「それじゃあ、私が居ない間、亜紀は、おじいちゃんの言う事をよく聞いて、いい子で留守番してるのよ」
それが夜になって仕事へ行く母親の常套句である事を、野山亜紀(のやまあき)は、子供ながらに知っていた。
そして、亜紀が中学生になった今でもそれは変わらない。
「亜紀。おじいちゃんの言う事をよく聞いて、いい子で留守番してるのよ」
いつもの言葉を残して亜紀の母親、冬美(ふゆみ)は扉を開けて出て行く。
「亜紀。今夜、何が食べたい?」
冬美が家を出た後は、亜紀の祖父、義高(よしたか)が亜紀に聞いて来る。
亜紀の家は母子家庭であるが、祖父が健在であった為に、亜紀は母親が仕事で居なくてもそれほど寂しくはなかった。
「うーん、何でもいいよ」
亜紀は高齢の義高に負担をかけたくなくて、子供ながらに気遣っている。それだからいつもその言葉しか出て来なかった。
「そうかい。それじゃあ、おじいちゃんが亜紀の為に今が旬の栗でも使った料理を作ってやろう」
義高は栗が好きだった。秋になれば決まって栗ご飯や栗きんとん、栗と鶏肉の煮物など、栗を使った料理を好んで作っている。義高は亜紀の為に栗の料理を、と意気込んでいるが、実際は自分の為だったのだろう。
亜紀は実は、甘いものが苦手だったが、義高が作る栗料理だけは頑張って食べていた。義高は早くに妻を亡くし、自活が長いせいで料理は母親の冬美より上手かった。亜紀は今となっては滅多に作らない母親の味より、祖父の味の方が強烈に印象に残っている。
そんな義高が死んだのは、九月の事だった。
亜紀は義高を失った事で絶望に襲われ、学校にも行かずに何日も家にこもっていた。食事は全部、近くのコンビニで買い足して来たものばかりだ。亜紀が食べた後のカップ類が部屋に散乱している。
冬美はそんな亜紀の状態を心配する事も無ければ叱責する事も無く、何も言わずに義高が死んだ後も変わらず仕事に出ている。冬美は、亜紀の事態を見兼ねて仕事の時間を夜から昼へ変える事も無かった。
冬美は、実の父親である義高の事など、既に頭に無いのだろう。冬美の人生は仕事であり、人では無い。亜紀はそんな冬美に怒りを通り越して、呆れて物も言えなかった。
学校を休んだ初日は担任や友達が心配して家を訪ねてくれたが、亜紀の心はそれでも動かずに、だらだらと時間は過ぎていき、気付けば十一月に突入していた。今となっては友人ですら、いつまでもウジウジとしている亜紀にサジを投げてしまった。
「亜紀」
久し振りに聞いた冬美の声に、亜紀は沈んでいた顔を重たそうに上げる。
「一体、いつまでそういう風に過ごしているつもり?」
仁王立ちで久し振りに母親らしい事を言う冬美に対して亜紀は、何も言う事無く顔を背ける。
今更。
今更、母親面をされてもね。亜紀はズカズカと散乱するゴミを掻き分けながら進む冬美を無視する。
が。
「亜紀。好い加減この部屋、片付けなさい」
「……何。今になって母親になっても、意味無いじゃん」
そう。
何故、義高が生きているうちに亜紀の事を思うような、母親らしく振舞えなかったのか。亜紀は冬美の態度に反抗するかのように、唇を噛み締める。
「亜紀」
「今日は仕事に出るんじゃないの」
いつもなら仕事に出かけている時間の筈なのに、いつまで経っても部屋に居る冬美に亜紀は当然の疑問を投げかける。
「……まあ、今になって母親らしい事をしても無駄なのは知ってるけどね」
冬美は亜紀の隣に座る。亜紀はそんな冬美を煙たそうに嫌がるが、冬美はそれでも亜紀から離れずに話を続ける。
「それでも、あんたの母親で居られる権利は持ってるからね」
「……」
冬美は怪訝そうな顔を向ける亜紀に、有無を言わさずゴミ袋を手渡す。
「いいから、あんたはこの部屋にあるゴミを片付けなさい。その間に、私がご飯を作るから」
「……は?」
ゴミの片付けよりも、亜紀は冬美の最後の言葉が気になった。
誰がご飯を作るだって? 今のは私の空耳か? 亜紀は呆然と冬美を見ている。
「おじいちゃんのような味が出せるかどうか、分からないけどさー」
冬美は亜紀に構わず何処からか取り出した新品のエプロンを身につけ、腕まくりをしてすっかり食事を作る気でいる。
「私が料理作るから、あんたはゴミをちゃっちゃと片付けなさい。いいわね」
いつも以上に凄む冬美に亜紀は情けなく震えて二の句も告げず、亜紀は仕方なく冬美の言う通りに散らかっているゴミを片付ける羽目になった。
何で私がこんな事を。いや、散らかしたのは自分だけどさ。そもそも、おじいちゃんに任せてたのは、あの人の仕業だし。亜紀はゴミを片付けながら、内心では冬美に対して愚痴っている。
「亜紀。どうなの」
二十分ほどして冬美が台所から、亜紀の様子を窺う為に部屋に顔を出す。
亜紀は愚痴りながらも、冬美の言いつけはきちんと守り部屋を片付けていた。
「うん。亜紀はいい子ね」
冬美は言う事を聞いてくれる亜紀に満足して、台所へ戻った。
ああ。そうだ。亜紀は冬美に褒められたい為に、義高の好きな栗料理も我慢して無理して食べていたのだ。ゴミを拾っている自分も結局は、冬美に褒められたい一心でやっている、という事に亜紀は最初から気付いていた。
気付いていても冬美に直接それを言うのは、亜紀は悔しくて情けなくて言えなかった。
「亜紀。いい具合に炊けたから、ご飯にしよう」
亜紀が部屋を片付け終わった頃、冬美から声がかかる。
「今日は、亜紀の好きな栗ご飯に、お味噌汁に、栗と鶏肉の煮物よー」
「……これ全部、お母さんが?」
食卓には湯気が立つ味噌汁と、いい匂いがする栗ご飯に栗と鶏肉の煮物が並んでいる。見た目も中々、冬美の料理の第一印象は「美味しそう」で、亜紀は素直に感心している。
「うふふー。お母さん、亜紀の為に頑張っちゃった。お父さんの遺品を整理している時にこれのレシピも見付けちゃってさー」
「え」
亜紀は最初、冬美の言葉の意味が分からなかった。
義高が死んだ後、亜紀は傷心して何をしていたか全然、覚えていない。冬美は夜、遅くに帰って来て仕事で疲れているのに、亜紀が寝ている間に義高の遺品を整理していたと。
「お父さんの部屋の中が妙にすっきりしてたのにも、気付いてないでしょ」
「……」
義高の部屋にあるものが整理され、妙に綺麗になっているのに亜紀は冬美に言われるまで気付かなかった。その、愚かさに亜紀は自分を恥じる。
冬美はどんなに忙しい中でも、義高の事を忘れてはいなかったのだから。
「でもそのお陰で、亜紀がおじいちゃんのレシピに気付かなかったのには、幸いしたね。私が内緒で特訓出来たから」
「……?」
特訓? 冬美の話が亜紀には全く見えて来ない。
「実を言えば私、レシピ見ても作り方がさっぱりでさー。友達に協力して貰って、ここまでこぎ着けた訳よ。今まで塞いでいた亜紀を放っておいたのも、この為だし」
あはは、と冬美は自分の失敗を笑い飛ばしている。
ああ、いつもそうだ。いつもそうやって。亜紀は自分の感情を抑えきれず、席を立った。
「亜紀?」
亜紀の突然の行動に、冬美は驚く。
「何でいつもそうなの」
「え、何が」
冬美は亜紀の言いたい事が本気で、分かっていない。
「何でいつもそうやって私の知らない所で努力して、何も知らない風な振りを通すの。そんなに私を信用していないの! そんなに私が頼りないか!」
亜紀がたまらず声を荒げるのを、冬美は静かに聞いている。
「うん。私は、仕事から帰ったらいつもおじいちゃんから亜紀の事を聞いていたから。おじいちゃんから、亜紀はいつもいい子で留守番しているよって、聞いていたから安心して外に出ていたのよ」
「……」
冬美から聞かされたその事実も初耳で、亜紀は逆に押し黙る。
「おじいちゃんが、亜紀は直ぐに泣いて母親を恋しがっていた」
「そんな事は一度も」
「そう、それを亜紀から聞いていたら私は仕事を辞めてでも母親として、亜紀の傍に居たけどね」
それは、何処まで本当なんだろうか。でも母親はきっと、私がそう言っていれば仕事を辞めていたかもしれない。けれども。亜紀は冬美を見据える。
「亜紀は強い子だから、私は一人でも大丈夫だって信じて、おじいちゃんに預けていたけれど」
今度は冬美が亜紀を見上げる。
「でも、それは私の思い違いみたいね」
「……」
義高が死んで、亜紀は茫然自失となっていた。
冬美はそんな亜紀を見て、決意する。
「お母さん、夜の仕事は辞めて昼間の仕事を見付けてきたから」
「……でもそんな事をしたら、今までの生活が」
冬美が夜遅くまで働いていたのは、亜紀の為であると常日頃から豪語していた、それなのに。
「いいのよ。亜紀の為なら、何でも出来るのよ私。料理も、部屋の掃除だって、全部。亜紀の為なら身を犠牲にしてでも、何でもやれるわ」
「……」
違う。亜紀の為、亜紀の為と言う冬美に、亜紀は。
「違うよ。そんなんじゃ、駄目だよ。幾ら私の為でもそんなのは、お母さんの為にならない」
「亜紀」
「お母さんがやりたいように、やればいい。仕事も……、家事は私がやるから」
自分も動かなければ、冬美はそのまま亜紀の為に仕事も投げ出してしまうだろうか。亜紀はそんな冬美は冬美ではないと、思っている。
「本当に、そう思ってる?」
「思ってる」
今度はちゃんと、はっきりした声で亜紀は冬美に告げる。
「おじいちゃんも多分、そう言うよ」
亜紀は確信している。もし、この場に義高が居たら彼は迷わず笑顔で冬美を仕事に送り出すだろう。そういう人だ。義高は自分の娘にも、孫にも甘い人だった。
「そうね。私が此処まで生きていけたのも、皆、お父さんのお陰だわ。……この料理、おじいちゃんの大好物なのよ、知ってた?」
「うん、知ってる」
亜紀が座り、冬美は静かに箸を手に取る。
「これは亜紀の為であり、お父さんの為にも作った料理だから」
「うん」
冬美に言われなくても亜紀は最初から、分かっている。
「さて、いただきましょうか。味の保障はしないけれど」
「……何、それ」
冬美の言葉に亜紀は少し、笑った。
ああ。
こんな晴れ晴れとした気分になったのは、いつ以来だろう。亜紀はこの日の為にレシピを残してくれた義高に、そして料理を作ってくれた冬美に感謝の意を込めて、手を合わせる。
亜紀と冬美は声を揃えて、同時に言った。
「いただきます」