夏:海と彼女の話 (前編)

 八月、夏休みの真っ最中。

 ワゴン車をレンタルして、久住さんの運転で僕達はひたすら南へ向かって走っていた。

「次は、梅の君の番だ」
「私は鈴木君を応援してるからね」

 ワンボックスの後部座席で僕に向かって二枚のトランプのカードを差し出しているのは、神崎由高(かんざきゆたか)で、由高の横で頬を紅潮させているのは彼の幼馴染である、藤野杏奈(ふじのあんな)であった。

「梅ちゃん、俺は右だと思う」

 僕達が乗るワンボックスカーを運転している久住さんが、バックミラーで僕達の様子を確認しながら笑っている。
 右か。右を見ると、由高が取りやすいように左よりも上に差し出している。由高を見れば、僕の視線に気付いたのか、にやりと笑っている。右か? そんなベタな。ひねくれ者の僕は左を取るべきか、それとも素直に右を取るべきか迷った。

「……、関口さんは、どっちだと思います?」
「ん? ああ、俺は別にどっちでもいいけど」

 僕に聞かれた関口さんは、スナック菓子を頬張りながら曖昧に答える。
 それじゃ、参考にならないんだけど。

「こういうのは素直に、周治君の思う方でいいと思いますよ」

 関口さんの代わりなのか助手席に居る別所さんが、迷っている僕に助言をする。
 そうだ、別所さんの言う通り、迷わず潔く、あっさりとカードを引けばいいだけの話だ。僕は思った通り、左のカードを引き抜いた。
 その、結果。

「っしゃ、これで二勝!」
「うわ、二連敗だ」

 ババ抜きに勝って喜ぶ由高と、負けて項垂れる僕。
「鈴木君、ゆーちゃんの作戦に乗り過ぎ」
「ふっふっ、俺は、梅の君の性格は見抜いてるからな」
 一回目のみならず二回目も見事に由高の作戦に躍らされた僕を呆れる藤野さんと、勝利の余韻に浸りながら不気味な笑みを浮かべるのは由高で。
「次、何のゲームする? ババ抜きも飽きてきただろうし」
「嫌味か」
 由高の提案を受けて、僕は卑屈になっている。
「それじゃ、七並べは」
「席が広くないから無理じゃない? 揺れてるしさ。それ以外で梅の君が勝てそうなのって、何があるよ」
「っていうかさ、その梅の君っての止めてくれる? 僕、それを許可した覚えがないんだけど」
 藤野さんが提案するのを、由高が却下し、僕へ話しかける。僕は、由高が使っている『梅の君』という自分のあだ名が気恥ずかしく、声を上げる。
「梅ちゃん、俺は気に入ってるけど。これ以上のあだ名は無いよ」
「ですよね。俺もこのあだ名を思い付いた時、鳥肌が立ちましたからね」
 久住さんの同意を得られて、由高が嬉しそうに得意になって頷いている。
 久住さんの『梅ちゃん』も、由高の『梅の君』から来ているのは明白である。由高は、久住さんを一目見て気に入ったようで、久住さんの方も由高に目をかけているようだった。
「だからって身内以外で、人前でもそれを使う事は無いだろう。由高のお陰で、教室の外でも僕を梅の君って呼ぶ上級生が居るくらいだし」
「いいじゃん、親しみやすくてさ。先輩達も、梅の君が気に入ってるから、梅の君に話しやすくなったって言ってたぜ」
 暗い表情で呆れる僕とは違って、由高はいつも前向きで笑顔が絶えない奴だった。
「それに、今でも車の中が梅の香りでいっぱいじゃないか。これも梅の君の成せる業だろう」
 由高が鼻で梅の匂いを嗅ぎながら言った。由高の言う通り、車の中は僕が持ち込んだ梅の飴のせいで、強烈な梅の香りで充満していた。
 そう、千鳥さんの好きな梅の香りで。

「私はこの匂い、好きだな」

 藤野さんが遠慮がちに僕を見る。僕は、藤野さんまで気遣わせてしまった事に、恐縮してしまう。
「僕は、梅が好きだから。悪いね、押し付けたみたいで」
「そんな事、無いよ。私は本当に梅が好きだから」
「そう? 梅はさ、匂いが良いんだよね。極端に酸っぱくないし、酷く甘い訳でもない、丁度良い匂いって言うかさ」
「うん、それ分かるかも。梅は何か落ち着くし」
「そうなんだよ、落ち着くんだよね、いい具合に」
 ああ、藤野さんと話していると、由高と違って何か和むなあ。藤野さんは由高と赤ちゃんの頃から一緒に居る仲らしいけど、その中で由高に似なくて良かったと本当に、心の底から思う。
「そんな藤野さんに、梅の飴玉をあげよう」
 僕は上機嫌で鞄の中から飴玉が入った袋を取り出すと、藤野さんに梅の飴玉一個を手渡した。
「ありがとう」
 藤野さんは笑顔で、僕から梅の飴玉を受け取る。
 藤野さんがそのまま口を開けて、梅の飴玉を頬張る。その仕草に僕は少し、ドキリとしたけど由高の手前、藤野さんから目を逸らした。
 と。
 僕の目の前に差し出された手は、藤野さんのものではなく。
「俺にはくれないの」
 由高が自分の飴玉が無い事に拗ねている。
「由高にやったら、なくなるから駄目」
「何だよう、梅の君の名付け親だぞ俺は」
 そんな事で威張っても、由高に梅の飴玉をあげる気にはなれなかった。
 でも。
「梅仲間、梅仲間」
「……全く、仕方無い奴だな」
 梅仲間を連呼する由高を見て僕は呆れながらも、梅の飴玉を由高に手渡した。


 ――梅の飴玉をあげたらもう、梅仲間だから。そう僕に言ったのは、千鳥さんだった。
 あの日。
 千鳥さんの遺品となった梅の飴玉は、今でも僕の手元に残っている。
 僕は千鳥さんが通っていた高校に無事入学し、晴れて高校生となった。
 ただ、当時の僕の様子といえば今より明るくなかったように思う。千鳥さんの件があって沈んでいたし、千鳥さんの事もあって人と関わるのを自分から避けて、五月に入っても友達が一人も出来ずに孤立していた。
 僕は、高校に入ってから部活に入って何かをやる訳でも勉強に熱心な訳でもなく、ただ呆然と日々を過ごしているだけで。
 クラスメイトも、僕と距離を置いて接している感じだった。おまけに、僕が持ち込んだ梅の飴玉についても、言及してこなかった。
 僕が教室に入るたびに教室の中が梅の飴玉の匂いが漂う事は、僕も分かっている。クラスメイト達はそんな僕の嗜好について何も言わなかった。一度、梅の匂いに関して教師から注意を受けたけど、僕が「千鳥さんの遺品だから」と話すと教師は黙って、それ以上何も言わずに梅の匂いに関して何も追求はしなかった。
 僕と千鳥さんの関係は、教師の間でもちょっとした噂のネタになっているくらいだと教えてくれたのは、担任の体育教師、高瀬だった。
 高瀬は、僕が千鳥さんを追いかけて学校まで押しかけた時に遭遇した背広の似合わない教師だった。入学当初、口を開けて僕の姿を化け物でも見るような目で見ていた。僕は僕で高瀬を無視しようと決めていたが、高瀬の方から僕に声をかけてきたのは。

「桜井には友達が居なかった。あの事件があった日も、誰一人、彼女について学校まで詳細を聞きに来る人間は居なかった。……お前だけだ、桜井に声をかけてきてくれたのは」

 僕はそれを聞いて、胸が苦しかった。
 そう。
 千鳥さんの傍に居たのは僕だけで、千鳥さんは孤独の中で笑って僕に接していてくれたのだろうと思うと、また泣きたくなった。
 千鳥さんと同じ高校に入学して分かった事は、千鳥さんの名字が桜井である事と、彼女が不登校気味で、学校に来ても保健室で授業を受けていた事、同級生達はそんな彼女を無視し続けていた事、だった。
 桜井千鳥。
 梅が好きな千鳥さんにとって、皮肉な名字だなと――僕は苦笑する。
 千鳥さんの同級生は、もうこの学校に居なかった。千鳥さんは三年生で、僕が入学する頃には皆、卒業していた。
 僕は千鳥さんを無視していた原因を探ろうとしたが、高瀬から止められ、それでもなんとか名簿を手に入れて一人一人にあたってみた。

 ――僕はこの時、開けてはいけないフタを開けてしまったような気分になった。

 千鳥さんの同級生から語られる千鳥さんの物語は、僕からすれば想像の域を超えているものだった。
 これは千鳥さんを無視していた人達を責められる訳もなく、千鳥さん自身を冒涜する訳にもいかず、僕は途方にくれる。
 僕の力で千鳥さんを救えるのは、此処までだった。
 このままでは千鳥さんも浮かばれない。僕は自分の力が無い事に嘆き苦しみ、とうとう、下宿先の久住さんや関口さん、大家さんである別所さんとも口をきかなくなった。
 僕は、学校でも誰とも喋らない毎日が続いた。絶望の底に落とされた気分だった。僕はバイトもせずに家の中で引きこもる事が多く、外も出ずにそのまま六月へ入った。
 そんな時だ、由高と藤野さんに出会ったのは。

「梅の君。次の授業、移動だぜ。教室で一人、黄昏てどうする気だよ」

 休憩時間が終わる間際になって僕は、由高のその言葉で机から顔を上げる。教室には僕以外、誰も居なかった。
 由高は教室の戸に背を預けて、僕が席を立つのを待っている。由高の隣には、藤野さんが居て遠慮がちに僕を見ていた。
 僕は次の授業が移動である事は当然、頭に入っている。しかし僕は、次の授業をさぼろうと考えていた。
 僕は最初、由高を無視しているという態度を彼に示す為、再び机に顔を伏せた。由高は、クラス委員長や風紀委員とかいう頭のかたい連中ではないと、僕は思っていた。だから僕はそのままやり過ごせると思っていた。
 所が、僕の予測に反して由高はずかずかと教室に入って来て、僕の向かいにある椅子にまるで自分のもののように座った。勿論、僕の前は由高の席ではなく。

「よう。授業をさぼるなら俺達と話す気は無いか、梅の君」

 僕は最初、由高が何を言っているのか見当がつかなかった。
 僕が思わず由高を見れば彼は笑っていた。その中で授業開始の鐘が鳴り響いている。移動するにはもう、間に合わない。
「杏奈も来いよ」
 由高の合図で、藤野さんが少しためらいがちに教室に入って来る。
「どうしよう、私、初めて授業さぼった」
「はは、俺も同じだ。ばれなきゃいいだろ」
 胸に手を置いて緊張気味に教室の中を見回す藤野さんを、笑いながら彼女に応じる由高は何処までも気楽だった。
 僕は僕で、二人の事を無視し続ける気で、彼等の会話に入る事はしなかった。何も触らなければ彼等も僕に構わず、授業に復帰してくれるだろうと思ったからだ。
 しかし――。

「梅の君、今日の晩ご飯、何だと思う? 俺の希望はカレーかグラタンなんだけどさ。俺、中でもグラタン好きなんだよね。特に杏奈の母さんのグラタンの味は絶品なんだ。杏奈の母さんのグラタンなら、千円以上払っても損は無い」

 僕の前でべらべらと他人の母親の料理を褒め称えるのは、由高だった。
「でも、今朝のチラシで大根が安いってあったから、杏奈の母さんはきっと肉じゃがか、おでんになると思うんだよ。杏奈の母さん、季節感無しで料理作るからな。夏なのに鍋物作ったり、冬なのにソウメンや、冷やし中華作ったりするんだ」
 ……本当、季節感の無い人だな。僕は気付けば由高の話を聞き入れ、登場人物である杏奈の母さんに呆れている。
 杏奈といえば、由高の隣で微笑んでいる藤野さんの名前じゃなかったか。これは、どういう訳があるのだろう。僕は堪え切れず、由高の話に乗ってしまった。

「……ねえ、その杏奈の母さんというのは隣に居る藤野さんのお母さんか」

 僕の発言を受けて、由高と藤野さんが顔を見合わせる。
 そして由高は嬉しそうに、自分達の境遇を僕に話した。
「俺達、家が隣同士で赤ちゃんの頃から知り合いでさ。杏奈とは兄弟同然に育ったんだよ。親同士も仲が良くて、毎日、互いの家を行ったり来たりしている訳」
 なるほど。奇特な関係だと、僕は思った。
「杏奈の母さんは晩ご飯担当で、俺の母さんはデザート担当になってるんだよ。俺の母さんは言っちゃ悪いけど料理下手でさー。代わりに、デザートは菓子職人も真っ青。洋菓子が得意でケーキやクッキーを作るのは天才的。杏奈も俺の母さん以外の菓子は食べられないって言ってる」
「うん。ゆーちゃんのお母さん――、久子(ひさこ)さんのお菓子を食べたら、店のお菓子は食べられないよ」
 へえ、そこまでの人なのか。そこまで言うなら僕も一度、久子さんのお菓子を食べてみたいものだ。
「梅の君の所の晩ご飯は、どんなんだ?」
 今度は由高が僕に尋ねる。
「……あのさ、さっきから気になってたんだけど」
「うん?」
「梅の君って、僕の事を言ってるの?」
 僕の疑問を聞いて由高の方が驚いた顔になった。
「あれ? 知らなかった? お前の事、皆、梅の君って呼んでるぜ」
「……全然、知らない」
 初耳だった。
「お前だろ、教室に梅の匂いを持ち込んでるのは」
「ああ」
 僕は由高に否定しなかった。
「最初は皆、梅の匂いの元が分からなかった。だから皆、梅の匂いの主を梅の君って呼んでたんだ。四月も終わって、段々とクラスの奴等と親しくなって行く中で、お前だけが孤立していた。そこでようやく梅の君が分かった。お前が一人で教室に入るたび、梅の匂いがするから、お前が梅の匂いの主だってな」
「……ああ、そういう訳でか」
 僕は由高の説明に納得している。
「俺は、梅の君という呼び方が気に入っているんだ。お前を表すこれ以上の言葉は無い。俺はこれからもお前を梅の君と呼び続ける」
「……実を言えば、梅の君の名付け親、ゆーちゃんなんだよね」
「あ! それは内緒にしておけって言っただろ!」
 由高の秘密を僕にあっさりとばらしてくれたのは、藤野さんだった。藤野さんから秘密を暴露された由高が怒っている。藤野さんへの由高の怒りは本気ではない事くらい、僕も見抜いていたので特に止めに入らなかった。
「まあ、俺はこれからもずっと、お前を梅の君と呼び続けるからそのつもりで」
「何でよ。僕に何の許可も無く、呼び続けるのはおかしいだろう」
 腕を組んで強気になって言い放つ由高に僕は一応、反抗してみる。
 僕からすれば由高の作った『梅の君』というあだ名は、男に似合わず女々しい感じがして嫌だった。
 それでも由高は僕の目を真っ直ぐに見てから、そして――。

「梅の匂いが消えるまで俺は、あんたを梅の君と言い続けてやるよ」

 実に楽しそうな顔で、そう言ってのけた。
 由高に千鳥さんを見透かされたような気がした僕は、唇を噛み締め俯くだけで何も言い返せなかった。
「……鈴木君、ゆーちゃんの言う事、余り気にしなくて良いから」
 これまた僕を気遣ってか、藤野さんが優しい言葉をかけてくれる。
 藤野さんは由高と違って大人しく、優しい子であると再認識した次第である。僕は藤野さんの優しさに打たれて、思わず鞄の中から千鳥さんから貰った梅の飴玉が入った袋を取り出していた。
「……鈴木君、それ」
「ああ。これが、梅の匂いの元なんだ。……、藤野さんに一個、あげるよ」
 僕が藤野さんに梅の飴玉一個をあげた。
 梅の飴玉を凝視して見ている藤野さん。
「大丈夫、そんな変なものじゃないから。賞味期限もまだあるよ」
 僕は梅の飴玉の袋を藤野さんに見せたのは、賞味期限を確認してもらう為だ。藤野さんは少しだけ首を横に振ったあと、言ったのは。
「う、うん。ありがとう」
「俺にはくれないの」
 礼を言う藤野さんの横で、由高が拗ねている。
「杏奈にはやって俺にはくれないのか。不公平じゃん、それって。俺も梅の飴玉を貰う権利はあると思うんだ」
 ……何処まで図々しいんだ、コイツは。僕は呆れながらも、少しだけ笑って仕方が無いなあ、と言いながら由高にも梅の飴玉を一個、あげた。
 由高は喜んで、その場で梅の飴玉を口の中へ放り込んだ。
 これで、藤野さんと由高も千鳥さんの梅仲間だ。
「なあ、二人にいい話があるんだけど」
「ん? いい話なら何でも聞くぞ」
「私も」
 由高と藤野さんが僕の言葉に面白いくらいに反応してくれるのは、ありがたかった。
 僕は息を吐いて、二人に向けて話したのは。

「梅仲間に入らないか――」

 そうして僕と由高、藤野さんは友人になった。


 それから日々が過ぎて行き、夏休みに入った。
 夏休みに入って直ぐ、別所さんから旅券が格安で手に入ったので皆で海へ行かないかとの誘いがあった。
 別所さんの話によれば、彼の知り合いが経営する旅館で、そこなら格安で宿泊させてくれるらしかった。海の近くにある古い旅館で、夜は地元で花火大会もあるという。
 僕は夏休みの予定は何も無かったし、今までの罪滅ぼしに、別所さんの誘いに乗った。
「団体割引もきくし余裕もあるから、周治君の友人も何人か呼んでもいいですよ」
「下宿のメンバーじゃ男ばかりだからな、女の子を期待してるぞ」
 別所さんの話に便乗するのは、久住さんである。
 久住さんの話を受けて僕は、真っ先に藤野さんを思い浮かべた。藤野さん以外、親しい女の子は居なかったせいだ。
 藤野さんを誘う口実に、由高も誘う事にした。案の定、由高は嬉々として一発で承諾したが藤野さんは一泊するという話を聞いて、最初は渋った。しかし、久住さんや別所さんの保護者付きだと話したら、藤野さんも快く受け入れてくれた。
 朝、僕の下宿に現れた由高と藤野さんは、最初、寝巻き姿で出て来た久住さんを別所さんと勘違いして、お世話になります、よろしくお願いしますと、バカ丁寧な挨拶をしていた。
 僕は別所さんが出て来て彼がそうだと二人に伝えると、由高もだけど、藤野さんは由高以上に驚いていた。若くて格好良いね、と藤野さんに別所さんをそう評価された時は、複雑な気分だった。
 この日の為にレンタカーで借りたワゴン車を運転するのは、久住さんの役目になった。朝運転するので、昼に酒が入ったら運転が駄目になるので、酒が飲めない関口さんに代わりに運転してもらおうという魂胆である。
 別所さんと久住さん、そして万年就職活動中の関口さん。僕と由高と藤野さん。六人を乗せたワゴン車は、別所さんの知り合いの旅館へ向かっている。
 有川さんは、どうしても抜けられない用事があるらしく夜になって旅館で合流する予定だ。有川さんは、最近付き合い始めた彼女を連れて旅館へ行くと、僕達に話してあった。有川さんは面食いで、美人の彼女が多いと言っていたのは久住さんだっただろうか。僕は有川さんの彼女を初めて見るので、藤野さんに悪いなと思いつつも内心、楽しみだった。


 二時間近く車に揺られて辿り着いた目的地である旅館は、古い武家屋敷を改造したものだとかで、室内も畳が敷かれた和室で広く、日本庭園も備わっていた。
 部屋の割り当ては全て、別所さんの手によるものである。僕と由高、別所さんと関口さん、久住さんと有川さん。流石別所さん、妥当な部屋割りだと思う。藤野さんは、有川さんが連れて来る彼女と同室だと聞かされ、安心していた。

「さて、今から自由時間です。海へ行くのも街へ行くのも良いですが、時間通りに帰って来る事。何かあったら、私のケータイまで連絡してください」

 僕達に向かって話しているのは別所さんである。
 一泊とはいえ、僕以外の人様の子を預かっているので、別所さんもいつになく慎重になっている。
 僕達も真剣に別所さんの言う事を聞いてから、旅館を出た。
 一歩外に出れば、近くに港があり、そこからの潮の臭いが鼻をつく。別所さんに連れられた街は、小さな港町である。
 潮の臭いに刺激されたのか、由高が僕と藤野さんを見回して言った。
「どうする? 泳いで行くか?」
「そうだな、折角来たから泳ごうか。藤野さんは、大丈夫? 疲れてない?」
「うん、大丈夫。海に行こう」
 満場一致で僕達は、海水浴場へ向かった。


 海水浴場は、時期が時期なので人で一杯だった。家族連れやカップル、僕達みたいに仲間内で来ている人間も大勢居る。
 僕と由高は普通に海パンで、藤野さんはどういう訳か色気も全く無いスクール水着であった。藤野さんのビキニ姿を拝めると思った僕は正直、拍子抜けしてしまった。
「あ、あの、どうかな」
 恥ずかしそうにもじもじしながら藤野さんが、僕の意見を求めている。
 どうかな、と言われても藤野さんのスクール水着は学校の水泳の授業でも見ているんだけど。今更、新鮮味が無いなと僕は、藤野さんに言う勇気は無かった。
「ゆ、ゆーちゃん。鈴木君、思い切り引いてるんだけど……」
「大丈夫、男は学校以外の場所でのスク水姿に萌えるもんだ。梅の君も例外無くな! な、そうだろ」
 涙目になって由高に訴える藤野さんと、藤野さんを安心させるように言葉とは裏腹に爽やかな笑顔で僕に同意を求める由高と。
 ……そうか、藤野さんがスクール水着で登場したのは、由高の入れ知恵か。
「ああ、藤野さんのスクール水着は、目の保養になるよ」
「……っ」
 藤野さんの手前、彼女のスクール水着姿を褒めるべきだと僕は判断する。しかし藤野さんは顔を赤くして、由高の後ろに隠れてしまった。
 ……あれ、僕は藤野さんを褒める部分を間違ったのか?
「グッジョブだ、梅の君」
 藤野さんの態度に慌てる僕に対して、ウィンクしながら親指を立てる由高が居た。由高のサインを読み取ると、藤野さんは嬉しくてたまらず、隠れてしまったらしい。僕は藤野さんを傷つけていないと分かると、安心して胸を撫で下ろした。

 ――もし、僕が藤野さんを傷付けて彼女が千鳥さんのようになってしまったら。

 僕は千鳥さんと藤野さんを重ねて、背筋を震わせた。
「よし、泳ぐか」
「準備体操しろよ」
 そのまま海に飛び込む勢いの由高を見て、僕が苦笑する。その横で藤野さんが笑っていた。
 いつもの変わらない、三人が居て。
 その中で僕が思うのは、由高でも藤野さんでもない、千鳥さんで。
 由高も藤野さんも、千鳥さんの話を知らなかった。僕が彼等に千鳥さんの事を話していないせいだ。
 由高や藤野さんが千鳥さんについて、知らない方がいい。彼等が知るべき事でもないと僕は考える。
 海の中は冷たくて気持ちが良かった。
 海へ来て分かった事は、藤野さんが意外とモテるという事実である。僕がジュースを買いに行っている間、藤野さんは数人の男達に囲まれて困っていた。由高は一人で泳ぎに行っているのか見当たらない。僕は息を吐いて、藤野さんを助けに行った。
 僕が藤野さんの連れだと分かると男達は明らかに嫌な顔をして、散り散りに去って行った。
「大丈夫? 僕がジュースを買いに行っている間、由高も藤野さんに一緒についてろってあれだけ言ったのに」
 そう、僕は由高に藤野さんを一人にするなと念を押していた筈で。
「大丈夫、だよ。ゆーちゃんは悪くないよ。ゆーちゃんの作戦に乗った私も悪いし……」
「は? 作戦?」
 作戦? 一体何の作戦だ。
「あ。あの、違うの。作戦じゃなくてその」
 僕が困惑しているのを見た藤野さんが俯いて、必死になって言葉を選んでいる。
 また、由高に何か言われて藤野さんがそれを実行したのか。
 全く、由高には呆れる。由高の遊びに付き合う藤野さんも藤野さんだけど。
「……鈴木君、ごめんね。私、ゆーちゃんに言われると断り切れなくて……」
「ああ、全然大丈夫だよ。何の作戦か分からないけど、藤野さんは由高の被害者だって分かるから」
「……」
 僕の言葉を聞いて、藤野さんはまだ何か言おうとしたけど結局、何も言わなかった。
 しばらくして由高が何食わぬ顔で帰って来た。僕はすました顔で由高を出迎える。最後の一泳ぎだと言って、由高が僕と藤野さんを誘って海に飛び込んだ。
 海で泳いだ楽しかった時間はあっという間に過ぎて、夕方になった。
「夕日が綺麗……」
 水平線に浮かぶ夕日を見て藤野さんが溜息を吐く。
「最高だな。去年までは杏奈と二人で海行ってたけど、今年は梅の君も居るから」
 藤野さんと並んで恥ずかしい事を臆せず言うのは、由高である。
 確かに、友人と三人で見る夕日は最高だった。
 もし、千鳥さんが生きていたら僕の隣に居るのは、藤野さんではなく千鳥さんだったら。藤野さんのように千鳥さんも笑って僕に向かって夕日が綺麗、と言ってくれただろうか。千鳥さんを考えるたびに僕は、駄目になる。そんな気がした。
「どうした、梅の君」
「え、あ」
 ぼうっとしていたのか、由高が自分の顔を心配そうに覗き込んでいるのに気付かなかった。
「ごめん、色々考えてて……」
「そうか。考えるのは良いが、今、この時間は今しか無いんだ。今しか無い事は、今の事しか考えないようにしろ。こうやって三人で海を見ているこの瞬間は、俺達だけの楽しみで、それに」
 由高は最初、海を見詰めていたが、やがて僕の方へ向き直り、

「……、それが生きている人間の特権だろう」

 そう、言い放った。
 由高が目を細めて僕を見据えている。
 もしかして由高は千鳥さんを知っているのではないか――。
 今の由高の最後の言葉は、僕と千鳥さんの関係を見透かしているように思えた。
「まあ、梅の君の考え事は俺もさっぱりだけどな」
 僕の言葉を待たず次にはもう、由高はおどけていていつもの顔に戻っていた。
 僕は僕で、由高に千鳥さんについて聞く機会を逃してしまった。由高がこの件について話を終わらせたせいだ。
「そろそろ戻ろうか。久住さん達も心配するだろう」
 由高が笑いながら言い、僕も藤野さんもそれに賛同して旅館までの道を歩き始めた。


 旅館に戻ると、有川さんとその彼女が到着したと別所さんから報告を受けた。
 別所さんの案内で、僕達は有川さんと彼女に対面を果たした。
 皆川有紀子(みながわゆきこ)、有川さんの彼女の名前である。
 有紀子さんは大和撫子、という言葉が似合う、純和風美人であった。透明感のある白い肌と手入れの行き届いた混じり気の無い黒で胸元あたりまで伸びた長い髪、着物が似合いそうな細い体。流石、有川さんの目に適うだけはあると僕は有紀子さんを見て感心してしまう。
 有紀子さんは藤野さんを一目で気に入ったようで、藤野さんも何時の間にか有紀子さんと打ち解けて会話が弾んでいた。
 旅館の一室で、僕達は有紀子さんを囲んで話している。久住さんと別所さん、有川さんはビールを片手に話し込んでいて、関口さんは耳で音楽を聴きながら本を読んでいた。

「ねえ、有紀子さん、私達の先輩なんだって」

 少し興奮した様子で藤野さんが僕と由高に報告する。
「え、同じ高校ですか」
「そうよ。こんな偶然もあるのね」
 藤野さんの報告を聞いて由高も話に加わり、有紀子さんは優しい笑みを浮かべて僕達を見ている。
「有紀子さん、私達より五個上だから……、今の三年生より二回上だね」
「有川さん、何歳でしたっけ」
「……何が言いたい」
 藤野さんが指折り数える横で僕は思わず有川さんを見た。有川さんにしては若い子を選んだものだと僕は言いかけて止めたのは、彼の目が怖かったせいだ。
 有紀子さんが僕の先輩という事は、千鳥さんの先輩でもある。ひょっとすると、千鳥さんの件を有紀子さんも知っているかもしれない。けれど今、それを聞くのは場の和やかな雰囲気を壊しそうで、そのせいで僕は一歩を踏み出す勇気が無かった。
 僕が悶々としている間、有紀子さんは僕達の担任、高瀬について話していた。
「へえ、あの高瀬先生が担任なの」
「俺は体育会系が鼻について、嫌な奴だって思ってるけど、有紀子さんはどうだった」
 僕も高瀬については、由高と同じ感想を抱いていた。千鳥さんの件があってから僕と高瀬の距離が微妙にあって、僕も必要以上に高瀬と話した事が無かった。
 しかし有紀子さんは、高瀬に関して意外な感想を持っていた。
「高瀬先生は良い先生だわ。確かに、熱血漢な所はうっとうしいけどね。話してみると案外、誠実なのよ」
「……、分かります。最初はとっつきにくいけど、話してみたら色んな相談にも乗ってくれるのは今の所、高瀬先生くらいだし」
 有紀子さんの話しに便乗するのは、藤野さんである。
 高瀬は、女性陣にはウケが良かったのか。
 僕と由高は理解し難い話しだと、互いに顔を見合わせる。

「高瀬先生といえば今、大変でしょう」

 不意に漏らした有紀子さんの言葉に僕は、ドキリとする。
「大変って、どういう事ですか」
 身を乗り出して聞くのは藤野さんで。
 不意に由高と目が合った。由高は直ぐに僕から視線を逸らした。
「知らない? 春先にあった事件だけど、ニュースにもなったでしょう。女子高生がビルの屋上から飛び降りて自殺した事件。その女子高生が高瀬先生の教え子だったらしいの」
 ああ、やっぱり千鳥さんの話しだった。
 有紀子さんは世間話の延長戦という感じで気楽に話しているけど、僕の心の中ではそんな気軽に話せる内容か、と苛立ちを募らせていた。
「ああ、あの女子高生、やっぱりうちの高校だったんだ。俺、新聞読まないから、母親からちょっと聞いていただけでさ」
「私も……、あまり詳しく知らないです。有紀子さんは女子高生の詳細、知っているんですか」
 由高も藤野さんも、自分の好奇心だけで有紀子さんに続きを促している。
 由高も藤野さんも最低だ、と僕は思った。
 ……だけど、一番最低なのは僕か。
 千鳥さんを救えず、今でもこうして生きているんだから。
「……、私、あの子については余り話したくないの」
 由高と藤野さんに迫られると、有紀子さんは少し困った風に笑った。
 有紀子さんの言葉で、場の空気が冷えて沈んだ。
 皆、気まずくなって沈黙する。
 その沈黙を破ったのは別所さんだった。

「そろそろ花火大会が始まるらしいですよ、一緒に行きませんか」

 久住さんと話していた別所さんの言葉で、僕達も立ち上がる。
「そうそう、花火大会を楽しみにしていたんだよ」
「此処の花火、綺麗らしいわよ」
 由高に続いて有紀子さんが明るく声を上げる。
「ね、あなたも行くわよね、勿論」
「……何の為に此処へ来たと思ってる」
 有紀子さんの言葉に頷くのは有川さんで。
 有紀子さんが大胆にも有川さんの腕にしがみついている。藤野さんはその様子を羨ましそうに見ていた。
 花火大会の会場まで僕は、久住さん達と一緒に向かった。
 途中で二人で見て回りたいからと有紀子さんと有川さんが輪から離脱し、その後で関口さんも一人で見て回ると言って、僕達から離れた。
 花火大会の会場に着いた頃、僕を入れて久住さんと別所さん、由高と藤野さんだけになっていた。
 花火大会の会場は神社の一角にあったが、何処から沸いて出たのか言うくらい、人であふれていた。
「屋台も色々出てるなあ」
 久住さんが辺りを見回しながら言った。
 神社の境内には露店が並び、焼きソバ等の食べ物を扱った店もあり、食欲をそそる良い匂いが立ち込めている。
「花火の観覧席は一杯らしいですよ。早めに来て、チケットを買わないといけなかったみたいです、すみません、私の不手際で席が取れなくて……」
 別所さんが申し訳無さそうに僕達に告げる。
「大丈夫ですよ。屋台を物色しながら花火を見た方が、断然良いです」
 別所さんに恐縮するのは由高だった。
 僕も藤野さんも由高に同意見であると、別所さんに示した。
「さて、それじゃあ、此処で別れよう。俺のケータイと別所のケータイ番号、分かるな」
 久住さんが僕を見て、言った。僕は久住さんの言葉に頷く。
「良し。時間厳守で待ち合わせ場所まで来る事だ。羽目を外しすぎて、警察沙汰になるような事はするなよ」
「分かってますよ」
 僕達はもう高校生だ、久住さんの忠告を受けなくてもそれくらいの分別はある。
 僕は別所さんと久住さんと別れて、由高と藤野さんと一緒に屋台を見て回る事になった。

「まずは、何からやろうか。……あれ、由高は何処だ」
 別所さん達と別れた後、しばらく歩いて振り返ってみれば、由高の姿が見当たらなかった。
 藤野さんは俯いてはいるけど、僕の後ろをちゃんとついて来ているというのに。
 人込みの中で余り特徴の無い由高を探すのは困難だった。
「あいつ、この人込みで迷子になったのか? 藤野さん、あいつの携帯の番号、分かる?」
 手間のかかる奴だ。僕は俯いたままの藤野さんに、努めて優しく話しかけた。
 けれども藤野さんは、僕に由高の携帯番号を教える素振りを見せなかった。
「あいつ、携帯持ってたよね? まさか旅館に携帯を忘れてるとかいうオチじゃないよね」
「……ごめんなさい」
「何で藤野さんが謝るのか、さっぱり分からないんだけど。……ああ、これもまた何かの作戦で僕を嵌めようとしている訳?」
 昼間の海での件と同じように、藤野さんが由高に言い包められている可能性は大いにあった。
「藤野さん」
「ごめんなさい、ゆーちゃん、私に気遣ってわざとはぐれたんだよ」
 由高が藤野さんを気遣ってわざとはぐれた? 僕はどうして由高が藤野さんを気遣うのか、その理由がさっぱり分からなかった。

「私が……、私が鈴木君と二人だけで、花火を見ようと思ったから」

 藤野さんが涙目になって、僕に訴える。
 僕と二人で。ええと、それを要約すると、由高は僕と藤野さんを二人きりにさせるべく勝手に一人ではぐれたと。
「本当に、私のワガママでゆーちゃん、一人になったの。ゆーちゃんの勝手で、鈴木君を困らせてる訳じゃないから……」
「それは分かるけど……、でもどうして、僕なんかと見て回りたいの? それならむしろ僕が気を遣うべきだったんだ。藤野さんと由高を二人きりにした方が、藤野さんも嬉しかったんじゃないか」
 そうだ、忘れていたけど藤野さんは、由高と兄弟同然に育っている仲だ。僕と居るよりは由高と居る方が藤野さんも気遣いが無くて、肩の荷も下りて気楽に花火も見れるというものではないか。
「違う。私は由高より、鈴木君と一緒に居たいと思っていた」
「……だから何で? 僕は、由高より面白みの無い男だって自覚してるけど」
 必死になる藤野さんを見ても僕は、首を傾げるばかりで。
 藤野さんは思い切り深呼吸をしてから、僕の目を真っ直ぐに見詰めてきた。
 そして。

「私は、鈴木君が好きだから」

 藤野さんの声と重なるように、一発目の花火が打ち上がった。あちこちで歓声が上がる。辺りが騒々しくなる。
 それでも僕は、藤野さんの言葉を聞き逃さなかった。
「……それは、友達としてじゃなく?」

「本気で、の意味で。私、ずっと前から鈴木君が好きだった。それは、ゆーちゃんも知ってるから。だからゆーちゃん、私に協力してくれていたの。今日の旅行も梅の君を落とせるチャンスだから色々作戦練って来た、とか言って私よりも張り切って……。海でのスクール水着も、男に囲まれて困っていたのも全部、鈴木君を振り向かせる為のゆーちゃんの作戦で……」

 藤野さんの告白は、少なからず僕には衝撃的だった。
 だって僕は、藤野さんの本命は由高とばかり思っていたから。
「本当に……、僕が好きなの?」
「うん。私は鈴木君が好き。鈴木君以外の男の人には目が向かないくらいに」
 藤野さんの頑なな言葉に流石に僕も、赤面してしまう。
 しかし僕は、藤野さんの告白が嬉しくもあり悲しくもあって、複雑だった。
 僕の中にはまだ千鳥さんが存在していて。
 僕は藤野さんに千鳥さんの事を話すべきかどうか、迷った。
 だけど。

「……返事は今すぐ、じゃなくていい。鈴木君が決めた時でいいから。私は鈴木君の返事をずっと待つ覚悟でいるから」

 藤野さんの強さに胸を打たれた僕は、自分も覚悟を決めるべきだと思った。
「あのさ。少し、話があるんだけど。藤野さんはこの話を聴いて、僕の事を軽蔑して嫌になるかもしれない。その時は、今の告白を無効にしてくれてもかまわない」
「……」
 藤野さんは僕の前置きを聞いても、頷く事はなかった。
「歩きながら、話すよ。藤野さんは真面目に聞かなくても良いから。ただの世間話だ」
 僕は自然と藤野さんの手を取っていた。藤野さんは何も言わず、僕に手を引かれて一緒に歩いている。
 僕はその中で藤野さんに、千鳥さんの話しを始めた。


「……という訳で僕の中にはまだ、千鳥さんが居る。千鳥さんの件を片付けない限り、僕は藤野さんと付き合う気は無い」
 千鳥さんの話しが終わる頃、僕と藤野さんは神社の入り口にある石造りの階段に腰かけていた。
 一応、此処が別所さん達との待ち合わせ場所になっている。
 花火が歓声と共に夜空に打ち上がる。何発目の花火か分からなかった。
 でも今、藤野さんの耳には花火ではない、僕の悲しい話しだけが響いている筈で。
「ごめん。折角の花火大会なのに、こんな暗い話をして。だけど、僕にとっては千鳥さんは大切な人なんだ。千鳥さんの話をしないまま、藤野さんと付き合う余裕は僕にはなかったから……」
 僕は打ち上がる花火を見ないで、地面ばかりを見ていた。
 藤野さんは、花火を見ているだろうか。それすらも分からなかった。
「私は」
 人の歓声よりも花火の音よりも、藤野さんの静かな声だけがはっきりと、僕の耳に届く。
「私は、鈴木君が千鳥さんの話をしてくれて、良かったと思っている。私も千鳥さんの話を知らないまま、……鈴木君の想いを知らないままで、鈴木君の返事を待っているのはきっと、辛かった」
「……ありがとう」
 僕は今、藤野さんの言葉で救われている。
 僕も藤野さんのように千鳥さんを救えたら良かったのに。
「それに……、私もまだ、鈴木君に隠している事があった」
「え」
 此処で僕はようやく藤野さんの顔を見た。
 藤野さんは笑っている。
「梅の君っていうあだ名考えたの、実は私なんだ。ゆーちゃんじゃないんだよ」
「マジで」
 それは、予想もしなかった話で。僕は多分、間抜けな顔を藤野さんにさらしていたように思う。

「鈴木君が梅の匂いをさせてるの、私、入学して直ぐに分かったの。でも、当時は、同じクラスに居るのに、鈴木君の名前も呼べなかった。あの頃の鈴木君は周囲と自分を切り離して、人と関わるのを避けていたように見えたから、話し掛け辛かった。鈴木君、梅の匂いさせてたから私が勝手に心の中で鈴木君を梅の君って呼んでいたら、間の悪い事にゆーちゃんに聞かれちゃって。それが始まりなの」

「……、そうなんだ。梅の君って、随分少女趣味だと思ってたけど」
 藤野さんが梅の君を考えた張本人と言うなら、僕の抱いていた違和感が解消される。

「これで、私も胸のつっかえが取れた気分。鈴木君と同じ」

 藤野さんが母親のような、優しい眼差しを僕に向けている。
 ああ、そういう訳で藤野さんも僕に梅の君を白状したのか。
 僕は藤野さんの優しさを受けて、このまま声を上げて泣きたい気分だった。
 だけど僕はそれを我慢して、藤野さんを抱き締める事で抑え込んだ。
「鈴木君」
「悪いけど……、今だけだから。今だけ、藤野さんの胸を貸して」
 僕はそう断ると、人目も気にせず藤野さんの胸に顔をうずめた。
 藤野さんは何も言わず、僕を受け入れている。
 僕は藤野さんの腕の中で震えていた。