中学時代、吉原君は年のわりに静かで落ち着いている人だった。友達が騒いでいても、冷めた目でそれを見詰めている。今では何がきっかけだったか思い出せないが、ある日、クラスの数人の男子達が何かの理由で本気で喧嘩をしている時も、直ぐに止めに入る事は無かった。それは、私達も同じだ。正義感の強い人間が彼らの喧嘩を止めに入るが、その喧嘩は終わらなかった。逆に止めに入る人間が、彼等にやられてしまった。喧嘩をしている男子達を止めに入る人間と、静観している人間達。どちらが悪いとは言い切れない。どちらのせいと言う訳でも無いのだから。これは、後は先生に任せるしか無い、と誰もが思った時。
吉原君が立ち上がった。
吉原君は静かに「お前等、好い加減にしろ。話なら聞いてやる」と、喧嘩をしている男子達に向けてそう言ってのけた。喧嘩をしていた男子達は、吉原君の言葉を受けてあっさりと止めてしまった。止めに入った人間が出来なかった事を、吉原君はあっさりとやってのけたのだ。
そうだ。
喧嘩をしていた彼等は、普通に止めて欲しかった訳じゃない。彼等の言い分を静かに聞いて、理解出来る人が欲しかったんだ。吉原君は喧嘩が終わった後、彼等の話しを静かに聞いていた。彼等は吉原君に事情を話し、それからクラスの皆に謝ってこれで事件は終わった。先生に頼るまでも無かった。逆に先生に頼っていたら、大事になっていたかもしれない。
その事件があってからだ、私が吉原君を注目するようになったのは。
それから吉原君が柔道をやっているという話を聞いた私は、一人でこっそりと吉原君の練習を見に行った。
呆気に取られた。
吉原君は、自分より大きな相手を容易く投げ飛ばしてしまった。それを見ていた私は感動した。私と同じ年の男の子が、先輩を相手に怯む事なく投げ飛ばして行く様を見て、感動したんだ。
後は、友達に色んな理由をつけて吉原君が出る試合を見に行っていた。勿論、吉原君を応援する為に。吉原君は私の事は、気付いていなかったかもしれないけれど。
吉原君は凄い人だった。
吉原君は太陽よりは、月という印象を与える。
皆の前では決して目立つ事は無いけれど、それでも人に道を指し示す事が出来る、吉原君はそんな人だった。
「月が綺麗だねえ」
え。
横を見れば何時の間にか中村さんが、私の隣に座っているではないか。
緑原高校前にあるバス停には、市街地行きのバスが出ているが今の時間帯、私と中村さんくらいしか居なかった。ここのバス停の利用者が少ないせいもある。いつも、私一人でバスを待っている。
「……何やってるんですか、こんな時間に」
「思ったより早く、仕事が終わってね」
中村さんは笑っている。
「そういえば中村さんて、緑原で何の仕事をしているんですか」
私はかねてからの疑問を中村さんに、口にする。
この辺は名の知れた企業も無ければ、工場やコンビニすら無かった。本当、閑静な住宅地があるだけで中村さんのような人が働く場所は、無い筈だけれど。
「ああ。緑原小学校で教師やってます」
嘘だ。
思い切り、嘘だろう。その手には誤魔化されない。
「あ、その顔は嘘だって思ってるだろ。本当だって!」
中村さんの必死さは、私にそれが本当であると、示している。
……意外だ。
中村さんだったら子供受けはいいかもしれないけど、講師と言うのが思い切り、意外だった。
「何よその顔。俺が小学校の教師だって信じられない?」
「……かなり」
此処で誤魔化しても中村さんの事だ、私の思っている事等、お見通しなのだろう。
中村さんは私の話を聞いて、けらけらと笑った。
「確かに、信じられないかもなー、俺が小学校の教師ってのはなー」
「そんなんだからですよ。中村さんのその明るさは確かに、教師に向いているかもしれませんけど」
「うん。俺、よく、太陽みたいな人だって言われるから」
太陽。
言われてみればそうかも知れない。
中村さんと吉原君は、反対だ。何もかも。
「俺、子供が好きなんだよね。小さい時は男でも女でも可愛いじゃない。思わず奴等を抱き締めたいくらいにさ」
私はまだ、子供が好きかどうかは分からない。小さい子と接点も無いし。
その話し振りから、中村さんは本当に子供が好きなんだろう。ある意味、感動する話だ。
が。
「有坂さんくらいの子になると、別の意味で抱き締めたいけどねー」
「……遠慮しておきます」
感動の話がこれで台無しじゃないか。
中村さんはお構いなく、笑っている。
「あ、今日みたいな月、何て言うか知ってるかい?」
え。
満月が少し欠けた状態の月。
「何ですか。半月でも無いし……」
「居待月。家の中で座っている間に昇る月を、昔の人はこういう風に呼んだ訳。因みに月齢で言えば十八だ」
へえ。
「今、流石、教師だって思わなかった?」
「……思いませんけど」
少なくとも私は、全く何も思わなかった。
「何だ」
中村さんは心底残念そうだ。
「月、好き?」
中村さんの質問に、私は少しだけ迷った。
月が好きかと問われれば、決してそうではないからだ。
「……私、子供の頃は月が怖かったんです」
吐く息が白い。
白く立ち上る息は、空にある月へと吸い込まれて行くかのように、すぐに消えてしまう。
「へえ、どうして」
「ほら、月は私が歩くたびに追いかけて来るじゃないですか。私が何処へ行っても、追いかけて来るから、それが怖かった」
中村さんは、私の話を聞いて笑う事は無かった。
「……月は、太陽と違って、その目ではっきりとその姿が見えるからね」
それもあるんじゃないか、と中村さんは真面目に答える。
「でも、今は」
そう、今は。
あの人と同じ月が、私は。
「でも今は月が好きなんですよ」
その時、どういう顔をしていたか、自分ではよく分かっていない。ただ、中村さんの息を飲む音が微かに耳に聞こえた。
「そうか、それじゃあ俺も月を目指すかね」
中村さんがベンチから立ち上がる。
「どういう、意味ですか」
「さっきも言ったけど、子供達や保護者からはよく、俺については太陽みたいな先生だってよく言われるんだ。それも嬉しいんだけどさ。それだけじゃ、駄目なんだ」
市街地行きのバスが到着する。私も遅れてベンチから、立ち上がる。
「俺は、月に憧れているんだ」
バスに乗り込む際、後ろから中村さんに言われた言葉。
「……乗らないんですか」
中村さんは立ち上がったまま、バスに乗ろうとはしなかった。
「今日は、君の話し相手に来ただけだから」
中村さんは人の悪そうな笑みを浮かべる。
私の話し相手って……。
「実を言えば、まだ仕事が残ってるんだよね。だから、また明日」
中村さんは手を挙げて、私を乗せたバスを見送る。
私は。
バスから輝いている月を見ていた。月は相変わらず、私を追いかける。
まるで、今の私のように。
翌日。
また私は吉原君の為に家を早く出る。
今日はいつもの時間に吉原君を発見出来た、と思ったら。
何度もあくびを繰り返している、吉原君に私は思い切って声をかけた。
「おはよう」
「おはよう、有坂」
今日は時間に余裕があるのか、吉原君は私の歩調に合わせてくれている。