閑静な住宅街の外れにある、神社の境内の一角に、一本の桜の樹が植えてあった。
その桜の前で、一人の男が立っている。
「今年も、来たよ」
男が優しい笑みを浮かべて桜に向かって言うと、桜も男に応じるように葉をざわめかせた。
今年も桜は、見事に美しい花を咲かせていた。
男は頷いて、桜の幹に手を触れる。
「もう、来年は来れないから」
――どうして?
声。
桜の幹から、声が響いた。若い、女の声である。男は動じずに女の声に応える。
「今月、結婚するんだ」
――けっ、こん。
女の声は幼く、舌足らずで、男はそれも彼女を愛しいと感じてしまう。
「……親同士が決めた結婚で、僕に拒否権は無いんだ」
幹から、すぅ、と、白い手が現れる。白くて細いその手は、男の背に回る。男もそれを拒まず、受け入れた。
――断れば、いい。そんなの。
「駄目だよ。僕は良くても、彼女……、婚約者の彼女が可哀想だ」
男の婚約者は気立ての良い美人で、傍から見れば文句無しの縁談である。
男は女側に非があれば潔く断れたが、今回の見合いではそれが無かった。相手の女も男に夢中だと言い、男が女に対してどう断ろうかと悩んでいるうちに式の日取りも決まり、後は日を待つだけになってしまった。
「だからごめん、君には悪いけど……、もう、ここには来れない」
――駄目。一緒に居よう、って言ってくれたの、誰。
「……」
勿論、男の方はそれを彼女に向けて言った覚えがあり、手前、何も言えずに押し黙る。
――私の力があれば、その女を殺す事だって、出来る。
ぞくり。男の背筋に悪寒が走った。
彼女が言う事は、自分が止めなければ本当に起こってしまう。男は彼女と出会って数年、身を持って体験していた。
「駄目だ! 幾ら何でも、人を殺すのは駄目だと、何度も教えただろ!」
――……だって。
「だってじゃないよ。君はその力で、何度も人を殺して来たんだろう。だから、その力を恐れた人間は、君の怒りを静める為に、君をこの地に移植した。君はお陰で、仲間とはぐれて一人になってしまったんだろう。また、それを繰り返してここを追い出されたいのか」
男の説得に、彼女は沈み込む。
――そんな私を見付けたのは、あなたよ。あなたのお陰で、私はもう、寂しくないと想えたのに。
「……」
手だけだったものが、腕、胴体、頭と幹から抜け出す。今まで男と対話していた彼女の全貌が、現れた。
全体的に白い肌で、赤く光る目と赤い唇、腰まで届く波打つ髪は桃色で、細い腰と柔らかな胸、彼女の全ては、誰でも見るものを魅了するには十分過ぎた。
男も彼女を一目見て惚れてしまい、今では誰よりも愛しい存在となった。
「……僕も、君とは離れたくないよ。だけど、君と僕では住む世界が違う」
――そんなの、関係無い。私が咲く頃、あなたがいつものように来てくれれば、私はそれで十分、幸せよ。
女の健気な言葉に、男は胸を打たれる。
ああ。彼女が僕の全てだ。男は確信を得る。
それでも。
「……だけど、僕の婚約者は、ここからずっと遠い場所に新居を構えようとしている。僕の仕事も婚約者あってのものだから断れないし、一年に一度、ここに来る事は、絶望的なんだよ」
男はどう足掻いても、婚約者には頭が上がらないと、彼女に訴えるが。
――それなら、あなたが私の所に来ればいい。
「え」
男は彼女を見据える。
彼女は男に、優しい笑みを浮かべる。
――私の世界にあなたが来ればいい。私の世界に行けば、あなたは何も悩む事無く、ずっと私と一緒に居られるのよ。
甘い誘惑。男は彼女の誘いに乗るべきかどうか、迷う。
――私の世界では、老いも死も関係無いの。未来永劫、あなたはそのままで私と一緒に居られるわ。
それは、楽しい事なんだろうか、それとも。男は彼女の誘いの意味を知っていた。男は、彼女の誘いを受ければもう、この世界で生きてはいられない事を、知っていた。それでも尚、男は彼女の笑みをずっと見ていたいという願望の方が、勝った。
「……そうか。僕が君の世界に行けば、婚約者も諦めがつくだろう」
――そうよ。絶対、その方がいいわ。私もあなたと一緒に居たいから。
「……そうだね。うん。僕はずっと、君と一緒に居るよ」
男の決心は固く、彼女の手を取った。
――ふふ。これで年中、あなたと一緒に居られるわ。
「……ああ、ずっと、一緒だよ」
男は、目を閉じた。
これで男の世界は、幕を閉じた。
男は現世の世ではなく、黄泉の世を選んだ。男は自分の肉体が消える事に恐れは無く、彼女と同じように、桜の世界で魂だけで生きる事を、選んだのだ。
以来、誰も男の姿を見たものは無く、そして。
一年後。
男の婚約者だった女が、この桜の場所を突き止め、神社の隅に咲いている桜の前に、姿を見せる。
女は、桜に向かって報告する。今ではもう立ち直って、男とは違う相手と結婚する事を。
だからもう、心配いらないと、女は笑って桜に向かって言ってやった。
女は男の奇妙な行動と、男が書き残していた書物から、桜の精が本当に居るのではないかという気さえ、抱いている。
男は小説家でありながら、歴史家でもあった。男は、桜の精の伝説の物語を、書き終えていた。
それは儚くも、哀しい物語で。
男が書いた物語に登場する桜が、この神社に移植された桜である、という事も、女は突き止めていた。その伝説は本当で桜の精も実在するのだと、地元の人間が婚約者であった男に向けて訴えていたのを、女は知っている。
その影響もあるのだろうと、女自身、悟っていた。
そして、女の直ぐ傍では。
女の一つ一つの言葉を、婚約者だった男は優しい目を向けて桜の精である彼女と、聞き入っていた。女の為に用意した最後の贈り物は、桜の精である彼女の力を利用したもので、それが全部上手くいったのを見て、男は安堵する。
それを女は知る由も無く、最後に桜に背を向け、神社を後にした。
いつまでも男は女のその背を追っていたが、やがて桜の精の彼女に目を向け互いに互いの手を取り合い、本体である桜の中へと消えて行った。
それから、気の遠くなるような年月が過ぎ、男の婚約者だった女が老いて死んでも尚。
桜はいつまでも、神社の隅で、綺麗な花を咲かせている。