七月。
夏休みに入って、最初の土曜日。
中村家の大黒柱である中村洋介(なかむらようすけ)を筆頭に、専業主婦の中村八重子(なかむらやえこ)、長女の中村沙耶(なかむらさや)の三人は、毎年この時期に、親戚であるもう一つの中村家に世話になるという、恒例行事があった。
「こんにちはー」
「おう、良く来たな」
三人揃って門をくぐる中村一家を出迎えるのは、中村秀介(なかむらしゅうすけ)である。秀介は、洋介の兄で沙耶の叔父にあたる。
「また今年も、お世話になります」
「ああ、八重子さん。頭を上げてください。うちのやつも、毎年、八重子さんに会えるのを楽しみにしてるんですから」
深深と頭を下げる八重子に、恐縮する秀作であった。
沙耶からしてみれば、毎年、変わらない光景に何の感想も無い。沙耶が興味があるのは、ただ一人で。
「沙耶ちゃん。直太(なおた)なら、バイトで少し遅れるから、部屋で花火大会の用意をしてくるといい」
「……っ」
叔父の秀作は沙耶の魂胆などお見通し、というにやけた顔でそれを告げる。
「沙耶は、直太君との花火大会を、いつも楽しみにしてるもんなあ」
「直太君と一年に一回しか会えないなんて、沙耶は織姫みたいね~」
秀作に続いて父の洋介、母の八重子が暢気に話している。
「わ、私、着替えて来る……!」
沙耶は三人の仕打ちに耐えつつ、顔を真っ赤にしながら、慌てて客室へ向かう。
沙耶は、年に一度、中村家に世話になるこの日を凄く楽しみにしている。
普通は八月になれば盆に親戚一同、顔を揃えるものだが、父、洋介の仕事の都合でそれが適わない。その為、沙耶達だけは七月に一足早く、中村家を訪れる事になっている。
一年に一度。七月、花火大会が楽しみだというのを名目に。
実際は沙耶は、中村家の一人息子、中村直太を目当てに中村家を訪れている。
直太は沙耶より年上で、大学生で、優しくて、何をしても爽やかになってしまう人で。
沙耶は直太に会う一ヶ月前から気合を入れて花火大会用の浴衣を選び、三日前から普段は行かない高級そうな美容院で髪をセットして貰い、化粧品も選びに選んで厳選されたものを使い、昨夜は早いうちから眠りについた。
お陰で沙耶の肌の調子は、すこぶる良い。
中村家の客室で沙耶は、シャツとズボンを脱いで浴衣に着替える。紫を基調とした、朝顔の柄入りの浴衣である。帯もそれに合わせて紫を使い、巾着も紫という徹底ぶり。
「お母さん、帯、結んで~」
「はいはい」
沙耶の悲鳴を聞きつけた八重子が、穏やかな表情を浮かべて浴衣の着付けを手伝う。
「お。いい感じじゃないか」
秀介が沙耶の浴衣姿を見て、感心を寄せる。
「これなら、直太の嫁に来て貰っても、申し分無いな」
「もう、叔父さん。そんなんじゃないってば」
けたけた笑う秀介と、満更でもなく照れている沙耶と。
その時。
「ただいまー」
直太が、バイト先から帰って来た。
沙耶はそれだけで、極度の緊張感に襲われた。
「直太。沙耶ちゃん達、来てるぞー」
「ああ、いらっしゃい」
直太が居間でくつろいでいる沙耶と洋介、八重子を認めて軽く挨拶をする。
「あ、沙耶ちゃん、カワイイね」
「カ……!」
直太の特徴である爽やかな笑顔を向けられ素直にカワイイと言われて、舞い上がらない女が何処に居るか。沙耶の顔は誰が見ても明らかな、ゆでだこのように真っ赤になったいた。
「沙耶ちゃんも今夜、花火大会、行くんだろ?」
「そうじゃなきゃ、こんな格好、してませんよ」
直太と話せるだけでもう、沙耶は幸せな気分に浸れる。
「毎度お馴染み、俺の友達も一緒に誘ってるんだけど、いいかな? 去年と同じメンツだけどさ」
「あ。大丈夫ですよう」
直太の話に、沙耶は表面では笑顔で応じる。
直太が地元の友達を引き連れて、沙耶と一緒に花火大会に参加するのは恒例行事である。本当は直太と二人きりで花火大会に挑みたい沙耶だったが、直太の顔も立てなければいけず沙耶は仕方なく妥協する。
しばらく、居間で直太は洋介や八重子と、最近の事について話していた。沙耶は一人で縁側に座って涼んでいる。
軒に吊るされている、風に揺れる風鈴の音が心地良く、沙耶の体に響く。
「沙耶ちゃん。そろそろ、行こうか」
風が気持ち良く、うとうとと目が閉じかけた時、沙耶の耳に直太の声がした。
「え」
「花火大会、もう始まるよ」
「ふえ、もうそんな時間ですか」
「……ヨダレ、ついてるよ」
慌てて立ち上がる沙耶に、直太が自分の口元に手をやり苦笑する。
沙耶の顔はたちまち赤くなって、巾着に入れていたチリ紙で、ヨダレを拭う。
ああ、恥ずかしい……! 穴があったら入りたいくらいだ。直太の前での失態を沙耶は、心の中だけで泣いた。
「それじゃ、行って来ます」
「気をつけるのよ」
「直太君、娘をよろしく」
気を取り直して、沙耶は玄関先で両親に告げる。いつまでも子供じゃない。何度言っても、洋介だけは沙耶を心配して直太の手を握ってくる。
「俺が責任を持って無事、沙耶ちゃんを叔父さんの所まで帰しますから、安心してください」
直太も毎年の事で心得たもので、笑顔で洋介を安心させる術を身につけている。
沙耶は、直太に感心しつつ、彼と連れ立って花火大会の会場へ向かった。
「直太、こっち、こっちー」
花火大会の会場に到着した沙耶と直太に声を張り上げるのは、直太の高校の時からの友人、高田晴海(たかだはるみ)である。女のような名前だが、直太よりは好い加減で何事にも軽い気持ちで生きている男だと、沙耶は晴海に対して良い感情は抱いていなかった。晴海と付き合うのも、直太の友人であるというのが、沙耶の前提であった。
小さな街の小さな花火大会の会場では、屋台が軒を連ね、何百人もの人であふれ返っていた。
「おう、沙耶ちゃんも今年も来たんだな」
「こんにちは」
晴海が沙耶を認めて声をかける。沙耶に何の気遣いもなく、晴海は立ちながら煙草をくわえていた。それがいつもの晴海の格好で、沙耶は何の文句も言う気もなれなかった。
いつもならこの三人で、花火大会を巡る予定だったが。
「今年は沙耶ちゃんに、紹介したい人が居るんだ」
何の脈絡も無く、直太が唐突に切り出したのは。
直太の後ろに控えていた女が一歩、沙耶の前に出る。
「正木静香(まさきしずか)です。初めまして」
「は、初めまして……?」
沙耶は女を見た途端、彼女の余りの美しさに、一歩引いてしまう。
彼女、正木静香は、化粧をせずともきらめく白い肌の持ち主で、緑の黒髪と呼ぶに相応しい細部まで手入れの行き届いた、腰まで伸びる黒髪を白いリボンだけで束ねている。黒を基調とした、薔薇の模様が入った浴衣は、彼女に良く似合っていた。背も高く、直太と十分、釣り合っている。
静香を見た沙耶はまるで、モデルか芸能人に会った気分だった。道行く人も、芸能人かと、静香を振り返っていた。
「……どちら様で」
「ああ。彼女は、僕の婚約者だよ」
「え」
さらりと、しかし、重要な言葉を吐き出す直太に、沙耶は目が点になった。
「お父さんから聞いてないかな? 正木静香さん。僕の婚約者だって」
「ぜ、全然」
秀介からそんな話は一言も聞いていない沙耶は、首を傾げる直太に何度も何度も首を横に振ってみせた。それ所か、秀介は浴衣姿の沙耶を見て、直太の嫁には申し分無いとさえ、話していたのを沙耶は思い出す。
「あなたが、沙耶ちゃん? 直太から話は聞いているわ。本当、可愛い子ね」
「カ……」
女神のような微笑みで静香に可愛いと言われれば、同性の沙耶でさえ汗を噴き出すほど、緊張してしまう。たとえ、静香が沙耶に遠慮して、建前で言っているとしても。
「今年のうちに両家の折り合いが付けば、静香と結婚するんだ。その時は沙耶ちゃん達も招待するからさ、楽しみにしてて」
「……は、はい。楽しみに……、しています」
さわやかな笑顔で直太に決定的な事を言われ、沙耶は仕方なくそれに応じるしかなかった。
戸惑う沙耶の上では、最初の花火が打ち上げられていた。
花火大会に来ている人達から、歓声が上がる。
「わあ。花火、始まったよ」
「本当だね。そろそろ、屋台巡りと行きましょうか」
静香が空を仰いで声を上げると、直太もそれに賛同して晴海と沙耶を見る。
密かに手を繋ぐ直太と静香を見ていると、沙耶は、その中に自分が居てはいけないような気がして、とても花火大会を楽しめる気分ではなかった。
静香を理由に直太と行くのは断って、直太の家に引き返そうと、沙耶が言葉を発する前、だった。
「俺が沙耶ちゃんの面倒見るからさ、直太は静香と二人で行って来い」
え、と沙耶が晴海を見上げる。
「でも、沙耶ちゃんは毎年、直太と一緒に屋台巡るの、楽しみにしてるんでしょ? 私のせいで、沙耶ちゃんの楽しみを奪うのは、気が引けるわ」
静香がおっとりとした口調で、晴海に向かって言った。
「僕も沙耶ちゃんと晴海と回るのを、楽しみにしてたんだけど……」
「結婚前の、独身最後の貴重な二人きりのデートを、俺達が邪魔出来るか? 今年だけの話だ、遠慮せずに行って来い」
「晴海……」
晴海の謙虚な態度に、直太も静香も感動しているようで沙耶一人、言葉に詰まる。
「うう、僕はお前と友達で本当、良かったよ」
「普段はチャラチャラしてて、人の事は考えそうに無いから、意外ね」
「チャラチャラな男ほど、思慮深いんだよ」
泣いてまで晴海に感謝する直太と、すっかり晴海に感心している静香と、そんな二人に人の悪そうな笑みを浮かべる晴海の中に、沙耶は自分が入っていけない事が悔しかった。
一年に一度、この街を訪れる沙耶と、年中一緒に居る三人との差が、そこにはあった。
「ほら、直太も静香も行って来い。俺達は俺達で、花火を満喫してるからさ。終わったら、俺に携帯で連絡してくれればいいから」
「分かった、ありがとう」
「それじゃあね」
晴海に促されて直太と静香は、手を繋いだまま、人の中へ消えていく。
直太を引き止める術を知らない沙耶は、そのまま、二人を見送るしかなかった。
沙耶と晴海は、沈黙を保ったまま、人混を掻き分けながら進んで行く。
時々、晴海が振り返って沙耶が着いて来るのを確認して、また歩き出す。沙耶は、晴海に着いて行くだけで精一杯で、屋台や花火を見る暇が無かった。
沙耶は気付けば屋台も無い通りに入り、人もまばらで花火も音だけが聞こえるだけで。
「晴海さん、何処まで行くんですか」
沙耶はたまらずに、晴海に向けて声を上げた。
晴海が沙耶の声を聞いて、立ち止まる。
「さあ、何処までかな」
晴海は無愛想に、沙耶に答えた。
「このままだと花火を見ないで、終わりますよ」
「お前は」
沙耶の言葉を受けて、晴海が振り返り彼女を冷めた目で見下ろす。
「お前は、あの中に居てちゃんと息が出来るか?」
「え」
晴海の言っている意味が分からず、沙耶は呆気に取られる。
「俺は無理だ。だからこうやって、あいつらの居ない場所を選んでいる」
「晴海さん」
晴海は再び前を向いて、沙耶の前を歩く。
沙耶は、気付いてはいけない事を、今ので気付いてしまった。晴海も、自分と同じであると。
「晴海さん……、静香さんの事」
沈黙。
晴海は沙耶の質問には答えない。それが、沙耶の中では、決定的となった。
晴海が未だに、静香を想っているという事実を。晴海が直太の事を考えて、静香の隣に居る事を許可した事実を。
晴海の気持ちが、沙耶も痛いほど、分かる。
沙耶も晴海も、相手は違えど同じ気持ちを抱いているから。
だから沙耶は思い切って、晴海に声をかけたのは。
「晴海さん。会場に戻りましょう」
「何で」
俺の言葉、聞いていなかった? と晴海は沙耶に吐き出す。
「私は」
頑張れ、自分。沙耶は心の中で自分を自分で励ましながら、晴海を見上げて言い放つ。
「私は、それだけの理由で今年の花火を見られないのは、嫌です」
沙耶は晴海に反論の余地を与えず、続けた。
「私は、晴海さんと違って、一年に一度しか、此処に来られないんです。此処で、どんな理由があっても、直太さんと離れるのは嫌なんです。わがままかもしれないけど、これが私の意思です」
「……、言うじゃん。あんたは一年に一度しか来られないから良いけどな、俺は何だ。四六時中、あいつらと一緒で、毎日のように直太と静香の間に居たんだ。それはもう、俺からすれば地獄みたいなもんだぜ」
沙耶に触発されたのか、晴海は苦笑しつつ自分の想いを肯定する。
「……認めましたね、静香さんの事」
「ああ。俺は、静香が好きだったんだ。直太に静香を紹介しなければ良かったと、今更ながらに後悔してるよ」
花火の音と、晴海の声が重なる。
「だったら」
沙耶が晴海の腕を掴む。
「だったら尚更、直太さん達と居るべきです。晴海さんが嫌でも私は……、一人でも行きます」
「……、それなら、直太の奴に連絡を入れないとな。俺のケータイでいいか」
晴海は沙耶に応じるように、鞄から携帯電話を取り出す。
直太と連絡を取った晴海と沙耶は、花火大会の会場まで戻る事になった。
「あ。来た来た。おーい、こっちこっち」
いつもと変わらない直太の声が、沙耶と晴海を急かす。
「やっぱり、私は直太さんと一緒に回るのが良いです。二人の邪魔かもしれませんけど、私は年に一度しか来られないし」
「そう。僕も、沙耶ちゃん達が居ないと調子が出なくてさ。一緒に行こう」
直太と向き合い、正直に告白する沙耶。そんな沙耶を笑顔で受け入れる、直太を静香が晴海の隣で吐き出したのは。
「沙耶ちゃんと戻って来たのは、……あなたの意見ではないでしょう?」
「沙耶の想いだな」
晴海の言葉に静香は、そう、と、小さな声で言った。
「私も、この花火大会は、直太と二人きりで居るよりはやっぱり、晴海とも居たいと思ってたの。独身最後のデートとは言っても、直太と結婚すれば、それこそ晴海に会える時間が少なくなるから」
「……そうか」
「それを気付かせてくれた沙耶ちゃんには、感謝しないとね」
「そうだな」
静香の笑顔に応じるように、晴海も此処でようやく自然に笑えた気がした。
沙耶が直太、晴海、静香の三人で見上げる花火は、いつもの花火と違って見えた。
花火大会が終わる頃になると、沙耶と静香は打ち解け、来年もまた四人揃って見に行こうと約束した。
最後の花火が打ち終わり、沙耶は晴海と静香と別れ、直太と連れ立って中村家へ帰還した。
家に戻ってから沙耶が秀介に問い質すとやはり彼は、直太と静香の関係を知っていたらしい。
「いやー。沙耶ちゃんの浮かれた様子を見ると、静香さんの事を言い出せなくてね。でも、沙耶ちゃんと静香さんが上手い具合に仲良くなったみたいで、良かったよ」
秀介は笑いながら沙耶に謝るその横で、直太が洋介と八重子に静香の事で質問攻めにあって困っていた。
翌日。
中村家は例年に漏れずいつものように、足早に自分達の家へ帰る事になる。
朝早く、新幹線のホームにて、沙耶は荷物を抱えて直太と向き合っていた。
「それじゃあ、次会えるのは、来年じゃなくて、僕と静香の結婚式かな」
「そうですね。私もその時を、楽しみにしてますから」
沙耶が直太と握手をして、新幹線に乗り込もうとした時、だった。
「あー、待って待って!」
慌しく声を上げるのは、静香本人であったのを、沙耶が目を丸くする。
沙耶は、静香が駅まで来るとは夢にも思っていなかった。
沙耶は直太を見る。直太は沙耶に知らない振りを通していた。
「静香さん」
「あー、良かった、間に合って。これ、私の手作りのサンドだけど、良かったら新幹線の中で食べて」
息を切らしながら、それでも笑顔で静香が沙耶に手作りのサンドイッチが詰められたタッパーを手渡す。静香の後ろには、当然のように晴海が控えていた。
「あら、あなたが静香さん? 写真で見るより、綺麗な人ねー」
「こんな人と結婚出来る直太君が、羨ましいよ」
沙耶が驚く後ろで洋介と八重子が静香を認めて、彼女を好意的に評価する。
「ありがとう」
はしゃぐ親を放っておいて、静香からタッパーを受け取る沙耶の前に、今度は晴海が立ちはだかった。
「沙耶、手を出せ」
「晴海さん?」
晴海に言われるまま手を差し出す沙耶。
晴海から沙耶の手に落ちたのは、一枚の紙切れ。
紙切れに書いてある内容を見た沙耶が、晴海の顔を見上げる。
「まあ、何かあったらの話だ」
「今回の事で、晴海が沙耶ちゃんの事、気に入ったみたいだから」
紙切れについて曖昧に濁す晴海の横で、静香がくすくすと笑っている。
「……気が向いたら、連絡しますよ」
「……おう」
此処で新幹線のドアがアナウンスと共に、閉まった。
新幹線が出発して見えなくなるまで、沙耶に向かって直太と静香、晴海は手を振っていた。
沙耶は新幹線の椅子に落ち着くと、静香から受け取ったタッパーを開けてサンドイッチを頬張りながら、晴海から手渡された紙切れを改めて見た。
紙切れに書かれていたのは、晴海の携帯電話の番号で。
沙耶はそれを見て今更ながら、笑みをこぼした。
来年の花火大会は、いつもと何か変わっているかもしれない。
少しだけそういう予感を抱きながら、沙耶は家に帰った。