五月:さよならのついでに

 その日は曇天で、更にユウウツが増した。
 今にも雨が降り出しそうな天気。傘を忘れた生徒達が、教室の窓から心配そうに空の様子を窺っている。

「雨、降るかな?」
「降らないよ。天気予報で、雨が降るのは夜からだってさ」

 私の問いに応じるのは、隣の席の浅野君だ。

「へえ。ちゃんと天気予報見てるんだ」
「当たり前だろ。朝は、天気予報を見ないで何を見ろって?」
「浅野君。ひょっとしてお天気お姉さん目当て?」
「そうそう。新人の女子アナで、けっこう可愛いんだ」

 浅野君は私の前で、その女子アナを思い浮かべているのか、だらしなくにやけていた。
 私は、浅野君の前でなるほど、と相槌を打ちつつ、心の中ではくだらない、と嘲笑している。
 女子アナが原稿読むだけの天気予報は外れてしまえばいい、と毒づく私の心は、浅野君は知る由も無い。

「帰るの?」
「いや、部活があるから」

 浅野君が立ち上がるのを見て、私が尋ねる。
 そういえば浅野君は、部活で毎日汗を流していたな。

「雨が降ったらどうするの」
「体育館は先約で、いっぱいだろうしな。直ぐに解散かもね」
「ふうん。バドミントン部だっけ」
「そ。今流行の」
「流行ってんの?」
「……身内だけでね」

 私の言葉に、浅野君は肩を竦めて苦笑する。
 それじゃあ、と軽く手を振って浅野君は鞄を抱えて教室を出て行く。
 私は浅野君の背を見送って、また窓から外を眺めている。
 私は、浅野君のように部活をやっている訳でもなく、かと言ってこのまま帰宅する理由もなく。
 気付けば教室の中は、私一人。
 何だ。皆、薄情だな。一人くらい、私を誘えよ。一緒に帰ろうってさ。……。……まあ、私がとっつきにくい性格だってのは自覚してるさ。
 溜息を、一つ。
 一学期が始まってから、五月の連休が明けて、それでも教室に友達が一人も居ないのは私くらいだろうな。多分。
 体がだるい。
 あー。こういうの、何て言うんだっけ。えーと。ああ、五月病だ。私は、五月病にかかっている。
 ああ、でも。五月病は、五月が過ぎれば治っているものだろうか? 私は六月になってもずっとこのままな気がする。多分。
 ずるずるずる、引き摺ったまま。
 何か、きっかけがあればいいのに。そう。
 こういう日に、雨が降って来るとか。
 浅野君は、天気予報では雨は夜からだと言っていた。天気予報で言っていたなら、そうそう外れる事は無いだろう。残念。
 ああ。
 いつまでもこうしていても仕方が無い。
 私は重い体を無理矢理、立ち上がらせる。私は鞄を持って教室を出た。


 昇降口まで来た時、だった。
 雨の音。
 雨の音が、した。
 私は靴をはいて、外に出た。
 雨が降っている。
 信じられない。
 雨は、音を立てて私の体を通り抜ける。
 雨の勢いはそれほど強くは無いが、傘が無ければ当然のように、制服はや体が濡れてしまうだろう。
 私は間の悪い事に、傘を持っていなかった。浅野君のように、天気予報を見ていないせいだ。
 畜生。
 何で、私が帰る時に限って雨が降るんだ。
 いや確かに雨が降ればいいなとは思ったけど。思ったけど、自分が遭遇するとは夢にも思わずで。
 職員室まで行って傘を借りるか。いや、私にその勇気は無く。それじゃあ、このまま傘無しで雨の中を帰るか?

「何、やってんの」

 どうしようかと迷っている所で、上から声がした。
 浅野君の声。
 おまけに、雨が私の体を避けて行く。
 雨が止んだのかと思ったが、それは私の見当違いで、上から浅野君が自分の傘を私に差してくれていた。

「……部活は」
「見ての通り、雨が降って来たから解散になった。体育館は、ほかの部活が使ってるし」

 浅野君は天気予報を信じていたのではなかったか。

「傘、持ってきてたんだ。天気予報は、夜から降るんじゃなかったの」
「ああ。俺が朝見てる天気予報、よく外れるんで有名なんだ。こういう天気の日は、万が一の為に傘を持つのは、当たり前だろ」
「何、それ。天気予報の意味無いじゃん」
「いやだから、女子アナ目当てに見てるんだって。朝から、暑苦しい気象予報士の叔父さんの顔、見たくないじゃん」
「……」
「何、その軽蔑しきった目。男子なら、絶対、見てるって。今度、俺以外の奴にも聞いてみたら」
「……、うん、聞いてみるよ」

 ああ。
 浅野君は、少しだけ私に手を差し伸べてくれているのか。

「帰ろうか」
「……あの、私、傘無くても――」

 私はこのまま、傘が無くても歩いて帰るつもりだったと浅野君に告げる。
 浅野君が持っている傘は、当然のように一つしか無かった。
 私が浅野君の傘に入れば、私のせいで浅野君の肩が雨で濡れてしまう。

「だからさ」

 浅野君が私を見下ろす。

「頼れる時にクラスメイトに頼らないから、いつまでも一人なんだよ」

 あ。
 私は浅野君を見上げる。

「同じクラスのよしみだ、送って行くよ」
「でも、浅野君が濡れたら意味が無いし」
「もうとっくに濡れてるから、今更だろ。この傘じゃ、あんまり意味が無いのは元から知ってて君に声をかけている訳だし」
「……、ありがとう」

 私は浅野君の優しさに少しだけ、胸の奥が熱くなった。
 私は浅野君と同じ傘で一緒に、学校を出て行く。
 それから私達は帰るまでに色んな話をした。浅野君が殆ど喋っていて、私はそれを聞く役目だけに徹していたけれど。

「ここで、いいのか」
「うん。ありがとう」

 私の家は十階建てのマンションの、三階に位置する。
 浅野君は私の暮らすマンションの前で、足を止めた。

「雨が止んでる」

 浅野君がそう言って、傘を下ろした。
 いつのまにか、雨が止んでいる。
 でも雲が厚いのには変わり無く。

「本格的に降り出すのは、やっぱり夜かな」
「かもね」

 私が言った後、浅野君が傘を閉じている。

「それじゃあ、俺はもう行くけど」
「うん」

 名残惜しい感じがしたけど、私は浅野君に応じる。
 そして。

「また、明日」

 笑顔で浅野君が私に手を振る。
 また、明日。

「うん。また、明日ね」

 私も笑顔で浅野君に応じる。
 また、明日。
 私はそれだけで心が軽くなった気がした。
 もう、大丈夫。
 五月も六月もその後もずっと、乗り切れる気がした。多分。

 また明日、浅野君に、さよならのついでに、明日の約束をしてみよう。