どうか、その世界が壊れる前に――。
間島先輩が、死んだ。
死んだ? 一体、誰が。
――間島先輩が。
俺は峰主将からその言葉を聞いた時、真っ先に思い出したのが――、沢木さん達の話にあった、鬼花である。
鬼花の反応が、間島先輩にはあった。
「……吉原?」
「……あ、ああ、何ですか」
まだ峰主将との通話は続いている。
「……間島君が死んだのは、吉原が風邪を引いて休んだその日なんだよ。通夜と葬儀はもう終わってる」
「……」
俺は。
俺は何をやっていたんだ、この三日の間に。
「……吉原が出て来た時、知らせようと思ったが――、山根君の様子が気がかりでね。君が学校に出て来る前に話しておこうと、思ったんだよ」
「……」
ああ、なんという事だ。
事態は既に俺の予想の範疇を超えている。
「……俺もまだ、整理が付かないんだよ。……うん、俺はまだいいけど……、山根君の事は、吉原に任せるから」
「……はい」
此処で、通話は途切れた。
俺は受話器を置くと部屋に戻り、寝巻きからセーターにジーンズという格好に着替えた。壁にかけてあったコートを取り、部屋を出る。
廊下を歩いている所を、母親に発見された。
「始、何処行くの。あんた、まだ寝てないと……」
「母さん、山根から電話があったって言っただろ。俺、気になるから今から山根の所に行って来るから」
「明日にすればいいじゃない。明日、学校で会えるんだから」
今の所、その保証は無いと俺は見ている。
「兎に角、行って来るよ」
俺は母親に有無を言わさず、家を出た。
俺は阿坂病院前にあるバス停の前まで、来ている。
時間は午後六時を回っている。外は既に真っ暗だ。
あの日降り続いた雨はその日の内に止んだらしく、今では星が賑わいを見せている。半月が、俺の上で輝いていた。
しばらくして市街地行きのバスが到着する。俺はそれに乗って、市内まで向かった。
市内に出るのは久々だった。
俺は何か都合が無い限り、市内へ出る事は滅多に無いからだ。
一軒家ではなく、古びた二階建てのアパートの角部屋が、山根の家だと知ったのは、夏休みに一度、課題の事で尋ねた時だ。
山根は俺が家に行く事を酷く嫌っていたが、俺が強引に押し通した事で、どうにか家に入れて貰う事が出来た。
俺は文系が苦手だった。代わりに理数系には自信がある。山根の方は文系に強く理数系に弱い。その事を知っていたので、課題に煮詰まった俺は山根を頼って彼の家を尋ねた。
そうだ、山根の家に行くのはその日以来の事だった。
「……居るのか?」
俺は山根の居るアパートまで辿り着いたが、二階の角部屋には明かりが灯っていなかった。
不安という名の海が、俺の中で渦巻いている。
俺は山根の部屋に行く前に、目を閉じて深呼吸をする。
――大丈夫。
山根はきっと、大丈夫だ。
「……行くか」
俺はアパートの階段を上る。
その階段は何処へ続いているのか。今、俺が上っているのは本当に、山根の所へ続いているのか。
「……到着」
山根と表札のあるドアの前に、俺は今、立っている。
窓を見るとやっぱり、明かりは点いていなかった。
俺は汗をかいて呼び出し音に手を伸ばす。
「……やっちゃんに用があるの?」
何度も呼び出し音を鳴らす俺に声をかけたのは、山根の妹――、山根由梨である。俺とは一度だけ面識があった。そう、夏休みの課題で山根の家を尋ねて来た時だ。由梨ちゃんは中学二年生で十四歳。山根と同じく可愛らしい感じの子であるが、俺は由梨ちゃんが苦手だった。
「……ああ、今、中に居るのか」
由梨ちゃんは中学校の制服を着ていて、コンビニの袋を抱えていた。
「はーちゃん、やっちゃんに何かあったか知ってるの」
由梨ちゃんは年上でも、男であっても構う事なくちゃん付けで呼んでいる。因みにやっちゃんとは、山根の事で、はーちゃんとは、俺の事である。
由梨ちゃんは初対面の時、俺の名前を聞いて「それじゃあ、今日からはーちゃんだね」と、悪びれもせずに言った。俺は由梨ちゃんの性格から、正す事は諦めて、そのままそう呼ばれている。電話でも、山根を呼び出して貰う時、はーちゃんからだよ、と何度か耳にした事があった。
「……知ってるから、会いに来たんだけど」
「やっちゃん今、何があったか知らないけど塞ぎ込んでるのよ。……あ」
由梨ちゃんが俺の顔をジッと見ている。
……嫌な予感がする。
「あ、とうとう、やっちゃん、はーちゃんに愛の告白して、それをはーちゃんが振っちゃったとか?」
由梨ちゃんの、好奇心旺盛な目で見て来るその目に、俺は顔を引き攣らせる。
由梨ちゃんは今現在、BLとか言う男の恋愛を扱った小説やマンガに興味があると、俺に話していた。そして山根があんな風貌なのを見越して、自分の兄がその毛がある人間ではないかと、疑っている。
疑うだけならまだいいが、前に峰主将が言ったように、由梨ちゃんは雰囲気だけで物事を捉える癖があった。由梨ちゃんはどういう訳か、俺と山根の仲を疑っていた。由梨ちゃんは間島先輩の事を知らないので、山根を尋ねて来た俺に目が向けられている。
俺も初対面で、由梨ちゃんから「やっちゃんとキスはもう済ませたの?」と聞かれたのには参った。山根が俺を家に呼ばない理由もこの時ばかりは、思い知らされた。
……実際には、由梨ちゃんの目は正しかったと言う事になるが。
「……半分、当たってるけど」
「マジで? やっぱりやっちゃん、はーちゃんの事、ラブだったんだー」
「……」
俺はもう、由梨ちゃんと一緒に笑うしか無かった。
「でもさあ、はーちゃんに振られたくらいで情けないったらありゃしない。やっちゃんならはーちゃん以上の男、狙えると思うんだけど」
どう思う、と同意を求められも俺は困る。
「……俺は山根に会いに来たんだけど……、中に居るのか。真っ暗で誰も出ないんだけど」
「やっちゃんなら、中に居るよ。私、今さっき帰って来たばかりで、家入ってから直ぐに出て、近くのコンビニ寄ってたんだ」
由梨ちゃんが背負っていた鞄の中から、鍵を取り出す。
山根の両親は共働きで、夜遅くならないと帰って来ないと聞いている。
「どうぞ」
「どうぞ……って、由梨ちゃんは入らないのか」
ドアを開けて直ぐに鍵を鞄にしまい、そして背負い直す由梨ちゃんに、俺は声をかける。
「私、これから彼氏の所行くんだ。これ、やっちゃんの分だから、はーちゃんから渡しておいてくれる?」
俺は由梨ちゃんから、コンビニの袋に入っていた弁当を受け取る。
……山根は何時も、こんなもので済ましていたのか。
「本当はやっちゃんを無視して行こうと思ったんだけど、はーちゃんが居たから止めたんだよ」
困った風に笑う由梨ちゃん。
由梨ちゃんは俺とは反対に、階段を下りて行く。
俺は由梨ちゃんを見送ってから、ドアを開けた。
「山根、居るんだろう」
俺は廊下の明かりを点ける。
家のドアを開けて直ぐ横にある戸を開ける。其処の部屋が、山根の部屋だった。俺は遠慮なく戸を開け、その部屋の明かりを点けた。
男の割にきちんと整理された部屋に、俺は踏み込んだ。
「由梨ちゃんから、夕食の弁当、預かってるんだけど」
「……余計な事して」
山根はベッドの上でうずくまっていた。
俺は嫌がる山根を無視して、ベッドに座った。
「何だよ、風邪の方はもういいのか」
山根が俺から視線を合わさずに聞いて来る。
「……峰主将から、間島先輩の話を聞いたんだ」
「……」
沈黙。
「……間島先輩の死体を見ていないから、何とも言えないけど」
「……通夜も葬儀もあったよ。告別式もあった。学校の近くに家があるから、二年の間島先輩のクラスの人達が参列したって。僕もその光景を見たんだ」
「……そうか」
俺はイマイチ、間島先輩の「死」に実感が沸かなかった。
それは山根の言う光景を見ていないせいかもしれない。
「……死因は、何だ。俺は間島先輩が健康体に見えたけど」
「……」
山根は答えない。
……俺は思い切って、沢木さん達の話を、山根にしてみる事にした。
「……なあ、山根。俺の話を信じてくれとは言わないけど……、聞いてくれるか」
俺が真面目な顔をして言う。
「……何」
「――間島先輩、俺のせいで、死んだかもしれない」
俺の声は震えているのが、自分でも分かる。
「……何だよ、何の冗談だ。今更、笑えない冗談を言うなよ」
冷たい目。
俺は、山根の視線に構う事なく、ゆっくりと、桜木製薬研究所であった事、間島先輩が鬼花に感染していた事を、山根に話していた。
俺は今まで、誰かにこの話を聞いて欲しかったのかもしれない。
そう、信じて貰えなくてもいい、誰かに話す事で、自分の置かれた状況を離脱する方法を、探していたのかもしれない。
そして、俺の話を聞き終わった山根が一言。
「――バカじゃないの」
ああ、山根ならそう言うと思ったよ。
「何だよそれ。岡田から、何かマンガかゲームの話でもされて、それに影響でも受けたのか。空間使い? 鬼花? おまけに神様と来たか。……笑わせるな。僕がそんな子供騙しに引っかかると思ったら、大間違いだ。間島先輩が訳の分からない奴等に殺されたとでも言うのか」
山根の眼には怒りに満ちている。
無理も無い。
俺も、間島先輩の死が、奴等の仕業である事は、信じたくなかった。
「……ああ、俺は元から山根に信じてくれとは言わない。……けど、その可能性も無い訳じゃないと……、思ってるから」
「……」
山根が息を吐く。
「……これは、峰先輩から聞いた話だけど、間島先輩は元から、心臓に持病があったらしいよ。だから、定期的に検診も受けていたようだけど」
その話は俺は初耳だったが、以前、阿坂病院前で間島先輩と遭遇した事があったのを思い出す。
間島先輩自身は友達の見舞いと言っていたが、朝早く見舞いに訪れるのも今思えば変な話だ。多分、山根の言う定期検診を受けていた所だったんだろう。
「……始、僕は、間島先輩がそんなに身体が強い人じゃないって、薄々勘付いていたんだ。体育の授業は何時も欠席していると、聞いていたし」
「……」
俺は山根の隣に居て、山根の話を聞いている。
山根は誰かと話したかったのかもしれない、間島先輩の事を。俺が例の話を山根にしたように。
だから俺も、親身になって山根のその話を聞いていた。
「……うん、間島先輩は何処か、悲しそうだった。最初会った時も、図書室で一人で新聞の記事を書いていたし」
「……うん」
「……僕が間島先輩に声をかけたのは、可哀想だからじゃない、僕と同じように弱い人間だって、思ったから」
「……」
「僕は間島先輩を見下していたんだ。先輩のくせに、気の弱い人だなって思ったから」
弱い人間は更に弱い人間を求める。
ああ、そうか。思い出した。
――俺も、山根と同じだと言う事を。
俺は、山根を俺より下に見ていた。
だから、俺は山根に近付いた。
入学式のあの日、教室で浮いていた山根を見て――、同情して近付いた訳じゃない。只、自分より弱い奴だ、と山根を見て判断する。山根の傍に居る事で自分が強い人間であると――、酷い勘違いをしていた。
今更。
「……僕は、本当に酷い人間だ。間島先輩を盾にして、間島先輩を傷付けていたんだ」
「……」
それは、俺も同じかもしれない。
山根を盾にして、優位に立って――、影では山根を傷付けている。
「僕は間島先輩に何も出来なかった! 僕の事で苦しんでいる間島先輩を見て、内心は喜んで居たんだ! 最低な奴だろ、僕は!」
「山根!」
急に声を荒げる山根に、俺は落ち着けと、手を握る。
山根が俺を見上げる。
俺は此処で山根の眼が赤い事に、気付いた。
泣き腫らしたその眼を隠す様に、山根が俺から離れる。
「……もう、帰ってくれないか。一人にしてくれ」
「……山根」
身体を震わす山根に、俺はどうする事も出来なかった。
此処で慰めの言葉をかけてやるのも、今は逆効果だろう。
だから俺は。
「……山根、由梨ちゃんからの弁当……、ちゃんと食べろよ」
それだけ言い残して、俺は山根の部屋を出た。
吐く息が白い。
俺は山根のアパートから出ると、何処へも寄らずに真っ直ぐ、バス停へと向かっている。
山根は、あのままにしておいて、大丈夫だろうか。
不安は尽きないが、俺があのまま山根の所に居てもどうしようも無い。返って不安を煽るだけの存在になってしまう。
……不安なのは、山根だけじゃない。
俺は、自分が早く沢木さん達に連絡を寄越さなかった事で、間島先輩は鬼に食われたのではないかと、危惧している。
俺のせいで、間島先輩は死んだのではないのか。
……もし、そうなら俺はどうすればいい。
どうすれば、救われるのだろう。
「吉原君!」
え。
最初は、幻聴かと思った。
「吉原君!」
幻聴じゃ、無い?
俺は声のした方向を向く。
其処に居たのは。
「やっぱり、吉原君だ!」
走っているつもりだろうが、俺の目からは、彼女が早歩きで近付いて来るが見えた。
セーターにロングスカートという格好で、彼女が俺の目の前に立つ。
「久し振りだね」
はにかんだような彼女の笑顔、それだけで俺は。
「……仕事の方はどうしたんですか」
「普段は、五時には終わるの。あの時は、吉原君を案内したからあんな時間まで居たんだけどね」
えへへ、と笑いながら彼女が俺の隣を歩いている。
彼女の家は市内にあるのだと、言っていたので此処に居ても何の不思議も無いが。
「……あの、ええと」
俺は突然の彼女の登場に、少なからず緊張していた。
身体が、熱い。これは風邪のせいでは無い事くらい、自覚している。
「……吉原君、元気無いでしょ」
「え」
「うん。私、吉原君が歩いているのを見かけて、直ぐに声をかけようと思ったんだけど、ふらふらしてて足取りがおぼつかないし、傍から見て暗かった。声をかけるのをためらったんだけど、でも、そうしたら次、何時会えるか分からないし――、思い切って声をかけてみる事にしたの。ねえ、何かあったでしょ。私に相談出来る事なら、相談して。私、こう見えて吉原君より長く生きているから、何かアドバイスは出来ると思うのよ。どう、私に相談してみる気は無い?」
目を輝かせながら俺にそう訴えるのは、彼女で。真剣な話なのだろうけど、何時もの彼女の調子を受けて、俺は次第におかしくなって、声を立てて笑った。
「ど、どうしたの。私、何かおかしな事、言った? ねえ、何がおかしいのよ。私はこう見えて真剣なんですけど。吉原君」
俺が突然笑い出したのを、彼女は慌てる。
「……ああ、何か、久し振りに笑った気がします」
「……何よう」
彼女はむくれる。
ああ、どうやって彼女の機嫌を直そうか。
「……此処じゃなんだから、場所を変えますか」
「あ、私、良い所、知ってる」
俺の提案を受けて声を弾むのは彼女である。
俺は、彼女に着いて彼女の言ういい所、に案内して貰う事にした。
「……どうぞ」
「ありがとう」
彼女が、俺がコンビニで買って来た、熱いお茶を受け取る。俺の手には熱いコーヒーがある。
彼女に案内して貰った先は、街中にある小さな公園だった。そう広くない公園にはベンチとブランコ、ジャングルジムと言った基本的なものが設備されている。俺達はベンチやブランコの上ではなく、何故かジャングルジムの上に居た。
「此処からだと、電柱に邪魔されないで月が見えるの」
彼女が嬉しそうに言うので、俺は文句も言わずに一緒になって、ジャングルジムに登っている。
……というか、ジャングルジムに登るのは何年振りだ。子供の頃は、ジャングルジムに登れば、空まで届くかもしれないという夢があったが、今ではすっかりその気は抜けている。
「仕事の帰りに、此処登って、月を眺めてから家に帰るのが私の日課」
それは何かの使命だったりするのだろうか。
「雨や雪なんかで、月が見えない時は本当、がっかりするの。私の一日の楽しみが、なくなっちゃうからね」
「……どうして、月が好きなんですか」
俺は熱いコーヒーを口にしながら、彼女に尋ねる。
「……ううん、どうしてだろうね。憧れてるのかな」
「……月に、ですか」
「うん。前にも話したよね。月は常に私達の上にあって、どう転んでも私達の下にはならない。その影響は計り知れないもので、月が無かったら――、私達は生きていけない。太陽も同じ。だけど、月の方が威力は大きい。私達が寝ている間に、顔を出して人知れず力を与えている。私達が暗闇で怯える事が無いのも、実は月のお陰。だって、星が雲で隠れている時でも、月は必死になって、雲の隙間から何とかして私達が居る地上に光を当て様と頑張ってるの、知ってる?」
この話はあの人から言われた事なんだけどね、と彼女は付け足す。
あの人と言うのは、例の如月さん、だろうか。
彼女や研究所でその人の話を聞いていると、何やら不思議な感じのする人だと言う印象が、俺の中にはあった。
「……吉原君、元気無いよね。元気無い時でも、月を見ていれば何とかなりそうな気が、しない?」
俺も彼女に倣って月を仰ぐ。
其処にあるのは相変わらずの半月で。
「……知ってますか、今日の月は下弦の月って言うらしいですよ」
俺は図書室で読んだ本の内容を思い出し、彼女に言った。
「前も言ったけど、吉原君から、月の名前が出るなんて意外」
そんなに意外ですかね。
「うん、月と吉原君って何か合いそうに無いから」
はは、俺はそんな男に見えますか。
……って、俺はまた思っている事を口に出していたらしい。
「でも、落ち込んでいる吉原君は……、もっと似合わない」
「……」
俺は思わず、ジッと目を見開いて、彼女を見詰めてしまった。
俺は彼女のその言葉だけで、何かが――、弾けたような気がした。
「うん。私が知っている吉原君は何時も、堂々としているから。私があの研究所に連れて行っても、大袈裟に声を上げたりはしなかったでしょう」
「……俺は」
あの時は何がなんだか分からず、ただ単に脳が麻痺していたせいもあるのだと、彼女に告げる。
「そうだとしても、それは吉原君の本質があってこそだと思うよ。ねえ、だから、何かあったか知らないけど、元気出してよ。私は、悲しんでいる吉原君の顔なんか、見たくないから」
笑う彼女に、俺は。
変わらなければいけないと、思った。そうしないと前に進めない気がした。もっと、周りを見なければ山根の件は解決しないだろうと。
そして、今。
俺は彼女の名前を呼んで――、そして抱き締めたい心境になった。
ああ、でも俺は彼女の名前を知らない事に、今更ながら気付いた。
「あの、一つ良いですか」
「なあに?」
彼女は俺が買って来た熱いお茶を飲んでいる。
「――名前、何て言うんですか」
彼女は俺の言葉を受けて、月を眺める。
「……名前?」
「……はい、あの……、苗字だけでも、いいんですけど」
彼女の表情が曇る。
「ううん、何だったかな」
「え」
「前にもあったんだけど――、私、自分の名前が思い出せないの」
マジですか。
また何時かの、記憶喪失の話に戻ってしまうのだろうか。
「うん。私、自分の名前が思い出せないの。私の名前は何か、さっぱり」
「……でも、それじゃあ今までどうやって」
どうやって人から呼ばれているのか。
俺はそういえば、と思い出す。
千夏さんは彼女を「あんた」と呼んでいた。沢木さんも俺と同じ「彼女」と呼んでいる。静少年も、彼女を「あんた」呼ばわりである。鈴はどうだっただろう。長谷川さんは。
俺は。
誰も彼女を名前で呼ぶ事は無かった事に、気付く。
「ねえ、私の名前、何が良いと思う」
「え」
俺は彼女を見据える。
彼女の本心が掴めない。直ぐ、目の前に居ると言うのに。
「私、名前で呼ばれた事が無いの。私を名前で呼んでいた人は、もう居ない。私の名前、多分、英文字が混ざった番号だったように思うんだけど。やたらに長いんで、誰も私の名前を呼ばないのよ。変でしょ」
変以外に、おかしくはないのか。
英文字が混ざった番号って……、何かの暗号か、或いは。
「ねえ、私の名前、吉原君、考えてくれる?」
「え」
「私の名前。皆が呼びやすい名前を、吉原君に考えて欲しいの。だって、元の名前、呼び難いから皆が呼ばなくなったんだよ。私、それ知ってるの。記憶の一部にあるもの。あの人が、長ったらしい名前で私を呼んでいた事。これは千夏ちゃん達には内緒にしてるのよ。千夏ちゃんも部長も、私が自分の父親の話をすると、良い顔をしないから。……ね、お願い。千夏ちゃん達には内緒で、私に似合う名前、吉原君、考えて」
これは哀れみか、それとも。
「……良いですよ。俺があなたに似合う、良い名前を考えておきます」
「ありがとう」
極上の、笑顔を俺に向けるのは彼女で。
ああ、どうか、神様。
俺はどうなっても良い。
俺が抱える問題よりは、彼女の抱えている問題の方が余程、難解だ。
だから俺は決意する。
どうか――、彼女が幸せであるように。
俺は、何時の間にか月に向かって祈っていた。
翌日。
俺はすっかり回復した身体で、何時もの様に阿坂病院前のバス停へ向かっていた。
「吉原君、おはよう」
そして何時もの様に、有坂と遭遇する。
「吉原君、風邪の方、大丈夫なの」
「……ああ、すっかり。って、良く俺が風邪だって分かったな」
有坂には俺が倒れて家に運ばれて来た事は、知らない筈だが。
「だって、何時も時間に正確な吉原君が居ないから、これは風邪でも引いたんじゃなかって心配してたんだけど……、やっぱり風邪で寝込んでいたの」
「……はは、俺の皆勤賞は俺の不注意で無くなったよ」
俺は無理して有坂に笑顔を向ける。
「……何かあったの」
有坂は立ち止まり、不安そうに俺の顔を覗き込んでいる。
そうだ、有坂は何も知らない。
彼女の事も、間島先輩の事も。
何も知らない方が、幸せな事もある。
「……何でも無いよ」
「……ねえ、吉原君」
「何」
「私じゃ、吉原君の力になれない?」
有坂の悲痛な声を聞いて、俺は今になって気付いた。
有坂の想いを。有坂がどうして中学の頃、柔道の大会に来てくれていたかを。
「ねえ、私じゃ、吉原君の力になれない? ……お願い、此処で答えて。そうしないと、私、何時までも吉原君の事……、引き摺っちゃいそうだから」
……俺は。
「……ごめんな。俺、有坂の気持ち、今まで気付かなかった」
「……遅過ぎるよ」
有坂が、笑う。
「中学一年の時だったかな、初めて、吉原君が柔道やってる所見て、私、興奮したの。だって同じ年の子が、自分より大きな人を投げ飛ばしてるの、見たから。凄いなって思った。私じゃ出来ない技だって思ったから。それから。それから、友達と一緒に吉原君の出てる試合、見に行ってたのよ」
……俺は全然、気付かなかった。てっきり、俺目当てではなく、仕方なく友人に付き添って、というのが真相だろうと見ていたから。
「……有坂でも、やろうと思えば出来るよ。今からでも遅くは無いから、柔道、やってみたらどうだ。女でも、平気で俺くらいの男を投げ飛ばす子は居るよ」
「……ありがとう。でも、私には無理な気がする。諦めは早い方なの」
最後の笑顔を、有坂は俺に見せる。
有坂は俺の後を追わない、その代わりに。
「これで、明日も頑張れる気がする。だから、吉原君も、頑張って。……負けないでよ、吉原君らしくないから」
「……ありがとう」
俺は有坂に背を押されて、バス停へと向かう。
もう、この時間に有坂に会う事は無いだろうと思いながら。
俺は何時もの様に阿坂病院前から、七時三十五分発、成宮高校行きのバスに乗り込む。
バスの中を見回してみる。其処に、当然の様に山根の姿が無かった。どういう訳か、谷口の姿も見られなかった。そして、彼女も居ない。
俺は一人か。
それでも俺は行かなくてはいけない気がした。
バスは無事、成宮高校へ到着する。
俺はバスを降りると真っ先に、図書室ではなく、二年の間島先輩の教室へと向かった。教室の中を覗けば、花瓶に一輪の花が机の上に乗っているのが目についた。
俺は此処で初めて、本当に間島先輩はもうこの世に居ないのだと、思い知った。
「……吉原」
俺は峰主将を呼び出して貰った。峰主将は相当参っている様だった。何時もの気迫が感じられない。
「……吉原以外の部員には伝えてあるんだが――、俺は、この月で部を退部しようと思うんだ」
弱弱しい峰主将の言葉に、俺は愕然となる。
「……何でですか」
「俺は、今でも間島君の死が信じられなくてね。もう、柔道をする気さえ無い。元から心臓に持病があるとは言え、こんなに早くに来るとは思わなかった。俺は、間島君に何もしてやれなかった事が、たくさんある。俺はそれが悔しかった。俺は何も出来ない、男だって、間島君の死で初めて思い知らされた」
何だその理屈は。
それが柔道部を背負う主将の言葉か。
「そんなの、無責任過ぎます」
「吉原」
「敢えて言わせてもらいますけどね。バカじゃないですか。間島先輩だって、そんなの望んではいませんよ。何が間島先輩の代わりですか。せめて、部を引退するまでは、頑張ってください。それが、間島先輩の為にもなるんじゃないですか。間島先輩のせいにして止めるのは、峰主将がそれを口実に、ただ逃げているだけにしか、聞こえませんよ」
俺は勢いだけで峰主将に食いかかっている。
「吉原……、俺は」
「俺も、柔道は続けるつもりでいます。だから――、峰主将が居ないと、困ります」
「吉原……、お前、変わったな」
峰主将がしみじみと言う。
「……そうですかね」
「ああ。吉原が何をしようとしているか知らないが、俺も影ながら応援しよう」
影ながらですか。
某熱血野球マンガのように、電柱の影から熱い眼差しで、俺を見詰める峰主将を想像して、俺は思わず噴出した。
「前から思ってたが、失礼な奴だな、君は」
「前からこんなんですよ、俺は」
「吉原」
放課後、俺が教室を出ようとしている所で、岡田から声がかかった。
俺は朝の内から桜木製薬研究所に電話をしていた。茶封筒に書かれてあった携帯の番号にかけたら、一発で沢木さんが出た。俺は鬼花に感染した子を発見したと言って、沢木さんと会う約束を取り付けたのだった。
沢木さんの方は、もう知っているのかもしれない。間島先輩が鬼花に感染していた事を。間島先輩の末路も知っていて――、俺の話を受けたのだろう。
それでも俺は沢木さん達に聞きたい事があったので、此処では引き下がれなかった。
柔道部も、峰主将への配慮で、臨時休部になっている。
学校が終われば直ぐに「カラフル」で、沢木さんと合流して、あの研究所へ行く予定を立てていたのだが。
「吉原、前、緑原の山に何があったのか、聞きたがっていただろう」
ああ、その話か。
「何か分かったのか」
「……じいちゃんに話したら、今直ぐにでも吉原の話が聞きたいって言ってさ」
「……明日じゃ、駄目かな。俺、今から人と会う約束してるんだけど」
俺の言葉に、岡田がにやり、と不敵な笑みを浮かべる。
「吉原が今から会うと言うのは、沢木瑠璃。違うか」
岡田の言葉に、俺は目を丸くする。
どうして岡田が沢木さんの名前を知っている。
「正解だろ。な。お前と谷口が神様について話しているのを聞いて、そうなんじゃないかなーって、俺、思っててさ。ビンゴだった訳だ」
俺が驚いているのを見て、岡田がはしゃぐ。
「沢木のおっさんとは連絡がついてる。俺も同伴だ」
「岡田」
「校門前に沢木のおっさんを待たせてるから、さっさと行こうぜ」
俺の言う事も聞かずに岡田は教室を出て行く。
「やあ、吉原君。久し振り」
岡田に連れられ校門前へ行けば、本当に沢木さんが待っていた。スーツの上に白衣というスタイルは変わっていない。
人目を気にしないのも、沢木さんらしいと思った。
沢木さんの後ろにはワゴン車が止めてある。沢木さんの車だろうか。
「それだったら、俺の自転車乗るよね。持って来るから、待ってて」
岡田がそう言って、自転車置き場の方へ一人で行ってしまった。
「……岡田と知り合いだったんですか」
「知り合いって言うか、戦友かな。岡田君の一家には世話になってるよ」
俺は沢木さんの戦友には、敢えて突っ込まなかった。
しかし、家族ぐるみでか。
世の中、狭いな。
「お待たせ!」
岡田が自転車を担いで俺達の前まで来た。
岡田の自転車を後ろに乗せてから、俺は沢木さんが運転するワゴン車に、岡田と共に乗り込んだ。
これから先、何が待っているのだと言うのだろう。
それでも俺は、先に進まなければ何も出来ない事を知っている。
前へ進め。
その結果が何であろうとも、俺は――……。