雪見和彦は、灰狼衆の刺客であった雷光の襲撃を交わした後、車を出してしばらく走っていると、彼女の姿が見えた。このまま通り過ぎようかと思ったが、彼女がこちらに向けて手を振っているのが分かったので、仕方なくハザードランプをつけて車を沿道に停車させた。
和彦が窓を開けて彼女に声をかけた。
「どうした」
「宵風と壬晴君の所まで行くつもりなら、一緒に乗せて下さい」
「お前」
「乗せてくれますよね」
彼女のそれは自分に有無を言わせない力があった。
彼女は当然のように助手席へ座った。彼女がシートベルトを付けて、窓を開ける。それを確認した後で、和彦は車を発進させた。
此処では陽気なBGMも、ラジオも必要無かった。自分達が互いに口をきかなかったせいもある。和彦は彼女としばらく無言の状態が続いた。
街を抜けた所で最初に言葉を発したのは、彼女の方だった。
「雷光さん……、雪見さんに対して無茶はしませんでしたか」
「ああ。雷光が無茶しそうな所で、俄雨が止めた。俺がこうして此処に居るのも、俄雨のお陰だな」
「雷光さんはいつも俄雨、俄雨って、俄雨ばかりを気にしていますからね。雪見さんも俄雨に妬けません?」
「そう思うのは、お前だけだろう」
「そうですか」
互いに笑う事もせず、再び沈黙する。
車は街から外れて、山の中に入る。
「お前は宵風に何の用があるんだ」
「私も宵風が心配なんですよ。あの子、見るからに体が弱そうじゃないですか。それで」
「……、お前に宵風を紹介した事は一度も無いが」
「――」
和彦は山の中で車を停めた。
後続車は無かった。
当たり前だ、コンクリートの道路から外れて、獣道を無理に走って山の中へと突っ込んだのだから。
「お前も降りろ」
「……、正気ですか?」
「話がある」
「……」
彼女は渋々、助手席から降りた。
風で木々がざわめく。女一人で薄暗い山の中に佇むのは相当な勇気が要るだろう。しかし、彼女にかまわず銃を向けた。
「お前は何者だ」
「物騒なものを持ってますね」
「答えろ」
彼女は息を吐いて、そして。
「私は、灰狼衆の服部と契約を交わしていた『傘』の一人です」
はっきりと言い放った。
「傘……、あの暗殺集団のか」
「はい。私の役目は宵風とその周囲の人達の監視でした。その対象は雷光さんや雪見さん達のみならず、壬晴君達も入っています。壬晴君達にはあのキャラ設定ではなくて、帳さんと同じような役目で――、学校の臨時教師で接してましたけど」
「それで、雷光はその事は」
「知っています。服部が雷光さんに私の役目をばらしました。宵風と壬晴君が逃げたせいで、私と服部との間で交わしていた契約が切れましたからね」
彼女は笑うが、和彦は笑えなかった。
「何で俺は、お前を見抜けなかった。灰狼衆の奴等を使ってお前の身辺調査をした事があったが、何も出て来なかった」
「服部が独断で私と契約していましたから。流石に一季さんには告げていたようですけど。灰狼衆でもこの二人以外、私の存在を知らなくて当然でしょう。灰狼衆本部には、服部の命令が無ければ極力、顔を出さないように努めてましたから」
「……首領はどうして、お前を使って俺達を監視させた」
「さあ? 首領の――服部の考えは、私にも理解不能です。これは私の想像で推測にしか過ぎませんが、彼は私が雪見さん達の中の誰でも良いから情を移したいと――そう、思って寄越したのではないでしょうか」
「情? 首領は何でそんなまどろっこしい遣り方を」
「そうすれば、私もあの子達も互いに縛られて離れられなくなるから、じゃないですか?」
「あ……」
首領の考えを見抜いた気がした和彦は、絶句する。
情が移れば、互いに離れられなくなってしまう。それは捨てられた犬や猫を拾うのと同じ要領ではないか。首領はそれを見込んで彼女を自分達の輪の中へ放り込んだと? 和彦が絶句する中、彼女は気丈な態度で続ける。
「私の場合、標的である壬晴君達ではなくて雷光さんに本気で情が移っちゃいましたけどね。服部はあわよくば壬晴君達に、って思ったんでしょうが、その部分は計算に入ってないかもしれませんよ」
「……俺には――たのか?」
「え? 何です?」
この時、和彦と彼女の周囲に木々を揺らすほどの一陣の風が吹いた。
風で良く聞こえなかった、という風に彼女は耳を澄ませてもう一度和彦に尋ねるが。
「……、何でも無い。で、俺はお前が傘の一員だというのは理解したが、お前は此処で俺と遣り合う気があって来たのか」
「まさか。契約が切れて服部のせいで雷光さんに私の事がばれちゃったんで、ついでに雪見さんにも私の素性を話しておこうかと思いまして、ね」
「……ついでかよ。俺達が尾行されてるのも知ってるのか」
「え?」
「さっきから、嫌な奴等に目を付けられてるんだが」
「ああ……、多分それ、灰狼衆ではなく、私の仲間ですよ」
「嫌な仲間だな」
「はは。私、一季さんに手綱を握られてますんで、あんまり長居出来ないんですよ。雪見さんとは此処でお別れです」
「直美」
和彦は此処でようやく、彼女の名前を口にした。
直美、と呼ばれた彼女は困った風に笑った。
「ずるいですよ、雪見さん。何でこんな時に私の名前を呼ぶんですか。……それこそ、離れられなくなる」
「……、名前だけは本物か」
「別の名前を使うと必ず失敗するんです。雷光さんや俄雨と違って私の名前は平凡だから、同じ人がもう一度私に会ってもあの時の子だったか、って、思い出すのに時間がかかるんです。その間に色々吹き込むのが私の手でして。そう、特別美人でも無ければ誰も顔までは気にしないですからね。名前も顔も平凡、この仕事をやるにはその方が得なんです」
「俺の名前もそいつらに比べれば平凡だろ。顔も同様か」
「やってる事はお互い、平凡ではありませんが?」
「はは。そりゃそうだな」
彼女に言われて和彦は笑う。
その後で妙に真剣な顔付きになって彼女を見据えるのは和彦で。
「――此処で俺がお前を引き止めたら、お前は雷光の所に戻るのか?」
和彦の言葉に、彼女は目を見張った。
「どうして」
「さあ、どうしてだろうな。俺は和穂の寿司屋でお前と居て楽しかったし、多分、雷光も同じ気持ちだろう。あいつは、何だかんだでお前を突き放さなかったしな」
「……」
「お前は、どうしたい」
どうしたいのか。どうするべきか。
和彦は静かに彼女へ選択を迫る。
もしも。
もしも今此処で和彦に抱きついてしまえば。その与えられた選択肢は彼女の心に大きな変化はあったが――後ろに控える複数の『目』は恐らくそうなった場合、遠慮無く自分を『撃ち抜く』に違いない。そういう契約だった。契約にしか、過ぎないというのに。一体、何処で何を間違えた? あの寿司屋での美しい日々はもう自分の目の前に現れないというのは分かっているのに、こんなにも。
こんなにも泣きたい気分になるのはきっと、目の前に居るこの人のせい。
「――……、もう、後戻りは出来ません」
堪えろ。唇が震えているのが自分でも分かった。それでも彼女は気丈な態度で和彦に言い放った。
「そうか。俺はこの後、ガキ共を連れ戻さなくちゃいけないから、此処でお別れだ」
「雪見さん」
和彦は車に戻る為、歩き出した。
彼女は和彦の意図が読めず、困惑するが。
和彦が彼女を通り過ぎる、そのすれ違う瞬間だった。
「――いつか、雷光と迎えに行く。それまで生きてろ」
和彦が彼女の耳元でそう、低い声で囁いた。
彼女は。
和彦は彼女にかまわず、そのまま車に乗り込みエンジンをかけた。
その後、窓を開けて、和彦は彼女に聞いた。
「一緒に行くか? 女一人を此処に残すのは、しのびないし、まだ旅は途中だ」
「……いえ、一人で大丈夫です。此処から帰る手段はありますから」
「そうか。それじゃあお前とはもう二度と会う事は無いだろうが、またな」
「はい」
もう二度と会う事は無い。またな。矛盾した言い方だった。恐らくは自分を監視している『目』に気付いての配慮だろうが、和彦の言い分に彼女は少し笑った。
彼女は車で出て行く和彦を見送って一人、山の中に立ち尽くす。
不意に空を仰げば分厚い雲が空を覆っていた。
「……雪でも降るのかな」
彼女の吐き出した息は白く、何処か遠くで雷鳴が聞こえた気がした。