09

 緑原小学校は緑原団地の中にある分、高校から行くには時間はかからなかった。私は高校から歩いて十分程度で緑原小学校に到着した。
 小学校の授業は高校よりは早く終わっている筈だが、まだ教室には明かりが灯っているのが見えた。まだ中に何人か残っているのだろうか。
 しかし、小学校に来るのは何年振りだ。懐かしい。
 さて、どうやって中村さんに会えばいいのか。門は開いているが、勝手に小学校に入る訳にはいかないし。
 それに、中村さんの仕事がいつ終わるのかさえ、知らなかった。
 私がこうやって門の前でうろついているのは、不審者に見えるだろうか。
「あれ、あなた、緑原高校の生徒さん?」
 うっ。
 門の前をうろついていたら、緑原小学校の教師らしき女に、声をかけられてしまった。
 見た目、きつそうな感じの四十代過ぎの女教師であった。私は女教師を見ただけで恐縮してしまった。
「あ、あの、中村先生は――」
「中村先生? 中村先生だけじゃ、分からないわ」
 女教師は鋭い眼光で私を見ている。
 女教師の言い分は尤もで、私は彼女に詳しい説明をする勇気は無かった。
「と、とにかく、これ、中村先生に渡して下さい!」
 私は女教師に折り畳みの傘を強引に手渡した。
「ちょっと」
 私は女教師の静止を振り切って、その場から逃げ出した。


「ああ……、何やってんだ私」

 帰りのバスに乗った後でも、私は自分のした行動を後悔している。そもそも、中村さんが傘を持っていたかどうか分からないのに。
 私は勢いだけで、此処まで出来るのか。
 新たな発見と同時に、これがもし吉原君だったら同じ事が出来たのか。いや、吉原君は真面目な人だから天気予報を確認して、傘くらい持って来ているだろうから、私がそういう行動を起こす意味は元から無いだろう。
 多分。
 吉原君ではなく、中村さんだから、出来た事かもしれない。
 そう思うと、私は。
 ……。


 昨日とは違って青い空が広がっている。
 夕べは中々寝付けなかった。
 朝、必ず会う中村さんにどういう顔をして会えばいいのか分からなかったせいもある。私が女教師に手渡した傘はちゃんと中村さんに届いただろうか。もし、中村さんに私の傘が手元に届いたとして、私はどういう理由があってそれを中村さんに届けたのか。その理由をちゃんと言えるだろうか。
 そればかりが、頭にあった。
 ……。
 吉原君ではないけど、私もあくびをしながら、いつも通りにバス停へ向かった。
 と。
 あれ。
 今日はいつもの道で、一度も吉原君とすれ違わなかった。
 何で。
 私は一応、阿坂病院前にあるバス停へ向かう。
 成宮高校の生徒はちらほら見受けられたが、その中に吉原君の姿は無かった。
 何で。
 中村さんの事を考えていたせいで、吉原君に気付かなかったとか? いや、それは有り得ない。……多分。
 私は腕時計を見る。午前七時三十四分。
 私の腕時計の針は狂っていない。その自信はある。
 もうすぐ、七時三十五分だ。吉原君が利用しているバスが到着する。
 吉原君は。
 成宮高校行きのバスに次々と成宮高校の生徒が乗って行く。その中に吉原君の姿は無かった。
 ……。
 まさか、吉原君は怪我か病気にでもなったんだろうか。吉原君はしかし、中学時代、クラスの中でただ一人、皆勤賞を貰っている。それが三年間も続いたのだから、大したものだ。吉原君は柔道をやっているが、そのせいで怪我をしたという噂も聞いた事が無い人でもある。
 高校に入っても今まで吉原君は、少なくとも私の知る限りでは学校がある日はかかさずに通っている。吉原君が怪我や病気で休んでいる話は聞いた事が無かった。
 私の不安をよそに、成宮高校行きのバスは最後の乗客を乗せて行ってしまった。吉原君を乗せないまま。
 吉原君は何かの理由があって遅れているのだろうか? そうだ。そうに違いない。成宮高校行きはこの時間帯なら、五十分のがあった筈だ。時刻表を見ると間違い無く、成宮高校行きのバスが五十分からあった。吉原君が学校に間に合うバスは、今の所、この五十分のバスに乗るしか手が無かった。
 吉原君は何か理由があって、七時五十分発の成宮高校行きのバスに乗るんだ。
 だから私はそれまで待つ必要があった。
 朝は吉原君と話が出来る、貴重な時間だ。自分を犠牲にしてでも、その貴重な時間を外す訳にはいかない。
 と、思っていたら。

「有坂さん?!」

 驚いた中村さんの声が、私の耳を貫いた。
 見れば中村さんはバスを追いかけるように、走りながら喋っていた。
 ……そうだ、この人の問題もあったんだ。
「どうしたの、乗らないのか」
 緑原高校行きのバスが到着しているというのに乗る気配を見せない私に、中村さんが心配そうに声をかける。
「今日はちょっと、都合があってこの後のバスに乗るんですよ」
「何の都合?」
 中村さんは急に不機嫌そうに私に尋ねる。
「色々都合がありまして……」
 決して吉原君の都合だとは、中村さんに言える筈も無かった。
 私は中村さんの視線から逃げるように、顔を背ける。
「乗るんですかー?」
 バスの運転手が窓から顔を出し、中村さんに声をかける。
 そういえばもう発車時間はとっくに過ぎている。中村さんは私と話している暇は無い。
「すみません、乗ります乗ります!」
 中村さんは慌ててバスに乗り込んだ。私はそれでもバスには乗らなかった。
 私は中村さんを乗せたバスを見送った。
 吉原君のお陰で中村さんに傘について、言及される時間は無かった。
 私は吉原君に感謝しつつ、彼を待つ。

「あれ、君は……」

 後ろから声がかかった。
 吉原君か、と思って振り向いたら違っていた。