それでも、俺は――……。
翌朝。
俺は、あくびを何度かしながらも、家を出て何時ものように遅れる事なく、午前七時四十分発の成宮高校行きに間に合うよう、阿坂病院前のバス停へ向かっている。
今日の空は、白い雲が空を覆いつくしていた。その雲の合間から時々、太陽が顔を出す。傘は要るのか、と思ったが、俺は空を見る限りでは雨は降らないように思えたので、傘を持つ事はしなかった。
あの後。
沢木さんから重大な任務を任された後、俺は帰宅する事を許された。
学校を出た俺を待っていたのは、今まで探しても見付からなかった彼女である。彼女の傍にはどういう訳か、千夏さんも控えていた。
俺の後ろには沢木さんと、長谷川さんが居る。
「それじゃ、検査の方、よろしくね」
長谷川さんが俺に向けて念を押す。
「……吉原君に、全部話したの」
長谷川さんの言葉を受けて、千夏さんが眉を寄せて尋ねる。
「全部じゃあないけどね。一応、鬼花については、話しているよ」
千夏さんに応えるのは、長谷川さんではなく、沢木さんである。
長谷川さんは、千夏さんを前にして何処か余所余所しい、と思ったのは気のせいだろうか。
沢木さんが俺の方を向いて言った事は。
「今までの話を、君が誰に話しても自由だよ。但し、信じるか信じないかは、聞いた本人に委ねると思うけどね」
沢木さん達の話をした所で、誰が信じるだろうか。俺が頭のおかしな人間であるか、よく出来た作り話だな、で話は終わるだろう。実際、あの体験を目の当たりにしない限り、俺も今の話は信じられないくらいだ。
「取り合えず、君の目標はバスの中に居る鬼花を見付け出し、反応が出て見付かったら早急に我々に報告して欲しいんだ。連絡先は、その封筒の裏にあるからね」
沢木さんの言うよう、俺が受け取った画用紙が入っている茶封筒の裏には、桜木製薬研究所、と印字されてあり、そのついでのようにその下に手書きで090で始まる、携帯電話の番号が記してあった。
それにしても。
よくよく考えれば、俺は此処の正確な場所を知らなかった。行きは彼女の力によるものだし。帰りは。
え。
そういえば、俺は此処からどうやって帰ればいいんだ。
自分が今居る場所が、緑原山である事は分かるが、正確な位置が掴めていなかった。真夜中なので、道を知っていても下山するには困難だろう。
「あの、俺はどうやって帰れば……」
「その事なら心配ない。何の為に彼女が目の前に居るんだ」
長谷川さんの言葉に、俺は、あ、と気付いた。
そうか、行きもそうなら帰りも彼女に頼めば問題無い訳か。
此処の人達も、彼女の力に頼ってるのかな。でも、そしたら彼女にかなり、負担がかかりそうで心配なんだけど。
「大丈夫、大丈夫。さあ、吉原君を頼んだよ」
俺が別の所で心配しているのを、俺が今置かれている状況が不安だと読み取ったのか、沢木さんが俺の背中を押して彼女の方へ導く。
俺は彼女を見る。暗がりの中でもあの闇の中と同じように、彼女の身体は光を帯びていた。それがとても綺麗で、圧倒される。
「吉原君」
彼女が俺に右手を差し出す。俺は遠慮なく、それを受け取り彼女の手を握る。
そして。
目の前が真っ暗になったかと思えば――、目を開けた途端、俺は、ひんやりとしたアスファルトの上に立っていた。少なくとも山の中では無い事に、俺は安堵する。
「此処は……」
「あの喫茶店の前だよ」
彼女の言うよう、目の前に喫茶店「カラフル」があった。流石に今の時間、店は閉店している。
成る程、一度行った事がある場所しか移動出来ないのか。沢木さんが言っていた彼女の「空間使い」の力を、垣間見たような気がした。
「ねえ、吉原君の家って、此処から遠いの?」
「あー……、そうですね、バスで最低でも二十分くらいはかかります」
俺は此処で、バカ正直に答えてしまった事を後悔する。
「ごめんね。私の力、部長から聞いて知ってると思うけど、本当、半端な力だよね。私が吉原君の家を知っていたら、こんな風に吉原君が困る事は無かったのにね。これならまだ瞬間移動の方が優れてるわよね。私なんか、一度行った事のある場所しか移動出来ないのよ。全く、どうしてこんな半端な力を受け取ったのか、私にも分からないの。如月君の考えが、私みたいな凡人に分かる筈も無いし、それは最初から分かってるのよ。でも、悔しいの、私の半端な力のせいで、吉原君に迷惑かけてるみたいで……」
「……あ、俺は、全然大丈夫ですよ。バスの時間もまだあるし、それに」
俺は、彼女が俺のせいで肩を落としている姿は、見たくなかった、だから。
「……たまには、月を見ながら歩いて帰るのも、悪く無いですよ」
此処から見上げる月は緑原山のような迫力は無かったが、それでも月には存在感があった。
「……うん、そうだね。吉原君、月はね、常に私達の上にあって、私達の以下にはならない。でも、そんな月を下から見るのも――、悪く無いわね」
彼女が俺と同じように月を見上げて、笑う。
ああ。
俺は、ただそれだけで、満足している自分が居る。
俺は惜しみながらも、此処で彼女と別れて、成宮高校前のバス停へ向かった。
運が良い事に、市街地行きのバスは一分も待たないうちに、到着した。俺はそれに乗って、無事、家路へと辿り着く事が出来た。
俺は、その後家族と会話する間もなく、制服からパジャマに着替えると、部屋に敷かれてあった布団に倒れ込むようにして眠りについた。
それから、そのまま朝まで目を覚ます事は無かった。
以上が、昨日あった話である。
俺は目覚まし時計が鳴っても目を覚ます事は無かった。母親の声で起こされたのは、小学校以来か、と何処かぼんやりとした頭で、制服に着替える。その後、朝食もそこそこに家を出た訳である。
まだ、昨日の疲れが残っているのか、酷く身体が痛い。他に、あれだけ寝ておいて、まだ寝が足りないのか、あくびばかりしている。
「吉原君」
バス停に向かっている最中、声をかけて来たのは有坂可南子である。
「おはよう」
「おはよう、有坂」
俺は有坂が追いつくのを待って、また一緒にバス停に向かって歩き始めた。
有坂は、確か俺より後に出る緑原行きのバスに乗っているのでは無かっただろうか。
「どうした、今日は何時もより早いのか」
此処で、あくびを一つ。
「……ちょっと、余裕を持って行動したいと思ったの。私が緑原高校に着く頃は、何時も始業時間ギリギリだしね」
「そうなんだ」
それは、良い心がけだな、と思っていたら、またあくびが。
「吉原君の方はどうしたの。昨日は遅刻しそうで、今日は、あくびばかりしているから寝不足?」
「ん、まあ、昨日、色々あってだな」
そうだ。
昨夜は本当、色々あったんだ。
あんな話、有坂にした所で信じてくれるとは思えなかったので、敢えて言う事は無かった訳だが、それを除いて有坂に聞いておきたい事があった。
「有坂は緑原高校だよな」
「そうだけど……、それが、どうかした」
「あのさ、あの辺りに団地が出来たのって、確か二十年くらい前だよな。その前に、緑原山に何があったのか、知らないか」
俺は、沢木さん達が研究所として改装したと言う、あの旧校舎が気になっていた。
団地が出来る前に建てられているであろう、その校舎はどういう訳があって桜木製薬の研究所として使われる事になったのか。あの校舎があるという事は、団地が出来る前はあそこは、名も知られていないような村が存在していたのではないかと言う憶測が、俺の中にあった。
「さあ……、私は知らないわ。どうしたの、急に」
「いや、ちょっとした好奇心でね」
俺が肩を竦めると、有坂は何かを思い出したように、俺を見詰める。
「そういえば、あの辺、昔から奇妙な噂が絶えない場所だったわね」
「ああ、化け物の話なら、俺も知ってるよ」
俺が知っている化け物の話の正体は、沢木さん達だった訳だが。
「吉原君、最近の……、UFOの話、知ってる?」
「いや、俺は知らないけど」
それは、間島先輩と山根が話していたものだろうか。
「緑原山の山頂で、月を見上げていると、時々、訳の分からない浮遊物体が、此処の所、相次いで目撃されてるのよ」
有坂は続ける。
「緑原山からしか、それは目撃出来ないらしいの。ある研究員が、噂を聞いて、緑原山の山頂から月を眺めていた。その時、噂通りに謎の浮遊物体を目撃したんだけど、同時刻、研究員の仲間が緑原山ではなく、緑原付近で同じように月を見ていたのに、その人にはその浮遊物体は目にしていないと証言しているのよ。……変な話でしょ」
確かに、変な話だ。
同じ時間に同じ月を見ていたなら、天候も緑原山と変わりなく同じであるなら、場所は違っても同じものが見える筈だろう。
緑原山の噂なら、沢木さん達なら、何か知っているかもしれないな。
「吉原君の知っている化け物の話も私も知っているけど。他にも色々、高校で緑原に住んでいる子から変な噂を聞いた事があるのよ。皆、緑原周辺で起こっているらしくて。確かに、自然が残っている所だから、何かあってもおかしくは無い場所だと思うんだけど」
「へえ……、俺は、そんな話は知らなかったよ」
「団地になる前の話も、その子に聞いてみようか」
「あ、いや、いいよ。多分、岡田なら知ってるかもしれないから」
そうだ、岡田は緑原に生まれた時から住んでいると言っていたのを、以前聞いた事があった。有坂の報告を待つより、岡田に聞いた方が早い。
「誰、岡田って」
有坂が岡田について、知らないのは当然である。
「俺の学校の友達でね。昔から、緑原に住んでいるらしいんだよ」
「それじゃ、その子に聞いた方が話は早いわね」
有坂が頷いた所で、成宮高校行きのバスが到着する。
有坂はこの後出る、七時四十五分発の緑原行きに乗ると言う。俺は有坂に別れを告げて、成宮高校行きのバスに乗り込んだ。
俺は何時ものように、山根が居ないかと、通路を歩いて探す。
が。
どういう訳か、今日は山根の姿が何処にも見当たらなかった。
俺が時間を間違えたか?
いや、そんな筈は無い。腕時計のデジタルでは、午前七時四十三分と表示してあった。
前の方へ行くにも、山根は席には座っていなかった。そうこうしている間に、バスは無常にもバス停から発車する。
今は、通路は空いているので山根を探しやすいが、俺が見た所、席にも立っている生徒の中にも、山根は居なかった。山根所か、彼女の姿も無かった。
どういう訳だ、これは。
山根と知り合って以来、こんな事は初めてだった。
山根が居ない。
何なんだ。
「……吉原君」
言い様の知れない不安に襲われている俺に見兼ねたのか、谷口が話しかけて来た。
俺は谷口の隣で、吊革を持って突っ立っている。
谷口は山根と同じく、始発から乗っているので、山根について何か知っているかもしれない。
「谷口、山根を見なかったか」
「さあ、僕は、山根君がこのバスに乗る所を見ていない」
「……」
山根が風邪を引いたとも、聞いていないし。
まさか、また奴等にやられたとか?
……。
「山根君も、吉原君と同じように寝坊でもしたのかな」
「……」
山根の性格上、それは有り得無いと思ったが、谷口の手前、俺はその事を言うつもりは無かった。
「まあ、風邪で欠席とかなら、学校の方に連絡が入ってると思うから、そう気にする事も無いよ」
谷口は笑いながら、俺の肩を叩く。
谷口なりに気を遣っているのが分かり、俺は申し訳無い気持ちになった。
「それより、昨日はどうだった」
「え、何が」
「彼女と、会ったその後の話だよ」
そういえば、彼女を最初に見付けたのは谷口であったのを、俺は今になって思い出す。
「……ああ、あの後、色々あって、疲れたよ」
谷口に、沢木さん達の話をしてみたらどういう反応をするだろうか。興味はあるが、後が怖そうなので、此処でその話をするのは控えて省略する。
それが、いけなかったのか。
「色々? ……君、まさか。ふうん、吉原君に限って、それは無いと思ってたんだけどな」
え。
谷口の顔がニヤけている。
何なんだ一体。
「だって、君、さっきからあくびばかりしているし。おまけに疲れているんだろう。男と女が会ってする事って言えば、あれしか思い浮かばないだろ」
あれって何ですか、谷口君。
もしかして、思い切り変な誤解を受けていませんか。
「いや、そういう意味で疲れた、と言っている訳ではなくてだな」
「ああ、吉原君に先を越されるとは思わなかったなあ」
よよよ、としなを作り、涙ぐむ谷口。
「いや、だから」
「吉原君、今日は赤飯だね」
谷口の爽やか過ぎるその笑顔に、俺は眩暈がした。
……この辺で、止めさせておいた方がいいか。
「……谷口君、そんなに俺の技の練習台になりたいかい」
「あ、それは遠慮しておくよ」
ケロっとした顔で平然と断る谷口に、俺は息を吐く。
……谷口が被験者一号に決定だな。
俺は沢木さんから受け取った茶封筒を、鞄の中から取り出す。
「何だい、それ」
当たり前のように谷口が聞いて来る。
俺は茶封筒の中から画用紙を取り出した。
「……何、持ってるんだ」
谷口が呆れるのも無理は無い。
一介の学生がどういう訳があって、青い画用紙を茶封筒に入れて持ち歩いているのか。俺が谷口だったら、是非、その訳を知りたいね。
「ああ、これ、ちょっとした実験でさ」
俺は言いながら、ハサミを持っていなかった為に、画用紙の端を手で千切る。
「谷口、これ、舐めてみてくれないか」
「……何で僕が」
谷口は思い切り引いている。当然だ。
「リトマス試験紙、みたいなもんだよ。特殊な薬品が調合してあって、唾液で反応するらしいんだ」
「だから何で君がそんなものを持っている訳」
「……叔父さんが、薬を開発している人でね。その人から、頼まれたんだよ。今、あるサプリメントを開発しているらしくて、その効果を知りたいって言うんだよ。この画用紙にはそのサプリメントと同じ成分が染み込ませてあるんだ。危険性は全く無いと言っていい。舐めて、良かったら色が変わらないままなんだよ。何か問題があれば、色が変わる、そういう仕組みでね。研究所には十代の子が居ないから、俺が調べて来てくれないかって、言われてさ」
「……その叔父さん自身が、お金でも出して、十代の子をバイトとして雇えば済む話じゃないか?」
うっ。
いや、此処で谷口に負けてしまえば元の木阿弥で後の行動が出来なくなる。今は山根も居ないので、一人で乗り切るしかない(逆に山根が居たら、それこそボロクソに言われそうだが)。
「それはそうなんだけど、俺の経済事情も少しは考慮してくれよ。叔父さんは気前のいい人だからさ」
……沢木さん自身は、全然気前の良さそうな叔父さんでは無かったが。
俺の言葉を受けて納得したのか、谷口が千切った画用紙を受け取る。
「舐めるだけでいいんだろ?」
「やってくれるのか」
「……まあ、君からの頼みなら仕方無い。叔父さんから貰ったお金で、僕にも何か奢ってくれるならね」
うーん、谷口には世話になりっぱなしだしな。
「あ、ああ。構わないよ」
俺が頷くと、谷口が受け取った画用紙を舐める。
緊張の一瞬。
結果は。
「……何も反応無いみたいだけど」
谷口では、確かに舐めた画用紙には、長谷川さんの言うような変化は何も見られなかった。
それだけに、俺は安堵する。
「うん、それならそれでいいんだよ。叔父さんの実験が成功って事でさ」
「僕以外でも、試さなければ意味が無いんだろう、こういうのはさ」
谷口は察しが良い。
沢木さんの話では、バスに乗っている成宮の生徒全員が当てはまるのだそうだ。
さて、どうするか。
「なあ、今の話、聞いていただろ。ちょっと、やってみてくれないかな」
手始めに俺は俺が立っている前の席に座っていた生徒に、今、谷口にした話を持ちかけてみた。その生徒は一応、俺の知り合いなので、頼みやすかった訳だが、案の定、そいつは谷口と同じように怪訝な顔で俺を見ている。
「俺を助けると思って」
「……まあ、いいけど」
そいつ、相川は渋々俺の手から千切った画用紙を受け取って、それを舐める。相川も谷口と同じく、陰性であった。
その後俺は、その相川の隣の席に座っている生徒にも頼んでやって貰った。全然顔の知らない生徒であるが、相川の方はそいつとは顔見知りのようだった。相川の助言もあって、その生徒から更に知り合いの生徒を紹介して貰い、それを繰り返して、俺の話は十分程度でバス全体に広まって行った。
バスが成宮高校に到着する頃には、乗っている生徒全員分、という訳にはいかなかったが、半分以上の成果が得られた。俺が見た所、実験をやって貰った生徒の中には陽性反応は見受けられなかったのが幸いした。
「……それじゃ、俺は新聞部の方へ顔を出してみるよ」
「うん、それじゃまた後で」
バスが成宮高校へ到着した後、俺は山根が気になって谷口と別れ、図書室へと向かった。
もしかして、山根は新聞部の都合で一足早く学校に来ているのではないかと言う、疑いがあったからだ。
何時来ても図書室はある種の人間しか近付かない、異様な雰囲気があった。それは俺の偏見かもしれないが、少なくとも俺には関係の無い世界のように思えた。
新聞部と張り紙がある机の上には、山根も間島先輩の姿が無かった。
山根は居なくても間島先輩なら何か、山根について聞いているかもしれない。今日もあの阿坂病院に寄っているのだろうか、今の時間に居ないと言う事は、五十分発のバスに乗っているに違いない。俺は此処で間島先輩が登校して来るのを待つ事にした。
間島先輩を待っている間、俺は本でも読もうかと立ち上がる。課題以外で本等読んだ事が無い俺からしてみれば、それは新鮮だった。
何の本を読もうか。今更、文学を気取ってみても何の意味もならない。
悩む俺の目の前に飛び込んできた背表紙があった。
――月。
タイトルが「月」とある本だ。表紙も月、星空の中心にある三日月を撮影したものが使われている。恐らく「月」についての解説が書かれた本のようだ。A4サイズで、結構分厚い。
昨日、道端で会った人の話を思い出す。
――今の状態の月を、居待ち月とも言います。
あの人に倣う訳では無いが、俺が知っている三日月や満月と言った名称以外にも、月には様々な呼び名があるのだと知った。
俺はその月の本を手に取り、新聞部の机まで持って行った。
席に着いた俺はパラパラと月の本をめくる。月についての神話から始まり、月の地名、宇宙から見た月まで、多方面に渡って展開されている。所謂、月の図鑑のようなものだろうか。
その中に、俺が今知りたいと思っていた月の名称が記されている頁を発見する。
「居待ち月、居待ち月……、あ、あった」
本にはあの人が言ったように「居待ち月」と言う名前があった。月齢十八。家の中に座って待っている間に昇る月、と本で説明がされている。
居待ち月の次は「寝待ち月」と言う。今日の月である。これは寝る頃に昇る月と言う意味があるそうだ。
本を読めば、俺が知っている満月にも色々言い方があるようだった。満月から始まって、十五夜、望、望月……と。
「あ」
不意に気付いた。
間島先輩が何時の間にか俺の目の前に居る事を。
間島先輩の前にはノートパソコンがあった。恐らく、それで新聞の記事の整理でもしていたのだろう。
「おはよう」
間島先輩は驚く俺を見て笑みを浮かべている。
「おはようございます。……あの、何時から居たんですか」
「随分と、熱心に読んでいるようだったから、声がかけづらかったんだよ」
俺は苦笑する間島先輩を前にして、慌てて月の本を閉じる。
が、時は既に遅かった。
「月の本? 珍しいね、吉原君がそんなのを読んでるなんてさ」
間島先輩が俺の手の間から見えた表紙で、分かったようだ。
「……山根には黙っていてくださいよ」
ああ、そうだ、俺は山根の事が知りたくて此処で間島先輩を待っていたのではないのか。
「あの、今日、山根は……」
「ああ、市内にある病院に寄るから遅くなるって言ってたよ。って、吉原君、山根君から何も聞いてない?」
不思議そうに首を傾げる間島先輩。
「病院って、山根に何かあったんですか」
「大した事は無い、只の風邪だよ。学校出られるかどうか分からないってさ」
何だ、風邪か。心配して損した。
「それにしても本当に、吉原君の所に連絡入って無かった?」
「あー……、多分、あったとは思うんですけど、俺が聞いて無かっただけで」
そうだ、俺は昨日色々あってそのお陰で、すっかり参ってそのまま寝てしまったのだった。もし、昨日の夜、普通に起きていれば家族から山根から連絡があったと、聞いていたに違いない。
沢木さん達の話を間島先輩にしたら、この人の事だから信じてしまうかもしれない。信じた上で山根にもその話をするのだろうと思うと、俺が哀れに思えて来たのであの話をするのは止めておいた。
「それから君、峰君が心配してたよ。昨日、何も連絡入れずに柔道部をさぼっただろう」
あ。
そうか、その事についてもちゃんと峰主将に話しておかなくてはいけない。しかし、峰主将が俺の話を信じてくれるかどうか。また、別の言い訳を用意しておかなくてはいけないだろうと思うと、ゆううつになる。
「最近、風邪も流行っているみたいだし。吉原君も気を付けろよ」
間島先輩はそれ以上俺を責める真似はせずに、席について手持ちのノートパソコンで、学校新聞の仕上げをしている。
俺は興味本位で席を立って間島先輩の後ろに回り、そのノートパソコンを覗き込む。学校新聞の一面には残念な事に俺ではなく、例のUFO写真が使われていた。見出しには「怪奇! 緑原山で撮影成功! 謎の飛行物体!」との文字が大きくあった。
「結局、それ使ったんですか」
「うん。あ、そうだ、吉原君、これはまだ山根君にも言ってない事なんだけどさ」
間島先輩が鞄の中から愛用のデジカメを取り出す。
「これ、此処の画面、見てくれないか」
デジカメの後ろにある画面には、あの日、俺がバスに乗り遅れてしまった日、その朝のバスの中の様子が映し出されていた。多分、山根が撮ったものだろう。写真の中心に居るのは俺ではなく、満員バスの中に居る谷口と、そして谷口に手を引かれている彼女の姿である。
「ちょっと、変じゃないか」
間島先輩の言うよう、よく見れば彼女の姿だけ少しぼかしが入っている。ブレている、と言う方が正しいかもしれない。谷口の方は綺麗に撮れていると言うのに、確かに変だ。ピントがずれているせいでは無い、と思うが。
「山根君のせいでは無いと思うんだけどね。代理でもこんなもの、一面に出す訳にはいかないだろう。谷口君にも、彼女にも悪いし」
間島先輩が言う場面以外にも俺はこの写真には何処か違和感がある、と感じたが今の段階では、はっきりとした確証が無い為に間島先輩には黙っていた。
「……あの、この写真、貰えませんかね」
俺はその違和感が何であるか確かめたいのと、それ以上に。
「いいよ。吉原君、本当に彼女に夢中なんだね」
間島先輩が笑う。
彼女の写真を一枚も手にしていない俺からしてみれば、それは貴重な一枚な訳で。たとえ彼女の姿がブレていても、欲しかったと言うのは、どうやら、間島先輩にも見抜かれていたらしい。
「今日中には現像出来るから。放課後にでも、取りに来るといいよ」
マジですか。
世の中、便利になったもんだな。
「それじゃ、その頃に取りに来ます。……山根には、その」
「うん、内緒にしておくよ。それだったら君が放課後、僕のクラスに立ち寄るといい。此処だったら、山根君も居るしね」
その方がいいのかもしれない、俺は間島先輩に頷く。
始業時間までまだ間があったので、俺はこのまま間島先輩と過ごす事にした。今更、教室に戻っても山根が居ないのでは、話にならない。
俺は沢木さんの話を思い出す。
鬼花は、あの成宮高校行きのバスに乗っている生徒の一人がなっている可能性があると言う。それ所か、鬼花は人から人に感染する性質も持っていると言う。バスを出た生徒の一人が学校に行き、そしてその中で更に弱っている人間を見付けてしまえば、その人間の方へ移るのだと、言っていた。
それでは、バスを利用していない間島先輩にも、その鬼花である可能性があるのではないのか。
「あの、間島先輩。実験に、協力して貰えませんかね」
俺は沢木さん達の話を信じている訳ではないが、一応、確認の為に間島先輩の分も調べておかなくてはいけない。その分、安心感も増える。
「何の実験?」
「……簡単な、実験ですよ」
俺は残り少なくなった沢木さんに貰った画用紙の一部を、間島先輩に見せる。
間島先輩に俺は朝、バスの中で谷口に話した通りの話を、持ちかけてみた。
「へえ、面白そうだね」
谷口や相川と違って、間島先輩は意外に乗り気だ。
「舐めるだけでいいんだろう?」
俺が頷くと、間島先輩は何の疑問も持たずに、千切った画用紙を舐める。
……谷口の時とは違って、俺は緊張した面持ちで、手に汗を握っていた。
結果は。
「……あれ、色が変わったみたいだけど」
え。
俺は慌てて間島先輩の手にある画用紙を見る。
見ると、確かに間島先輩が舐めた部分は、青から紫色に変色していた。
――鬼花を見付けたら、早急に我々に連絡して欲しい。
俺は沢木さんの言葉を忘れた訳では無かった。
忘れた訳ではないが、早急に、と言われても俺は肝心の携帯電話を持っていない。それは、沢木さんも知っている。
学校の電話を使う手もあるが、もうすぐ始業時間だ。沢木さんに電話をしている暇は無い。
そうだ、学校が終わってから電話をかければいいだけの話じゃないか。
これは許される範囲だ。
「……吉原君?」
俺がぼんやりとその事を考えていると、色が変わった事で不安そうに俺の顔を覗き込む間島先輩が居た。
「あ、いいんですよ、それで。色が変わればそのサプリメントは、健康に良いだろうって証拠になります」
……俺は今、上手く笑えているだろうか。
「そうなんだ。それじゃ、そろそろ授業が始まるから、出ようか」
「……そうですね」
気付けば図書室には俺と間島先輩しか居なかった。
「その本、どうするんだ」
「あ」
間島先輩に言われて俺は月の本をまだ手にしている事に気が付く。
さて、どうするか。
このまま月の本を持ち出して休憩時間にでも読む事も出来るが、谷口や岡田に見付かってしまっては面倒な事になる。山根に見付かりでもしたら、それはもう最悪だ。
俺は此処で月の本を元の位置に戻しておいた。俺がその本を手に取ったのは、月の名前が知りたかっただけであり、もうその目的は果たしている。
「良かったのか、借りなくて」
「ああ、良いんですよ。俺にはあの本は、向いていなかったようです」
入り口の所で待っていてくれた間島先輩に言われた俺は、苦笑する。
「吉原君」
間島先輩と教室へ向かっていると、後ろから谷口の声がかかった。一階から二階へ上がる階段の踊り場の所で、谷口と遭遇する。岡田の姿は其処には無かった。
「あ、おはようございます」
「おはよう」
谷口が間島先輩を認めて挨拶をする。間島先輩も谷口に応じる。
「山根君は」
「……風邪で市内の病院寄るから、遅れるって間島先輩が」
階段を上がりながら俺は谷口を会話をしている。
「それじゃ、僕は此処で」
二階に二年生の教室があった。間島先輩とは二階で別れる。俺達、一年の教室は三階にあるのでそのまま谷口と階段を上がる。
「あの実験、間島先輩にもやったのか」
「ああ……、やったよ」
「で、どうだった。反応は出たのかい」
俺は此処で谷口に真実を告げるべきかどうか、迷った。
下手に間島先輩に反応が出たと言えば、谷口の方もそれでは反応が無かった事の方が駄目なのかと、不安になるに違いない。
だから俺は。
「……いや、何も反応は出なかったよ」
「……それは、変だな」
俺は谷口が立ち止まり、その呟いた言葉を聞き逃さなかった。
「変って、何が」
谷口は間島先輩に反応が出た事を感付いているのか。そんなに俺はあからさまな態度をしていたのだろうか。
不安になって俺が聞いた事で、谷口が意外な事に目を見開く。
谷口は少し間を置いて、言った。
「――君は、全部を知っている訳ではないのか」
「え」
俺は谷口の言っている意味が解らなかった。
一体、谷口は何の話をしているんだ。
「何だ、まだ信用が置かれていないんだな」
谷口が笑みを浮かべる。
信用? 何の。
始業時間を知らせる鐘が鳴り響いているのは分かるが、俺と谷口はその場から動く事は無かった。
「君が存在している事自体、驚きなんだよ、僕は」
「………」
俺は谷口に何も言う事が出来ずに只、押し黙っているしか無かった。
「まあ、僕にとっては都合がいいんだけどね、その方が行動し易いし」
「谷口」
「君が今、此処に居る理由を……、知りたいけどそうもいかないみたいだ」
「おい、お前ら、授業始まってるぞ。何、其処で油売ってるんだ」
動かない俺達に声をかけて来たのは、何時もジャージ姿で居る厳格な体育教師、浅原輝彦である。
ヤバイ、寄りにも寄って浅原かよ。俺は必死に此処をどう乗り切ろうかと、言い訳を考えていた、が。
「すみません、僕達、話に夢中で鐘の音が聞こえなかったみたいなんですよ。浅原先生のお陰で助かりました」
谷口が俺より先に水野に謝った。それが功をなしたのかどうか分からなかったが。
「ん、そうなのか。それならさっさと行けや」
浅原は普通なら此処で一喝して何らかの体罰を加える事で有名だが、今日に限って何処か機嫌が良く、俺達をこれ以上追及する事はしなかった。
浅原が二年生の教室へ向かう背を見送りながら、また俺と谷口は三階へ続く階段を上る。
「ああいう力だけでものを言う奴は、扱い易いから楽でいいよ」
……。
谷口は普段は教師や他の級友達の悪口等はいっさい、言わない方だ。だから俺は今の谷口が谷口ではないような気がしていた。
本当に、今目の前に居るのは、俺の知っている谷口なのだろうか。
「吉原君」
教室へ近付くという時に、谷口からかけられた言葉は。
「――神様にはもう、会ったのかい?」