八月:海へ帰る日

 盆で長期休暇が取れたのを名目に俺は、約四年振りに実家に帰った。
 
 俺の実家は人口三万人足らずの小さな港町で、子供の頃の遊び場と言えば海が定番であった。同級生の奴等は海で遊んだ帰り、町に一つしか無い雑貨屋でラムネを買い、人の良い婆さんの話し相手になってあげるのだった。雑貨屋にはラムネと言った飲料水のほか、此処より少し都会の隣町から仕入れているとう、日用品が揃っていて、町の人間は此処で買い物をしていくのが常であった。
 もうその雑貨屋の婆さんが亡くなったという知らせを受けたのは、何年前だったか。
 若い連中は当然のように都会へ就職していき、町の産業の一つでもある漁業に手を出す奴は少数派だった。俺の父親も漁業で生計を立てていたが、俺はこの町に嫌気が差して都会での夢を追いかけ父親の仕事を継ぐ事は無かった。
 俺は二時間に一本しか通らないバスを降りて、行き慣れた筈の道を辿って実家へ向かう。サンサンと輝く太陽が俺の体を直撃する。学生の頃は日を浴びて真っ黒になっても一日中、外で遊んでいたが今は日にあたるのが辛く影がある場所を探して歩くようになった。
 俺は道を外れて喉を潤す為に学生の頃、通い詰めた雑貨屋へ向かった。婆さんは居なくても、店はまだある筈だと、俺は何処か根拠の無い信じ方をしていた。ラムネの味が懐かしく、心躍らせて店を目指した。
 が、俺の信じる心を裏切るように、ある筈の店は其処には無く、俺は途方に暮れる。
 何でだ。道を間違えた訳でもない。雑貨屋があった場所は洋風の家に姿を変えていた。町で唯一の雑貨屋じゃないか。あの雑貨屋が無くなれば、町の住人だって困る。一昔前と違い今は車社会とはいえ、老人が多いこの町であの雑貨屋は生き続けている、そう思っていたのに。
 俺は仕方なく、自販機でお茶を買い、また実家までの道を歩いた。

「ひろ君、じゃない?」

 名前を呼ばれて声をした方を振り向けば、笑顔が眩しい女性が立っていた。
 俺の記憶が正しければ彼女は。
「夏子さん」
「久し振りね」
 夏子さんは俺に笑顔で応じた。
 夏子さん。俺の近所に住んでいた、年上のお姉さんだ。町一番の美人だと評判で、物腰が穏やかで俺のようなガキでも、笑顔一つで受け入れる。俺とお姉さんが在籍していた中学校のの女子は皆、彼女に憧れていた。男子もその例に漏れず、夏子さんを色眼鏡で見ていたのには間違いない。……俺もだけど。
 夏子さんは確か、都会の商社マンと結婚したと風の噂で聞いている。夏子さんもそのまま、男と一緒に都会に行った筈では。
 多分、夏子さんも俺と同じように盆だから実家に帰っているのだろう。
 そんな事より俺は。
「あの、前、あそこにあった雑貨屋さん、何処かに移転したんですか」
 俺は雑貨屋の末路が気になり、夏子さんに問い質す。
「ああ。あそこのお店、潰れたのよ」 
 夏子さんは衝撃的な事実を、俺に平然と告げた。
「潰れたって……、それじゃあ買い物はどうしてるんです」
「近くにショッピングセンターが出来て、皆其処に行ってるの。あと、二十四時間営業じゃないけど、コンビニもあるんだよ」
「……」
 夏子さんの話に俺は素直に驚いて、口を開けて間抜け面になっていた。
「ふふ、この町も、ひろ君が居た頃より随分、様変わりしたのよ。隣町の再開発を受けての事かしらね。その代わりに、自然が少しずつなくなっていってる」
 最後の部分は夏子さんらしくなく、哀愁が漂っていた。
「俺、これから実家に戻るんですけど、夏子さんは……」
「私も実家に戻ってるの」
「こっちにはいつまで、居るんですか」
 俺は話のついでに何となく聞いたつもり、だったが。
 夏子さんは顔を曇らせ、苦笑する。
「まだ、いつ帰るかは決めていないの。……長期休暇を取ったから」
「そうなんですか。俺はこれから、家に帰ります」
「そう。ひろ君はいつまで居るの?」
「俺は」
 俺はいつまで居る気だろう。俺の秘密を今、夏子さんに打ち明けるべきかどうか、迷った。
「俺の方も、いつ帰るか分かりません」
 俺は少しだけ笑って、夏子さんと別れた。


「ただいま」
 実家に顔を出せば、母親が慌しく出迎えてくれた。よう来たね、から始まって荷物を強引に部屋まで運んでくれた。俺の部屋はどうなっているのだろう。四年前は学生の頃と変わらないまま、保存していてくれたのを思い出す。
「なあ、俺の部屋まだあるよね」
 少しの不安があったようで、俺は母に向かって言った。母親は昔、鈍感だと散々言われた俺でも分かるように肩を震わせ何かにびくついているように見えた。
「どうしたの」
「ああ、ひろちゃんの部屋はね」
 どうも歯切れの悪い母親を残して、俺は自分の部屋の様子を見に行った。
 俺は自分の部屋が何時の間にか、見知らぬ玩具で溢れ返った様を見て愕然となった。
「盆に、ななちゃんの子供が帰って来るの。毎年。だからあんたの部屋を、ななちゃんの子供の遊び場にしたのよ」
 愕然とする俺の後ろで、毎年を強調するように母親が言った。
 ななちゃんというのは俺の姉で、都会の男と結婚して二歳と三歳の元気な子供が居る。最後に彼女と会ったのは、一年前。二人の子供を抱えて旦那と一緒に幸せそうに笑っている。それは写真付の葉書の中で、だ。俺はその葉書の返信を、一年以上先送りしていた。
 ああ、そうか。母親は滅多に帰らない実の息子より、一年に一回は里帰りしている娘の子供を選んだ訳か。何だそれ。
 俺は仕方ないと思いつつ、居間でくつろぐ事にした。
「で、親父はどうした」
 俺は不意に父親の存在を思い出した。
「部屋で寝てるのか? だったら静かにしてるけど」
 今の時間帯、父親は漁港から帰って部屋で寝ている筈だ。
「部屋で寝てるけど、今日は午後までの予定だから」
「午後まで?」
「今日は午後には、ななちゃんが子供連れて戻って来るから、その頃にはお父さんも戻って来るわよ。お盆だからね、夜には広場で盆踊りやるの、楽しみにして来てるから」
「そう。それなら俺、出かけて来るわ」
 ななの子供達と遊んでやるほど俺は、優しい人間ではない。立ち上がる俺を見て、母が追いかけてくる。
「出かけるって、何処行くの」
「コンビニが出来たって聞いたから、涼んで来るよ。母さん、道知ってるなら教えてくれない」
 俺の申し出に、母は快く答えてくれた。道を教わればコンビニはどうやら、家の近くにあったらしい。
「そうだあんた、フナムシが沸いてた海岸、知ってるでしょ」
 急に何かを思い出したように、母が口にしたのは。
 フナムシの海岸。懐かしいなと思いつつ、俺は母に頷いた。
「あそこは近付かないでよ」
「何で」
「……、お盆だから、水辺に居たら幽霊に足を取られて、暗い海の底まで引きずられてしまうから」
 至極真面目な顔をして言い放つ母親を、俺は無視して家を出た。


 外でぶらつくも、たまに車が通るくらいで通行人は見る限り、俺以外居なかった。
 どんだけ過疎ってるんだと心の中だけで毒づきながら、俺はコンビニまでの道を、歩いている。
 母からの情報だと、この辺の筈だが。そう思った矢先、何処の系列店か分からないコンビニらしき建物が見えた。
 営業時間、午前八時から午後十時まで。なるほど、田舎のコンビニらしい。中へ入ると無愛想な女の店員が「いらっしゃいませ」と言って来たが、俺はそれを無視して雑誌コーナーへ向かう。
 冷房がきいていて気持ちが良い。俺は雑誌を一通り、吟味する。俺の居た都会ではもうとっくの昔に発売されている雑誌がなく、代わりに先月号が置いてあった。……。まあ、あるだけマシだ。俺は先月号の雑誌を手に取り、ぱらぱらとめくるがやはり先月号、情報が古く面白味に欠ける。
 と。
 不意に顔を上げれば、ガラスの向こう側で夏子さんが歩いているのを発見。雑誌を戻してコンビニを出た俺は、夏子さんを呼び止めた。

「あれ、また会ったね」

 夏子さんは穏やかな笑みを浮かべて俺に向けて言った。
「一度家に帰った後、そこのコンビニで涼んでいたんです」
「そう」
「夏子さんは」
「私? 私は暇だから、探検してるの」
「探検、ですか」
 夏子さんの口から探検の言葉が出るとは、意外だった。学生の頃、夏子さんは平日は図書館で本を読み更け、休日は家で優雅にお茶を楽しんでいるようなイメージがあったからだ。実際、昔の夏子さんは読書家で、遭遇する場所も図書館が多かった記憶がある。
「あ、その顔。私が外を出歩いて探検するの、意外だと思ってるでしょ」
 夏子さんは俺の顔を覗き込み、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 俺は夏子さんにそれをやられたら言い逃れは出来ず、呆気無く頷いてしまった。
「私は良く、内向的だって言われるけど。私からすれば十分、外交的なんだけどね」
「……すみません」
「ひろ君が謝る事じゃないよ。その人のイメージは大切だと思うし、それを崩されたくはないよね」
「……」
 俺の本心を見透かしたような目を向ける夏子さん。夏子さんが話した事は、何処か重みがあって俺はそれ以上の話をする事をためらった。
「ねえ、ひろ君」
 それでも夏子さんは太陽に負けないくらいの笑顔で。
「はい」
「ひろ君が暇なら私の探検に付き合わない?」


 俺は今、夏子さんと一緒に海岸まで来ている。
 母に盆だから近付くなと言われたが、夏子さんと一緒なら問題ないだろう。俺もいい大人なんだし。
「ぎゃー、こっち来るなー!」
 岩場だらけの砂浜に生息するフナムシを、怖がる素振りを見せず嬉しそうに声を上げて避ける夏子さんの姿があった。
 昼時だというのに海岸には夏子さんと、俺しか居なかった。
 それもその筈、此処の海岸の砂浜は岩場だらけでフナムシも多く、海面も濁っていてお世辞でも綺麗な海とは言えず、泳ぐ気はなれないので地元の連中は皆、防波堤がある場所で釣りやらボートやらで海を満喫している。子供の時分は岩場や濁った海の中、フナムシ等を嫌がる事無く、平気で泳いでいたが大人になると嫌な部分ばかりが目について、そうもいかなくなる。
「私、この海に来たの、久し振りなんだよね」
「俺もです」
 俺の場合は高校生の頃に一度来た以来だから多分、十年近くになるが。夏子さんはどうなんだろうか。
「私、子供の頃、フナムシが怖くて嫌いでさ。此処、余り近付かなかったから」
「あー。フナムシて苦手な人は苦手ですよね」
 俺の姉もフナムシが嫌いで、この海岸に来るのを嫌がっていたのを思い出す。
「でもこの町で海岸は此処だけでしょう。フナムシさえ気にしなければ絶好の場所なんだ、て気付いたのが結婚してからかな」
「あ……」
 そうだ。
 俺は夏子さんと出会えた事で舞い上がっていて、肝心な事を忘れていた。夏子さんは既婚者で、俺は独身で。夏子さんの旦那も一緒にこの町に来ているかもしれなくて。もし、俺と居るこの場面を夏子さんの旦那に見られたら、余計な誤解を生む恐れがあった。
 そういえば、夏子さんはどうして一人で出歩いていたのだろう。冴えない俺とではなく、旦那と一緒に探検すれば良かったのに。
「あの、夏子さん」
「何?」
 俺が物思いに更けている間、夏子さんは何時の間にか波打ち際に居た。ばしゃばしゃ。夏子さんが海面を蹴るたびに、しぶきが上がり、音を立てる。

「俺の記憶が正しければ夏子さんは、結婚してるんですよね」

 ばしゃ、夏子さんが海面を蹴る音が止んだ。
 少し間があった。途端、冷やりと、俺の背筋に悪寒が走った。不穏な空気が流れた気がした。
 それでも次の瞬間、夏子さんはいつもの笑みを浮かべて。
「そうだよ」
 答える。
 ……今の間は何だったのだろう。俺は不安になりつつも、夏子さんに続きを問う。
「旦那さんと一緒じゃなくて、いいんですか」
「大丈夫。あの人とは一緒に、来ていないから」
 え。
「一緒じゃないんですか」
「うん。仕事で来れないらしいから」
 夏子さんは俺に平然と言ってのける。
 ああ。俺は夏子さんに余計な事を聞いてしまったのか。
「ひろ君」
 夏子さんはいつになく真剣な顔を俺に向けて、言ったのは。

「変わる事を恐れないで、ね。ひろ君は、私のようにならないで」

 俺は。
 夏子さんのその言葉が、酷く心に響いた。
「夏子さん」
 俺が声をかけた時、どういう訳か夏子さんの姿は其処にはなく。
 俺は目を見張って、夏子さんが居た波打ち際まで走った。
「夏子さん、夏子さん」
 俺の呼びかけにも夏子さんは応じない。
 何でだ。

 ――お盆だから、水辺に居たら幽霊に足を取られて、暗い海の底まで引きずられてしまう。

 俺は出かける前の母の言葉を思い出し、青ざめる。
 まさか、まさか。
 俺は必死になって、上着を脱いで海へ潜った。
「夏子さん」
 何度も何度も彼女の名を呼ぶが、返答は無かった。
 俺の下半身が海水に浸かっている。脱ぎ捨てた上着は波にさらわれ、何処にいったか分からない。
 ……。

「あれー、洋史(ひろし)じゃん」

 砂浜よりも向こう側、道路の上で手を振る男が自分の名を叫んでいる。誰だったか。向こうは自分の名前を呼ぶが俺は相手の名前が、思い出せなかった。
 俺は仕方なく、海から上がって男に向かって歩いた。よくよく見れば男は白いスクーターにまたがっている。
「久し振りだなおい。こっちに戻って来てたんか」
「あー……、悪いけど名前、思い出せないんだけど」
 相手の男はスクーターにまたがったまま、俺に対して陽気に肩を叩いてくるが、俺の方は男に関してさっぱりな訳で。正直に名前が思い出せないと言うと、男は目を丸くしたあと、声を立てて笑った。
「はは、洋史らしいな。俺、三丁目の田川康夫(たがわやすお)だ。覚えてないか」
 三丁目の田川康夫。康夫。……、ああ!
「ああ、思い出した、やーさんだろ」
「そのあだ名は思い出すなよ、今は真面目なマイホームパパで通ってるんだから」
 俺が昔のあだ名で、「やーさん」と呼んだ事に、康夫が苦笑する。
 三丁目の康夫と言えば小学校からの幼馴染である。小学生の高学年から髪を茶髪に染めてきた事を今でも忘れない。中学生の夏休みが明けると、康夫の耳にピアスの穴が空いているのを発見したのもいい思い出だ。要するに康夫は田舎の不良である。
「やーさん、見ない間に随分、変わったな」
「ひろちゃんは余り、変わってないけどね」
 う、それを言われると胸が痛む。
 そう言う康夫は、髪を黒に戻してピアスも付けていない。
「それにひろちゃん、何であそこの海で泳いでた訳。しかも一人で。今日は盆だぜ。水辺に居ると幽霊に足取られて、海の中へ引きずり込まれるぜ」
 母と違い、康夫は冗談でひひひ、と笑っている。
「は、まさかひろちゃんの幽霊に、俺が遭遇してるのか!」
「おいおい。俺はちゃんと足、あるぜ。それにほら、痛いだろうよ」
 本気で青ざめる康夫の頭を、俺は思い切り叩いた。
「確かに本物だな。俺の頭は今、ひろちゃんに叩かれて痛いから」
「だろ」
 ……と、此処で俺は、コイツとじゃれあっている気は毛頭なく。
「おい、夏子さん見なかったか」
 俺は俺が気付かないうちに康夫と、夏子さんが遭遇していた事を期待したのだが。
「夏子さん? あー、見ない見ない」
 俺の問いに康夫は、肩を震わせながら首を思い切り横に振る。
「盆だから、海じゃなくて家に帰ってるんじゃないの」
「……、ああそうかもな」
 康夫は冗談以外で嘘を吐くような人間ではない、と俺は信じていたのでそれ以上、夏子さんについて聞く事は無かった。
「そうだ、今夜、小学校の広場で盆踊りがあるの知ってるか」
「ああ」
 康夫の話に乗りながら俺は、海岸を後にする。夏子さんはどういう訳か分からないけど、俺に愛想を尽かして、さっさと家に戻っているかもしれないと思ったからだ。
「ひろちゃんも来いよ。出店もあって、楽しいぜ」
「……考えておくよ」
 俺は康夫の誘いを断るべきかどうか迷った挙句、曖昧な言葉で返した。


「ただいま」
「ちょ、洋史。何て格好してんの」
 俺が康夫と少し話をしてから家に戻った。家で見知らぬ車が停まっている、と思ったら姉の旦那のものだった。
 玄関先で俺が上半身裸で帰還したのを見た姉が、一人の子供を抱えたまま素っ頓狂な声を上げる。
「まさか、あのフナムシの海で泳いで来たんじゃないでしょうね」
 ……またか。
 姉までフナムシの海岸へ行くな、と言うのは珍しい気がしたが俺は冷静に別の海岸で泳いだと話した。
「……やーさんに会って、誘われて海で泳いで来たんだよ」
 俺は平然と姉に嘘を吐く事が出来る。
「だからって上半身裸で外を歩くか普通! 止めてよ恥ずかしい! やっちゃんは何も言わなかった訳?」
 姉の甲高い声が俺を攻撃する。
 俺は姉の攻撃を無視して、風呂場へ向かった。
 風呂場の向こう側では、子供達のはしゃぐ声と姉の甲高い声が響く。ああ、帰る時間を誤ったかと思いつつ俺はシャワーを浴びた。


「あ、どうもこんにちは」

 風呂場から出た俺を見て、姉の旦那が頭を下げる。そういえば姉の旦那と会ったのは姉の結婚式以来だなと思いつつ、俺も恐縮して頭を下げた。姉の旦那は、強気な姉と違って弱弱しく、腰も低い。どういう経緯があって姉を射止めたかしれないが、姉の旦那とはそれ以上の話題も無く、俺の方から引き下がった。姉の子供達が叔父さん、叔父さんと俺にまとわりついてきたが、俺は子供と一緒になって遊ぶような優しい人間ではないと自覚している。俺が無視していると次第に子供達も諦め、今度は姉と母が居る台所へと突撃していった。
 居間では眠りから覚めた父親が、上半身裸でトランクス一丁で横になって片手にはうちわ、片手にビールとだらしない格好で居座っていた。……姉よ、俺を叱る前に父親を叱ってくれ。
「おう、お前の顔を拝むのは、何年振りだろうなあ」
「さあ、かれこれ四年くらいじゃない?」
 俺に気付いた父親がむくりと起き上がり、テーブルに肘をつく。
 今、居間に居るのは俺と父親と、姉の旦那の三人。……微妙な組み合わせだな。俺の予想通り、この三人ではそれ以上の話も続かず、ただ呆然とテレビを見ながら時間を潰していった。
 しばらくして、母と姉の力作の料理の数々が、テーブルに並べられていく。肉フライに焼肉にミニハンバーグ。肉がメインの豪勢な料理に、子供達も歓声を上げる。
「今日は洋史も帰るって言うから母さん、いつもより奮発したんだって」
 何故か姉が偉そうに、俺に向けて言い放った。
 姉の自慢はどうでもいいが、これでは俺の言いたい事が母に言い難くなるじゃないか。

「私達、これから盆踊りに行くけど洋史はどうするの」

 自分と子供達がご飯を食べ終わった後、何の気兼ねも無く姉が黙々と食べ続けている俺に話を振った。ああ、俺は家族と余計な溝を作りたくなくて、黙っていたのに。
 しかし姉に逆らう事も出来ずに俺は、渋々答える。
「やーさんに誘われてるけど、行くかどうかはまだ決めてない」
「そうそう、やっちゃんといえばさ、都会で美人な奥さん見付けて家業の蕎麦屋さん、継いだんですって」
 ……、ああだから言いたくなかったのに。姉の言葉は何処か俺に対するトゲで、いっぱいだった。
「何処かの誰かさんと違って、偉いよねー」
「……悪かったな」
「あら、誰も洋史だなんて言ってないわよ?」
 だから嫌だったんだ、俺は。
 昔から姉の嫌味が俺の心を弱くしている。姉は俺の心の内等微塵も気付く筈もなく、続ける。
「そういえばどうして、今になって戻って来たのよ。大学出てから更に四年間、手紙を寄越しても返信一つ書きもしないで」
「そうだな。洋史、仕事の方は上手くいっているのか」
 ――来た。
 姉の言葉に乗せられるように吐いた父親の台詞に俺は、自分の腹が痛みを訴えてきた。
俺は腹を抑えつつ、出されたビールを一気飲みしてそれから。

「はは、昨日付けで会社を辞めて来たんだよね」

 ははは。
 笑って流せる話だと俺は踏んでいたが、世の中そう甘くもなく。
「仕事辞めたって、どういう事よ。あんた都会で一山当ててやるとか言って、父さんの跡を継がなかったんでしょ。それでのこのこ戻って来た訳?」
 姉がきつく俺にあたる。
「あ、あの僕、子供連れて先に会場まで行ってるから……」
 姉の旦那は雲行きが怪しくなって来たのを察知してか、浴衣姿の子供達を抱えて姉に言付けると、家を出て行った。ああ、懸命な判断だ。俺の問題に姉の旦那と子供まで巻き込む筋合いは無い。
「本当なの、仕事辞めたって」
 興奮する姉を制して、母が努めて優しく俺に問い掛ける。
 俺が仕事を辞めたのは何でも無い、今の上司と折り合いが合わず、仕事が自分の趣味にも合わなかった、ただそれだけの理由。
「ああ。だから此処に戻って来たんだ」
「戻って来て、何かアテでもあるのか。新たな職を探すつもりでいるとか、資格を取るため勉強するつもりでいるとか」
「……全然無い、けど」
 父親は腕を組んで押し黙ったまま。母は信じられないと口を押さえたまま。姉は怒りの色を見せ肩を震わせたまま。
 その中で、俺は。

「――俺は此処でも居場所が無いのか」

「洋史」
 姉が何かを言う前に俺は、一気にまくしたてた。
「俺、実を言えば何やっても駄目でさ、都会で色々職を転々としていたんだよね。それが、今月に入って資金が底をついてアパート追い出されて、なけなしの金で家に戻って来たんだ。まあ、あわよくば親から金借りて、再スタート狙ってたんだけどさ、でも戻って来たらどうだ、俺の部屋は姉さんのガキ共に部屋を奪われ、親は孫に夢中で、俺の居場所はなくなっていた」
「それはあんたが、四年も音信不通だったからでしょ。私もあんたに葉書を寄越したじゃない、なのにあんたは一度も返信しなかった」
「……、姉さんは自分の子供を自慢したくて、節句の写真を俺に見せたかっただけじゃないのか。一度切りの、しかも一方的に送り付けられて、困ってたんだ。親は親で、大学出て四年間、俺の事なんか一度として気にしていなかった。俺を気にかけて戻って来いの連絡を一度として、入れてくれたのか」
「……それは」
 流石の姉も、俺の勢いに押されて押し黙る。
「俺の様子に一つも気付かなかったじゃないか。それで、四年振りに仕事はどうだと問われて、順調だと答える奴は少数派だよ。皆、俺の知らない所で変わってるけど、俺もあんた達の知らない所で変わってるんだよ」
 そうだ。
 幼馴染のやっちゃんも、何時の間にか様変わりしていて。町も、雑貨屋も、家族も俺の知らない所で変わっていく。
 俺もまた、彼等の知らない所で変わっていたのかもしれない。
 此処に来てからずっと俺を支えてくれたのは――、何も変わらない夏子さんだけだ。俺は今、無性に夏子さんに会いたくなった。
「何処、行くの」
 俺が立ち上がるのを見て、母が制する。
「夏子さんに会いに行って来る」
「え、ちょっと待って、夏子さんて」
 俺があっさり答えたのを、姉が戸惑っている。
 姉のうろたえようが尋常ではなく、俺は眉を寄せた。
「夏子さん。近所に住んでたお姉さんだよ、覚えてるだろ」
「覚えてるよ、忘れる筈が無いじゃない。でもあんた、夏子さんに会いに行くって……、彼女の墓参りに行くって意味よね?」
「え」
「お願いだから、夏子さんの後追い自殺なんてしないでよ。私も少し言い過ぎたわ、それは謝るから!」
「……何、言って」
 これは一体、どういう訳だ。
 姉が嘘を吐いているとは思えず、俺は母に確認する為に視線を合わせた。
 母はまた言い難そうに、俺から視線を逸らして口にしたのは。

「夏子さんね、海で自殺したのよ」

 これまた問題の発言だ。ははは。俺は何を聞いている? 自殺? 誰が。夏子さんが。
「海でって、どういう――」
「しっかりして」
 青ざめる俺を心配して、姉が自分の肩を揺する。
「……本当に知らないの? 二年前になるかな、夏子さん。今の時期、都会からひょっこり戻って来たかと思うと、真夜中、あのフナムシが沸いている海岸で、入水自殺したの」
「……!」
 ああ、何という事だ。
 それでは俺が見た夏子さんは。昼間、海岸で笑っていた夏子さんは。
「翌朝になって、海で夏子さんが浮いていたのを漁師さんが発見したんだ。それが父さんで」
「あ……」
 不意に父親を見れば、苦虫を潰したような顔でビールをあおっている。
 俺は。
「洋史! 何処行くの!」
 姉の叫びを振り払い俺は、海岸まで急いだ。


 ――お盆だから、水辺に居たら幽霊に足を取られて、そのまま暗い海の底まで引きずられるわよ。

 母の言葉は嘘ではなかった。恐らく、康夫も冗談ではなく本気で言ったのだろう。俺は何で気付かなかった。
 海で消えた夏子さんの行方はやはり、海にあったのだと。

「――夏子さん」

 夏子さんは俺の予想通り、フナムシの海岸の波打ち際で立っていた。
 夜の闇のお陰で、夏子さんの体が青白い光に帯びている事が、分かった。昼間は蜃気楼のようにぼやけていて、分からなかったけれど。
 夏子さんは俺の呼びかけに応じて、振り向いた。
 ざざざ、波の音がやけに大きく聞こえた。
「夏子さん、幾ら夏でも、そこに居たら風邪引きますよ」
「……ひろ君はもう気付いているんでしょ、私の正体」
 夏子さんは俺に、いつもの穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「朝、ひろ君に会ったのは偶然じゃないよ。バス停で下りる時からずっと見てたから」
「……な」
 俺が驚くのを余所に、夏子さんが続ける。
「私が声をかけて、それにひろ君が応じたでしょ。そのお陰でひろ君、私を認識出来たの。ほかの人達は私に気付かないで、行っちゃうから全然、反応が無くて寂しかった」
 ……それでか。
 不用意に返事をしてしまった俺にも非があるのか。
「私ね、離婚したんだ」
「え」
 納得していると夏子さんは静かに、俺に語り始めた。
「うん。私、結婚して都会に出たけど、やっぱり肌に馴染めなかった。それから、旦那の浮気が原因で結婚してから一年足らずで離婚したんだ」
 ……それは、知らなかった。
 夏子さんのイメージは良妻賢母で、家庭も上手くいっていると思っていたのに。
「イメージって怖いよね。私が田舎に戻ると皆、新婚生活はどうかって聞いて来るの。旦那さんと上手くいってるんでしょ、羨ましい。都会の商社マンなんて、いい人捕まえたわね。なんて色々称賛されたけどでも」
 夏子さんは苦しそうにしゃがみ込む。
「でも私の現実は皆が思っているより、上手くいかなかった」
「……」
「彼と別れて、田舎に帰れば救われると思ったけど。皆、私が離婚する事を許さない風潮で話しかけて来るから、私どうしていいか分からなくて、だから」
 だから暗い海の中に入っていったの。夏子さんが立ち上がり、妖艶な笑みを浮かべて俺を真っ直ぐ見ている。
 ぞくり。またあの時と同じく俺の背筋に悪寒が走った。
「ひろ君も、私と同じ気持ちでいるのよね? 変わる事を恐れているのよね? 周りが変わる事を恐れて、自分も変われずにいる。それなら私と一緒に来ない?」
 ゆらゆらゆら。揺れる夏子さん。
 駄目だ。
 此処で夏子さんの誘いに乗っては駄目だ。
 しかし、俺の意志に反して俺の足は勝手に海へ向かう。
「……おいで」
 俺はとうとう、足を波に浸からせる。夏子さんと同じように。
「駄目です。俺は夏子さんと一緒には、行けません」
「どうして」
「……俺は、夏子さんと違う、から」
 俺は夏子さんを抱き締める。
 夏子さんの体に帯びていた青白い光が、ますます強くなる。
「俺は夏子さんと違います。約束します。俺は夏子さんと違って、変わる努力をします。それが自分のマイナスになろうとも、俺は変わる事を受け入れます」
 だから、俺は夏子さんと一緒には行けない。
「俺の周りが変わっても、俺の世界が変わっても、俺は俺でいられればそれでいいと、思ってるからだから」
「あ、ああ……」
 夏子さんの体に帯びていた青白い光は空へ、空へと煙のように昇って消えていく。次第にその光も弱弱しくなる。
 ああ、もう終わりだ。
「だから、安心してください。俺の行く末を見守ってください。もし、俺がその約束を破った時は遠慮無く呼び寄せてください、その時は夏子さんが居る先に行きますから」
「……そう、そうね。ひろ君は私より強い子だもの。私がそれを良く知ってるわ」
 俺の腕の中に居た夏子さんが、ようやくいつもの笑みを取り戻した。
「……ありがとう、ございます」
「お礼を言うのは私の方。……ありがとうね、ひろ君」
「一年に一度は、夏子さんの海に行きますから」
「うん。待ってるよ」
 俺の腕の中で光が消えていく。
 夏子さんという、光が俺の中で完全に消え去った時俺は、腰まで海水に浸かっていた。

「洋史!」

 俺は声に気付いて振り返る。
 すると提灯(ちょうちん)を持った康夫が、スクーターにまたがっていた。俺は康夫を確認すると、ざぶざぶと海の中を歩いて砂浜へ上がった。
「どうして、此処に」
「七美(ななみ)さんから聞いたんだ。お前が夏子さんの後を追いかけて、入水自殺するんじゃないかって青くなってたから、只事じゃないって思ってさ」
 ……そうか。姉は姉なりに俺を心配してくれていたのか。
「やーさんは夏子さんの事、知ってたのか」
「地元の人間なら皆、知ってるぜ。あの夏子さんがだもんなー。……夏子さん、俺達の知らない所で、苦労してたんだなあ」
「……そういえば朝、お前に会った時、やーさんはどうして夏子さんが家に帰ってるって言ったんだ」
 そう、俺はその言葉を聞いててっきり夏子さんが生存しているものとばかり、思ってしまった。
「ああ、あれか。俺は盆だから、夏子さんの霊はちゃんと家に戻ってるんじゃないか、という意味で言ったんだ」
 ……ああ、その意味でか。それなら俺は康夫の話に納得する。
 俺は空を仰ぐ。康夫もつられて空を仰いだ。
 満天の星がそこには広がっていて。俺は自然と手を合わせて、祈りを捧げていた。俺が祈り終わったのを見計らって康夫が言った。
「でさ、着替えなら会場着いたらあると思うからさ、盆踊りに行かないか」
「今からか」
 俺は康夫に向き直る。
「大丈夫、飛び入り参加は大歓迎だから。俺の連絡網で、お前が来てるって皆に回しておいたからさ」
「マジか」
「さあさあ、そうと決まれば早く行こうぜ。レッツゴー」
「はいはい」
 こういう部分は変わってないな。
 俺は康夫に感謝しながら、彼の後に続いた。


 翌朝。

「本当に、車で送らなくていいの?」
「ああ、もう決めたから」

 玄関先で俺を見送るのは両親と姉と、姉の旦那と子供達である。
 姉が車で送ると申し出たが、俺はそれを断った。何故なら俺は、もう少しだけ今のこの町を目に焼き付けておきたかった。一年経てば、この町も今以上に様変わりしているかもしれないから。
 車で帰れば、めまぐるしく変わる景色を覚えていられる筈もなく。
 俺はあれから、再就職を目指してもう一度都会に飲み込まれて行く生活を選んだ。それを盆踊りから帰ってから父親に伝えると、父親は「そうか」と一言告げて、その後は何も言わなかった。

「それじゃあ。また、一年後の盆にでも帰るよ」

 海に眠る夏子さんに会う為に。夏子さんとの約束を泡にしない為に。
 俺は新たな一歩を今、踏み出した。