三月:桜が咲いた日

 閑静な住宅街の外れにある、神社の境内の一角に、一本の桜の樹が植えてあった。
 桜の樹の前では、一人の女性が立っている。
 女性は、時期が早かったのか、まだツボミが付いているだけの桜を見上げる。

「……ここが、あなたが選んだ場所ですか」

 女性は呟く。
 神社の境内では女性以外に、人の気配は無かった。
 ただ、風が吹いて木々を揺らす音だけが、響いている。

「あなたは今、幸せですか」

 女性は静かに、桜の樹に問い掛ける。
 ざわ、ざわ。
 女性の言葉に応じるように、桜の葉が揺れる。

「……そうですか」

 女性は何を思って、目を閉じたのか。
 再び目を見開いた女性は、明るい調子で桜に向かって話した。

「あなたを無くしてから色々あったけど、私は相変わらずです」

 駄目だ。これ以上、持たない。女性は震える体を抑える。
 女性は桜の樹に背を預け、座り込んだ。

「……、あれからもう、一年が経つんですね」

 女性は一年前にあった、あの日を思い出し、目に涙を浮かべる。
 そう、あれから一年が経とうとしている。女性はあの日を思い出すと、今でも涙が止まらなくなり、嗚咽を漏らした。

「……、あなたに報告したい事が、あるんです」

 しばらくして落ち着いた後、女性は立ち上がると、正面から桜に向き合う。
 今日は、涙を流すために、過去に縛られるためにここに来た訳じゃない。意を決した表情で女性が、桜に向けてはっきりと言い放ったのは。

「――来月、結婚します」

 ……風が。女性の横を風がいっそう強く吹き抜けた。
 瞬間。

 ――ツボミだけだった桜の花が、一気に花開き、満開に咲き誇った。

 まるで、女性の言葉を待っていたかのように。まるで、女性を祝福するように。
 有り得ない現象。
 それでも女性には、それが現実に起こった事だと、即座に受け入れる事が出来た。
 一年前のあの日も、有り得ない事が女性の前で起こったのだから。
 何が起きても、不思議ではない。
 そう、あの人の力なら、何でも起こせる。女性は、それを知っている。

「……ありがとう」

 女性はまた、さっきとは違う意味の涙を流した。それは、嬉しい気持ち。女性は心から、嬉しいと思った。

「あなたは、自分の約束を果たせたみたいですね。私も、同じです」

 手の甲で目頭を押さえながら、女性は続ける。

「私は私の世界を、生きていきます。……あなたも、あなたの世界を生きてください」

 それは、女性の願い、そして、あの人への最後の想いであった。
 あの人と決別を意味する言葉を吐き出した女性は、桜に背を向ける。

「……あの人を、お願いします」

 女性は最後に、あの人ではなく――、桜そのものに向けて、強く言った。
 女性は桜を振り返らずに、しっかりとした足取りで神社を出て行く。
 神社を出た先には、女性の婚約者が待っている。
 婚約者は何も言わずに、戻って来た女性を支えた。
 二人は、寄り添いながら神社を後にした。


 一年前。
 一人の青年が、何も告げずに女性の前から姿を消した。
 青年は、女性の恋人であった。
 その日から、女性の世界が変わった。
 女性は自分に落ち度は無いと思っていた為に、青年の行動が理解出来ずに絶望し、嘆き、自殺の寸前まで追い込まれたが。
 女性の窮地を救ったのは、今の婚約者であった。
 婚約者のお陰で、女性は前向きに立ち直る事が出来たのである。
 その後、女性は青年の気持ちを理解しようとして、行動に出た。
 婚約者の助けを借りながら、女性は青年が消えた日の行動を追いかけて行った。
 その、結果。
 女性は婚約者と共に青年の本当の居場所を突き止め、真実を知る事になる。
 そうして辿り着いた場所が、神社の境内に咲く一本の桜の樹であった。

 それから、時は巡り――。

 結末は、青年の世界の終わりと繋がる。