届いたばかりの真新しい高校の制服を着て僕、鈴木周治(すずきしゅうじ)は、春休み中の学校へ侵入する事に成功した。
冬、受験を乗り切って見事、志望校へ合格した僕は、後はもう高校の入学式を待つばかりであった。
僕は思いつきだけで高校の制服を着て、四月に入学する予定の学校へ向かった。校門は何故か開いていて、すんなりと学校へ入る事が出来た。怖いくらいあっさりとしていたので、拍子抜けしてしまった。
平日の午前中であっても春休み中の学校は不気味なくらい、静まり返っていた。当然、校庭に人の気配は無く、僕一人だけが堂々とその中を歩いている。
僕が無断で高校へ侵入したのは、入学式を前にして、誰よりも早く校舎の中を見学しておこうと思っての行動である。制服を着ていたせいか、正面玄関に辿り着くまで誰も僕の侵入を阻止しようとする人間は現れなかった。
僕は少し緊張しつつ、正面玄関から昇降口へと入る。明かりの点いていない薄暗く、人気の無い廊下。本当に誰も居ないのだろうか。それにしては、門や正面玄関に鍵がかかっていないのは、不自然な気がした。
僕は靴を脱いで、空きのあった靴箱へ靴を放り投げた。上履きが無いので靴箱の上にあったスリッパを借りて廊下を歩く。さて、何処から回ろうか。三階から見て回った方がいいか、それとも一階から見て回るべきか。いや、一階は職員室があって当直の教師くらい居るかもしれない。教師に見付かったら面倒なのでやはり、三階から見て回る方がいいかもしれないなあ。
僕が二階へ上がろうと階段の一段目を踏んだ時、だった。
ふわり。
風に乗って何処からか梅の香りがした。僕は慌てて立ち上がる。
人が居るのか? 生徒なら誤魔化せるが、教師であれば僕の立場は一気に危うくなる。僕はドキドキしながら梅の匂いを漂わせている主を探した。
「あ」
その主は僕の後方で、声を発した。
僕は驚いて振り返る。
僕の後ろに居たのは色白で目が大きな、可愛らしい女子生徒であった。おまけに胸が谷間が出来るくらい、大きかった。彼女はグラビアアイドルとして通用するくらいの風貌で、失礼かとも思ったが、健全な男子ならどうしても彼女の胸に目がいってしまう。
僕が階段の一段目に居たのを、彼女は驚きを隠せずに目を剥いている。
僕と同じ制服を着ているという事は、此処の生徒なのだろう。僕はひとまず、梅の香りの主が教師ではなかった事に安堵する。
僕は梅の香りの主へ話しかけてみた。
「梅の香りが」
「ああ、多分、これのせいかな」
彼女が手に持っていたのは、梅の飴が入ったお菓子の袋だった。なるほど、梅の香りの正体は飴玉だと分かった。袋の中にある梅の飴玉は目算して、十個以上はある。
「本当はいけないんだけど、君も一個、食べる?」
「あ、いや、遠慮します」
「此処で会ったのも何かの縁だし、はい」
彼女は袋から飴玉を取り出し、強引に僕の手を掴んでそれを握らせた。
「食べて食べて、意外と美味しいから」
「はあ……」
彼女に言われるまま僕は、梅の飴玉を口の中へ放り込んだ。
僕が口の中で飴玉を転がしていると、彼女も同じように飴玉を口の中へ入れた。僕は彼女のその仕草が何処か色っぽく見えて、柄にもなくドキドキしてしまった。
「これでもう私達、梅仲間だね」
「う、梅仲間?」
梅仲間。
その言葉は、僕の人生の中で一度も聞いた事が無いのだけど。
「梅仲間って、集まって何をするんです」
「んー。一日一回は、こうやって梅の飴玉を食べる、かな」
……。
彼女のニコニコとした笑顔を見ていると、今更になって梅仲間から外れたいと言える筈もなく。
返答に困る僕を見て、彼女が舌足らずな調子で話した。
「それは冗談でえ、本当は梅の木を愛でる会があるの」
「梅の木を愛でる会?」
梅仲間に続いて、そんな会があるとは初耳だ。
「うん。君は春になると何の花を思い出すかな?」
春。春の花。春の花といえばやっぱり、あれでしょう。
僕は素直に彼女に向けて言った。
「桜、ですかね」
今朝、僕が利用している通学路でも、綺麗な花をつけた桜を何本か発見してきたばかりだ。僕の返事を聞いて彼女は、うんうんと何度も頷いている。
「うん、やっぱりそうだよねー。日本人なら桜だよねー。でも、ちょっと待って欲しいんだよ」
「はあ……」
僕は彼女の勢いに押されつつも、話に付き合っている。
僕と彼女は、自然と階段の一段目に腰かけて話している。
彼女が動くたびに揺れる胸。僕は極力、彼女の胸から視線を逸らしながら彼女の話を聞いていた。
「梅の花も綺麗で立派なんだよ。桜の影に隠れてイマイチ、認知度は低いと思うけど」
「梅の花、ですか」
「今の時期、梅の花も見応えあるから。道端で梅の木を見付けたら、もうけもんだよ」
彼女は指を立てて、呆気に取られる僕に力説する。
梅か。
春になると人は花見といえば桜、という印象が強いが、梅の花もそれはそれは見応えはあるのだろう。
「そういえば春になると道端で注目するのは決まって桜で、梅は気にも止めていませんでしたよ」
「うんうん。君もこれからは、梅の木も注目したまえ」
そう言って彼女は、本日二個目の梅の飴玉を口にする。
昇降口では、彼女の持ち込んだ梅の飴玉の香りで充満していた。
「梅、好きなんですか」
「桜よりはね。……、桜よりはそう、儚くもないし」
最後は何処か悲しそうに言う彼女を見て、僕は。
この時僕は、彼女の異変に気付くべきだった。今更。今更後悔しても遅いかもしれないが、それでも時々、今の話を思い出しては悔やむ自分が居るのは確かで。
「ああ、そろそろいかなくちゃ」
何かを思い出したように彼女が言った。
もう行ってしまうのか。僕は名残惜しくなって、せめて彼女の名前だけでも知りたいと思った。
僕は春休みが終わっても同じ学校なら、また彼女に会えると、ただ、単純に考えていた。
「あの、差し支え無ければ名前、教えてもらえませんか」
「名前? そういえば私、君の名前も知らないで梅の話し、してたわ」
僕の言葉を受けて彼女は、けらけらと笑う。
そして自分を指差して彼女が告げた名は。
「私、千鳥(ちどり)、というの。数字の千に鳥で千鳥」
千鳥さんか。けっこう珍しい名前かもしれない。
あれ、でも名字は。
「あの、千鳥さんて、名前ですよね。名字は……」
「恥ずかしいから内緒」
千鳥さんは、舌を出しておどけてみせる。
恥ずかしい? 今までの言動からして、彼女らしくない台詞だと思ったが、僕は敢えてそれを口にする事は無かった。
「君は?」
「周治です。鈴木周治」
「しゅうじ? どんな字、書くの? あ、待って、手帳出すから」
千鳥さんは制服のスカートのポケットから、赤い表紙の手帳とボールペンを取り出した。
千鳥さんの持っているその手帳は見るからにまだ使って間もないような、新品のようだった。恐らく、この四月から使うつもりでつい最近、購入したやつなんだろう。
「ええと、周る方の周回の周、それから政治の治で周治です」
「名字は、良く居る鈴木さんでいいの?」
「はい」
千鳥さんは、僕の言う通りの字を手帳へ記していく。
あれ、良く見れば僕の名前を記した手帳のページは、一番最後だった。最後のページがアドレスにでもなっているのだろうか。僕は千鳥さんの行動を、さして気にする事は無かった。
「良し、鈴木周治君ね。記憶したわ」
千鳥さんが自分の頭を指差して、笑う。
「あ、そうだ。それから、これ」
千鳥さんが梅の飴玉が入った袋を、僕へ差し出す。
「本当はこれも一緒に連れて行こうと思ってたけど、周治君にあげる事にしたわ」
袋ごと、僕に?
僕は千鳥さんの言葉の意味の真意を掴めず、普通にそのままの意味で受け取ってしまった。本当は千鳥さんは、僕へ向けて合図を送っていたのに。僕はそれに、気付かなかった。
「え、悪いですよ」
「いいからいいから。私と周治君、梅仲間でしょ」
千鳥さんは笑うが、僕は笑っていられる気分ではなく。
「でも、それならお金……」
僕は慌てて鞄の中から財布を取り出すが、千鳥さんがそれを遮った。
「だから、お金とか気にしなくていいから。周治君は私の優しい気持ち、受け取ってくれないの?」
「……、そういう事なら遠慮無く」
僕は千鳥さんから(半ば強引に)梅の飴玉の袋を、受け取った。
「ん。これで、梅を見れば私だと思い出してくれる人が出来たから、私は満足かな」
「え」
それは、どういう意味なのだろう。千鳥さんは、此処の生徒ではないのか。
僕の不安を余所に千鳥さんは、満足そうに赤いメモ帳をスカートのポケットの中へ押し込んだ。僕はその場面をはっきりと、見ていた。
「最後に、君に会えて良かったよ」
最後。
僕は。僕の期待は。僕の不安は。僕の想いは。
彼女に、届いているのだろうか。
「……、あの。千鳥さん、春休みが終わっても、学校で会えます、よね?」
僕は不安を声に出して、千鳥さんへ訴えたけれど。
「バイバイ」
千鳥さんはそれだけ言うと、僕に背を向けて正面玄関から校舎から外へ飛び出した。
千鳥さんは僕に背を向けて、行ってしまった。
僕はまだ少しだけ夢の中に居るような気分で、千鳥さんを追いかける事も無く呆然と彼女の背を見ていた。
僕は千鳥さんと別れてからはもう、高校を見学する気になれず、早々と下宿している家へ帰った。
僕の下宿先は、一見、何処にでもあるような、普通の二階建ての民家である。しかし、その家の実態は五人の男が所狭しに暮らしている下宿屋であった。
五人の内訳は大家が一人、社会人が二人、フリーターが一人、高校生の僕という具合である。
買い物に出かけているのか、大家の別所さんは僕が戻って来た時、不在だった。珍しくフリーターの関口さんも居ない。後の二人は平日は会社へ行っていて部屋に居ない事は、分かっている。今、広いようで狭いこの家に居るのは僕一人だ。
僕は二階の自室へ戻ると、制服を脱いで私服に着替えた後、六畳の狭い部屋の中で大の字になって想う事は。
明日、もう一度、高校へ行ってみよう。もしかしたら千鳥さんが梅の飴玉を食べながら、笑って僕を出迎えてくれるかもしれない、そういう期待を抱きながら僕は眠りについた。
「周治君、周治君」
僕は大家の別所さんの声で、目を覚ました。あれから何時間寝ていたか知らないが、起き上がるとずきずきと背が痛んだ。
「はい」
「夕ご飯の支度が出来ましたよ」
優しい笑みを浮かべて、別所さん――、別所和馬(べっしょかずま)さんが僕へ告げる。
別所さんは、まだ二十八歳と若い。見た通りの優男で、背広を着て会社へ行っていてもおかしくはない風貌だが、どういう訳か大家という仕事で生計を立てている。
別所さんは、僕の父親の知り合いらしいが、僕は父親から話を聞くまで別所さんの存在を知らなかった。
けれども別所さんは、大家らしく家事全般が得意でしっかりしていて、僕等の面倒を見てくれるには申し分の無い人であった。
別所さんと一緒になって僕は、一階へ下りる。
一階の居間でテレビを点けていたのは、関口良平(せきぐちりょうへい)さんだった。
「あれ、帰ってたんですか」
「今、何時か知ってる?」
冷たい声で関口さんが居間にある時計を、あごで示した。
時計を見れば、午後の六時を過ぎているではないか。
……道理で背中が痛い訳だ。
僕は、関口さんの隣に座った。関口さんは、二十五歳。フリーターで昼も夜も無い人だった。それにしては背広を着こなし、髪も黒いままワックスで固めて、知らない人に社会人だと言っても通じてしまうだろう。
「久住さんと有川さんは?」
「久住さんはお風呂で、もうすぐ上がるよ。有川君は残業で遅くなるから、夕食はいらないって」
僕の言葉を聞いて別所さんが、不在の二人の状況を知らせる。
「有川さん、最近、残業って言っては遅いけど、女関係なんじゃないの?」
僕の横で関口さんが感情の無い声で、別所さんへ向けて話した。
あの有川さんであれば、残業と偽って女の所に居座っていてもおかしくはないけど。
「さあ、それは分からないけど、会社のプロジェクトが大詰めだって話してましたよ」
別所さんが夕食を運びながら有川さんの弁解を、関口さんにしている。
関口さんは仕事の話をすると暗くなり、自分の趣味の話をする時は少し明るくなる人だ。使い方さえ分かれば操縦はしやすいと言うのは、此処には居ない有川さんである。
有川さんの話をすると関口さんは決まって、暗くなる。多分、同じ年齢なのに有川さんは安定した職業で女にも困った事がないらしいく、関口さんはその逆をいっているので面白くないのだろう。
「ふうん。有川さんて、そんなに有能なんだ?」
「ははは、僻むなよ、良ちゃん。良ちゃんにもいつか、いい仕事が見付かるさ」
僕達の話を笑いながら割り込んで来たのは、風呂上がりの久住さんだった。
久住正宗(くずみまさむね)さんは三十一歳で、この家の中では一番の年長者である。正宗、と名前は格好良いが小太りで、細い目をしていて、最近の悩みは若い頃より髪が少なくなってきている事、だそうだ。因みに独身で結婚経験も無い。ねちっこい性格が災いして女にもてないんだと、久住さんに面と向かって言うのは関口さんである。久住さんはしかし、それを笑い飛ばして聞き流している。久住さんは基本、人が良いので何処か憎めず、場を明るくする才能は僕も見習いたいくらいだった。
「お、周ちゃん、学校見物はどうだった」
久住さんが関口さんから僕へ的をしぼり、冷蔵庫からビールを取り出して聞いて来る。
運の悪い事に僕は朝、制服を着て部屋を出た時、出勤する為に同じく部屋を出て来た久住さんに見付かってしまった。僕は仕方なく久住さんと別所さんにだけ、学校へ行こうとした事情を話している。
「学校見物? 入学式はまだ先じゃないのか」
「ああ。この間、制服が届いたから、どんな所か見学しておこうと思いましてね」
僕は息を吐いて、いぶかしむ関口さんにも説明する。
僕の話を聞いて関口さんが一言。
「あんたも物好きだね」
……ああ、言うと思った。
「どうだ、可愛い子は居たか? 今のうちに目を付けておいた方がいいぞ」
可愛い子。久住さんの話で僕は、学校で出会った千鳥さんを思い出していた。
しかし、千鳥さんの事を話せば久住さんは、芸能記者のようにしつこく聞いて来るだろうなあ。
「まだ春休み中だから、生徒はそう居なかったでしょう。ねえ、周治君」
「あー……、そうですね。校庭にも人は居なかったし……」
僕に助け船を出すのは、別所さんである。
「何だ、つまらんな。あ、良ちゃん。七時のニュースが始まるから、チャンネル変えてくれ」
ビールを飲みながら久住さんが、リモコンに近い関口さんへ向けて言った。年長者の権限で久住さんに逆らえない関口さんは、渋々リモコンを取ってニュースへとチャンネルを切り替えた。
「それじゃあ、皆も揃った事ですし、食べましょうか」
別所さんの合図で僕達は手を合わせて、いただきますと言った後で、夕ご飯を食べ始めた。
下宿の夕食は午後七時からと決まっていて、時間に間に合わなければ別所さんの絶品の料理の数々にありつけない。そういう訳で、僕と関口さんに限っては別所さんの料理を目当てに、午後七時になれば嫌でも顔を合わしている。久住さんと有川さんは仕事の都合で夕食に間に合わない場合もあるので、そういう日は事前に別所さんに告げておけば、夕食を取っておいてくれる仕組みになっている。彼等は後でそれを食べればいいだけの話だ。
別所さんの料理が出て来るのは朝と晩だけで、昼だけは各自で用意する必要があった。僕と関口さんの場合、社会人の二人と違って経済に余裕が無いので、別所さんの好意で昼ご飯も提供してもらっているけれど。
「お。ニュース速報だってよ」
久住さんにつられて僕と関口さん、別所さんがニュースに注目する。
アナウンサーが淡々と原稿を読み上げた、その内容は。
「今日の午後、公立高校の女子生徒がビルの屋上から飛び降りて、死亡しました。警察は女子生徒が自殺を図ったとみており現在、関係者から事情を聞いているそうです」
「あーあ。女子高生か、勿体無いねえなあ」
ニュースを耳にして久住さんは、嘆く。多分、久住さんが嘆いている勿体無いの意味は、下品でくだらないと分かり切っていたので僕は敢えて、彼の話に乗らなかった。
「最近、こういうニュース多いね。嫌な世の中だ。腐ってる」
これは関口さんの感想で。
「周治君。君は、彼女のように簡単に、命を粗末にしてはいけませんよ」
「はい、分かってますよ」
僕は別所さんのマトモな意見を素直に聞いて、頷いた。
ニュースは女子高生の飛び降り自殺を告げた後、政治の話へ移っていた。
僕達もニュースと同じで、いつもの夕食の時間へと移った筈、だった。
「あ。失礼します」
別所さんの携帯電話に着信があり、別所さんは律儀にも僕達に断って席を外した。
「女か?」
「別所さんに限って、それは無いでしょ」
「そうですね」
別所さんの電話の相手を詮索する久住さん。関口さんの意見に賛同するのは、僕だ。別所さんは遊び人の有川さんと違って、真面目で浮いた話一つ、聞いた事が無かった。関口さんも別所さんにだけは、敬意を払っている。
しかし。
電話が終わったのか血相を変えて僕達の前に姿を見せた別所さんは、いつもの別所さんではなかった。
別所さんから異様で尋常ではない空気が流れて、僕らを刺激する。
僕達は揃って顔を見合わせる。
「どうか、したのか」
年長者の久住さんが代表して、別所さんへ問い質す。
「すみません。身内に不幸がありまして――その、今から出かけなくてはいけなくなりまして」
青ざめている別所さんは、僕達に冗談でもそんな嘘を吐くような人ではなく。
「あの、片付けは戻ってやりますから――そのままで、大丈夫、ですから」
「おいおい。こういう時は、自分の事だけを考えた方が賢いぞ。各自でちゃんと片付けるからお前は気にしないで行って来い」
「何なら、僕が車で送っていきますけど」
気が動転して舌も回らない別所さんを支えるのは、久住さんと関口さんである。久住さんはもう酒を飲んでいるので車は運転出来ないが、関口さんは酒を飲まない人なので車の運転は出来る。
「そうだね、それじゃあ関口君に頼もうかな。駅まででいいから。駅に行けば知り合いが案内してくれるって」
「分かりました」
関口さんの申し出を受け、別所さんは慌しく背広を着て(喪服は現地で知り合いに貸して貰うらしい)、出かける準備をしている。
関口さんも自分の鞄を部屋へ取りに行った後、別所さんと一緒に家を出た。
家に残っているのは僕と久住さんだけで。
「ああ、こういう事なら酒を飲むんじゃなかったよ。今更、酒を飲む気にもなれないしな」
立ち尽くす僕の横で、久住さんが吐き捨てる。
僕もそのまま出された晩ご飯を食べる気にはなれなかった。久住さんも僕と同じ心境のようで、食べるのを止めてしまった。そのまま捨てるのは勿体無いので残った分は各自、明日へ回す事になった。
僕は、皿洗いを久住さんと分担してやり遂げると、自室へ戻った。
僕は布団も敷かずにそのまま横になる。
別所さんは大丈夫かな、と思うと同時にどういう訳か、千鳥さんの事も考えている。寝ている間は気にしなかったが、目が冴えてしまった今では、千鳥さんから貰った梅の飴玉の匂いが強烈で、部屋の中は梅の匂いで満たされていた事に気付く。でも、悪い気はしなかった。
僕は袋から一つ取り出して、梅の飴玉を口にする。梅の味。千鳥さんの、匂い。
また明日、制服を着て学校へ行ってみようか。そうしよう。千鳥さんに会えるかどうか分からないけど、部屋でくすぶっているよりはマシだと思った。
「おはようございます」
「おはよう」
翌朝。
居間で一人、新聞を広げているのは久住さんだった。
「別所さんは」
「あれからまだ戻っていない。良ちゃんだけは深夜に戻って来て、今は上で寝てるけど。有川も帰って来てないな」
そうなのか。
僕は自分専用のコップを取り出して、ポットに入れられているウーロン茶を注いで飲み込んだ。
「ん? 梅のお茶か、それ」
「え、いつものウーロン茶ですけど」
鼻を嗅ぎながら僕へそう尋ねる久住さん。僕は久住さんの言葉を否定する。
「いや、昨日から廊下やそこら中、梅の香りがしていたから、別所さんの趣味で梅酒でも作ってるんじゃないかと期待していたんだが――」
別所さんが新聞から顔を上げて、僕の動向を気にしている。
あ。
ひょっとして、僕が持っている梅の飴玉のせいじゃないか、それは。
「ああ、梅の香りは僕のせいです」
そう言って僕は、梅の飴玉の袋を久住さんへ見せる。
「ああ、何だ……。梅酒かと思ったのに。しかし、そういうのは女が好むもんじゃないか。それとも周ちゃんは意外と甘党なのか?」
「……、そういう訳でもないですよ。ただちょっと、試したい事があったんですよ」
僕は久住さんに千鳥さんについてあれこれ聞かれたくなかったので、わざと曖昧にしてはぐらかした。
「試したい事? そういや制服着てるな。また学校行くのか」
「はい」
「へえ、周ちゃんの高校、そんなにいい所だったのか。それなら、彼女も悔やんでたかもしれないなあ」
「――どういう意味です?」
僕は久住さんの言う「彼女」が気になり、尋ねた。
「これ。昨日、ニュース速報でやってた女子高生の飛び降り自殺の記事が載ってるんだけど。流石に女子生徒の名前は無いけどな、学校の名前が出てる」
僕は久住さんが指し示す新聞の記事を読んで、驚いた。
新聞の記事は小さく、大袈裟なものではなかったが昨夜、ニュースで速報として出された女子高生の飛び降り自殺の事が書かれていた。記事には女子生徒が飛び降りた原因は不明で今も尚、関係者から事情を聞いているとあった。そして、飛び降りた女子生徒が通っていた高校が、僕が四月から通う事になっている高校だった。
そう、昨日の朝、千鳥さんに会ったばかりの僕の高校で。
「まさか」
「こんな偶然もあるんだな。彼女が学校の屋上から飛び降りてたら周ちゃん、目撃者になってたかもよ」
それは洒落にならないんですけど。久住さんは冗談混じりで笑うが、僕は、その記事を読むうちにある一抹の不安を抱いていた。
まさか、そんな筈は。
幾ら何でも有り得ないだろう。
僕は自分の恐ろしい考えを振り払うように、首を何度も何度も振った。
「周ちゃん?」
「あ、すみません。僕、そろそろ行きます」
僕は久住さんから逃げるように、家を出た。
僕はそのまま、昨日来た時と同じ道を辿って高校の門の前で佇んでいた。
大丈夫。
千鳥さんは姿を現す。僕の前に。昨日と同じように、梅の飴玉を持って。千鳥さんが梅の飴玉を手にしていなかったら、僕が持ち込んだ梅の飴玉を渡せばいい。僕達は梅仲間だから、千鳥さんも快く応じてくれるに違いない。
だから、大丈夫。
しかし。
僕は高校の正門に手をかけるが、どういう訳か鍵がかかっていて閉められていた。
それでも僕は千鳥さんに会いたい一心で、鞄を学校の敷地内へ放り込むと軽く門を飛び越えた。
僕は鞄を拾うとそのまま昨日と同じように堂々と、校庭の中を歩いて正面玄関へと向かった。
「あれ、此処もか」
正面玄関も鍵がかけられ、閉まっていた。正面玄関から校舎の中を窺うが薄暗く、人が居る気配は無かった。千鳥さんの姿も無い。
どういう事だ。
まだ、時間が早かったか。でも腕時計を見れば、昨日、千鳥さんと会った時間であると間違い無いのに。
――大丈夫。
僕は僕の不安を振り払うよう、正面玄関の前に座って千鳥さんから貰った梅の飴玉を一個、口へと運び、そのまま地べたへ座り込んだ。
それから一時間以上、動かずに居た気がするが千鳥さんは現れなかった。
どうしようか、と考えていた時だ。
「おい、学校は閉鎖してるって連絡網で回した筈だが、聞いていないのか」
千鳥さんではなく聞いた事の無い男の声が、僕の頭上で響いた。
僕が顔を上げるとそこには、二十代とまだ若く背広を着た高校の教師らしき男が立っていた。角刈りで何かスポーツでもやっているような体格をしている。そのせいだろうか背広姿が全然、似合っていなかった。
男は、鋭い目付きで僕を睨んでいる。
「人を待っているだけです」
僕は睨みをきかせる男に対して嫌悪感を抱き、反抗するように応えた。
「人? お前よく見れば、うちの生徒じゃあないな」
「……」
男が僕に凄む。
「何処の記者だよ。昨日の件について知りたいと言っても、何も話す事は無い」
男は苛立ちを隠せず、強い調子で僕に迫る。
記者? もしかして昨夜報道された女子高生飛び降り自殺で、何件か問い合わせでも来たのだろうか。それでこの教師が対応していたと。
「場合によっちゃあ、警察に突き出すぞ」
「あの、一つ聞いていいですか」
「……、何だ」
僕は男の力に屈する事無く、立ち上がる。
僕の気丈な振るまいを受けてか、男は少し怯みつつも応じた。
「――千鳥、という名前の女子生徒を知りませんか」
瞬間。
明らかに男の顔色が変わった。
「何処でその名前を。名前は伏せていた筈だが」
「……」
ああ。
この時、僕の不安は確信へ変わり、恐ろしい考えは現実のものとなった。
僕は唇を噛み締め、体を震わす。
「おい」
「僕は――、彼女を救えなかった」
僕はそれだけ男に言い残して、その場から立ち去った。男は呆然と立ち尽くし、僕を追いかける事はしなかった。
千鳥さんは最初から、何処かおかしかった。
あの朝、僕があの場に居なければ千鳥さんは、学校の屋上から飛び降りるつもりだったかもしれない。
僕が学校に居たせいで千鳥さんのその計画は駄目になり、代わりに午後になって別の場所の屋上から飛び降りたのだろう。
僕は、千鳥さんの異変に気付きながらも彼女を救えなかった。
あの時、僕が千鳥さんを引き止めていれば――、彼女は最悪の選択を選ばなかったかもしれない。
僕は学校を出た後、ふらふらと何処へ行くあてもなく歩き続けた。
千鳥さんの事を想うと、胸が苦しくて痛かった。
最終的に辿り着いた先は、桜が満開に咲き誇っている公園のベンチで。
ああ、皮肉なものだ。この公園には梅の木が無いと僕は、分かり切っているのに。千鳥さんの好きなものは梅の木なのに。
でも僕は下宿に戻るのは嫌だったので、そのままただ呆然と、空を仰いでいた。
「周治」
夕暮れ迫る頃、だっただろうか。
僕に声をかけて来たのは、同じ下宿に住んでいる有川さん、だった。有川浩志(ありかわひろし)、それが彼の名前である。
有川さんは茶に染めた髪をだらしなく肩まで伸ばし、それをゴム一つでくくっていた。口の周りにヒゲをたくわえ、どういう訳か白いシャツにジーンズという軽装で立っているその姿は浮浪者のようで近寄り難い。しかし顔は良いのでこれでも、女は寄って来るのだろう。僕は知り合いでなければ、有川さんに近付く勇気は無かっただろう。
「……仕事はどうしたんです」
今の時間であれば有川さんは、久住さんと同じく会社に行っている時間帯の筈だ。
僕の疑問を、有川さんが淡々と答える。
「電話があったんだ。周治が夕飯になっても連絡が無いままで、帰って来ないから心配で、探して欲しいと別所からな」
有川さんは僕に構わず、煙草を吹かす。
ああ、別所さんには連絡を入れておくべきだったか。僕は思うだけでそれを実行する気にはなれなかった。
「どうした、戻らないのか。別所も金を貰っているとはいえ、人の子を預かっている責任はあるからな」
「……」
僕は。
僕は別所さんが待つ家に戻ってしまえば、それこそ彼女を――千鳥さんを思い出してしまう。
それでも。
「……、帰りますよ」
「そうか」
僕は有川さんと一緒になって、下宿へと戻った。
「あ、戻って来たんだ」
下宿へ戻ると居間で関口さんがテレビを点けて、くつろいでいた。
「それじゃ、別所さんと久住さんに連絡しておくわ」
「頼んだ。俺は部屋に戻るが――」
僕は関口さんと有川さんのやり取りに構う事無く、トイレへ駆け込むと便器へ顔を突っ込みそのまま、吐き出した。何も食べていなかったので僕の胃から吐き出されるものは、胃液だけで。
「おい、大丈夫か」
有川さんが僕を支えようとするが僕は、その手を振り払った。有川さんの後ろでは関口さんが何か嫌なものを見るような目で、僕を見ていた。
僕は胃液を吐けるまで吐き出した後で、彼等を睨んでから。
「僕に構わないでください。僕は――、最低な人間だ」
そう言い放って、自分の部屋へと閉じこもった。
布団も敷かずに大の字になって寝る。僕は顔を手で覆い、その後で――。
「う、ううっ」
僕は、声を押し殺して、千鳥さんの為に泣いていた。
四月。
僕は晴れて、千鳥さんが通学していた高校の生徒として、入学した。
千鳥さんの事を僕は、誰にも話していない。
警察にも、下宿先の大家さんである別所さんにも、だ。
あれから。
あれから一日経って僕は平然とした顔で、別所さん達の前に姿を見せた。
別所さんはあの日、夕食の時間になっても帰って来ない僕を心配して、下宿先の面々を総動員して探し回っていたと話した。
有川さんも久住さんも、会社の仕事を中断してまで僕を探してくれたようだ。関口さんは、連絡係で家に残っていたらしい。
僕は彼等に何度も詫びた後で、どうして時間になっても戻らなかったという話は、しなかった。別所さんは僕が無事、戻って来ればそれでいいと、いつもの笑顔で返してくれたのはありがたかった。他の面々もこれ以上、僕について詮索はして来なかった。
僕はあれ以来、高校に近付く事はしなかった。
でも時々、千鳥さんという存在が僕の心を支配し、僕をおかしくさせる。夜になれば千鳥さんを思い出し、不安になって女子供のように声を上げて泣き叫びたい衝動にかられる。そんな僕を押さえるのは他人の目があるからだろう。別所さんや久住さん――、下宿先の面々が僕を笑っているような気がして怖くて、泣きたくても泣けなかった。
それが幸いして僕は、僕で居られたかもしれない。
僕が千鳥さんと同じ学校へ通う決意をしたのは、ただ一つ。
僕は千鳥さんの高校で、千鳥さんの軌跡を追いかける事を決めたからだ。
ただ、それだけの為に僕は存在しているのだと思えば、幾分か気が楽になった。
自分が壊れる前に僕は、千鳥さんの自殺の原因を突き止めるべく、動いている。