 それを見た僕と紅葉は、秋山が居る方へ駆け出す。

 僕、秋山、そして紅葉。
 これから始まる、二人と一匹の時間。
 澄んだ秋の空のように。赤く色付いた葉のように。

 変わりゆく中で、始まるものもあるんだ。