最初。
最初、彼に出会った時、そのあまりの美しさと、その凄まじい力を感じて、ただの人間ではなく、召喚獣――サプレスの悪魔かと思った。
その日。
夜、セイヴァールは境界学園内にて。
ユキ・アサギリは、明日提出するはずだった課題作成に必要な美術道具を忘れたせいで、それを取って来るためにこっそり、学園に忍び込んでいた。
境界学園には不法侵入出来ないように特殊な結界が張ってあるのは周知の事実であり、それ以外のセキュリティも万全だ。しかしそれは「外部」の侵入者に限っての話で、正真正銘、学園の生徒であるユキであれば、それらは無効化される。
生徒であれば結界が無効化されるといっても、こんな夜に不法侵入がバレた時はそれなりの罰を受ける。長居は無用。さっさと忘れ物を取りに行って、さっさと帰ろう。
「えーと、私の道具箱、何処にしまったっけなー」
何事もなくあっさりと目的の美術室に入る事が出来たユキは、明かりをつけて、自分の道具箱を探している。
「お。あった、これ、これ。これがないと、色が塗れなかった」
うん。目的の色鉛筆が入った道具箱は、美術室のロッカーにあった。ユキはこれで課題の絵が完成出来ると、胸を撫で下ろす。
と。
ふと。
何の気もなく、美術室の隅にあった一つの錆びたロッカーが気になった。それはユキ達、生徒が使うロッカーと明らかに違うものだった。
「……あれ、こんな所にあんなロッカーあったっけ?」
はて。首を傾げる。それはホウキやバケツといった掃除用具が入っているロッカーではあるけれど、何故か、この場所に、そのロッカーがある事に違和感を抱く。
「……そうだ。誰かに見付かる前に、帰らなくちゃ」
境界学園は、夜の見回りに、警察騎士団の警察騎士が派遣されていると聞いている。学園の生徒でも見付かったら面倒だ。さっさと此処から離れるべきだ。
でも。
ユキはこの時、自分が何を思ったか、分からない。
後になってこれも「運命だった」と思うしかないくらいの、出来事だった。
ユキは、頭では「帰った方がいい」と思うも、その手は素早くロッカーの取っ手に向かっていた。そしてそのロッカーの取っ手に指を触れた――途端だった。
バチッ。
「!?」
電流が走った。
「……何これ、結界?」
まさか、異界に縁のあるものか。学園ではこういう時、ユクロスの召喚師でもなく、召喚師に縁が無い普通の人間は、迂闊に手を出すなと教えられている。それが異界に通じる扉である確率が高いせいだ。この結界を解けば異界に落ちてしまうのは、ユキでも想像がつく。
しかし、この境界学園では、結界が張られるような異界へ通じる扉は存在しないと聞いている。未熟な生徒がそれに簡単に手を出さないようにという配慮のようだ。因みにユクロスでは異界に通じる扉は簡単に見つける事が出来るらしい。
ユキも、この学園で異界に通じる扉が見付かる理由として、心当たりがあった。
「これって……、学園の七不思議にあった異界に通じる扉かな?」
――境界学園の何処かに異界に通じる扉があって、うっかり、その扉を開けて異界に入れば元の世界――この学園に帰れなくなるらしいよ。ユキもその七不思議の話を、境界学園の先輩から聞いた事があった。
「まさか、それが実在していたなんてね……」
しかも、その七不思議を自身の手で見つける事が出来るとは、誰が思うだろう。
それにユクロスの召喚師であれば簡単に元の世界――このセイヴァールに帰る方法を知っているだろうが、未だに響友を手に入れていないユキでは、異界の扉を開けてその世界に落ちれば、セイヴァールに帰るのは難しいだろう。
その扉を開ければ、二度と、セイヴァールに帰れないかもしれない。
それでも。
それでも目の前にある異界に通じる扉は、魅力的に思った。
ユキは自身の好奇心に負けて、そのロッカーに再び手を伸ばした。
その、結果。
「――あれ、俺の結界は完璧だと思っていたけれど」
ロッカーを開けた先には別の部屋が現れ、そこで声が、響いた。
「驚いた。俺の結界を簡単に破れる生徒が居るとは思わなかった」
男の声だった。
驚いた、と、言うわりに、その声の調子は何処か楽しそうだった。
ユキが思うに美術室のロッカーは、隣の教室に通じるような構造ではなかった。あのロッカーはどうやら、心配した通り、異界に通じる扉だったらしい。
「ええと……」
ユキの目にも、男が机に頬杖をついてこちらを見下ろしているのが分かった。どうやら部屋にはユキと、その男しか居ないようだ。
「此処は……」
此処は、この部屋は、境界学園の天使の校長先生が使っている校長室となんら変わりない造りだったように見えた。しかし、油断は出来ない。同じ部屋でも、外に出れば、セイヴァールとは違う別の空間が広がっているかもしれない危険もあった。
それに。
それにユキは、目の前に居る男の顔が見れずに、わざと視線を逸らしている。それというのも、彼が人間ではなく、召喚獣である可能性も高いからだ。もし、彼が召喚獣である場合、ユキが彼に勝負を挑むのは無謀な事だった。
ユキは召喚師を目指して境界学園に入学したのはいいが、未だに生涯を共にしたいと思う響友にめぐりあえないでいる。
ユキは、この学園で幼い頃に偶然にも響友を手に入れて、しかも、成績優秀であり、それで同級生のみならず、先輩や後輩に注目され、更には、セイヴァールの召喚獣達からも好意を持たれている生徒を一人、知っている。彼の周りは常に人が集まり騒々しいので、嫌でもその噂、その活躍は、ユキの耳に入って来る。
彼のように響友を手に入れればもう、ユクロスの召喚師としての将来が約束されているようなものだ。
ユキは、そんな後輩にも置いて行かれている自分が情けなく、そして、人間のみならず召喚獣達からも好かれている後輩が羨ましくもあった。
卒業までに響友が見付からなければ、一般人としてセイヴァールの何処かで働くしか道が無い。
だから。
「あの……、此処は、何処ですか」
ここは、平和的に、話し合いでいこう。ユキは決心して、男に向けて遠慮がちに話しかけた。
「あなたはセイヴァールという名前の街を、知っていますか。それで、ユクロスの召喚師に心当たり、ないですか」
異界であっても、そこにユクロスの召喚師が居るなら元の世界に帰れる。いざとなれば、その人に助けてもらえばいい。
「いや。此処は、セイヴァールの境界学園で間違いないよ」
「え?」
男は、優しい声で答えてくれた。その調子から召喚獣でも恐い人でもないようだとも思ったし、その内容に驚いたのもあって、ユキは顔を上げて、その男を初めてマトモに見る事が出来た。
「あ……」
太陽みたいに燃える赤い髪、澄んだ海のような青い瞳。ユキはその男の美しさ、そして、座っているだけで――その場に居るだけでその凄まじい魔力を感じてそれに圧倒されて何も出来なくなって、身動きが取れなかった。
「大丈夫かい?」
「え、あ、へ、平気です」
男は心配してユキに声をかけ、ユキは男に心配しないようにと返事をして落ち着きを取り戻す。
ユキは改めて男に、問い質した。
「あ、あの、此処は、セイヴァールの境界学園ですか」
「そうだよ。此処は、セイヴァールの境界学園のある一室で間違いない」
男はユキに、はっきりと答える。
何だ。初めての異界だと思って、少し、期待したのに。ユキは、此処が異界ではない事に少しガッカリして、けれども、まだセイヴァールに居る事に安心したような、複雑な気分になる。
男――彼は、目を細めてユキを見据える。
「ユキ・アサギリ」
「え」
名前も名乗っていないのに、その名前を当てられた。
「君は……、ああ、そうか。『彼女』の直系か。それなら、納得だ」
「え、ええと?」
それに納得してくすくす笑う彼と、何も分からず戸惑うユキと。
「そうでも、此処は、君が来るにはまだ早過ぎる場所だ。そうだな。そこの――目の前にある扉を使えば、学園の門の前まで出られるよ」
「……ッ」
さあ、長居は無用だ。お帰り。ユキは、相手の彼が何もかも分かっているくせに自分だけ何も知らないのと、彼が自分をまるで幼子のようにあしらっているのが、気に入らなかった。
だから。
「ね、ねえっ」
「何?」
息を吸って、吐いて。
ユキは彼を真っ直ぐに見て、言い放った。
「あなたは、サプレスの悪魔でしょう?」
「――は」
ここで初めて、彼の笑みを張り付けたような顔が、真顔になった。
「悪魔であるなら、私の響友になる気はない? あなたが私を利用してでもいいから、私の響友として契約を――」
「ぶはっ」
ユキが最後まで言い終わらないうちに彼が、噴き出した。
「あははっ、俺をサプレスの悪魔だって、しかも、響友にならないかだって! あはは、これ以上、傑作な話はない!」
「……」
ユキは腹を抱えて笑う彼に対して、顔を真っ赤にするだけで、何も言えないでいる自分が情けなかった。
「も、もう、そんなに笑う事でもないでしょ!」
たまらなくなって、ようやく声を上げる。
「あーごめん、ごめん。いや、俺をそこまで言ってくれる子って、君が初めてだったから、
つい。つい、ね」
「……」
彼が口では謝っても顔は笑い過ぎて涙目で、そう言ったあともまだそのその笑いを腕で腹を押さえながら必死に堪えているのがユキでも分かった。
「いやあ、俺みたいなのは初めて見れば確かにサプレスの悪魔だと勘違いされるのは、おかしくない……おかしくはないね」
そしてしばらくして落ち着いたあと、ユキに向かって言った。
「俺をそう思った君は、召喚師としての才能があるかもしれない」
「ばかにしてるでしょ」
散々笑われてそう言われても、説得力ないんですけど! ユキは顔を引きつらせる。
彼が言う。
「俺は、召喚獣ではない」
「で、でも、あなたから感じる魔力は、セイヴァールではあまり感じた事がないんですよ。セイヴァールの人間でも、元は異界の住人だったり……」
シルターンやロレイラルの人型は、リィンバウムの人間と変わりない見た目であるため、その判別が難しい事がある。異界の住人であっても、それを利用してセイヴァールの人間であると主張する者も少なくない。
しかし。
「いや。俺は、れっきとしたセイヴァールの――リィンバウムの人間で間違いないよ」
「でも……」
「俺が召喚獣であってもなくても、君と響友としての契約は出来ない。それは俺の魔力を感じているなら今の君と俺ではそれが釣り合っていないのも分かっているし、君が俺の気持ちも理解していないから無理だというのも分かっているだろう?」
「……」
彼の言う通りで、ユキは、彼の魔力と自分の魔力では釣り合わないのは分かっていた。
召喚師が召喚獣を響友として契約するには、その召喚獣の魔力を上回っているというのが条件に入っている。それ以外では、召喚師と召喚獣がお互いの気持ちを十分に理解したうえで、相手の願いを叶えてあげたいというその想いが強ければ強いほど、それは可能になる。
ユキは今のところ、目の前に居る男に勝負を挑めるほどの魔力はないし、彼の気持ちも分からなかった。これでは、最初から、彼を響友として契約出来る訳がない。
多分、この時、男の魔力の高さを感じて「響友にならないか」とその誘いをかけたのは、卒業まで時間がなく、ユクロスの召喚師になるために早く響友を手に入れなければと、ユキの中でそんな焦りがあったせいだ。
「……また、置いて行かれるなぁ」
ユキは、誰からも好かれている彼と同じく赤毛の後輩の顔を思い浮かべて、がっかりと、肩を落とした。
そんなユキを見て、彼が言った。
「このセイヴァールと、そして、この境界学園では、召喚師になりたいと、その意志が強ければ強いほど、良い響友と出会える確率は高くなるんだ。それで君の卒業までに、君に合った召喚獣と出会えるキッカケは、いくらでもある。それだから、そう焦る事もない」
「……そう、ですか」
何故か、彼の言葉で少し、身が軽くなった気がした。
不思議な人だな。
ユキはぼんやりと、彼を見詰める。多分、自分よりも年上のようで、見た目からして、この学園の先生なのかな。そう思ったがユキは今まで、この学園にこんな教師が居るとは、見た事も、聞いた事もなかった。
あ。
そしてユキは、あの学園七不思議の続きを、思い出した。
「……マボロシの大校長」
「え?」
「此処がセイヴァールの境界学園の何処かであるならあなたは、この学園の七不思議、知っていますか」
「どうして今になってそれを聞いてくる?」
彼は笑っている時は姿勢を崩していたが、今は、机に肘をついて、こちらの話を真面目に聞いている。
ユキはだから、彼にそれを話してみたくなった。
「あなたは、知っていますか。境界学園に七不思議のひとつとして伝わる、マボロシの大校長の話を」
「それは、この学園には、有り得ないはずの異界に通じる扉がある。その先に、この学園を――このセイヴァールを影で支配している、マボロシの大校長が居るらしいっていう話かい?」
「そうです。それで、あっています」
美術室のロッカーは、異界に通じる扉だった。その先にあったのは、天使の校長先生が居座る校長室と同じ部屋だ。しかし、そこには天使の校長先生ではなく、目の前の男が当然のように座っている。
「それで、その大校長がマボロシと呼ばれる理由も知っていますか?」
「さあ、知らないな。それは、どういうわけで?」
「彼は、狂界戦争があった年――今から三百年前から、今までずっと、姿も変わらず、そこに生き続けている。いわゆる、不老不死なんです。でも、そんな話は――人間が不老不死で何百年も生き続けているというのは、召喚獣の世界以外では有り得ない話なんです。それで、マボロシがつくんです」
「それは、それは、実に興味深い話だな」
彼は、ユキの話を聞いてもそれに動じる様子はなく、しかし、それについて否定も肯定もしなかった。ユキもそのぶん、彼にこれ以上の話はしづらいという威圧を感じる。
それでも。
「でも、私がこの部屋にたどりついたのは結界が張っていたロッカーを通じてだったし、その先が境界学園の校長室で変わりない部屋で、それが皆が伝え聞いている七不思議の内容と全く同じなんです。あなた一体、何者?」
「……子供はもう、寝る時間じゃなかったかな」
「私は、子供ではありません。はぐらかさないでください」
ユキは彼に負けず、食い下がる。
しかし。
「さっきも話したけどそこの扉を開ければ、学園の門の前に出られるよ」
「……」
「俺は、こんな夜中に君を相手にしているほど、暇ではないんだ」
「……」
はあ。これ以上の話は無理か。ユキは諦めたように深い溜息を吐くしか、出来なかった。
「夜回りの警察騎士が君を見付ける前に、帰った方がいい」
「……そうします」
彼の言う通りに早く、帰らなければ。
頭ではそう、思っているのに。
どうして。
「……どうしたんだい? そこから動けないのは、俺の言う事が信じられないから?」
彼も、ユキが中々動かないのを気にして、努めて優しく声をかける。
「俺の言う事が信じられないなら、俺がその扉を開けて――」
「違う、そうじゃない」
ユキは、彼が席を立ってそこの扉に向かうのを制する。
「名前」
「え?」
ユキは、彼と向き合う。
「あなたの名前、聞いていませんでした。それを、思い出したんです」
「名前? ああ、そういえば、名乗っていなかった。でも、今、それを気にする事かな?」
「あなたは、私の名前を言い当てましたよね? ユキ・アサギリって。……名前だけならまだしも、家名まで言い当てるなんて。それで、私だけがあなたの事を知らないなんて、ずるくありませんか?」
「ああ……、そういう事ね」
彼もユキの話には納得して、うなずいている。
「俺は、レックスという」
「レックス……」
レックス。ユキは彼の名前を知って、心の中でもう一度、呟く。その名前を忘れないように。
「俺の名前を聞いて、満足したかい?」
「……」
ユキは、余裕の笑みを浮かべる彼に、いらだつ。しかしそれを押さえて、冷静を装う。
「……もう、帰ります」
「ああ。そうした方がいい」
そうでもまだ、動けないのは。
「あの」
「何?」
「この夜に、此処に通じたのは、偶然と思いますか? そして、私が学園を出てセイヴァールの街に帰ったところでもう一度、あなたまで辿り着けると思います?」
ユキは、此処がセイヴァールの境界学園の一室で間違いないだろうけれど、多分、この学園の何処かにある異界の扉を通らなければ入れない特殊な空間であるのは間違いないと思った。そして、今夜に使った美術室のロッカーはもう二度と、使えないだろうというのも理解している。
それを聞いたレックスは目を細めて、ユキを見据える。
「それは、どういう意味で言っているんだ?」
「さあ、どういう意味だと思いますか?」
ユキもレックスに負けまいと、彼を挑戦的に見詰める。
レックスは息を吐いたあと、ユキに真面目に答えた。
「そうだね。君がこの夜に美術室のロッカーから俺の居るこの部屋まで通じたのは、偶然だろう。それから、君が俺に会いたいと願い、その想いが強ければ、また此処に通じるかもしれないね」
「そう……」
レックスその答えには「偶然以外に、俺まで簡単に辿り着けない」という意味も含んでいるのを、ユキも読み取る。そして「君のようなレベルの低い人間では、もう二度と来られないだろう」とも。
だから。
ユキは自信たっぷりに、レックスに向けて言った。
「私はまた、此処に来られると思います。あなたに何回でも会いたいと、思ったから」
これでもう、後には引き返せない。
そう思ったのは本当で、これをキッカケにして彼を――この男を離したくないとも思った。
そしてユキは今の言葉で、レックスが目を見張ってこちらを見て来るのを見逃さなかった。
「君は……」
「何です?」
ユキはレックスに期待して、次の言葉を待つ。
レックスは目を伏せて少し考えた後、ユキに返事をする。
「俺も、君ともう一度会えるのを、楽しみにしているよ」
十分だ。
十分過ぎるくらい。
「そうですか。それではその時が来るまで、そこで待っていてくださいね」
ユキはようやくレックスに背を向けて、その扉を自身の手で開けた。
扉を開けた先はレックスの言う通り、境界学園の門の前だった。
「……マボロシの大校長」
ユキは、前にそびえる学園を見詰める。
「……もう一度、会ってあげるわ。その時は、離さないんだから」
ユキは今も学園の何処かで自分を見下ろしているだろうレックスに向けてそう言うと、胸の前で道具箱を握ってこの時の事を忘れないうちに、家路を急いだ。