夢か、現実かそれすらも曖昧で、それすらも恐怖に感じたのは。
――夢。
これは、夢か。
今俺は、夢を見ているのだろうか。
暖かな日差しを受けながら、俺は今、目を覚ました所だった。
――春。
今が春だと認識出来たのは、部屋にあったカレンダーと、壁にビニールがかかったままかけられていた成宮高校の制服だった。
思い出す。
そうだ、あれは。
成宮高校、入学式の日、その朝の出来事である。
俺は真新しい成宮高校の制服を着て、家を出た。バスの時間も、行き方も一応、事前に調べておいたのが功を制したのか、七時三十五分発の成宮高校行きのバスに、乗り遅れる事は無かった。
バスの通路は空いているが、席は俺と同じ制服を着た、成宮の生徒達で殆ど埋まっていた。俺は座れる席が無いものかと、辺りを見回してみる。
すると。
一番後ろの席はまだ一人か二人は座れるようだったが、その前にある、後ろから二番目、内側の席が空いている事に、気付いた。
二人がけの椅子は全て埋まっている状態だったにも関らず、その椅子だけ空席だった。いや、正確には空席ではなく、その席に荷物が置かれていた。
俺は自然と、窓際に座っている人物を見る。
最初は目の錯覚か、と思った。
――成宮高校は男子校では無かったのか。
事実、このバスには噂に聞いていた通り、女は皆無だった。バスが停留所に止まるにつれ、男達しか乗って来ない。
それなのに目の前に居るのはどう見ても女の子、である。女の子が男物の成宮の制服を着て、その子のものであろう荷物が内側の席に置いてあった。
「あの、さ」
俺は遠慮がちにその子に声をかけてみる。
……気のせいだろうか、周囲の目がいっせいにこちらに向けられているのは。
その子は俺の方を気だるそうに向いた。
「荷物、どけてくれる? 座りたいんだけど」
もしもその子が普通の男のような風貌であれば、先輩かもしれない、というのを意識して、声等かけられなかっただろう。俺は安定した高校生活を送りたかった。
「……いいよ」
その子は文句を言う事もなく、あっさりと荷物をどけて俺に席を譲った。
俺はその子があっさりと退いた事に驚いていた。しばらく呆然と空けられていた席に座らず突っ立っていたら。
「何、やってんの。僕が席を譲ってやったんだから、座ったらどう」
高い声。
見かけも声も女のようで、俺は必要以上に汗をかきながらもその子の隣に座った。
しばらくの間、俺は無言で居た。
時々、隣に座っている子を盗み見る。
綺麗な顔をした子だな。しかし、男物の制服を着ているという事は、やっぱり男なんだろうか。
それとも。
「……言いたい事があるなら、言えば?」
「え」
ジロリ、とその子に睨まれてしまった。
どうやら、最初から盗み見ていたのがバレていたらしい。
気まずい雰囲気。
その打開策として、俺はごく自然に――、そうなるように、その子に思い切って話しかけてみた。
「あ……、このバス、噂通りの混み具合だよね」
俺が乗って来た停留所から既に十五分余りが経過していたが、バスの中は通路は既に人が通れなくなるくらいの勢いで塞がれていた。俺も噂には聞いていたが、これ程までとは予測していなかった。せいぜい、立っていてもまだ余裕があると思っていたくらいだ。しかし実際は違っていた。昇降扉の方まで人が溢れている。それは俺の予想を遙かに超えていた。すし詰め状態である。
俺は周囲の状況を見て、その子と話し合おうと思っていたが。
「……それで?」
「うっ」
抑圧の無い、その声に俺は言葉を詰まらせる。
そしてまた沈黙。気まずい雰囲気。
バスの中は騒々しいのに、俺達の周りだけ氷に包まれたような、静かな世界があった。
俺は何故か必死になって、場の空気を活気あるものに取り戻そうとしていた。
次の話題、次の話題……ああ、そうだ。
「君、一年? 俺も今日から成宮に通う事になってて……」
「――成宮高校前、成宮高校前でございます」
バスの中でアナウンスが流れる。
どうやら、バスが成宮高校に到着したようだ。俺は慌てて席を立つ。
俺は通路側の人間が降りてから、ようやく前の方へ行く事が出来た。
乗る時はそれほどでも無かったのに、降りる時は更に混乱した。
誰かに髪を引っ張られ、袖を引っ張られたり、足を踏まれたりしながら、ようやく運転手の前まで辿り着く。その頃、俺は不甲斐ない事に、息を切らしていた。
戦場だ。
まるでそこは戦場だった。
この戦場も冬までには慣れているのだろうか。
そうだ。
俺の隣に座っていたあの子はどうしただろう。
背も低く、細い子だったので、降りる時に苦労しそうだ。
俺はその子を探そうとしたが、バス停には成宮の生徒達で溢れてバスはもう倉庫の方へ行ってしまっていたのでそれは適わなかった。
もう、あの子に会う事は無いのだろうか。
……と、思っていたら。
「……よう、また会ったな」
俺は努めて明るく声をかけたつもりだった。顔は引きつっていたかもしれない。
そう。
入学式に行く前、事前に入るようにと言われていた教室に、今朝、バスの中で会ったあの子が居た。
その子が一番後ろ、窓際の席に座っていたので俺も空いていた内側の席へ座る。その子は俺に構わず、肘をついて窓の外を眺めていた。
何と言う偶然だろう。
「なあ、あの後、無事に降りられたか」
その子は俺を認めた上で、再び窓の方を向いてしまった。
「おい」
「無事じゃなかったら、僕が此処に居る訳無いじゃん」
聞こえてるなら返事しろ、と俺がその子の肩に手を置くと、その子は心底嫌そうな目を俺に向けてはっきりとそう、言ってのけた。
「その手、退けてくれる」
「……」
俺はその子に従って肩に置いていた自分の手を引いた。
その子はもう、俺に構う事なく窓の外を眺めている。
もう何も打開策は無いのか。中々手強い。
ああ、そうだ。
「まだ自己紹介がまだだっただろ。俺は吉原始だ、よろしく」
「……山根泰明」
ヤマネヤスアキ。
顔に似合わず、男らしい名前だ、と思っていたら。
「……今、顔に似合わず男らしい名前だと思っただろう」
うっ。
俺はまたもや言葉を詰まらせる。
中々鋭い。
「でもいい名前じゃないか」
ははは、と俺が笑うと山根は此処で初めて、俺の方を向いた。
山根は俺の言葉に目を見開いてこちらを見ている。それは一瞬の事で、直ぐに笑顔に変わった。
それがとても。
「……ありがとう」
「……」
それがとても綺麗で、思わず息を殺して見惚れてしまった俺が居る。
もし、山根が女であれば此処で俺は彼に惚れていたかもしれない。
……それはあくまで仮定の話であって、実際そうでは無いという事を、肝に銘じておく。
「山根は始発から乗ってるのか」
「ああ。始発から乗ればそれなりに空いてるからね。……君は、阿坂病院前からか」
「そうだ」
入学式が始まるまでの時間、俺は山根と話していた。
山根が始発から乗っているという情報も、この時に聞き出していた。この当時は、まだ山根は俺の事を名前で呼ぶような真似はしなかった。
周りの人間から見れば、さぞかし奇妙な光景に映っただろう。
俺がこの教室に入るまで、山根は一人で浮いていたから。俺もきっと、級友達から好奇な目で見られている事を知って尚、山根に近付いていたのだろう。
それは何故か。
教室で浮いている山根に同情したからか。哀れに思えたからか。
それは違う。
違う、という事は別の理由があったような気がするが、今となっては忘れている。
何だっただろう。
そうこうしている内に入学式が始まった。
今日は入学式だけで終わるから楽だ。
体育館の中では名前順で並んでいるせいか、俺の前は山根が居る。そして式が終わり教室で改めて席を決めた時でも、名前順となり、俺は自然に山根の前の席になってしまった。
「山根、今日は何か予定があるのか」
式も終わり放課後、俺は隣に居る山根にバス停まで一緒に帰らないかと、声をかけてみる。山根の方はまだ俺を警戒しているように感じた。
「特に無いけど」
素っ気無い返事だな。
……もう少し愛嬌があれば、可愛いのに。
「……悪かったな、愛嬌が無くて」
「え」
どうして俺の心の内が読めたのか。
山根は俺を無視して鞄を背負い、教室を出て行く。俺は慌てて山根の後を追いかける。
「なあ、帰るならバス停まで一緒に行かないか。市内なら、途中まで同じだろ」
「……」
山根は俺に何も言う事はなく、一人でさっさとバス停まで歩いて行く。俺はそれに追い付こうと必死になっていた。
俺と山根はそれからは一言も話さずに二人でバス停に着くと、バスを待っていた。バスが到着して乗ってからもその状況に変わり無かった。
取り合えず、邪険にされないだけマシかと思う事にした。
翌日。
俺は何時ものように、七時三十五分発の成宮高校行きのバスに乗り込む。
通路を歩いて昨日と同じように空いている席が無いか、探していた。
そして。
山根の隣の席は昨日と同じように彼の荷物が置かれ、その事については俺以外、誰も触れる事は無かった。
「おはよう!」
俺は山根に近付いて、努めて笑顔で挨拶をしてみた。予想していた通り、山根からの返答は無かった。
……此処で引き下がったら相手の思う壺だ。
「鞄、どけてくれないかな。座りたいんだけど」
「……」
交渉した結果、山根は渋々荷物をどかして俺に席を譲ってくれた。
「……あんたも懲りないね」
「俺は座れる席があったら座る方なんだよ」
山根の溜息を無視して、俺は言ってやった。
「それより、今日から部活の説明会をやるらしいぞ。山根は何か部活、決めたか」
「……特に何も」
「……そうか」
……これで会話終了かよ! と突っ込めるなら突っ込みたい気分だった。
バスは無言で居る俺と山根を乗せたまま、成宮高校に到着する。
またこの戦場を駆け抜けなければいけないのかと思うと、朝からユウウツだった。
見れば、山根は立ち上がる事なく平然と座っている。
「降りないのか」
「……最後の方で降りた方がいいから」
成る程、その手があったか。
俺は山根の考えに納得し、同じように席に座ったまま生徒達の波が通り過ぎるのを待った。これなら無理に戦場を行かなくともゆっくりと降りる事が出来る訳だ。昨日の山根もこれを見越して最後に降りたのだろう。
そしてまた一人で前方を行く山根を追いかけながら俺は、学校へと向かった。
「山根、昨日、嘘吐いただろう」
教室へ入るなり、怖い顔をして山根に寄って来るのは同じ教室に居る生徒の一人、相川である。
「何の話だ」
俺は相川が憤慨しているのを見て、仲裁に入る。
「聞いてくれ。バスの待ち時間を山根に聞いたんだよ。俺、山根と同じ路線だからさ。帰りのバスの時間を山根に聞いたんだよ。で、山根の言う通りの時間にバス停に行ってみたら、バスはついさっき出発したばかりだった。あそこ、朝と夕方は此処の生徒に配慮して一時間に五本はあるけど、昼間は利用者が少ないからって一時間に二本くらいしか無いだろう。お陰で随分待たされたんだぜ」
俺は相川の言い分を聞いて山根を見る。
「……僕の言う事を信じる方が悪いんだよ。そんなの、手持ちのバスの時刻表を見れば分かる事じゃないか」
「俺はバスの時刻表は家にあって、携帯している事は無いんだ」
「それじゃあ、直接、バス停に行ってみれば分かる話だろ。学校の前にあるんだからさ。人に頼る前に、自分でなんとかしたらどうだ。どうせ大方、バス停に行くのも面倒臭いからって僕に尋ねて来たんだろうけど。そういう考え方自体が、バカげてるよ。将来、ロクな人間にならない事は確かだね」
「……ッ」
相川は顔を赤くして今は山根を睨む事だけが、精一杯の抗議であると、俺からは見て取れた。相川の方は反論のしようが無いのは、俺から見ても明らかである。
俺は相川を哀れに思いながら山根の後に続く。
「おい、幾ら何でもあの言い方は無いだろう」
「ああでも言わないと、あいつが何かあった時に毎回、僕にバスの時刻を聞いて来るのが目に見えてるからね。うっとうしいんだよ。僕が大人しい奴だと思い込んで、目を付けたんだろうけど」
確かに俺も最初は山根が大人しい子だと、思っていた訳だが、実際は違っていた。
相川のような調子で、山根に何か物事を頼めば邪険に扱われる人間は、日々、後を経たなかった。山根に何かを聞けば、必ず嘘の答えが返って来る。そして相川のように言い包められて言い返せずに、逆に自分が哀れになってしまう心境に陥る。
山根の性格は一月足らずでクラスの人間に認知され始め、そしてその一ヶ月後には俺と約一名を除いては、山根に近付こうとする人間は居なくなった。
俺は俺で山根の性格改善を試みようとしたが、どれも山根の「バカじゃないの」という、ある意味強烈で最悪なその一言で片付けられてしまう。俺は敢え無く白旗を揚げて降参した。山根の根を変えると言う事は、彼の奥底まで入り込まないと無理かもしれない、そんな気がしたから。
――それがいけなかったのか。
あれは六月の初め、学校に慣れて来た頃。
事件は、起こった。
「吉原君、居る?」
その日、俺は掃除当番だった。
山根は当番では無いので、帰宅部である彼は先に帰っているだろう。
俺はさっさと掃除を終わらせ、柔道部へ行こうとしていた、その時だ、掃除当番では無い谷口が教室に入って来たのは。
「どうした」
「山根君が大変なんだ。一緒に来てくれないか」
山根が大変だとは、一体どういう事だろう。
何時も冷静な谷口が息を切らし、汗を流していたので俺は少なくとも嘘では無く、本当に山根に何かあったに違いないと、思った。
俺は谷口に連れられ、教室を出ると、屋上へと上がる階段を上っていた。
屋上へ続く扉は少しだけ開けられている。その前には、岡田裕司が居た。
「裕司、様子はどう」
「ヤバイよ。そろそろ助けないと、手遅れになるかも」
岡田のその顔は嬉々としていて、とても深刻そうな話には俺の目からは見えなかった。
「……吉原君」
俺は谷口に指し示された方を見る。
屋上へ続く扉。少し開けられた隙間から、俺が見たもの、それは。
――俺は、我が目を疑った。
俺の目に映るは、屋上で三人の男に寄ってたかって殴られている、山根の姿だった。
「此処は、男子校だよなあ。何で男子校に女の子が居るのかなあ」
三人の中で一番左側に居る、煙草を手にした色黒の男の声。
「男装でもして、紛れ込んでるつもりなんじゃねえの?バレバレだっつーの」
ぎゃはは、と、真ん中に居る角刈りで一番大きい男の声。
「試しに脱がせてみればいいんじゃねえの?」
角刈り男の右隣に居る、色黒の男の声。
合計三人の男達が、山根を囲んでいた。
「……どういう事だ」
俺は声を潜めて谷口を見る。
「……授業が終わった後、バス停で山根君が三年生の人達に呼び付けられるのを見てね。これは嫌な予感がしたんで、裕司と一緒に様子を見に行ったんだよ」
で、その結果がこれか。
「吉原君、何時も山根君と一緒に居ただろう。僕達が手を出せる相手でもないし、吉原君なら何とかなるんじゃないかと思ってね。……君、柔道部だろ」
俺は一応、この学校に入ってから真っ先に柔道部に志願した訳だが、喧嘩と柔道はまるで訳が違う。
そうは思ったが、山根のシャツが奴等の手で引き裂かれる音を聞いては、やはり、黙って見過ごす訳には行かなくなった。
「谷口、お前も手を貸してくれるだろ。俺一人じゃ、奴等三人相手にするのは、流石にヤバイ」
「うん。裕司も居るから、なんとかなるだろ」
「おっしゃ! 久々の格闘に腕が鳴るぜ!」
岡田が手を組んでボキボキと音を鳴らす。
……岡田はこういうキャラだっただろうか。
イマイチ、谷口よりは頼りない感じがしたが、居ないよりはマシだ。
「ぎゃはは、女なら、女らしく泣いて俺達に媚びてみろっての!」
ガッ、と腹を蹴られる音、そして山根の呻き声が俺の耳に届いた。
こうしてはいられない。
俺は意を決して、屋上の扉を開けた。
「あの、場が盛り上がっている所、申し訳無いですけど――」
最初に声を張り上げたのは、俺だった。
俺の声に反応して、すかさず真ん中に居た角刈りの男が振り返る。
「ああ、何だお前ら」
「正義の味方、参上!」
……これは俺ではなく、岡田の台詞である。因みに戦隊モノでよくある、手を交差するポーズ付きだ。俺と谷口は岡田を無視して普通に立っている。
「正義の味方? 何だそれ。笑わせるなよ。お前ら、一年だろ。一年が俺達に逆らっていいのかな?」
色黒の男がにやにやしながら、俺達を見ている。
俺は山根を見る。
顔には傷や殴られた痕があった。シャツは引き裂かれ、腹にも痣がつけられている。何時もの山根とは想像し難い姿が、其処にはあった。
「何があったか知りませんが、山根を開放してください、お願いします」
俺は不本意だったが、奴等に一応、頭を下げる。
俺は穏やかに、この場を収めるつもりでいた。俺は喧嘩が嫌いだった。俺は、出来れば平穏な学園生活を望んでいた。
しかし、それを許してくれない事も、この時は薄々感付いていたのかもしれない。
「バカじゃねえの。こんないいオモチャ、誰が譲るってんだよ!」
角刈りの男が指示を出したのか、色黒と長髪の男が、俺達に向かって襲い掛かって来た。
あああ、俺の平穏な学園生活が!
これでは絶望的である。
俺は当初の予定通り、角刈り男に向かって行った。谷口と岡田が色黒と長髪男を相手にする、そういう手筈になっていた。
俺は柔道でお馴染みの構えで、角刈り男を迎い討つ。角刈り男は案の定、勢いだけでこちらに向かっている。形も何もあったもんじゃない。
俺はすかさず、角刈り男の脇を捉えた。足を引っ掛けて、そして――、勢いよく、投げ飛ばした。
角刈り男は、思い切り頭からコンクリート面に激突する。致命傷に至らないよう、計算して落としたから、大丈夫だろう、多分。
角刈り男はその場で意識を失った。
「お見事!」
拍手の音。
誰かと思えば谷口である。
「あれ、お前、長髪の方を相手にしていたんじゃあ……」
「うん。その予定だったんだけど、裕司に取られちゃってね」
岡田を見ればどういう訳か、彼の下で長髪と色黒の男が伸びていた。岡田の方は無傷である。
「正義は勝つ!」
岡田は胸を張ってピースサインを俺と谷口に送る。
っうか、普通に凄いんですけど、岡田君よ。
「凄いじゃないか」
「裕司の家、空手の道場やってるんだよ」
「小さい頃から仕込まれてるからな、俺は」
俺の言葉に谷口が頷き、岡田が笑う。
俺は岡田の実力を甘く見ていた。まさか、これ程までとは思わなかったからだ。人を見かけで判断するな、とはよく、柔道をやっている時に言われるが、まさしくその通りだなと、俺は岡田を見て感心する。
「……ううっ」
山根の呻き声で、俺は我に返ると、谷口と岡田にも手伝って貰って、山根を保健室まで運んだ。
山根は保健室へ運んでベッドに寝かせた後、直ぐに意識を失った。山根なりに、安心するまではと、気を張っていたのだろうか。
「それじゃあ、僕達は帰るよ」
「ああ、ありがとう」
山根が寝付いたのを見て、谷口と岡田が保健室を出て行く。
「――吉原君」
俺に声をかけて来たのは、保健室の先生である。名前は水野忠志。勿論、男。
保険医くらいは女の人を入れて欲しかったと思っているのは、俺だけでは無い筈だ。
「山根君の家に電話を入れてみたんだけど、誰も居ないみたいなんだよね」
「……そうなんですか」
「吉原君は、これから部活だっけ」
保険医に、俺は頷く。
「その間に回復が見込めるだろうけど、部活が終わったら、山根君を引き取りに来てくれないかな」
「……いいですよ、俺で良ければ」
そういえば、山根は何時も昼食はパンやコンビニの弁当等、買って来たものが多かった。誰かの手製の弁当等、持って来た事は一度も無い。
そして、保険医の言葉。
今の時間帯なら、普通なら家に誰か居る時間では無いのか。
それらを全て結び付けると、家庭の事情なるものが出て来るが、今の俺では山根について一切、知らされていなかった事を、この時ばかりは思い知らされたような気がした。
そして、柔道部が終わって俺は保健室へと向かった。
それは山根を引き取る為である。
が、しかし。
「あー……、山根君なら、帰ったよ」
「は?」
俺は口を開けて保険医を見上げる。
「吉原君は、間島君、知ってる?」
「……いえ」
俺は少なくとも、この学校に通ってから今まで、聞いた事の無い名前だった。
「間島君、新聞部の部長なんだよね。山根君も部員らしいんだけどさ、間島君が噂を聞き付けて、心配して駆け付けてくれたんだよ。で、間島君と帰っちゃったよ」
帰っちゃったよ、って言われても。
というか、俺は山根が新聞部に入っているという事も、聞いて無かったんですけど。
「間島君は気の好い子だから、大丈夫だよ」
「そうですか……」
俺は此処でどっと、疲労感に襲われる。
そんな俺を、保険医の水野は哀れむような目で見ている。
ああ、今日一日、俺は何をしていたんだっけ、という心境である。
まあいいや。
山根にも俺以外で、触れ合う事が出来る人が居るという事を知ったのは――、結果的には良かったのかもしれない。
翌日。
俺は何時もの様に、バスの中で山根を探していた。
山根の隣の席には案の定、荷物が置かれていて誰も座っていなかった。
俺は有無を言わさず、自分の手で山根の荷物をどかして其処へ座った。
「おはよう」
「……おはよう」
俺は山根から返答が来た事に、目を見開く。
今まで、挨拶は俺が一方的にしていた。山根から挨拶が返って来る事自体、奇跡としか言い様が無かった。
「何だよ。人を変なものでも見るみたいな眼で見るな」
「……悪い、いや、なんか嬉しくてさ」
はは、と笑う俺に山根は怪訝そうだ。
山根の顔はバンソウコウが幾つか貼れている。昨日の出来事が嘘では無かった事を、知らしめている。
「昨日は、大丈夫だったか」
「……君達のお陰で、何とか」
聞けば、山根に絡んで来た三年は、入学式の時から山根に目を付けていたと言う。山根が女か男か、賭けまでしていたらしい。山根は学校が終われば直ぐにバス停に向かっているという習慣を利用して、昨日、待ち伏せをした。其処を、谷口に見られていたお陰で、悲惨な結果になってしまった、と。
「……バカだな、そいつらは」
「……始が、柔道家だって知らなかったんだろうね」
え。
今、何て言った。
「……何」
「……いや、何でも無いよ」
俺は山根に名前で呼ばれた事が、本当に嬉しかったんだ。その話は山根にはしないつもりでいた。俺の余計な言葉で、また名前を呼ばなくなってしまっては、切ない。
「所で、昨日、水野から聞いたけど、新聞部に入ったんだって?俺は聞いて無かったけど」
「言ってないから聞いてないんだろ」
……あれ、何時もの山根に戻ってるよ。
「そうだ、始も新聞部に入らないか」
「俺は柔道やってるから駄目だよ」
「……名前を貸してくれるだけでもいいんだ。今年、新入生が三人以上居ないと、部として認められないから」
マジですか。
「名前だけならいいけど……、そう、間島先輩ってどんな人なんだ」
「……気の好い人だよ。何だったら、始も会ってみるか」
こうして、俺は間島先輩と知り合う事が出来たのである。
それから。
それから、季節は巡り、夏が来て秋が過ぎ去り、そして――、冬。
冬のあの日に彼女に会えた事は、運命だろうか。
俺は、ゆっくりと目を覚ました。
夢。
寝ている間、見ていた夢。
あの日に戻れたらいいなと、思ってもそうは行かない事くらい、俺は知っている。
何時から。
何時から俺の周りで何が動いていたと言うのだろうか。
曖昧な観照に浸るのは現実逃避か。
俺は気だるい身体を起こして、部屋にかけてある時計を見る。
――午後五時三十五分。
これは、正確な時間だろうか。正確な時間だとして、日付はどうなっている。
俺は一体、どうなったんだ。
「……あ」
そうだ、思い出す。
俺はカラフルを出た後、緑原に向かって歩いていたのを。
彼女に会いたい一心で、緑原へ向かっていた。
俺はしかし、彼女への連絡方法が分からなかった。かと言って、間島先輩の件もあるので、沢木さんに連絡を寄越すのは、気が引けた。
どうすれば、何処に行けば彼女に会う事が出来るのだろうか。
緑原をさ迷い歩いた結果、辿り着いた先は。
――緑原山。
此処の山頂なら、彼女と会えるかもしれない。
彼女は、緑原山から臨む月が、好きだと言っていた。俺は雨でぬかるんだ地面に足を取られながらも、必死になって山頂を目指した。
――俺は、バカだった。
自分の行動がどれだけ危険な行為であるか、その時は自覚していなかった。朦朧(モウロウ)とする意識に負けない様、何度も拳で頭を殴ってみた。
その時にはもう、カラフルでお姉さんに貸して貰った傘も、役には立たなかった。それ程までの強い雨の中、俺は一人、山を登っている。
身体は雨で濡れて寒かった。
それでも構う事無く、俺は緑原山を登っている。この時ばかりは、一種の狂気と化していたのかもしれない。
もうすぐ緑原山の山頂だ、と言う所で――、俺は意識を手放した。
そうだ。
俺はあれから、どうなったんだ。
俺が馴染みの部屋に居るという事は、誰かが運んで――、警察の捜索隊でも出されたのだろうか。
「――あら、目が覚めたの」
母親が、部屋の扉を開けて入って来る。
「良かった。あんたがこの家に傘も差さずに、びしょ濡れで運ばれて来た時には、どうしようかと思ったわよ」
母親は本当に心底安堵している。
「……誰が、俺を此処まで運んで……」
「ああ、沢木さんて人。ナントカ研究所の部長だって言ってたけど」
……何で、沢木さんが。
「始が、学校の前で雨に濡れて倒れた所を、偶然、通りかかったんですって。後で、菓子折り持って、沢木さんにお礼を言わなくちゃね」
「あ、いいよ! 俺、その人と知り合いだから、俺から言っておくよ!」
俺は必死になって母親を止める。
……これ以上、巻き込む人間を増やす訳にはいかない。
それに、俺は緑原山の中で倒れていた筈では無かったか。沢木さんなりに、気を遣ってくれたのだろうか。
「……というか、俺、何時まで寝てたの」
「ああ、始が運ばれてから、三日は経ってるわよ。思い切り、風邪で寝込んでたから」
三日。
三日も風邪で寝込むとは、俺の歴史では有り得ない事だった。
峰主将に迷惑をかけた挙句の結果が、これか。
……情けない。
「明日には、学校行けるわね」
落ち込む俺と違って、母親は嬉々としている。
「あ、そうだ」
部屋を出て行く所で、母親が振り返り、俺に声をかける。
「山根君から、電話があったわよ」
「……何時」
「昨日の夜だったかしら。まだ、寝ているって言ったら、連絡は目が覚めた後で良いですって」
「……」
俺は母親が部屋を出て行くのを見送った後、また再び横になった。
山根は、どういうつもりで俺に連絡を寄越したのだろう。
俺は山根に電話をする気力は、今の所、無かった――、が。
「始」
また、母親が俺の部屋に入って来た。
「峰君から、電話よ」
「え」
峰主将からとは、珍しい。
俺は断る理由も無かったので、立ち上がり部屋を出る。
「……もしもし?」
「おう、吉原か。具合の方はどうだ」
電話越しでも、峰主将の声は何処か、暗く沈んでいる様に聞こえた。
「明日には、学校に行けそうです」
「……そうか。それで、山根君から何か話は聞かなかったか」
「……いえ、何も」
何処か様子がおかしかった。
峰主将が深呼吸をしているのが、俺の所まで聞こえる。
「いいか、良く聞いてくれ。これは冗談なんかじゃない」
……。
俺は、峰主将の次の言葉を待った。
そして、聞かされた内容に俺は。
「――間島君が、死んだんだ」