しかもベンチの上に灰皿置いて、そこから煙草が溢れているし。
「どうしたんですか」
「仕事が終わってねー、君の家に電話をかけたら学校から直接、市内に出てるって言うじゃない。此処で待ってれば君に会えると思ってさ」
「……私、中村さんに家の番号教えましたか」
中村さんには住所すら言っていない筈だけれど。
「それは、教師のネットワークを駆使してだな。君のお母さんも俺が教師だって言ったら、信用してくれたし」
職権乱用かよ。威張る話でも無い気がする。
それに下手すれば犯罪に繋がりそうな話じゃないか。
「でも、私がいつ戻って来るか分からないのに、此処で待ってたんですか」
一体、いつから。
そして何の用事があって私を待っていたのだろうか。
「有坂さんと同じ気持ちになってみようと、思って」
……。
沈黙。
「どういう、意味ですか」
沈黙に耐え切れずに私が先に口を開いた。
「この三日の間、有坂さんが誰かを待っているように見えたから。それでいつものバスに乗らなかったんだろ?」
「……」
ああ。
何か、涙が出そうだった。
「それはもう、終わったから明日は通常通り、あのバスに乗りますよ」
私は今、どんな顔をしているだろう。
中村さんを前にして、ちゃんと笑顔で居られているのか。
「……」
「……」
また、妙な沈黙が続く。
私はそこから逃げるように、中村さんに背を向ける。
「もう遅いから、これで失礼します」
「待って」
中村さんが私の腕を掴む。それは強い力で、私が振り払う隙を与えてはくれなかった。
「俺にも話せない事か」
「……何で」
何で中村さんに話す必要があるのか。
「嫌なものを心の中に溜め込んだままじゃ、いつか身体を壊すよ」
「……中村さんは教師だから生徒の相談に乗るって言うんですか。言っておきますけど、私は中村さんの教え子じゃありませんから」
あ。
こんな事、言いたくないのに。
「私はもう、自分の事は自分で出来る年です。中村さんの教え子のように、何かあったらすぐに大人に頼るような年ではありません。一人で大丈夫です、何も心配はいりませんから、だから」
だから。
「だから私の事は、放っておいて下さい! 何で必要以上に構うんですか! ただの自己満足の為だけに、私を利用しないで下さい!」
はあ、はあ。
久々に叫んだせいで、息が上がって苦しかった。
「……俺はね、教師だからという理由で、有坂さんに構っている訳じゃない」
いつもとは違う雰囲気で、真面目な顔をして静かに中村さんは声に出す。
「俺は、有坂さんの相談に乗っているつもりも無い」
「それじゃあ、どうして……」
どうして、私なんかに。
「話せば長いんだけど。ああ、灰捨てて来るから、その間、そこから動かないでよ」
「え」
「すぐに、戻って来るから」
中村さんが、やんわりと掴んでいた手を私から離した。
あ。
今になって、中村さんが掴んでいた個所が熱い、と知れた。寒い中でもその腕は熱を帯びている。
それが意味するものは。
……。
「お待たせ」
中村さんが少し息を上げて、戻って来た。
「場所を変えよう」
中村さんは自然に私の手を取ると、公園に向かって歩き出した。
公園にあるベンチに、中村さんが座る。中村さんに続いて、私がその隣に座った。
「で、さっきの続きだけど」
「うん」
中村さんは空を仰ぐ。
「前も言ったけど、俺は太陽よりは月に憧れていたんだ」
……確かに、その話は私も覚えている。
「月の方が太陽よりは落ち着いて、表では活躍出来なくても、裏で皆を支えているように感じるだろ? 俺はそういう男になりたかったんだ」
中村さんが話を続ける。
「俺は駄目だな。いつも落ち着きが無くて、学校でも授業中に子供と一緒になって騒いでいたら、古株が鬼のような顔して怒るんだぜ、参るよ」
その場面は、見てもいないのに私は直ぐに想像出来た。
それが、中村さんらしいから。
「君も俺と同じで、月に憧れているんだろう」
「……」
ああ。
あの時、私が月が好きだと言ったのは、月と吉原君を重ねていたからだ。それを中村さんは感じ取ったのかもしれなかった。
「太陽は常に俺達の上にあって、全面的に存在感を示しているけれど、月は気紛れでいつ、本当の姿を見せるか分からない厄介なものだ」
「……」
「月は月自身が有坂さんを追っているように見えるけど、実は有坂さんの方が月を追っているんだ」
中村さんから白い息が吐き出される。
「だから有坂さんが何度、月を追いかけていても月はその裏を見せない。有坂さんが月に追われるように仕向けないと、決して裏側は見せてはくれないよ」
それはつまり。
「有坂さんが月に追い討ちをかけろ。そうすれば、上手くいく」
……。
吉原君に真実を問い質せと言うのか。
「そんなの……、私には」
無理だ。
多分、出来ない。
吉原君に会っても、私の方から話を逸らして終わりだ。
「大丈夫。当たって砕けろの精神で行け。俺がついているから」
「……何ですかそれ」
砕ける前提か。それに何で中村さんがついているから、大丈夫なんだ。
「月のあとは、太陽が顔を出すからね」
私の疑問に答えているのかいないのか分からないが、太陽みたいな笑顔で中村さんが言った。
それだけで、私は。
「……何か、やれる気がしました」
「そうか。それなら、良かった。報告を楽しみにしてるよ」
「はい」
どうなるか分からないけれど。
中村さんの言うよう、吉原君に聞いてみなければ分からない事ばかりなら、本人に直接聞けばいい話だ。
うん。
中村さんに話を聞いてもらえただけでも、以前よりは少しだけ、落ち着いて来た。心も軽い。
「そうだ、有坂さんに返したいものがあったんだ」
「え」
中村さんは自分の鞄の中から、見慣れた折りたたみ傘を私に差し出す。
これは、私が女教師に渡したもので。
「助かったよ、この間は傘持って来てなくてさー。帰り際に雨になってるもんだから、どうしようかと思ってたら山口さんがこれ届けてくれてさ」
山口さんというのは、あの女教師だろうか。
「何で私だって……」
「俺の知り合いで緑原高校の生徒って、有坂さんくらいしか居ないからね」
私に中村さんが笑う。
「あの翌日から、この傘を返そうと思ってたんだけど、有坂さんの方があんな調子だからさ、俺なりに調べてみた訳」
「調べたって何を」
「まあ、細かい事は気にしない方がいいよ」
……その笑顔が逆に怖いんですけど。
「でも、お陰で助かったのは本当だから。これ受け取った時は、嬉しかったよ」
あ。
何処か、胸のあたりが熱いのを感じるのは。
「有坂さんは、俺にとっては月みたいな子だから」
え。
それはどういう意味で言ったのか。
「……全部終わったら、俺も本当の話をするよ」
私が中村さんを凝視していたら、中村さんは苦笑して私にその約束をする。
「ありがとう」
私は中村さんから自分の折りたたみ傘を受け取る。
「……こちらこそ、ありがとうございました」
「うん。もう遅いから、送って行くよ」
「……はい」
私は素直に中村さんに従った。
中村さんに連れられて帰宅した私を待っていたのは、南君から電話である。
私を心配して、茜に代わって南君が電話をかけて来てくれたのだという事は、直ぐに分かった。
「茜もさ、浮かない有坂を励ます為に、今日は無理に市内まで出たんだ」
「……うん」
「茜があの後、有坂に無理強いしたかもって、落ち込んでたから……」
そんな事は無い。私は茜には感謝している。
「ごめんね、私の方が悪いんだ。茜は何も関係無いから」
「そうか? それなら、いいけど……」
「明日には全部、終わらせるつもりでいるから。……その後、茜に謝るから」
「……ああ、何があったか知らないけど、頑張れよ」
「うん」
南君との電話を終えた私は、部屋に戻った途端、疲れてベッドの上に横になる。
大丈夫。
明日はきっと、大丈夫。
これまでに幾つかの太陽が、私の背中を押してくれるから。
南君の言うよう、私は頑張れる。
うん、頑張ろう。
私はそのまま、眠りについた。
午前七時二十分。
私はいつものように、家を出る。
今日は吉原君が来ているといいけど。
私は緊張した面持ちで、いつもの道で吉原君を待っている。
あ。
見付けた。
吉原君は、いつもの制服姿でいつもの道を歩いていた。
「吉原君、おはよう」
思い切って、吉原君の背に私は声をかける。
吉原君は振り向いて、私に反応を示す。
よくよく見れば吉原君は、少し疲れていた。
「吉原君、風邪の方、大丈夫なの」
「……ああ、すっかり。って、良く俺が風邪だって分かったな」
吉原君は私が風邪で休んでいると知っている事に、素直に驚いている。
「だって、何時も時間に正確な吉原君が居ないから、これは風邪でも引いたんじゃなかって心配してたんだけど……、やっぱり風邪で寝込んでいたの」
「……はは、俺の皆勤賞は俺の不注意で無くなったよ」
吉原君は無理して私に笑ってみせる。
ああ、これでは。
「……何かあったの」
私は立ち止まり、心配して吉原君の顔を覗き込む。
私は今まで、吉原君に何があったか、知らなかった。
同じように吉原君も、私に何があったか知らないのだろう。
何も知らない方が幸せな事もある。……お互い様だ。
「……何でも無いよ」
「……ねえ、吉原君」
「何」
私は吉原君を真っ直ぐに見詰める。
そして。
「私じゃ、吉原君の力になれない?」
私の言葉に、吉原君は押し黙る。
今ので、気付いてくれただろうか。私が今まで抱いていた、吉原君への想いを。
私は間が辛くなって話を続ける。
「ねえ、私じゃ、吉原君の力になれない? ……お願い、此処で答えて。そうしないと、私、何時までも吉原君の事……、引き摺っちゃいそうだから」
私は。
「……ごめんな。俺、有坂の気持ち、今まで気付かなかった」
「……遅過ぎるよ」
私は吉原君に向けて笑った。
そんな事だろうと、思っていたから。
「中学一年の時だったかな、初めて、吉原君が柔道やってる所見て、私、興奮したの。だって同じ年の子が、自分より大きな人を投げ飛ばしてるの、見たから。凄いなって思った。私じゃ出来ない技だって思ったから。それから。それから、友達と一緒に吉原君の出てる試合、見に行ってたのよ」
私は吉原君に今までの想いを、一気にぶちまける。
それでも、吉原君は私の話を最後まで聞いてくれる。吉原君は変わらず、優しかった。
「……有坂でも、やろうと思えば出来るよ。今からでも遅くは無いから、柔道、やってみたらどうだ。女でも、平気で俺くらいの男を投げ飛ばす子は居るよ」
「……ありがとう。でも、私には無理な気がする。諦めは早い方なの」
私は最後の笑顔を吉原君に、さらけ出す。
これで私はもう、月を追いかけなくてすむのだろうか。
吉原君は私の代わりに、他の月を追いかけているのだろうか。
「これで、明日も頑張れる気がする。だから、吉原君も、頑張って。……負けないでよ、吉原君らしくないから」
「……ありがとう」
吉原君は最後、そう言い残して、私を残してバス停へ向かった。
もうこれで、吉原君の背を追いかける必要は無いと思ったら、悲しいけどまだ私には希望はあった。
次に中村さんに会ったら、今までの事を全部話してやろう。そして中村さんから、中村さんの話を聞いてみようと思った。
次に茜に会ったらまず謝って、今までの話を南君も一緒にしてあげようと思う。
もう、怖くない。
月に憧れているのは、終わったのだ。
これからは私が誰かの月や太陽になれたらいい、そう思った。