六月某日。
天気予報の天気図では、梅雨前線が本土に停滞していた。気象庁が梅雨入り宣言をしたのは、つい最近の話である。
彼女、相原朝子(あいはらあさこ)が暮らしている街の空は、梅雨の影響か、雨が降っている。
「朝子。これ、そーちゃんの所まで届けて来て頂戴」
リビングでぼうっとテレビを見ていた朝子にそう声をかけたのは、彼女の母親である。
母親が朝子に差し出したのは、タッパーに入れられた母手製の肉じゃがであった。
「何で私が」
「勉強もせずにテレビばかり見て、暇そうじゃない」
行く事を渋る朝子に母は、容赦無く言い放つ。
「えー。今、いい所なのに。そうだ、そーちゃんがうちに来れば……」
「さっさと行って来なさい」
「……はい」
朝子の抗議も空しく、母に言われるがまま外に出た。
朝子は傘を持って家を出て一路、そーちゃんの家を目指す。
そーちゃん、こと、瀬戸総一郎(せとそういちろう)は、朝子の幼馴染である。
幼稚園の頃は家族ぐるみの付き合いがあったが、総一郎の両親が出先で交通事故に逢ったせいで、それ以降の付き合いは途絶える。
総一郎の両親は、総一郎を留守番させて外に車で出かけていた。そして、総一郎の両親はそのまま彼の元に帰って来なかった。以来、総一郎は、自活する能力が無い為に家を追い出され、頼れる親類も無く、児童施設に保護されてしまった。それきり。朝子達が総一郎に気遣い、それきり、彼と連絡を取り合う事は無かった。
それが。
総一郎が朝子と同じ高校に進学したという知らせを聞いたのは、一年前の春の事。
母親は総一郎が近所のアパートで一人暮しをしていると知り、何を思ったか時々、彼の為に料理を作ってはそれを朝子に運ばせている。
今日も、雨だというのにその例に漏れず、朝子は母の使いで総一郎のアパートに向かっていた。
徐々に勢いを増しながら降り続く雨は、傘を通り抜け朝子の肩を濡らしていく。
遠く東の空は分厚い黒い雲に覆われ、雷の音が轟いている。
「こっちにも雷、来るかな」
朝子は不安そうに空の様子を気にしている。
早く、総一郎に料理を届けてさっさと家に帰ろう。朝子は雨に濡れるのも構わず、自然と足は早くなる。
と。
総一郎のアパートの前で、一組の男女が何やら言い合っているのを、朝子は目撃した。
朝子は咄嗟に、傍にある電柱の影に隠れた。女とは面識が無いが、男の方が総一郎本人であると、朝子の目からもはっきりと、認識出来たせいだ。
二人の会話の内容まで、朝子の耳には届かない。ただ、女が一方的に総一郎に向かって何か訴えている。
やがて。
女が総一郎の頬を叩く音が、雨の音より大きく朝子の耳にも届いた。
女は傘も差さずに身をひるがえし、総一郎の元から離れていく。
女の履いているハイヒールのかかとが、地面に溜まっている雨水を蹴散らす。
総一郎も朝子も、しばらく呆然と女の背を見送っていた。
女の姿が完全に見えなくなった事を確認した朝子は、恐る恐る総一郎に近付く。
「そ、そーちゃん」
「……ああ、朝子か」
総一郎が無表情で、朝子の方を振り返る。
小さい頃、朝子と一緒に笑いながらはしゃいでいた総一郎の面影は、今はもう何処にも無い。両親が死んだ後、朝子と再会した総一郎の顔には表情というものが欠如していた。抑圧の無い総一郎の声は、逆に朝子を怖がらせるには十分だった。
それでも無駄に顔だけは良いので、総一郎が何をせずとも女が寄って来る。しかし、どんな女も総一郎とは長続きしなかった。
実は、朝子が総一郎の修羅場に居合わせたのは、今回が初めてではない。
朝子は総一郎のだらしなさに閉口し、学校では彼と関わらないよう努めていた。高校一年の頃、朝子は総一郎と一緒に居るだけで別の女達から目の敵にされ、随分な嫌がらせを受けたせいもある。
こうして母の遣いが無ければ、総一郎と顔を合わせる事も無かったのに。朝子は自分より随分背が高い総一郎を見上げる。
「何」
「ああ、母さんから、そーちゃんのおかず、預かってるから」
「叔母さんの肉じゃがか。ありがとう」
「……うん。それじゃ、私はもう」
帰るから、と朝子が総一郎に背を向けた途端。
一瞬。空が光ったかと思うと、爆弾が落ちたかのような今までに無い轟音が辺りに響き渡り、次の瞬間、バケツをひっくり返したような大雨が、外に出ていた朝子と総一郎を直撃する。
「……何処かに落ちたか?」
「うわー、傘、全然役に立たないし!」
総一郎が空を仰ぎ、朝子は地面に視線を落として、仕方なく傘を閉じる。
「朝子」
全身びしょ濡れで参っている朝子を、総一郎が呼び止める。
この時、彼は何を思ったのか。彼女は何を感じたのか。総一郎が朝子の腕を掴んだ。
「折角だから、雨宿りしていく?」
「……、うん」
朝子は総一郎に案内されて、彼の部屋へと足を踏み入れる。
朝子が総一郎の部屋に入るのは、久し振りだった。朝子より、見知らぬ女達の方が総一郎の部屋を良く知っているだろうその部屋は、備え付けの冷蔵庫に電子レンジ、机しか無い簡素な模様になっている。客用の座布団すら無い。
部屋に入ると総一郎は、明かりを点けた。
机の上には総一郎のコーヒーカップと、先刻の女が飲んでいたであろうコーヒーカップが置かれたままで、朝子はそれを見て複雑な気分になる。
「着替えは、俺のジャージで良ければ貸すけど」
総一郎が部屋で立ち尽くしている朝子に、タオルを手渡す。
「うん。それでいい。シャワー、借りていい?」
「ああ」
朝子は総一郎の了解を得て、ジャージも借りて平然と風呂場へ向かう。
濡れたままの服はビニール袋へ入れて、風呂へ行き朝子はシャワーを浴びる。
雨に濡れた冷たい体が、湯で火照っていく。気持ちが良かった。朝子はシャワーを提供してくれた総一郎に感謝しつつ、何処かで気持ちが昂ぶるのを感じていた。
「シャワー、ありがとう」
「うん。あ、やっぱり、大きかったみたいね」
風呂場から出てジャージに着替えた朝子を見て、総一郎が感想を漏らす。
総一郎のジャージは朝子の身丈には合わず、大き過ぎた。朝子が総一郎サイズのズボンをはくと、裾が余り無駄に床を引きずってしまい危ないので、はいていない。朝子の背丈だと、総一郎の上着が丈の短いワンピース代わりになって丁度良かった。
朝子が机を見ると、母手製の肉じゃがが温められ、皿に盛られている。白いご飯も茶碗に盛っていた。そして、コーヒーカップが二つ置かれたまま。一つは、総一郎の前に。そして、もう一つは。
「はい」
総一郎が朝子に、女が使っていただろうコーヒーカップを平然と差し出す。流石に中身は、新しいコーヒーが注がれていたが。
朝子が窓から外を見れば、まだ雷を伴いながら強い雨が降り続いていた。
「雨、止まないね」
「そうだね」
いただきます、と言って総一郎は朝子に構わず、黙々と肉じゃがにありつく。
「……今度は、何で別れたの?」
会話が続かない事で居心地が悪くなった朝子は、意を決して総一郎に核心をついた。
総一郎は、動かしていた箸を止めて朝子を見る。
「分からない。ただ」
総一郎が間を置いて答えた言葉は。
「俺が、彼女の事を本気で想っていないらしい」
総一郎は当事者であるのに、まるで他人事のように、朝子に言った。
総一郎の部屋を見て分かる通り、彼はモノに頓着が無い。朝子は多分、両親を亡くしてから総一郎がそういう風になったのだと、分析していた。
そのモノは、物であったり、者であったり。それらが総一郎の視界に入っても、彼は何の愛着も感情も沸かない。そのモノの中には、きっと自分も数に入っているのだろうと朝子は考える。
朝子は総一郎と違ってあらゆるモノに、感情を抱く。それが普通の状態であり、常識でもあると朝子は思っている。
総一郎の彼女達も、朝子となんら変わらない感情を抱いていたのだろう。
朝子と総一郎の考え方は、根本的に違う。
そういう者同士が、一緒に居られる訳が無いと、朝子は少しだけ総一郎を選んだ彼女達に同情する。
しばらく、総一郎は、自分のペースで肉じゃがとご飯を食べていた。
テレビも無いこの部屋で、朝子は何もする事が無くただ窓の外の景色を眺めていた。
雨はまだ、止みそうにもない。
「ご馳走様」
総一郎が肉じゃがとご飯を食べ終わった。総一郎は立ち上がると、食器を片付けに台所へ向かう。
その、時。
光った、と思った次に、間髪入れず爆音が鳴り響いた。
総一郎の部屋に入る前と違って、雷は断続的に轟いている。
流石に朝子も、不安になる。
うわ、また光った。嫌だ嫌だ。何でこんな時に、そーちゃんが居ないんだ。朝子は台所で食器を片付けに行ったまま中々戻って来ない総一郎に、苛立ちを募らせる。
「あ、停電」
ふ、と雷の音と共に電気が消えたのは、総一郎が朝子の居る部屋に戻って直ぐの事。
朝子はそれに恐れを抱き、立ち上がる。
「か、懐中電灯は……!」
「まだ夜じゃないし、薄暗いだけだから、必要無いよ」
涙目になって部屋をうろうろする朝子に、総一郎は冷静に判断している。
「何で。雷で停電だったら、懐中電灯くらい……! うわっ」
雷鳴に体を震わせた朝子が、総一郎の腰に手を回し、抱きつく。
「朝子」
「いやだって、怖いもんは怖いし! だ、誰だって……」
「……大丈夫、だから」
雷に怯える朝子に、総一郎はゆっくり、優しく彼女の背に自分の腕を回した。
自然、朝子は総一郎に抱き締められる格好になる。
ただ、それだけで。
ただそれだけで――。
雨の音を遮るように、どちらかとも分からない心音が、朝子の耳にも届いた。
途端、朝子は気恥ずかしくなって総一郎から離れようとした。
しかし朝子が腕の力を弱めると、総一郎は自分の腕の力を強めてくる。朝子は総一郎に抱き締められたままで。
「……そーちゃん」
「……」
あれだけ嫌だった雷の音も雨の音も、朝子の耳に入らなかった。
あるのは、高鳴る心臓の音だけで。
「朝子」
「……何」
総一郎が、朝子に応じるように口を開く。
「好きだ」
耳元でささやかれた総一郎の言葉に、朝子は息を飲む。
「……何で」
「俺はずっと、朝子を想ってた、から」
高校も朝子が居たから同じ所を選んだしと、総一郎は朝子に告白する。
「どうして。私も、さっきの女と同じように、そーちゃんを可哀想だって、思ってるんだよ。何で……」
「朝子だけだ。変わらずに俺を受け入れてくれるのは」
「……ッ」
総一郎は、気付いている。朝子の本音に。
「幾ら母親に頼まれたからって、こうして俺にオカズを持ってきてくれるのは、朝子だけだったから」
「……」
「両親の事故の後、施設を出てから、朝子以外の知り合いに会ったけど。皆、俺を腫れ物扱いでさ。昔と同じように接してはくれなかった」
その中で朝子だけは変わらずに、文句を言いながらも自分を見てくれていると、総一郎は彼女に話した。
「朝子の叔母さんもさ。叔母さんが俺にオカズを作ってくれるのはありがたいけど、でも、俺に会う気は無いんだよね。叔母さんは、俺に直接会っても、俺とどう接していいか分からないからさ」
「……気付いてたんだ」
そう。朝子の母は、総一郎を気にしているが、自ら彼に直接会いに行く事はしなかった。朝子もそれには薄々気付いていたし、気付いた所で母を責める筋合いは無い。
「だから」
総一郎は続ける。
「だから、俺に会う事も俺と話している時も、何の遠慮も無い朝子が、好きだ」
はっきりとした口調で言い放つ総一郎に、朝子は観念する。
ああ、これでは私も総一郎に告白しなくてはいけない。朝子が決心して、総一郎に告げたのは。
「……私も、母さんのお使いは、そーちゃんに会う口実に使ってたんだよ」
「……」
母の使いを口実にすれば、総一郎に会える。朝子はそれを密かな楽しみにしていた。
「学校だと、そーちゃんに言い寄って来る女子達が怖くて避けてたけど。本当は私、そーちゃんと再会出来て、嬉しかったんだよ」
「……うん、分かってる」
朝子の想いを受け止めた総一郎が、彼女に向けて優しく微笑む。
そして。
抱き合ったまま、自然と、朝子と総一郎は顔を近付ける。
総一郎の唇が、朝子の唇に触れた。
触れるだけのキスを交わして、総一郎が朝子から離れた。
「雨、上がってる」
総一郎が窓から外を見ながら、呟いた。総一郎の言葉に、朝子もつられて外を見た。
雷雨で激しかった空模様は、今までの事を忘れたかのように、綺麗な青空に戻っている。
停電も何時の間にか終わっていて、部屋の明かりも復活していた。
「ああ、そーちゃんのお陰で雷の事、すっかり忘れてたよ」
朝子は総一郎のせいで、自分が雷を怖がっていた事を、すっかり頭から抜け落ちていた。朝子の文句に、総一郎は笑う。
「そのお陰で、俺は朝子を手に入れられたから良かったけどね」
「……私がそーちゃんの所で雨宿りしなかったら、どうなってたんだろうね」
そう。もし、雨が降らなかったら。雷が鳴らなかったら。停電にならなかったら。全ては何も無かった事になる。朝子の言葉に、総一郎は声を立てて笑った。
「何よう。もし、雨が降らなかったら私は――」
「雨が降っても降らなくても、俺はいずれ、朝子と決着を付けようとしていたんだ。それだけは、変わらないから。今日の雨宿りのお陰で、その時期が早まっただけだからさ」
「……」
朝子は総一郎の想いに応えるように、今度は自分から彼を抱き締めた。
「朝子」
「雨はもう止んだけど、もう少しだけ、ここで雨宿りしていい?」
朝子の願いを、総一郎は笑顔で聞き入れた。