剣と魔法が支配する世界、ベリアル。
ベリアルの最大都市、アッセムのカレンダーの日付は、二月一四日になっている。
彼女、サリィは、朝から台所でチョコレートと格闘していた。
「サリィ、調子はどう」
「大丈夫だから、手は出さないでよ、お母さん」
台所の入り口で心配そうに声をかけて来る母親をサリィは、一蹴する。
今日は特別な日。だからこそ、一人で手間を惜しんであの人のためにチョコレートケーキを、とサリィは意気込んで作っていた。
チョコレートケーキの作り方が書かれた本の上には、最初、サリィが誤ってぶちまけたチョコレートの液がついている。卵のカラや、振るう時に誤ってこぼした小麦粉が台所に散乱していた。サリィの顔や手にも、卵や小麦粉、チョコレートで汚れている。
これでは、母親も口を出しても仕方が無い。二十歳を娘を心配する母親は、サリィ本人にしてみれば厄介なものだ。しかしサリィは、母親を振り切って、どうにか焼きにまでこぎつけた。
「後は焼くだけ、と」
「サリィ。そろそろ、行かないと遅刻するよ」
「分かってる!」
サリィは母親に反抗するように、大きな声を出して返事をする。
顔や手についた汚れを落とすため、サリィは急いで風呂場に直行した。シャワーで全身を丹念に洗う。あまりの気持ち良さに、サリィは危うく眠ってしまう所だった。
風呂から出たサリィは、制服に着替えて台所に行ってオーブンから、チョコレートケーキを取り出す。チョコレートの甘い香りが、あたりに立ち込める。
「よし」
上手い具合に焼けたチョコレートケーキを用意していた箱に詰めて紙袋に入れると、サリィは家を出た。
サリィが働いている場所は、アッセム最大の、魔法図書館であった。
魔法図書館には、魔法が施された貴重な書物が何億冊も保存されている。
魔法図書館は、地上五階、地下三階で構成されていた。
広大な室内の壁には、世界各地から集められた本が並べられているその図は、初めて魔法図書館に訪れた人間なら圧倒されるに違いない。
魔法図書館の一階は、一般市民に開放されている。朝から本を読む物好きも居て、その中をサリィは足早に歩いている。
「おはようございます」
「おはよう」
サリィに一番に挨拶して来たのは、後輩のセンリである。
サリィは、センリの手にある紙袋に目がいった。
「その紙袋、何?」
「あ、これはですね、女の子達から今日貰う予定のチョコを入れるための袋です」
嫌味無く純粋に爽やかな笑顔で言うセンリに、サリィは呆れる気にもなれなかった。
確かに、可愛い顔をしたセンリは女子の職員から人気があった。センリはそれを自覚している分タチが悪いと思うのは、館内に居る女職員ではサリィだけだ。
「……何?」
サリィに紙袋を差し出すセンリ。サリィがセンリに怪訝な顔で問う。
「やだなあ。先輩から、チョコレート貰うためですよ」
「……、悪いけど、センリにあげるチョコレートは持って来てないよ」
「えー」
途端、サリィに向けてセンリから非難の声が上がった。
「義理でも、安いやつでもいいですから、くださいよー。恵まれない男に愛の手を!」
「駄目だよ。ごめんね」
尚も紙袋を差し出し迫るセンリに、サリィは拒否する、が。
「それ、チョコレートケーキじゃないですか?」
「……」
サリィが手にしていた紙袋を、センリは目敏く見付ける。
「サリィさんの話だと、心を許した相手にだけ贈る事になってるんですよね? 本命ってやつ、サリィさんにも居るんですか。相手は、どんな人ですか」
「……」
矢継ぎ早に質問して来るセンリに、サリィは何も言わずにいる。
「それじゃ、館長ですか? サリィさん、館長は特別なんですよね」
「……ノーコメントで」
「えー。サリィさんと館長って、幼馴染でどの職員よりも付き合い長いって、他の子達から聞いてますけど」
センリの言う事は事実で、サリィはこの魔法図書館の館長とは、幼馴染で此処に就職する前から付き合いがあった。
それでも。
「これは館長にあてたものじゃないよ」
「マジですか」
センリの話を受けてサリィは、それを思い切り否定する。
「館長とサリィさん、お似合いだと思ってたんですけど。これを機会に告白とかは」
「そろそろ、行かなくちゃいけないから。またね」
悪いけどこれ以上、センリには付き合っていられない。サリィは、センリを振り切るように早足で彼の前を過ぎ去った。
サリィが向かったのは、地下室である。
地下にある書物は厳重に封印されているため、出入りする人間は限られていた。
サリィは、ある事情から、その特別な人間の数に入っていた。
魔法の鍵を使って魔法で封印されている地下へ通じる扉を、ためらいもなく開けるサリィ。
扉を開けて薄暗い階段を降りた先に、更に地下一階へ通じる扉があった。扉の横には、人間をかたどった石像が置かれている。
「……セキさん。起きてる?」
自分の背丈以上はある石像を前にして、サリィがささやく。
すると。
「汝、何用か」
石像が声を発したかと思うと、みるみるうちに肌が石から生身へと変わっていく。
「セキさん」
サリィは驚く事無く、石像の名前を呼んだ。
石像の名前はセキ。元は、東の果てにある小さな島国の刀使いだったらしいが、自分より強い人間を求めて海を渡り、此処、ベリアルまで辿り着いたと言う。
それは遥かな昔の話。本の中の話。
本の中から魔法で飛び出したセキは、普段は石像として振舞っているが、侵入者が来れば実体化して扉の中の本を守るようになっている。
セキの物語は、扉の奥にある一冊の本に記されていた。その本を燃やされてしまえば、セキの魔法も一瞬で消えてしまうからだ。
セキのような魔法の本は、普通の火では簡単に燃やす事が出来ない仕組みになっている。それこそ、腕の立つ魔法使いが放つ強力な炎でなければ、本を丸ごと燃やす事は不可能であった。
セキは、物語の中で刀使いとして活躍している。その腕を見込まれて、地下一階の扉を侵入者から守るよう、用心棒として配置されていた。
サリィが行けるのは、地下一階にある扉の前まで。扉の向こうを知らないサリィは、セキの話を読んだ事は無いが、こうしてセキと話している内に、その内容を覚えてしまった。
今ではサリィが、セキの良き話し相手になっている。
「セキさんの国の行事、今ではすっかり図書館内に定着していますよ」
サリィが、セキの隣に座って話し掛ける。セキの方も、サリィに関して何も言う事は無かった。
「行事? さて、今日は何の日だったか」
「バレンタインですよ。ほら、女の子が男の子にチョコレートで告白する日だって、セキさんが」
「ああ。あの菓子業界の陰謀か」
セキは、バレンタインデーになると、自分の国で自分がチョコレートを女からもらった覚えは無いと、散々サリィに話していた。
実は、センリが遠慮無くサリィにチョコをねだるのも、サリィのせいだったりする。
サリィがセキから聞いたバレンタインの話を、図書館内に広めたのが始まりだった。
女子の職員からは好評で、何年か経った今でもそれは館内に受け継がれて定着している。
「あんなのは、菓子業界が自分達のチョコレートを買わせるために思いついた、実にくだらんものだ」
セキはサリィに力説する。
よほど、嫌な思い出でもあったのだろうか。毎年、同じ話を聞かされるサリィは、セキに笑うしかなかった。
「ワシは、バレンタインの日になると、路上でいちゃついているカップルを見ると、この刀で斬り付けてしまいたい衝動にかられる」
ひひひ、と不気味な笑みを浮かべて刀の光り具合にうっとりするセキに、サリィは若干引いてしまう。この癖さえ無ければいい人なんだけど、サリィは刀一筋のセキに、呆れている。
どうすれば、刀ではなく自分に振向いてもらえるだろうか。サリィがセキと出会ってからずっと、思い続けていた事。
今日という日を利用しない手は無いと思いついたのは、去年のバレンタインが過ぎた日だった事を、サリィは思い出す。
「あの、セキさん」
「何だ」
未だに刀に目がいっているセキに、サリィは今朝、頑張って作ったチョコレートケーキが入った紙袋を無理矢理手渡す。
「む、何だこれは」
「チョコレートケーキです」
ようやく刀から目を離して紙袋を覗き込むセキに、サリィが説明する。
「何?」
「だから、チョコレートケーキです。私から、セキさんに」
こうしている今でも、心臓がうるさい。外では冷静に振舞っていても、中身は思い切り緊張している。サリィはガサガサと音を立て紙袋から箱を取り出し、中身を確認するセキを見ながら息を飲んだ。
「おお、これは汝が作ったのか? ワシのために?」
箱からチョコレートケーキが出て来ると、感激したセキがサリィに再度尋ねる。最後の部分を強調しながら。
「はい、そうです。私が、セキさんのために」
「ありがとう」
サリィからの言葉を受けて、セキは柔らかな笑みを浮かべて、本当に心から感謝の言葉を口にする。
それはサリィにも伝わり、サリィは思わずセキが居るというのに、目から涙がこぼれた。
「お、おい。ワシは何か汝の気に障るような、余計な事を言ったか」
「違います。嬉しいから。セキさんに感謝されるのって、今まで無かったし。……、嬉し涙です」
慌てるセキに、サリィも慌てて自分の涙を否定する。
「そうか。汝に涙は似合わんからな。けれど」
「え」
セキがサリィに顔を近付ける。
「汝の嬉しさで流す涙は、とても綺麗だ」
「……っ」
ああ、もうこの人はどうして自分の喜ぶ言葉をあっさりと言ってくれるのだろう。サリィはどうにかして、込み上げる思いを吐き出そうとする衝動を、抑える。
「汝の気持ちは、確かに受け取った。しかし、我々は食事をする事も無い」
「知っています」
それは、サリィも承知の上でセキにチョコレートケーキを作っていた。
「これは……、どうする。このまま、保存する訳にもいくまい」
「あ、大丈夫です。後でみんなで分けて食べようって、思ってたから」
元から口に出来ないチョコレートケーキを受け取って困るセキに、サリィは笑いながら答える。
サリィにしてみれば、それは口からの出任せで、セキには気が悪かったけれど。
「む、折角、汝から貰ったものを他人に分け与えるのは、納得いかんな」
「仕方が無いですよ」
仕方が無い。魔法で作られた人間と、生身の人間では訳が違うのだから。それに関してはサリィもセキも、互いに苦渋を味わっている、現実でもあった。
「あ、もう、部屋に戻らないと……」
そろそろ、自分の在籍する部屋に戻らなければいけない時間だ。サリィはこのままセキと別れたくないと思うが、そうもいかない。
サリィは再びチョコレートケーキを箱に戻し、紙袋に入れて手で持ち上げる。
「汝よ」
「はい」
セキに背を向けるサリィに、セキがサリィを呼び止める。
「また、来てくれるか」
「……セキさんが、望むなら」
「そうか、では、ワシもまた眠りにつく事にしよう」
セキはサリィにそう言い残して、元の石像へ戻ってしまった。
サリィは地上へ通じる扉を開けて、階段を上っていく。
「やあ、おはよう」
地上に出たサリィを待ち構えていたのは、センリではなく魔法図書館館長の、グレンであった。
館長と言っても、サリィと同じまだ二十代で若い。実は、館長になれる条件は年齢や経験ではなく、いかに魔法が上手く扱えるか、である。そのため、館長になる人間は魔法に長けた人物に任される。
グレンは、ベリアルでも有数な魔法使いとして、名が知られていた。グレンの手にかかればどんな魔物も服従すると言われている。若くして天才と呼ばれるグレンは、まさに魔法図書館の館長に相応しい人物であった。
「……おはようございます」
グレンと顔を突き合わせた途端、今までの気持ちが全て嘘であるかのような気がして、サリィは浮かない顔をする。
「鍵は、きちんと元の場所に保管しておいてくれよ」
「分かっています。そもそも、私が鍵をなくした事がありましたか」
グレンはサリィの前を歩き、サリィはグレンの背を見ながらその後ろを歩いている。
「無いね」
「それなら、何も問題無いでしょう」
サリィの言葉を受けて、グレンは立ち止まる。
そして。
「話がある」
グレンは無理にサリィの腕を取り、人気の無い本棚の影へ連れて行く。
グレンは腕を取ったまま、サリィを本棚の背にして自分と向き合わせる。
「何ですか、急に……」
サリィの言葉を最後までさえぎるように、グレンは音を立てて本棚に手を打つ。サリィは、グレンと本棚に挟まれる格好になり、身動きが取れなかった。
「館長」
「いつまでこんな茶番を続ける気だ?」
本を読みに来ている客に遠慮してかどうかは分からないが、グレンは低い声でサリィを威圧する。
「……どういう、意味ですか」
サリィはグレンから視線を逸らす。
「あの地下室に眠る石像……、セキは、我々とは違う」
「……」
それは。
それは、サリィもセキも自覚している。
「セキは、魔法の産物、魔人だ。君は人であり、彼とは違う」
「何を仰りたいのか、分かりません」
そうだ、グレンはいつも回りくどい言い方をする。サリィはグレンのそこが苦手だった。
「――ヒトと魔人はどうあがいても、結ばれない」
そのグレンの一言が、サリィの胸を突き刺すには十分だった。
サリィは、セキの時とは別の意味で涙が、出そうだった。それでもサリィは、グレンの前でそれを堪える。自分の涙は、セキ以外に見せたくはない思いがサリィにはあった。
「そうだとしても私は、セキから離れたくはありません」
サリィは弱弱しく、グレンに吐き出す。
グレンはそんなサリィに、溜息を吐く。
「君に鍵を管理させたのは、間違いだったかな」
「……」
館長の権限で、サリィが今後、鍵を扱えないようにするのは、簡単な事だ。そうなれば、セキに会えなくなる。サリィはそれを恐れていた。
「あの、それだけは」
「僕はそこまで酷い男じゃない。けれど」
少し間を置いて、グレンは真っ直ぐにサリィの目を見詰めて。
「地下にあるセキの本を、燃やしたくなる衝動にかられる時がある」
今までに無い真剣な顔、真剣な声で言い放つグレンに、サリィは息を飲む。
グレンの腕なら、セキの本一冊、燃やす事は容易い。サリィはグレンの魔法の力に、畏怖して震える。
「……何で、セキさんの本だけなんですか」
「……分からないなら、いいよ。今はね」
最後、意味深な言葉を残してグレンは、サリィを開放する。
サリィは本棚の壁から離れて、グレンの横に立つ。
「館長は、チョコレート、貰わなかったんですか」
グレンの手に何も無い事に気付いたサリィが、尋ねる。
「全く。誰が言い出したか知らないが、朝から館内の女共に追いかけられる身では、辛いものがあるな」
「そうですか、それは良かったですね」
それは、暗に自分がモテると自慢しているだけだろう。サリィは、鼻を高くしているグレンに棒読みで応じる。
「所で、その紙袋の中身はチョコレートケーキか」
「そうですけど」
グレンの言葉でサリィは紙袋を持ち上げる。
「センリが、サリィのチョコレートケーキを狙ってたよ」
「朝、彼に会いましたよ」
「センリは、甘いもんが好きだって言ってたから、今日のイベントはたまらないんだろ。女の子達も、犬にエサを上げるような感覚でセンリにあげるって言ってたし」
「……」
犬にエサと来たか。センリは彼女達の思惑を知らないのだろう、きっと。でも、チョコレートを貰ってセンリが幸せな気分になれるのは、悪くないかもしれない。サリィはセンリが女の子達からチョコレートを貰って犬のように喜んでいるのを思い浮かべて、笑みを浮かべる。
「で、そのチョコレートケーキをどうする気だ」
どうしようか。グレンに言われてサリィは悩む。
セキには、この後、皆で分けて食べるから大丈夫だと言った。けれど、一度はセキの手に渡ったものだ。皆にどう言い訳すればいい。しかし、このままこれを家に持ち帰れば、母親に何を言われるか分からない。かと言って、このチョコレートケーキの宛先を知らないグレンに手渡すのも、気が引けた。これを自分一人で片付けるには、量が多過ぎる。サリィが苦悩しているのを見たグレンが、一言。
「昼になったら、皆でサリィのケーキでお茶でもするか」
「え」
思いがけないグレンの提案に、サリィは目を見張った。
「そうした方が、センリも気がすむだろ?」
「でも」
やはりグレンの提案が、サリィのチョコレートケーキを処分するには一番いい方法だ。サリィはグレンに賛同するが。
「これ……、普通は恋人にあてたものだから、皆で食べるようなものでも……」
「そんな事、気にしてたんだ。大丈夫だよ。セキ以外の本でも、今日に関する記述がある本があったから、読んでみたけど。それによれば本来、バレンタインデーは、恋人に向けて贈るものでも無いだろ? 感謝の気持ちがあれば、誰に向けて贈っても、問題は無い」
セキの話では、恋人に贈るのはごく一部で、本来は家族や友人、兄弟に向けて贈るものらしい、とサリィは聞いていた。グレンの言う事は、真実でサリィの気持ちを落ち着かせる。
「それじゃ、そろそろ仕事に戻るか」
「はい」
サリィは、前を歩くグレンに対して、ありがとう、と小さく呟いた。