それはまるで、世界が沈む前の雨のようだった。
――神様には、もう会ったのかい?
そう言う谷口に俺は。
俺は何も言い返す事が出来なかった。
「吉原君、まだ、先生は来ていないようだから、早く教室に行こう」
「あ、ああ、そうだな……」
谷口に促されて俺はそのまま、流れるように教室へ入った。
谷口の言うよう、まだ担任は教室へ来ていなかった。そして、間島先輩の言う通り、山根の姿は教室には無かった。
しばらくして担任が教室へ入って来て、日直が礼をした後で生徒の出欠を取る。そこで数名の欠席者と、山根が病院へ立ち寄るので遅れるという報告があったと、俺達に知らせた。
間島先輩の指摘通り、担任が風邪が流行っているようだから気を付けろ、との達しがあった。俺は自分には関係無いなと思いつつ、それを右から左へ聞き流していた。
そんな事より、気になるのは。
谷口のあの言動は、自分が沢木さん達を知っている、そういう風に俺には聞こえた。
俺は、バスの中で沢木さん達の名前を伏せた上で、谷口にあの話を持ちかけたのだ。神様云々の話を知っているという事は、谷口は少なくとも、俺以外の誰かからその話を聞いている事になる。では、どういう訳があって谷口がその話を知っている?
谷口も多分、沢木さんに話をあの重大な任務の話を持ちかけられた一人ではないのか。俺以外にもあのバスを利用している人間は居る。それは谷口も含まれている。谷口も一応、彼女と接触しているのだ、沢木さんから話があってもおかしくはない。
おかしくはないが、それなら何故、沢木さんは俺にその話を持ちかけた?
谷口一人だけでも問題は無いだろう。
そうだ、俺があの場に居たのは全くの偶然だった。彼女が俺に会いに行かなければ、沢木さんとも、あの場所についても、全く知らされなかった筈だ。
その前に谷口は沢木さん達と会っているのではないか、俺は授業一時間、丸々使ってそういう結論に達した。
「なあ、谷口、お前……、あの研究所の事を知っているのか」
俺は授業が終わると、休憩時間に席に座っている谷口に聞いた。今の時期、特に用が無ければ教室を移動しようとする生徒は少ない。廊下は寒いので、暖房がかかっている教室に居た方が、良かった。
「研究所? 何の話だ?」
谷口の隣には岡田が当然のように居たが、俺は岡田を無視して谷口の返答を待った。
「僕は知らないよ」
谷口の口から出た言葉は、意外なものだった。
「沢木さんの事は……」
「誰?」
谷口は本当に沢木さんという名前を知らないようで、立ったままで居る俺を不思議そうに見上げる。
「いや、お前さっき、教室入る前に、俺に神様にはもう、会ったのかって俺に聞いて来たじゃないか」
俺はその辺にあった、誰のものとは知らない椅子を引っ張って来て、谷口の席の前に腰を落ち着かせる。
「神様? 吉原、お前変な宗教にでも引っかかったのか」
谷口の横で岡田が面白そうに笑う。
「ああ、それね。僕は君の知らない情報を知っているし、君は僕の知らない情報を持っている、それだけの話だ。神様の事は……、そうだね」
「神様」
谷口の話を聞いて、岡田がその言葉を反芻(はんすう)する。
「その共通事項が神様、なんだよ」
「……神様」
「……っうか、お前ら変だぞ」
深刻な話をしているつもりだが、横から岡田が茶々を入れて来るので、ちっとも深刻な話にならない。岡田は俺達二人の深刻な話の内容が神様なので、呆れているが。
「まあ、此処で話をするような話じゃないよ。……誰に聞かれているかも分からないし?」
最後の部分、声を潜めて言う谷口に、俺は妙に納得してしまった。岡田だけが分からずに首をしきりに傾げている。昨日の俺も沢木さん達の中では岡田だった訳で、余り同情する気にもなれなかった。
何も知らない方が、良い事もある。
「……所で、岡田。お前、あの緑原に長年住んでるんだろ?」
俺は此処で押し黙っていても仕方ないので、岡田にあの話を聞いてみる事にする。谷口も居るが、まあ、今は気にしない方が得策だ。
「ん、ああそうだな。生まれた時から緑原だぜ、俺は」
一体何が自慢なのか、得意げに岡田は胸を張って言った。
「あの辺に団地が出来たのは二十年くらい前だよな、それ以前に何があったのか知らないか」
「何がって、山だろ?」
なあ、と岡田が谷口に同意を求める。
いや、俺はそういう意味で聞いた訳じゃない。谷口も半ば同情の目を俺に向ける。
「あの辺一帯に、何か村でも無かったのか、って聞いてるんだよ。団地が出来る前が山だとしても、その山に何も無かった訳じゃないんだろ?」
「村? そんな話は聞いた事無いけど」
岡田は本当に何も知らないらしい。
……これでは有坂の友達に聞いた方が早かったか。
と、思っていたら。
「じいちゃんなら、何か知ってるかもなあ」
「え」
これは意外な発見だ。
俺は身を乗り出して岡田に尋ねる。
「お前の所、おじいさんが居るのか」
「うん。俺が生まれる前は緑原じゃなくて、別の所に居たらしいけど、なんか、当主様が代わったから緑原の方へ越して来た、って言うのを聞いた事があるよ」
当主様?
「その、当主様と言うのは、誰の事を指している?」
俺ではなく、谷口が岡田に聞いた。
「さあ。俺は詳しくは知らないけど。じいちゃんはその当主様に仕えてた一人みたいでさ。当主に世代交代があって、じいちゃんはその新しい当主様に合わせて緑原に越して来たって話だ」
それは、知らなかったな。
普通、今居る所から余所の土地へと越して来る理由は様々だと思うが、一般的に多いのは家族の仕事の都合だったりしないだろうか。岡田のような理由は余り、というか、実際、聞いた事が無かった。その当主様が何者か知らないが、それだけ、他人を動かせる力があるような人物なのだろうか。
俺は岡田の話を聞いて、彼女の話を思い出していた。
……ひょっとしたら、という思いが俺にはあったからだ。
「……君、昔は京都の方に住んでいたんじゃないのか」
俺が言うより先に岡田にそう聞いたのは、谷口である。
俺は彼女が以前、あの研究所に行くまでは京都に居た、と言う話を聞いていた。その言葉を思い出し、それは岡田にも当てはまるのではないのかと、聞いてみようと思った訳だが。
「京都? ん、そうだな。じいちゃんが話すのは大体が京都の言葉だ。しかし、よく分かったな」
「君も少し、昔から関西の方の訛りがあるだろう」
そうなのか。
谷口に指摘されるまで、俺は岡田の言葉は余り気にしていなかった。
「やっぱり、ああいうのって聞いている内に移ってるのかな」
「多分ね」
岡田は谷口に妙に納得しているが、俺は只、関西の訛りがあるだけでどうして「京都」と断言出来たのか、納得出来なかった。京都と言う前に「大阪だろう」と聞いた方が自然のような気がする。それで外れたら、「京都」である事を岡田から聞く事が出来る訳だ。
谷口は岡田の出身を初めから知っていたのではないのか。
それが無ければ、どうして岡田の出身を谷口が京都と限定して、言い当てる事が出来たのだろうか。そして岡田の言う当主の存在。
……また、余計な謎が増えた。
「吉原、それ、俺の椅子なんだけど」
ぼうっとしていると俺が使っていた椅子の持ち主が返してくれ、と俺に言って来た。そろそろ休憩時間も終わる頃だ。
「それじゃ、俺は席に戻るわ」
俺は席を立ち、その持ち主に椅子を返す。
「吉原、じいちゃんにその話、してみようか」
「……頼む」
去り際に岡田に言われ、俺は頷いた。谷口の方は何かを考え込むように、腕を組んでいる。
谷口は俺の予測とは違い、沢木さん達の事は何も知らないと言う。俺が持っている情報と、谷口が持っている情報は別のものであるらしい。そして、その共通事項が「神様」である、と。
……ますます、こんがらがってきた。
一体、沢木さん達が信仰している「神様」なる人は、何なのか。その神様と谷口が言う神様は、同一人物なのか、それすらも不明だ。
沢木さんは俺はもう、その神様に会っているのだと、言っていた。今、その事を谷口に話すには何処か、危険なような気がした。
俺は何処でその神様とやらに会っているのか知れないので、迂闊に言う事では無い。
……何処からだ?
俺は一体、何処から彼等の世界に飛び込んだと言うのだろう。
出来るなら、何時もの日常に返してくれ、と叫びたい心境だった。
それは、谷口も同じだろうか、考える。
谷口の方は俺とは違い、今の状況を楽しんでいる風に見えた。俺もそういう風に出来たら楽が出来るかもしれない。
これ以外にも、山根と間島先輩の件もある。
もし、彼等の言うよう、神様が存在するなら聞いてみたい事が一つだけあった。
――俺にどうしろと?
授業が始まり、終わって休憩時間に入る。
この、当たり前の時間をあれから二度繰り返した。休憩時間、俺は谷口や岡田と一緒に他愛の無い話をしていた。神様云々の話は岡田が居る時には避けた方がいいだろうと、谷口の間でその約束が暗黙の内に交わされた。俺もそれには同感で、これ以上岡田を巻き込む訳にはいかないと、思ったからだ。
そして、四時間目。
「山根君、具合の方はもういいんですか」
「……お陰様で」
四時間目、初老の教師が担当している歴史の授業の最中、病院に寄っていたと言う山根が姿を見せた。
間島先輩は、具合によっては学校に出られるかどうか分からないと言っていたので、俺は山根の姿を見て安心する。外見上、顔も赤くないし何処も具合が悪そうに見えなかったからだ。
四時間目の授業が終わると、俺は早速山根の所へ行っていた。昼休憩なので、大半の人間は食堂へ行っている時間である。谷口も岡田も食堂へ行っていて今は不在だ。
俺は母親手製の弁当を持参し、山根は近くにあるコンビニで買って来たと言う、弁当を開けている最中だった。
「山根、風邪の方は大丈夫なのか」
「……あいつら、人を馬鹿にしてるのか。随分、待たされた」
俺が心配していると言うのに、山根の方はそれを無視して悪態をつく。機嫌が悪いようだった。
「そりゃ、市内の総合病院へ行くからだろ。待つのは当たり前だ」
「僕にはそれしか選択肢が無かったんだよ。たかが風邪如きで一時間以上待たされたんだ。そんなに待った挙句、医者は注射も無しで、薬を処方して終わりだ。一瞬の事で、僕は呆れたね」
はあ、と息を吐く山根に俺は同情の眼差しを向ける。
「今、風邪が流行っているらしいからな。そのせいもあるんだろ」
「……始はいいよな、柔道やってるメリットはそこにあるのか」
まあ、確かに柔道やその他スポーツをやっていれば、風邪にかかり難い身体にはなる。
「山根もどうだ、一緒に柔道をやってみないか」
「嫌だよ、そんな汗臭いスポーツは僕の柄じゃない」
間髪入れずに返って来るその山根の答えに、俺は苦笑する。
……山根ならそう言うと思ったよ。
「それに、僕には新聞部があるし」
「あ、朝、間島先輩に記事の方、見せて貰ったけど」
俺は此処でこの話をしない方が良かったのだと、後悔する。
「何で始が僕が居ないのに、新聞部の方へ顔を出している訳」
「あー、山根が朝、バスに乗って無かったから、心配になって」
俺は視線が定まらず、不意に窓に目をやる。
朝、登校する時は青空を見せていた空が、時間が経つにつれ、次第に曇って来ている。そのせいか、昼間だと言うのに教室には明かりが点いていた。
今にも雨が降り出しそうな空を見て、俺は不安になる。
傘を持って来なかった事と、それ以外に。
「僕は昨日、その事で始の家に連絡を入れたんだけど」
此処で山根は俺ではなく、弁当に入っていたむすびを、ジッと見ている。
「始は昨日、何処で何をしていたんだ?」
「あ……」
そうだ、俺は昨日あのまま寝てしまって、山根の連絡も受けてはいなかった。
山根は俺が家に居なかった事を知っている。そして恐らくは柔道部をさぼってしまった事も。
「昨日、新聞部で間島先輩と作業をしていたら、峰先輩が来たんだよ。吉原を見なかったかって」
……ああ、これでは言い訳は無理か?
「僕は当然、知りませんって言ったんだけど。峰先輩は今まで、何の連絡も無しに吉原がさぼる事が無かったから、って心配してたよ」
「……俺も色々、あってね」
俺は今、此処で山根にあの沢木さん達の話をしていいものかどうか、迷う。
山根が俺の話を信じてくれるとは、思えなかったからだ。信じない所か、それら全てを否定にかかるだろう。
「峰先輩が、言ってたんだけど」
山根がむすびから視線を俺の方へ戻す。
「……始、僕に何か言いたい事があるんじゃないのか」
「え」
山根が俺を見据えるその目は、俺の一番苦手なものだった。
山根に言いたい事。
それは。
「山根」
此処で何もかもぶちまけた方が、楽になれるだろうか。
俺は考える。
そして、結論。
「……此処じゃなんだから、屋上へ行かないか」
「……」
俺の誘いに文句を言うまでもなく、山根は息を吐いてそれに従った。
俺は山根と屋上へ来ている。
「……寒いな」
俺は努めて笑顔で言うが、山根の方は不機嫌丸出しの顔で、立っている。
流石にこの天気の下、好き好んで屋上に居る人間は俺達以外には見当たらなかった。
「座らないのか」
「……汚れるからいいよ」
俺がフェンスに背を預けて座るのを、山根は何か汚いものでも見るような目で、見ている。
空を見れば、すぐにも雨が降り出しそうな勢いが窺えた。
「俺、傘持って来てないんだよ」
「バカじゃないの」
何時もの様に容赦なく一刀両断する山根に、俺は苦笑する。
「天気予報では、何て言ってた」
「午後から雨降るって。70%の確率で」
……それは、放課後まで持たないなあ。
「……そんな事を言いに、僕を此処まで誘った訳じゃないんだろう」
早く本題に入れ、と山根が俺を見下ろす。
「山根」
少しの間を置いて、俺は意を決して山根に言った。
「山根、お前は間島先輩と付き合ってるのか」
沈黙。
それは短いようで、長い時間だった。
最初にその沈黙を破ったのは、山根の溜息である。
「峰先輩が、僕達の事を変な目で見ていた理由が分かったよ。何か言いたそうだったんだよね。加えて、谷口の意味深な言動の意味もね」
山根の言葉を受けて、それでは俺の思い過ごしだったのか、と最初は安心したが。
それも次の山根の話で杞憂であった事が判る。
「……ああ、始の言う通りだよ。僕は、間島先輩と付き合ってる」
「……それは友達の付き合いではなくて、恋人の付き合いか」
俺の声は震えていた。
山根と間島先輩の関係を認めたくは無かったからか、それとも。
「始は、どちらが良いと思う?」
「え」
山根の予想外の言葉に、俺は目を丸くする。山根はそんな俺を見て、笑う。
「だから、始ならどちらの関係が良いのかと、聞いているんだ。世間体を気にするなら、それは友達の方が良いよね」
「そうだけど……、どうしてそんな事を」
俺は山根の考えがさっぱり解らなかった。
「始はやっぱり、僕の嫌いなタイプだ」
「山根」
「始は何時だってそうだ。余計な波風を立てたくないから、常に人の好い様に、行動する。僕らの件に関しても、自分だけの言い分はなくて、谷口や峰先輩に言われたから疑ったんじゃないのか」
――そうだ。
それは山根の言う通りで、俺は谷口の言葉が無ければ二人の関係を疑ったりはしなかっただろうし、峰主将に助言されるまではその件に関しては、表沙汰にはしたくないという、思いが俺の内側で渦巻いていた。
俺が山根に反論する余地は今の所、無かった。
「僕が、どちらが良いのかと、始に聞いたのはね」
「……」
「僕は、まだ分からないんだよ。間島先輩が、僕をどう見ていてくれているのか」
「……」
それは一体どういう意味だ。
山根と間島先輩のどちらかを女にあてはめれば、それは。
それはどちらかの片思い、になるのか。
「僕の方も……、好きな人が居るし」
「え」
俺は此処で声を上げたのは、山根が間島先輩以外に好きな人が居る、という話を聞いたからだ。……それが男であるか女であるか、定かではないが。
「間島先輩はその事、知っているのか」
「多分。そろそろ、気付いているんじゃないかな」
山根は何処か、他人事のように物事を見ている。
「いや、もう、気付いているかもしれない。気付いて、知っている上で、僕に近付いて来てるんだったら、凄いよね」
山根が笑う。
俺は笑っていいかどうか分からなかった。
「そうか。谷口に見られてたんだな」
山根が黒い雲に覆いつくされた空を見上げて、呟く。
谷口は、山根と間島先輩の何を目撃したと言うのか。
「始」
山根が前屈みになり、座っている俺の方へ顔を近付ける。
「……あの日の朝だったかな。僕と間島先輩は、新聞部の机じゃなくて、一目につかない棚の所に居たんだよ」
「……」
「それで……、やった後に物音がしたんだ。誰か居るような気配がしたから。尤も、間島先輩の方は気付いてないみたいだったけどね」
やったって、一体何を。
間近で見る山根は、確かに女のようで、それでいて綺麗だった。
「始は……、その時、僕と間島先輩に何があったか、知りたいんだろう?」
俺は山根の妖艶な笑みに、息を飲み込む。
「……俺は」
知りたいのか、知りたくないのか。
此処で知ってしまえば、後にはもう、引き返せないという警告が、山根から発せられているような気がした。
それでも。
それでも知りたいと言う欲求が、俺の中にあった。
「……知りたい」
知りたいと言う事は、山根を受け入れるのと同じ意味を持つ。俺は山根がどんな趣向の持ち主であろうと、友人である事には変わりなかった。
そう、思っていたかった。
それが。
「そう、それじゃあ……、教えてあげるよ」
山根の顔が、俺に必要以上に接近する。
そして。
あ、と声を上げる暇も無かった。
俺は今、山根に何をされた?
焦る俺とは違って山根は笑みを浮かべたまま、立ち上がり俺から離れる。
「それが、谷口に見られた事だよ」
山根は俺にそう言い残し、屋上から出て行ってしまった。
俺は只、呆然と去り行く山根を見送っている事しか出来なかった。
そう。
俺は今、山根にキスをされた。
只、触れるだけのキスを。
俺は。
俺はこの事態を受け止める事が出来ずにいた。
信じられなかった。
信じる事が出来ずに、俺は何処か神様に祈るような気持ちで、空を見上げる。
今にも雨が降り出しそうな空模様は、そのまま、俺の心の内を表しているようだった。
俺は昼休憩が終わるまでずっと、フェンスにもたれて空を見ていた。
その後。
その後、俺は山根を避けて過ごしていた。休憩時間の間は、屋上に避難を、と思ったが、運の悪い事に五時間目から心配していた雨が降り出して来た。その為、屋上は使えず、かと言って図書室に行く訳にもいかず、俺は結局、教室で過ごす事にした。
それと言うのも、山根の方が休憩時間になると、何処かへ行ってしまっていたからだ。
俺は谷口を避けていた。向こうから声がかからない限り、極力話しかけるのを止めていた。
谷口は知っていたのだ、山根と間島先輩との関係を。
そして谷口は見ていたんだ、山根と間島先輩のキスする場面を。
俺は。
俺は一体どうすればいいんだ。
ああ、これでは繰り返しではないのか。
山根から真相を聞き出した所で、結局、状況は変わらない。それ所か、悪い方へ向かっている、そんな気がした。
こんな事、峰主将に相談出来る筈も無かった。
幸いな事に、今の俺に谷口も岡田も話しかけて来る事は無かった。
放課後。
俺は何時ものように、柔道部がある部室の前まで来ていた。
間島先輩の所へ彼女が映っている写真を取りに行く約束をしていたのは覚えている。しかし、どうせ傍には山根が居るかもしれないと思い、今日、写真を受け取るのは諦めていた。
柔道部に顔を出すのはいいが、昨日のさぼりの理由をどうしようか、考えていて、中々部室の扉を開ける事が出来ずに居た所で。
「……吉原」
気付けば、何時の間にか峰主将が俺の前に立っていた。
「どうした、入るなら入れよ」
「あ……、そうですね」
俺は曖昧な笑みを浮かべて峰主将に続く。
「吉原」
峰主将が部室の戸を開ける前に、俺の方を振り向く。
「……風邪か?」
「え」
俺は自分が風邪である、その自覚が無い為に、峰主将の顔色を窺う。
「顔色が悪い。吉原、今日は出なくていいよ」
「峰主将」
「聞こえなかったのか、俺は使えない部員を無理して使う程、優しくは無いんだよ」
はっきりと聞こえる、峰主将の牽制するその声に、俺は少なからず動揺していた。
「俺は」
「いいから、今日はもう帰れ。体調を万全にしてから来いよ」
俺は今、きっと情けない顔をしているに違いない。峰主将も、俺を哀れむような目で見下ろしている。
「……吉原」
去り際に、峰主将から声がかかった。
「吉原」
「……」
峰主将は何も言う事は無く、俺からの返事を待っている。
俺は峰主将には何も言わずに、その場を後にした。
山根にキスされたとは言える筈も無かった。流石に峰主将に相談出来るような内容じゃない。
俺は以前、屋上で峰主将と話した内容を思い出していた。
山根を信じるか、否か。
この選択肢は、山根と間島先輩の関係を疑ったものに限られる。話の内容では、俺に関しては含まれていなかった。
今はどんな選択肢が俺の前に出ていると言うのだろう。
俺は。
俺はどうすればいいんだ。
「吉原君」
昇降口に出ると、丁度、帰ろうとしていた岡田と谷口に遭遇した。
俺に最初に気付いて声をかけてくれたのは、谷口である。
「柔道部の方はどうした」
今の時間、俺が此処に居る事を、岡田が不思議そうに言う。
「……出なくていいよって、峰主将に言われてさ」
ははは、と笑う俺に対して、岡田は谷口と顔を見合わせる。
「君、傘を持っていないのか」
谷口が心配そうに俺の手元を覗く。
谷口と岡田は傘を持っている。俺は傘は持っていなかった。
正面玄関から外を窺えば、五時間目の途中から降り出した雨は勢いを増し、今では土砂降りで、鞄等ではとても、防ぎようが無かった。
「吉原、今日の予報、見ていなかったのか」
岡田が俺にそう言うのは、周りを見れば大半の生徒達が傘を持っていたからだ。きっと、朝の天気予報を見ていれば、傘が必要であるという事が分かったのだろう。
俺は朝、天気予報を見ている暇が無かったんだよ。
「何で」
……また、声に出して言っていたのか、岡田が俺を見据える。
何で、と言われても俺は応えようが無かった。こればかりは、どうしようも無い。
黙っていると、谷口が俺に自分が持っていた傘を差し出した。
「途中まで、僕のを貸してあげようか」
「……いいのか?」
「代わりに、カラフルに寄って貰えるかな。あの話もしたいしね」
あの話というのは、どの話だろうか。
「カラフル、寄るのか?だったら、俺も」
谷口の提案に、岡田が乗り気で声を上げる。谷口は岡田も呼ぶつもりだろうか、と思っていたら。
「裕司は、悪いけど先に帰ってくれないか」
「何で」
「君、自転車だろ。雨もこれからまだ強くなりそうだから、今の内に帰った方が得策だよ」
「今日、自転車で来ない方が良かった」
岡田は谷口と一緒に喫茶店に行けない事に不満そうだった。
岡田が自転車を取って来て、とりあえずカラフルまで、三人で行動する。
「それじゃあ、気をつけて帰れよ」
「ああ」
カラフルに到着すると、谷口の言葉に岡田は頷いて、自転車に乗って行ってしまった。
確かに、道路は雨で濡れ滑りやすくなっている。外も真っ暗で、自転車であるなら、谷口の言うよう、早く帰った方が良い。
雨は学校を出る時よりも、強く降り続いている。
「入ろうか」
谷口に先導されて、俺はカラフルの中へ入る。
「いらっしゃいませ」
何時もと同じように、お姉さんが笑顔で俺達を出迎えてくれた。
俺達は空いている席に座った。そこへ、お姉さんがメニューと水を持って来た。
「珍しい組み合わせね」
お姉さんが俺と谷口を見て一言。
「岡田君は居ないの」
「裕司は自転車だから、早く帰らせましたよ」
「そう。その方がいいかもね。雨はまだ強く降りそうだし」
お姉さんが谷口に頷く。
谷口はお姉さんにコーヒーを注文する。俺は何か食べたいと言う気分でも無かったので、谷口と同じコーヒーを注文した。兎に角、今は何か暖かい飲み物が欲しかった。
「それじゃ、裕司も居ないし、そろそろ本題に入ろうか」
谷口の方から切り出した言葉は。
「……君、山根君から事の真相を聞いたんだろう?」
「……」
谷口の言葉に俺は否定する事も、肯定する事もしなかった。
「昼休憩が終わってから、なんか吉原君と山根君の態度が変だったから、そうじゃないかとは思ったんだよね」
谷口は続ける。
「僕、見たんだよね。その日は偶然、調べ物があったから朝早く、図書室に居たんだ。その時、奥の方まで行ったら……」
此処で谷口は言葉を切った。
お姉さんが注文したコーヒーを二人分、運んで来たからだ。お姉さんはコーヒーを俺達の前に運んだ後、何時もの様にカウンターの方へ下がってしまった。
「ああ、美味い」
谷口が運ばれて来た熱いコーヒーを飲んでいる。
「そう、話の途中だったね」
俺も出されたコーヒーを口にする。冷めた身体には丁度良く、熱が浸透して行く。
「うん、僕が見たのは、図書室の奥で間島先輩と山根君がキスしている所かな」
「……そうか」
谷口の話に、俺は驚かなかった。
山根から間島先輩と同じ事をされたせいかもしれない、少し、笑える話ではある。
「で、それを山根君から聞いて、吉原君はどう思ったの」
どう思ったのか。
どう思えばいいのか、逆に谷口に聞いてみたかった。
それでも、俺が谷口に漏らした言葉は。
「……俺は、山根を受け入れる事は……、出来ない」
それは何故か。
山根にキスをされたからか。
もしあの場面で、キスをされずにそのまま山根から間島先輩の関係をそのまま聞かされていたら。
俺は、山根を受け入れていたかもしれない。こんなに思い悩む事も無かったのだろう。
「……うん、吉原君、気付いたんだろう。山根君の気持ちに」
「……」
雨が激しく音を立てて、窓を震わせる。
「でも、僕はそれでは駄目だと、思うんだけど」
「……」
谷口の言いたい事は分かっている。
分かっているが、一方でそれを否定的に捉えている自分が居る時点で、どうにもならない。
「……今夜は、月が見えないな」
唐突に出た谷口のその言葉に、俺は谷口と同じように、窓の外を見た。
確かにこの雨では、今夜、月は見えないだろう。
「月が無いと、僕の行動範囲は限られてしまう。それは向こうも同じだ」
「……谷口?」
谷口が此処で残っていたコーヒーを、一気に飲み干す。
「この問題は、吉原君自身が片付けるべきで、僕は一切関与しない」
「……」
谷口が席を立つ。
「代わりに、貰えるものは貰っておくよ」
……何を、と聞こうとしたが、俺は何故かその言葉が喉から出なかった。
「そう、吉原君。一つだけ忠告しておくけど」
席を立って去ろうとしていた谷口が、俺の方を向いて言ったのは。
「――鬼花の疑いのある、間島先輩を放っているのは、良くないよ?」
俺は、谷口のその底から這い出たような声に、背筋が凍った。
悪寒、といのだろうか。谷口の声は、言い様の知れない恐怖感があった。
これは雨による寒さのせいでは無い事だけは確かだ。
只。
只俺は、去り行く谷口を追いかける事はしなかった。追いかけても無駄なだけだと、何処か達観していたのかもしれない。
「……吉原君」
谷口がカラフルを出て行った後、心配そうに俺に声をかけて来たのは、お姉さんである。
「谷口君、行っちゃったけど、いいの?」
「……ああ、すみません。代金の方は」
「谷口君の分は、貰っているけど」
俺は自分のコーヒー代を払い、店を出る。
「吉原君、傘、持ってないの」
傘も差さずに外へ出て行こうとするのを引き止めるのは、お姉さんで。
「お店の傘、貸してあげるわよ。返すのは何時でもいいから、ね」
有無を言わさずに店にあった透明の傘を持って来たお姉さんが、俺にそれを手渡す。
「……すみません」
俺はお姉さんから傘を受け取ると、礼を言ってカラフルを出た。
店を出た後、俺は何時ものように成宮高校前のバス停へ行こうとする足を、止めた。
そして俺は。
……今は只、無性に彼女に会いたかった。