今頃。
……。
溜息を一つ。
こんな事で溜息を吐く自分が情けない。
もし、中村さんだったら南君にもその人にも、上手く立ち回れるかもしれない。そう思うと私は中村さんの楽観的で、ひたすらに前向きな性格が羨ましかった。
朝。
私は結局、その人に連絡を取れないまま、ずるずると朝を迎えてしまった。
そう、私は家に帰ってから何度も何度も電話の前をうろうろしていたさ。部屋にしまってあった名簿を手に電話の前をうろついていたら、母親に不審な目で見られたよ。兄ちゃんには好きな奴にかける気かと、からかわれるし。
そうこうしているうちに、夜になって寝る時間になってそして朝になってしまった。
……南君、すみません、私にあの人に電話をする勇気はありませんでした。
いや、いいさ。
私はこうやって、午前七時二十分には家を出る。我が家から阿坂病院のバス停まで、約十分。バスが阿坂病院前に到着する時間より、家を出るには早過ぎる時間だったりするが、これでいいんだ。
そうすれば、朝、同じバス停へ向かうあの人の背を拝めるから。
あの角を曲がれば、あの人に会えるんだ。
と、思ったのに。
今日に限ってあの人の姿が無かった。
何故。
今の時期、風邪という事も考えられるが、あの人に限って風邪は引いた事が無い。そう言い切れるのは中学生の時、あの人が病気で休んだ事は一度も無かったせいもある。
まだ時間はある。遅れて来るのか? いやでも、四月からずっとあの人は予定通りの時間にこの場所に現れている。あの人は時間にはきっちりしているのだ。
……此処まですると、私があの人のストーカーと思われても仕方が無いが、私としては切実な問題だった。
学校が違うから会える時間が、此処しか無いからだ。
……。
それにしても今日は遅いな。もう七時三十分だ。
まさか、あの人に限って寝坊……いや、そんな筈は。
無い、と思っていた所で私の横を走っている人を目撃する。走っているというか、早歩きで私に気付かなかったのか、その人は真っ直ぐバス停を目指していた。
居た。
寝癖の頭に気付いていない。何度もあくびをしている、あの人の背中が私の目に記録される。
あの様子だと、珍しく寝坊したのか。
今日もこのままあの人を見送って――。
……。
これは、チャンスかもしれない。
いや、これを逃せば一生、あの人に声をかけられないまま、後悔して終わるかもしれない。それだけは嫌だった。
だから私は。
「――吉原君じゃないの」
「え」
あ、振り向いた。
久し振りに見た彼の顔は、何処か高揚している。走っていたせいもあるのだろうか。
「久し振りね」
「あ、ああ、久し振り」
吉原君の方は私の登場に戸惑っている。当然だ。
「吉原君、いつも阿坂病院前から乗ってるでしょ」
「……何で知ってるんだ」
吉原君は心底驚いた様子だった。
「私、あの後出る緑原行きのバスに乗ってるのよ。成宮高校行きだと、あんた達で満員になるのが目に見えてるからね」
成宮高校行きだと、緑原高校行きと違って緑原に着く頃、成宮の男子生徒で満員になっている。私としても、それだけは避けたかった。
私の話に吉原君は一応、納得している。
「有坂は緑原高校だっけ?」
「そう。あんたの所とは違って、共学よ。羨ましいでしょ」
あああ。
折角、吉原君が私に話し掛けているというのに、私は性格上、こういう態度を取ってしまう。
「でも、今の時間で吉原君に会うとは思わなかったわ。いつも、正確にあの時間に乗ってるでしょ。今日はどうしたの」
……吉原君をストーカーしていました、とは口が裂けても言えないわ。
早歩きから、私の歩調に合わせてゆっくりと歩き出す吉原君。
いつもの時間帯のバスに乗るのは、諦めたんだろうか。
私が不思議そうに見ていると、吉原君が言った。
「ああ、寝坊してね。今日に限って」
成る程。
私は空を臨む。
雨等降りそうにも無い、青空が広がっている。
「珍しい、雨でも降らなければいいけど」
何の理由があって、几帳面な吉原君が寝坊したのだろうか。
私にしてみれば吉原君が寝坊している場面に出くわすのは、雨所か雪でも降りそうな気分だった。
沈黙が続く。
バス停までまだ距離があった。
ああ、その間に何か話題を提供しなければ。折角、吉原君と話しているというのに。話題……、話題。ああ、そうだ。
「ねえ、男子校ってどんな感じ? やっぱり、男同士でくっつく子とか居るの?」
……。
あ。
吉原君が呆れている? ように私には見えた。
……この話題は拙かったか。
「俺はそんな話、聞いた事無いけど」
あああ、やっぱり呆れてるよ! 最悪だ。
それでも私は南君の話を聞いていた手前、その話を続けなければいけない。此処まで来て引き下がる訳にはいかなかった。