たった一瞬。
たった一瞬、偶然にも私が彼と目が合っただけで、私は彼に心を奪われてしまった。
ああ、これを運命と呼ばずに何と呼べばいい?
「そう、私と彼があの雑踏の中で出会ったのは、まさしく星の巡り合わせなんです! 私達の前世はきっと、親の反対とかで互いに結ばれなかった恋人同士だったんですよう」
とうとう、前世の関係にまで話が飛躍したか。陶酔仕切って力説する彼女、宮田直美に雪見和彦は呆れながら、和穂に出されたお茶をすする。
「前は、自分と雷光は、何者かの手によって掘り起こされた悪魔を打ち倒す為に、星に選ばれた勇者と、勇者を守る聖者だって言ってなかったか」
「それもいいんですけどねー、私的には、前世関係の方が雷光さんに合ってるかなとー」
和彦の嫌味にも直美は反論する事無く、笑顔で交わしている。
「あはは。確かに、雷光君の雰囲気は、何か前世にツかれてる感じもしなくもないっスね」
直美のデタラメな話に乗るのは、此処、寿司屋「天立」で板前として勤めている、和穂の役目であった。
今、和穂の店に居るのは、和穂の兄、和彦と、何時の間にか常連扱いされている直美の二人だけだ。直美と和彦は肩を並べて、来客予定の雷光が来るのを待ちわびていた次第である。
朝から雨が降っている影響か、和彦と直美以外の客が現れる気配は無かった。
「で、雷光君と直美ちゃんの前世での関係は、どうなんっスかね?」
「おい」
「いいじゃない、面白いっスから」
直美に向けて更に話を促す和穂を和彦はけん制するが、和彦に笑い飛ばして逆らうのは、退屈そうにしている和穂であった。
和穂の依頼を受けて、直美は得意げに話を再会させた。
「前世の雷光さんはきっと、恋人である私と自分の両親の間で板挟みになって苦しんでたんですよ」
「……へえ?」
直美が祈りのポーズをしながら、うっとりと天井に目を向けて語るその内容は、過去の雷光と重なる部分があり、和彦は目を見張る。
「で、お前達は、心半ばにして、心中でもしたのか?」
「あー。違いますよう。雷光さんは多分、恋人よりも両親を選びますから」
直美の何気無い言葉に、和彦と和穂は思わず互いの顔を見合わせた。
直美は和穂と和彦の様子が目に入る事無く、話を続ける。
「それで二人は別々の人と結婚して、別々の道を歩む事になったんです。親が決めたとはいえ結婚した相手は申し分の無い人で、子供も出来て、夫婦円満な余生を過ごせました」
「それなら、別に前世とか関係ないじゃん」
和彦の茶々に、直美は睨み返す。
「いいですか、この話は続きがあるんです。幾ら親が決めた結婚相手がいい人でも、彼女の心の中には雷光さんが居るんです。雷光さんの心の中にもまた、彼女の姿がありました。二人は死んだ時、互いに想ったんです」
「うおっ?」
此処で直美は隣に座っていた和彦の両手を、何の予告も無しに掴んで真剣な表情で見詰めて言い放ったのは。
「――未来では必ず、あの人と一緒になりたい!」
瞬間。
しん、と店内が静まり返る。
と、その沈黙を破ったのはほかでもない、直美である。
「……雪見さん、此処は私と声を揃えて言う場面じゃないですかっ」
「言えるかああ! て、俺が雷光役かよ! 今、知ったわ!」
直美の暴挙に少し照れつつも、最大のツッコミを忘れない和彦であった。
「とまあ、そんな訳があったんですよきっと」
ツッコミ過ぎて息を切らす和彦に構わず、直美は笑顔で呆気に取られている和穂に向き直る。
「……流石、自称、雷光君の恋人を名乗るだけの根性はあるッスね」
直美のやり過ぎな演技に引きながらも、和穂は直美のその部分については、感心している。
「自称じゃありませんよう。確定じゃないですかあ」
「おいおい。雷光本人からの承認も得ないで、いつ、恋人に昇進したんだよ」
和穂に頬を膨らませて抗議の声を上げる直美と、それを思い切り否定する和彦と。
確かに、直美は雷光から「僕の恋人です」と紹介を受けて此処、天立に来た訳ではない。
全部、直美の妄想――、激しい思い込みであると、和彦も和穂も承知の上で彼女に付き合っている。
何故、どうしてこうなってしまったのか、和彦は記憶の海から直美の項目を引っ張り出し、思い出していた。
思い起こせばあれは、一ヶ月前だっただろうか。
いつも寂れた寿司屋に、息を切らした女が飛び込んで来たのは。
そして、女は開口一番、一言、言い放った。
「あの、ピンク頭の人は来ていませんか!」
この店でピンク頭の客といえば、雷光しか居ない。
和穂は思わず、女に雷光の名を明かした。
それからだ。
頭のおかしな女が「天立」に入り浸るようになったのは。
女は、宮田直美と名乗った。自称、二十歳。自称、社会人。全部自称がつくのは、彼女の特徴でもあるバカげていてそれで、頭の軽そうな言動のせいだ。彼女の言葉が何処まで真実であるかどうか、和彦一人では見極めが難しかった。和穂は彼女が店に迷惑をかけなければ、面白い子だから全然大丈夫だと笑い飛ばすが、常連の和彦からすれば直美の存在自体、いい迷惑である。
「やっぱり、あの日、私が街中で雷光さんに出会ったのは運命だったんですよ~。雑踏の中でも雷光さんは一人、異彩を放ってましたから」
直美から何度も聞かされている話に、和彦は流石にうんざりして和穂の握った寿司をつまみながら、聞き流している。
直美は和彦の心情を知ってか知らずか、その時の様子を語り始めた。
「それで私、偶然かもしれませんけど、その中で私と雷光さんの目が合ったんです! 一瞬で私は雷光さんに目を、心を奪われたんです。その日はそれで終わったんですけど、それ以来、寝ても覚めても雷光さんの事ばかり考えて、どうしようもなくて、もう一度、あの場所に行けばまた雷光さんに会えるんじゃないかって、私なりに知恵しぼったんですよ。そしたら、神様の贈り物か、雷光さんに会えたんです! これは運命? 運命ですよね、絶対! 私はこの機会を逃してはいけないと思って、思わず雷光さんの後をつけたんです。そしたら、此処の寿司屋に雷光さんが入って行くのを見かけたんですよね」
それが、事の始まり。
その日、雷光は用事があって直ぐに店を出て行ったせいで、直美と対面する事は適わなかったが。
直美の雷光への熱意に負けて、和穂が雷光と直美を対面させたのは、その三日後である。
雷光は雷光で、直美の偽りか真実か分からない話を無碍(ムゲ)にしたりせずに、いつもの穏やかな笑顔を浮かべて付き合っている。そう、雷光は律儀にも、我雨と同等に直美を扱っていた。我雨の方は、直美の存在に戸惑いを隠せずに彼女に会うたび、何処か怯えているのは和彦の気のせいではないだろう。
「あー、早く、雷光さん、来ないかな~。雷光さんとは此処でしか会えないから、会ったらたくさん、話したい事があるんだけどな~」
直美は、一人で鼻歌を歌いながら店の門の方を見詰めている。
「本当、雷光君遅いっスね。今日は『仕事』の予定は入っていないっスよね?」
「……ああ、多分」
声を潜めて言い合う雪見兄妹に、直美は何の興味も示さない。
直美は、誰からも雷光の『仕事』の内容を知らされていなかった。
直美に関しては本人には内密の上で行われた調査により、隠の世とは一切関係の無い表の世――、一般人であるという事実が確認された。
それゆえ、雪見兄妹は直美には簡単に雷光の身分は勿論、灰狼衆の秘密を漏らす事は、ためらわれた。
直美は、森羅万象に関する事、灰狼衆の事、気羅使いの事、そして雷光の過去について、何も知らない「一般人」である。雷光目当てで天立に入り浸るつもりの直美に、何処からそれらの情報が漏れるか分からない怖さを雪見兄妹は抱いていた。もし、一般人の直美から灰狼衆の事が外部に漏れでもしたら、それこそ首領に顔向けも出来ず、自分達の命も危うくなってくる。和穂はどうか分からないが、和彦はそれだけは避けたい気分だった。
保険のつもりで和彦は、和穂と連絡を取り合ってからこの「天立」に来るようにと、直美に釘を刺してあった。これで雷光が灰狼衆の話をしに「天立」に来ても、直美の姿は無い事になる。直美は雷光に会えるならと、和彦の言いつけを今まで一度も破る真似はしなかった。
それほどまでに直美の雷光への想いは強くて熱いものだと、和彦は思い知らされた気がした。
それから和彦は、直美の好い加減でバカげた話にも、腰を据えて付き合うようになった。
「あ。ケータイ鳴ってる」
最初に誰かの携帯電話の着信音に気付いたのは、直美である。
「あ、俺だわ」
和彦が携帯電話を手に取る。
着信相手は――、雷光。和彦は思わず直美を見た。
「何? 彼女ですか?」
「そ、そんなんじゃねえよ」
直美は、和彦の着信相手が雷光であるとは夢にも思わないので茶化すが、和彦の方はまるで居ない筈の彼女に浮気現場を目撃されたような、複雑な気分に陥る。
「もしもし」
和彦が出た相手は、確かに雷光だった。
「……え? ああ、来てるけど。は? マジかよ」
「雨、止みませんねえ」
「そうっスね。天気予報じゃ、一日中降ってるって話だけど、お陰で商売あがったりっス」
和彦が通話している横で、直美と和穂が外の様子を覗っている。
「分かった。伝えておく。じゃあな」
和彦が携帯電話の通話ボタンを押したのと、同時だった。
光った、と思った次の瞬間、店内を付き抜けるような激しい音が轟いたのは。
「お。雷か。どっかに落ちたか?」
「……ッ」
平然と天井を仰ぐ和彦と、思わず和彦の袖を掴んだ直美と。
「どうした? ひょっとして雷が怖いとか言うんじゃ」
「怖くありません」
雷で小刻みに震える直美に、和彦がからかう。
直美はしかしそれを打ち消すように真面目な顔をして、和彦にしっかりと言い放った。
「怖くありません。雷光さんと同じものが、怖くてどうするんですか」
直美のその言葉を聞いて、和彦は。
「……お前」
それでもまだ唇が震える直美を茶化す事が和彦は出来ずに、代わりに和彦は直美の変わりように眉を寄せる。
「今の電話、もしかして、雷光さんからですか?」
「あ、ああ」
話題を遮るようにその名を出してきた直美に、更なる不信感を抱きながらも和彦は頷く。
「雷光さん、何て?」
「あー。あんたには悪いけど、雷光の奴、急に『仕事』が入って、来れなくなったんだと」
「マジですか」
和彦の知らせを受けた途端、いつもの直美に戻っていた。
「あれ、それじゃ、直美ちゃんに悪かったっスねー」
「いいんですよ。仕事じゃ、仕方ありませんから」
本当に悪いと思って詫びる和穂に、直美はいつものように笑って答える。
「雷光さん来ないなら、此処に居る意味、無いかな。お寿司も食べ終わったし」
そう言って直美は、席を立つ。
「和穂さん、ご馳走様でした」
「いえいえ。また、私の握るお寿司、食べに来て欲しいっス。私に連絡くれれば、雷光君が居ない時でも歓迎するっスよ」
「はい」
和穂に挨拶をすませて直美は、戸を開ける。
雨はまだ、降っている。
「何、ぼけっとしてんスか。暇なら、直美ちゃんを送ってあげてくれっス」
「何で俺が」
直美の背では、雪見兄妹の言い合いが聞こえる。
「雨の中、直美ちゃん一人では大変っス。雷光君が居ない時は、お兄ちゃんの役目っスよ!」
「いつからそんな決まりが……」
「早く行って来いっス!」
「……はい」
一体、どちらが上なんだか。和彦は和穂に凄まれて渋々、未だに戸口で突っ立っている直美に声をかける。
「お前の家、何処だ? 俺が車で送ってってやるけど――」
「……雷光さん、大丈夫かなあ」
雨の音と、直美の言葉が重なって和彦の耳に響いた。
空を見上げて呟く直美の横顔は何処か綺麗で、彼女の口から出た名が自分の名ではない事に和彦は少しだけ悔しかった。
「直美」
「え? あ、あれ、雪見さん、どうしたんです? 雪見さんももう、お帰りで?」
今、和彦の存在に気付いたように動揺する直美と、直美の慌て振りにいぶかしむ和彦と。
「……、雨の中、大変だろうからって、和穂がお前を車で送って行けって言うんだよ。どうする」
息を吐いて和彦が再度、直美に言った。
「あー。大丈夫ですよ。私の家、此処から近いですから!」
「……そうか」
直美に笑顔ではっきりと断られた和彦は、内心、気落ちしている。
「それじゃ、また」
「ああ。気をつけろよ」
直美は背を向けて、和彦から立ち去る。
和彦は直美を見送った後、この雨の中『仕事』を敢行し、やり遂げているだろう雷光を思い、空を仰いだ。
雨はまだ、止みそうにない。