長かった夏休みも終わり、二学期が始まって一息吐いた頃。
どういう訳か僕は、十月に開催される文化祭の実行委員なるものに任命されてしまった。
「えー、では、黒板に列挙されている候補の中から選んで、投票箱に投票してください。一人一票です。字が汚くて読めないものや、わざと黒板には無い候補を書いている場合は無効となります」
ざわつく教室の中、僕は教壇に立ち、声を張り上げる。しかし、僕の声は、騒々しい教室の中では意味が無かった。
僕の隣では、学級委員長の牧原皐月(マキハラ・サツキ)が直立不動で、いつまでも投票に来ない生徒達を睨んでいる。
今は、自習時間なので教師は不在だった。教室に居るクラスの皆は、携帯電話をいじっているか、マンガ雑誌を回し読みしているか、友達同士で話しているかで、僕の話を全く聞いていないのは牧原さんから見ても、明白だった。
僕は、担任の高瀬から文化祭の出し物をこの時間の間で決めておけと言われたので、仕方なくそれに従っている次第である。黒板にある数ある出し物の候補も、朝のHRにやっとまとまったものだった。この時は、高瀬が居てくれたので難なく話が運んだと言える。
僕の力では、皆を振り向かせる事すらも適わない。
僕はちらりと、横目で委員長の牧原さんを見る。
牧原さんは、一学期から委員長を任され、二学期も誰もなりたがらない委員長に自ら立候補したという奇特な人だった。彼女の話を聞けば、中学時代も三年間、委員長を任されてきたとか。そして、眼鏡で三つ編みときた。彼女はまさしく、委員長になる為に生まれたと言っても過言では無いだろう。実際の所、彼女は成績も良く、一学期の期末試験の成績発表では二年生や三年生に混じって一年生で一人、一桁台で名前があったらしい。
牧原さんは、僕とは全く違う人種のようで、もしも僕が文化祭の実行委員に任命されなければ、彼女との接点は何も無く、同じクラスに居るのに一度も話す機会は無かったかもしれない。事実、二学期に入るまで僕は牧原さんと一度も口を利いた覚えが無かった。
牧原さんは僕の視線に気付いたのか、僕を睨み付ける。その態度は、「実行委員なんだからしっかりしなさいよ」と僕に訴えるようだった。無理も無い。彼女は僕が動かない限りずっと、投票箱を持っていなくてはいけないのだから。
僕は溜息を一つ。
さて、どうしたものか。話を聞かない皆を指導するには、けっこうな根気と勇気と努力が要ると知ったのは、つい最近の話だ。高瀬の苦労が今更になって理解出来た気がする。
「――好い加減にしてくれない?」
え。
今のは、空耳だっただろうか。
「好い加減にしろ、と言ったのよ。あなた達、日本語が分からないの? 私達の話を聞きたくないならさっさとこの教室から出て、思う存分話して頂戴。そうじゃなければ」
空耳ではなかった。
僕の隣で牧野さんがはっきりとした口調で、騒ぐ生徒達に向かって言っている。牧原さんの冷ややかな声を聞いて、騒いでいた生徒達が急に静かになった。
牧原さんは、ぐるりと教室中を見回し、そして。
「そうじゃなければ、鈴木君の指示に従いなさい」
牧原さんの言葉に怒気は一切含まれていなかった。ただ静かに、そして鋭く、まるで冷たい刃で胸を突かれたような、そんな威力があった。
そして次第に生徒達は一人、また一人と立ち上がり、牧原さんの元へ行って投票用紙を投票箱へ入れていく。
僕はただ呆然と、牧原さんの悠然とした姿を見ているだけだった。
「マッキー」
あの牧原さんをふざけたあだ名で呼ぶのは、奴しか居ない。そう、由高である。由高は藤野さんを連れて、牧原さんの前まで来ていた。
由高と藤野さんで、投票が終わる。その頃にはもう、教室内はいつものざわつきを取り戻していた。
「そのあだ名で呼ぶのは止めてと、何度も言ってるでしょ」
「はは、相変わらずだよな、マッキーも」
なあ、と僕に同意を求められても困るんですけど。僕は由高のように牧原さんを素でマッキーと呼べるほど、親しくもないし。
「そう、一つ、神崎君に言いたい事があるのよ」
「何。愛の告白なら絶賛受付中だけど」
「……、鈴木君の事よ」
牧原さんは、おどける由高に対してではなく、僕の方を睨んでいる。牧原さんに睨まれるのは今日、これで何度目だろうか。
「鈴木君を文化祭実行委員に推薦したのはあなたでしょう、神崎君。それなのに神崎君は鈴木君一人に任せてばかりで、手伝いもしないのはどういう事? あなたが何もしないから、私がこうして鈴木君を手伝う羽目になったのよね」
牧原さんの怒りは最もで、反論の余地も無い。
そう、僕が文化祭実行委員なるものを任命されたのは、由高のせいだった。誰も面倒な実行委員になりたがらない中で、由高が何の迷いも無く真っ直ぐ手を挙げて、
「鈴木君にやらせてみてはどうでしょうか。彼、意外と器用で、何でも出来るんですよ。友達の俺が言うからには、間違いありません」
僕は由高の言葉を聞いて一瞬、本当に一瞬、固まった。
しかし、由高の意見は僕の意志とは関係なく、採用された。皆、文化祭実行委員をやるのが面倒で、誰かに任せたい時に由高が丁度、僕の名前をあげたせいだった。
「そうだな。鈴木、任せたぞ」
担任の高瀬は僕に有無を言わせず、由高の指名を受理する。
僕は情けない事に高瀬や由高に対して何も言い返せず、呆気に取られたままの状態で、由高の思惑通り、文化祭実行委員になってしまった。
そして、教師に代わって教壇に立ったはいいが、口を開けばしどろもどろで、要領を得ないでもたつく僕を見かねて牧原さんが「私は実行委員ではありませんが、鈴木君のお手伝いをします」と、高瀬に申し出てくれたという、いきさつがあった。
「俺は俺で忙しいんだよね。杏奈を寄越しても良かったけど、それも結果は目に見えてるだろ」
由高の言葉を耳にして藤野さんは俯き、槙原さんは納得したように頷いた。
「そうね。杏奈じゃ少し、頼りないわね」
「ご……ごめんね、鈴木君」
あああ、藤野さんがまた自己嫌悪に陥っている。
僕は慌てて、落ち込む藤野さんを気遣う。
「大丈夫、気にしなくて良いから、全然。牧原さんも居るし」
「そうだね。さっちゃんは頼りになるから。さっちゃん、鈴木君を助けてあげてね」
「……、杏奈に言われたら鈴木君の面倒を断れないわね」
牧原さんを下の名前で、しかもあだ名で呼べるのはこのクラスでは、藤野さんしか居ないらしい(由高談)。藤野さんに上目遣いでお願いされてしまった牧原さんは、照れ臭さを隠す為か、細い指で眼鏡をいじっている。
「それじゃあ早速、投票の集計に移りましょう。こんな所で話し込んでいたら、時間が勿体無いもの」
「そうだね。藤野さん、また休憩時間にでも」
「うん」
牧原さんに促され、僕は藤野さんに約束をしてから自分の席へ戻った。
「鈴木君、変わったわね」
投票箱から投票用紙を取り出す作業を、牧原さんと机を挟んで向き合ってやっている時に、彼女が呟いた言葉に反応した僕は、投票用紙から顔を上げる。
「変わったって、何処が」
「そうね。こうして私と共同作業をしているのなんて、一学期の鈴木君からでは考えられない事よ」
そう。僕は一学期、六月に由高と藤野さんと知り合うまでずっと、一人で教室に居る事が多かった。
僕は、皆の輪の中に積極的に入る事も無く、ただ、千鳥さんの事を引きずったまま、一人で過ごしていたのを思い出す。
「確かに。僕でも信じられないよ」
「やっぱり、神崎君には適わないわね。正直言うと、委員長の私でさえ、鈴木君を敬遠してたのよ」
……それは、衝撃的な事実だった。
牧原さんは委員長という立場上、公平、そして平等に皆と付き合える人だと僕は認識していたのだけれど。
「委員長は由高と藤野さんとは、いつから?」
「ああ。中学時代からの付き合いよ。彼等とは、何の縁があるのか一年から三年までずっと同じクラスだった。あの頃から神崎君、ふざけてたわね」
牧原さんは容赦無く、由高の過去をそう評価する。
「杏奈は……、神崎君と同じで今と変わらない。いつも、神崎君の後ろについて回って、彼の金魚のフンだった」
「はは。何となく、そんな感じがしたよ」
僕は素直に藤野さんらしいと思えた。
「ねえ、一つ、いいかしら」
笑う僕を見て牧原さんが身を乗り出し、僕の顔を覗き込む。
「鈴木君、杏奈と付き合ってるの?」
「……ええと」
これにはどう答えていいか分からず僕は、牧原さんから視線を逸らす。
確かに僕は、藤野さんから告白されたものの、彼女への返事は未だにしていなかった。千鳥さんの件も関わっているので、牧原さんに安易にその話をする訳にもいかない。
ああ、そうだ。
由高と中学時代一緒だった牧原さんもまた、千鳥さんの事を知っているのだろうか。その可能性はあるが、此処でする話題でもないだろう、とも思った。
「どうなの?」
視線を逸らす僕を逃がさない牧原さん。
牧原さんは、藤野さんから僕の話を聞き知っているに違いない。僕は決心して、牧原さんに藤野さんの事を話した。
「ああ……いや、うん。藤野さんから告白はされたけど……」
「やっぱり。夏休みの間、鈴木君と泊まりで旅行行くから、それに勝負かけるって言ってたのよ、あの子」
やっぱり藤野さんは、牧原さんに僕の話をしていたようだ。
「で、返事は?」
「……まだ、してない」
「杏奈の何処がいけないのよ。優しくて思いやりがあって可愛くて、ああ見えて胸もあるのよ」
マジでか。
牧原さんの余計な情報のせいで僕は、藤野さんの――。
いや、これ以上は止めておこう。
「鈴木君。折角、勇気を出して告白してきた杏奈を待たせてどうする気よ。他に好きな人でも居るの」
他に好きな人。
僕はすぐに、千鳥さんを思い浮かべた。
僕は、千鳥さんが好きだったのだろうか。
今となってはもう、分からない。何も。
だけど今の僕を突き動かすのは、千鳥さんであるのは間違いがなく。
「……、まあ、そんな所かな。その人への気持ちが清算出来たら、藤野さんに返事をする約束をしてる」
「ふうん。そうなんだ。鈴木君らしいといえば、鈴木君らしいわね」
僕の回答に納得したのか牧原さんはそう言って、また集計作業に専念し始めた。
あの夏――、由高と有紀子さんのお陰で僕は、千鳥さんの現実を少しだけ、覗く事が出来た。
千鳥さんと付き合っていた、由高。
千鳥さんを追い詰めた一人、皆川有紀子。
僕と千鳥さんの間には、何か見えない糸でまだ繋がっているのかもしれない。
それらを断ち切り、千鳥さんの想いを知るにはもう少し、時間がかかりそうな気がした。
僕はあれから、有紀子さんの話に出て来た保険医を探している。
千鳥さんの一番近くに居たという保険医は、今はもう、教職員を辞めて学校には籍を置かず、所在が掴めなくなっていた。
当時の保険医の事を知る先生達にそれとなく彼の事を聞いてみたが、誰も彼の行き先を知らないと口を揃える。まるで、口裏を合わせているかのように全員が同じ答えだった。
――お前と桜井の事は、先生達の間で噂になっている。
そう、僕に言ったのは担任の高瀬だったのを思い出す。
教師達は本当に、僕の質問を回避する為に全員で口裏を合わせているかもしれない。皆、千鳥さんの過去を話したくないらしい。当然だ、千鳥さんの過去を暴くのは千鳥さんの自殺の原因も暴く事になるのだから。
教師達は、千鳥さんに手を差し伸べられず、彼女を自殺に追いやった責任を少なからず感じて、そのせいで自分達が罰せられるのではないかと恐れているようだった。
ばかばかしい事、この上ない。
千鳥さんの事を知る為に、保険医の所在が分からないと前に進めない。
有紀子さんに聞いてみても、保険医の居場所は分からないと首を振るばかり。一説では、海外に逃亡しているらしいとか。
そうしているうちに僕は文化祭の実行委員になり身動きが取れなくなって、千鳥さんの件は手詰まりになっていた。
「――投票の結果、コスプレ喫茶に決定しました」
僕の報告を聞いて、クラスの皆からまばらに拍手が起こる。
牧原さんと投票分を集計した結果が、コスプレ喫茶であった。
皆が思い思いにコスプレをしながら、お客さんをもてなすという。文化祭で喫茶店は、定番中の定番である。
「それでは、各自役割分担について話し合いたいと思います」
僕の横には変わらず、牧原さんが控えている。
牧原さん効果で、皆、僕の話を真面目に聞いてくれる。拍手も牧原さん効果であった。僕は牧原さんに感謝しつつ、文化祭についての話し合いを進行していく。
僕が文化祭実行委員になって、一つだけ得した事がある。
文化祭実行委員として仕事をしている間は、千鳥さんについて忘れる事が出来たからだ。
それから数日が経ち、放課後、僕と牧原さんはレポート用紙を抱えて廊下を歩いていた。
レポート用紙の内容は、クラスの出し物の概容とその予算の使い道、そして各自の役割分担をまとめたものである。
「全く。何で、いちいち生徒会の連中に報告して、そいつらの審査を受けなくちゃいけないんだろう。担任の先生に報告するだけで十分だと思うけど」
僕の不満を聞いて、牧原さんが鼻で笑う。
「バカね。知らないの? 過去の話だけど、当日になって予定していたものと違う作品を展示したバカな生徒が居たらしいのよ。本人は悪ふざけのつもりだったんでしょうけど、うちの文化祭、外からもお客さんが来るでしょ。その生徒の作品は、身内受けは良かったけど、外からのお客さんから、大変なヒンシュクを買ったんですって。それで、文化祭事態がなくなるという事態に陥ったんだけど、それを覆して立て直したのが、生徒会よ。それからね。生徒会の審査に通らないと、文化祭に参加出来ない決まりになったのは」
牧原さんの話について、僕は全く知らなかった。
「……、へえ。それは、初耳だ」
「その一件以来、生徒会が生徒を管理する権限を持ってしまってね。何でも生徒会の審査を受けないと私達も自由に動けないのよ」
「成る程。でもさ、二年生とか上級生ならまだしも、僕は一度も生徒会に行った事がないし、生徒会長の顔も知らない。大丈夫かな」
「大丈夫よ。男子からすれば生徒会は、パラダイスじゃない?」
「は?」
僕は牧原さんの言っている意味が、最初は分からなかった。
「此処がそうだから、先に鈴木君が入って」
「あ、ああ」
教室の戸に生徒会と書かれている。
牧原さんに背中を押されて僕は、恐る恐る生徒会室の戸を叩いた。
「どうぞ」
中から女性の声がする。
僕は緊張した面持ちで、生徒会室の戸を開けた。
「失礼します」
頭を下げて生徒会室へ足を一歩、踏み入れる。
すると、コーヒーの香りが鼻についた。
「いらっしゃい。コーヒーは好き? コーヒーが駄目なら、麦茶も用意出来るわよ?」
優しい声で僕にそう言うのは、まるでフランス人形のような美少女だった。
茶に染めた巻き毛が揺れている。背筋を伸ばしているせいか、座る姿勢が綺麗だと感じた。薄っすらと化粧もしていた。確か、染めるのも化粧も、校則違反ではなかったか。
美少女と僕の間には、机が四つ、四角形に並べられてあった。僕は思わず美少女の向かいに席を取った。牧原さんは僕の隣に静かに座る。
教室内には後ろの壁際に五つのロッカーと、掃除用具入れが置かれ、そして何故か窓際にはテレビとプリンタ機器が接続されたパソコン、ミニ冷蔵庫と電化製品が一通り机の上に置かれていた。パイプ椅子の上には、新聞の束があった。
「彼女が、生徒会会長の、芹沢玲子(セリザワ・レイコ)よ」
牧原さんが落ち着きのない僕に耳打ちをして、美少女の正体を明かした。
僕は、牧原さんの情報が間違っているのではないかと、最初、疑ってしまった。生徒会長が派手な格好で居る事が、信じられなかったからだ。
「一度は皆、私を見て驚くのよね。上に立つ生徒会長がそんな風でいいのかって」
僕の心境を見透かしたのか、芹沢会長がくすくすと笑う。
「でもね。成績を落とさず、品も失わず、生徒会の仕事もきちんとしているのが認められれば、私みたいに化粧も、髪を染めるのも許されるのよ」
芹沢会長の名前が全国模試では常に上位に食い込み、学校の試験でも常に一位と二位の間を行き来している事は、僕でも知っている。そして、生徒会長が今まで、品が欠けた行動をしているというような悪い噂は、一度も聞いた事がなかった。
それが、今の芹沢会長の言葉が嘘ではないと、証明しているようなものだ。
「それで、コーヒーと麦茶があるのだけれど。あなた達は、どちらが好み?」
「私は、コーヒーをお願いします」
芹沢会長の前でも牧原さんは物怖じせず堂々と、飲み物を注文する。
芹沢会長は立ち上がると自らの手で、コーヒーポットから紙コップにコーヒーを注いで牧原さんの前へ差し出した。
「君は?」
「え、あ、僕は……麦茶をお願いします」
こういう場合、断る方が気が引ける。
「宮内さん」
僕の注文を受けて、芹沢会長が後方へ声をかける。
すると、今まで芹沢会長しか目に入らなかった僕の前に、長身の女が現れた。
彼女は百七十以上と、女子の中でも長身だった。髪をショートカットにしているせいか、女子の制服を着ていなければ男子と間違えてしまうような凛々しい顔付きで、芹沢会長と同様、文句無しの美人だった。
「宮内美咲(ミヤウチ・ミサキ)さん。生徒会では副会長よ」
「よろしく」
宮内副会長は頭を下げて、それからミニ冷蔵庫がある方へ向かった。ミニ冷蔵庫の中には、冷えた麦茶のボトルが入れられている。宮内副会長は慣れた手付きで、ボトルから紙コップへ注いだ。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
宮内副会長の綺麗な手で麦茶を差し出され、恐縮する僕だった。
「宮内さん以外にもメンバーは当然、居るんだけどね。皆、文化祭で忙しいから、審査は私達二人でやってるの。一年の君達は知らないかもしれないけど、生徒会は一人を除いて全員が女なのよね」
「そうなんですか?」
「そうよ。皆、宮内さんみたいにとびきりの美人揃いだから、生徒会目当てにレポートをわざと滅茶苦茶に書いて、再提出を狙う子が後を絶たないの」
芹沢会長は困った風に笑う。
なるほど、それで「男子にしてみれば生徒会はパラダイス」か。僕はようやく、牧原さんの言葉の意味を理解する。
僕と牧原さんは、出された飲み物にそれぞれ口をつける。その間、芹沢会長は僕が提出した文化祭の出し物についてのレポートに目を通す。
芹沢会長は、丹念に僕達のレポートを吟味している。
「あなた達のレポートを一通り、見させて貰ったわ。うん、上手くまとめられて、予算の計算も役割分担も完璧で、文句無し。直す所は一つも無いわ」
「ありがとうございます。良かったね、牧原さん」
芹沢会長に褒められ、僕は自分の事のように嬉しくなって牧原さんを見る。
「あら、このレポート、君がやったんじゃないの?」
「あ、殆ど、横に居る牧原さんにやってもらいまして……」
僕は素直に、牧原さんの手によるものだと、芹沢会長に明かした。
「成る程。男子のわりに、綺麗な字だと思ったのよ。牧原皐月さんの評判は、私も良く聞いていたから、会えて、嬉しいわ」
「……光栄です」
芹沢会長に笑顔でそう言われた牧原さんは、眼鏡をいじる仕草をする。
「文化祭は、このレポート通りに進行して頂戴ね。もし、これ以外の事を文化祭当日にやられたら、私達は、あなた達を罰する事が出来るので、そのつもりでね」
「分かりました」
芹沢会長に念を押され、僕と牧原さんが頷く。
それから芹沢会長は僕達に文化祭についての注意事項を幾つか話した。芹沢会長の話をメモを片手に真剣に聞いていたのは、牧原さんだった。僕といえば、メモ帳や筆記用具を忘れてしまい、完全に牧原さんと立場が入れ替わってしまった。
僕は牧原さんに任せ切りで、芹沢会長との話も出来ない中、不意に――宮内副会長と目が合った。
宮内副会長は、僕に麦茶を差し出してから今までずっと、沈黙を守っている。芹沢会長を守るように、席に座らず、後ろに立っている姿は、まるで刀を握る武士を連想させた。
僕は慌てて、宮内副会長から視線を逸らす。
芹沢会長はまだ、後輩の僕達でも優しく母親のように包んでくれるような、親しみやすい存在である。しかし宮内副会長の場合は、話し掛ける事さえ恐れ多く、彼女に指一本でも触れたら直ぐにでも刀で斬り付けられるような存在であった。
「これで、文化祭についての話は以上です。何か、質問は」
「ありません」
芹沢会長の問いに、牧原さんがはっきりと言った。
「そうですか。では、私の話も終わりです」
「ありがとうございました。鈴木君、帰ろう」
牧原さんが芹沢会長に礼をしてから席を立ち、僕も席から離れるように促す。
「文化祭、頑張ってね」
「ありがとうございますっ」
芹沢会長に声をかけられた僕は思わず背筋を伸ばして、礼を言ってしまった。芹沢会長はそんな僕に微笑む。
ああ、藤野さんと千鳥さんの事が無ければ僕は、芹沢会長に魅了されていたかもしれない。僕自身、芹沢会長に見合う男ではないと自覚している分、それは笑い話だけど。
行きと違って帰りは牧原さんを先頭にして、僕が彼女に続いて生徒会室を出ようとした時、だった。
何故か分からないけど僕は、宮内副会長が気になり――振り返る。
すると、また宮内副会長と目が合った。
「……何か?」
鋭く冷たい目を僕に向けるのは、宮内副会長で。
「す、すみません」
宮内副会長に睨まれた僕は慌てて、生徒会室を出る。
「何、やってんのよ」
生徒会室の戸を閉めた僕を、廊下で待っていた牧原さんが呆れている。
「いや……、僕が生徒会室を出ようとしたら、宮内副会長に見詰められた気がして」
「何それ。宮内副会長みたいな人が、鈴木君なんかに興味を示す訳が無いじゃない」
牧原さんは相変わらず、容赦無かった。
「生徒会の承認も得た事だし、これから忙しくなるわよ。だから鈴木君、今まで以上にしっかりしなさいよ」
「……、恐いね。僕みたいな人間が、務まるものかな」
それは僕の素直な感想だった。
「私も手伝ってあげるから」
「ありがとう」
僕は、牧原さんの優しさが嬉しかった。
牧原さんの予告通り、僕はこの一ヶ月の間、文化祭の準備に追われて忙しなく動き回っていた。
コスプレ衣装の用意、食器類や食材の調達、教室の飾り付け。それらを全部、僕がまとめつつ、生徒達の管理もしなければいけなかったからだ。
僕は常に生徒達の傍に付き従い、管理する傍ら、手伝える部分は手伝った。そのお陰か僕は、由高や藤野さん、牧原さん以外の生徒達と話せるようになっていた。僕にしてみれば大きな進歩だった。
今日も、由高以外の男子数人と飾り付けの材料の買出しに出かけて、学校に戻って来た時、だった。
僕は自分の背中に視線を感じて学校の廊下で立ち止まり、振り返る。
誰も居なかった。
「どうした?」
紙袋を抱えた男子生徒が、僕に声をかける。
「いや、何でもない」
僕は彼等と合流して、教室へ向かった。
あれから。
芹沢会長と対面を果たした翌日から僕は、視線を感じるようになった。誰かに見られている。誰かに覗かれている。そんな感覚に僕は襲われる。それは決まって学校に居る時だけで、下宿先までその視線は追いかけて来なかった。
それが誰の視線であるか、分からない。
いや、僕は、それが誰の視線であるか見当がついていたが、『その人物』について、容易く物が言える立場では無かった。もし、僕の思い違いだったりすればそれこそ、その人に申し訳無く、僕自身が罰を受ける可能性は十分にあった。
僕は文化祭の準備で、視線の件は気にしない事にした。視線は学校だけで、下宿先にまで追いかけて来ない分、僕はそう神経質にならずにすんだ。
そして、文化祭当日。
学校のグラウンドには生徒達が経営する屋台が軒をつらね、教室内でも多種多様な出し物が出店されていた。
外来の客は、生徒達の保護者やその関係者である。親子連れや、大学生と思われる人達まで幅広く、賑わっている。
「いらっしゃいませー」
僕のクラスでは、メイド服に着替えた女子達が、外部から来た客や生徒達を笑顔で出迎える。
コスプレ喫茶。今回は、女子がメイドに扮して、男子が執事の格好で客をもてなす喫茶店である。
コスプレ喫茶の評判は上々で、午後は女子のメイド姿を目当てに、男の客が増えつつあった。
「鈴木君、鈴木君」
教室内を厨房とホールとをカーテンで区切り、厨房側でサラダを作っていた僕に藤野さんが手招きをする。
女子の中で一番、藤野さんのメイド姿が似合っていた。僕は藤野さんのメイド姿を見てにやけつつ、サラダを作っていた手を止める。
「何」
「別所さん達、来たよ」
僕は、この文化祭に、日頃の感謝を込めて、下宿先の別所さん達を招待していた。
藤野さんも別所さん達とは顔見知りなので、もし、彼等が来たら僕に伝えて欲しいと話してあった。
「久住さんが、鈴木君を呼んで来てくれって」
「分かった」
「ちょっと鈴木君、何処行くのよ」
藤野さんの話を聞いて、エプロンを外して僕が厨房から出て行くのを、同じく厨房で作業をしていた牧原さんが止めに入る。
「知り合いが来てるんだ。普段、世話になっている人達だから、挨拶しておかないといけないんだよ。悪いけど、牧原さん、仕切りお願い」
「全く。さっさとすませなさいよ」
「ありがとう」
牧原さんは呆れつつも、僕の話をきちんと聞いてくれる良い人だった。
「いやはや、高校の教室に入るのは、何年振りだろうか」
そう感想を漏らすのは別所さんではなく、久住さんである。
僕がホールの方へ来た時、客として椅子に座っているのは久住さんと別所さんだけだった。僕は関口さんと有川さんも招待した筈だったが、どういう訳か二人の姿は何処にも見当たらなかった。
「関口君はデジカメ持って、校内をうろついてるんですよ。学校は、こういう時じゃないと撮影出来ないからとか言ってましたね」
「何でもない日に良ちゃんがデジカメ持って校内うろついてたら、直ぐに不審者で警察行きだな」
僕に関口さんの居場所を説明するのは、別所さんである。別所さんに続いて、久住さんが笑う。笑った後で、有川さんの状況を説明したのは、これまた久住さんだった。
「有川の奴は、また仕事で遅れるんだとよ。来る時は、有紀ちゃんも一緒らしいぜ」
「ああ、有紀子さん、此処の卒業生でしたからね」
僕は彼らの話に納得する。
「それじゃあ、関口さんや有川さん達が来るまで、ゆっくりしてってください」
「杏ちゃんのメイドさんも可愛いし、それ以外にも可愛い子が何人も居て、梅ちゃんが羨ましいね。梅ちゃんのクラスはレベルが高くて実にいい」
久住さんは腕を組んで、教室内を見回しながら、女子を物色していた。
関口さんよりも、久住さんの方が不審者で摘み出されなければいいが。
「周治君もその格好、様になってますね」
「あ、そうですか? ありがとうございます」
僕は、演劇部から借り受けた英国風のスーツを着ていた。それを別所さんに褒められ、僕は照れ隠しに頭をかく。
コスプレ衣装は、男子の場合はスーツ一式あれば事足りるので、父親のスーツを借りてきたり、演劇部からレンタルする場合が多かった。女子のメイド衣装は特殊なものなので、殆どが手作りである。藤野さんや牧原さんも、夜遅くまで学校に居残りながら頑張って仕上げたものだった。
「しかし、梅ちゃんが文化祭実行委員なるものを任されているとは、今日、此処に来るまではっきり言って、信じられなかったよ」
「そうですね。あの周治君が皆のまとめ役になっているのは、私も鼻が高いですよ」
「……、まあ、由高の奴が原因で、無理矢理やらされたんですけどね」
久住さんに続いて別所さんの感想を聞いた僕は、苦笑する。
「そういえば由高君、見ませんね」
「あいつは今丁度、休憩時間なんですよ。僕と同じような格好で何処かうろついてます」
由高は厨房係りであるが、休憩時間なので不在だった。
丁度、由高が不在の時に別所さん達が来てくれたので良かったけど。
「さて。私はこれから行かないといけない所があるので、此処を離れます」
別所さんが席から立ち上がる。
「帰るんですか? 有川さん達がまだ来ていませんけど……」
「あ、いや。この学校に私の知り合いの子供が居るんですよ。招待状を貰ったので、その子の出し物も見ておかないといけませんから」
別所さんの知り合いの子供?
「どのクラスですか? 案内しましょうか」
「大丈夫ですよ。貰った招待状に、校内の見取り図もありましたから」
「そうですか。でも、もしも迷ったら、僕の所まで来てください。案内くらいは出来ますから」
「ありがとう」
別所さんは久住さんを残して、教室から出て行った。
僕は別所さんが教室を出て行ったのを確認してから、久住さんの方へ向き直る。
「別所さんの知り合いの子供って久住さん、聞いた事あります?」
「さあ。俺は知らないね。だけど、この高校の子なら、梅ちゃんの方が詳しいと思うけど」
「僕は学校では余り、下宿先の話はしませんからね……。顔が広い訳でもないし」
「その子が女の子だったら、俺に紹介して欲しいなあ」
「久住さんの年齢だと、女子高生とは犯罪ですよ」
「いやいや。恋愛に年齢は関係無いよ、梅ちゃん。俺みたいなオジサンでも、好きだっていう女子高生が世界の何処かに居るかもしれないじゃないか」
「……世界中て、スケール大きいですね」
「それくらいの精神がないと、やってられんよ」
呆れる僕に、久住さんが笑う。
「さて、俺も幾つか店を回って来るよ。此処で一人で居ても仕方無いしな」
「そうですか」
「梅ちゃん、メイド喫茶やってる所、ほかに無いかい?」
「……多分、うちのクラスだけだと思いますけど」
「何だ。それじゃあ、別の目的でうろつくか」
別の目的って何だろう。僕の疑問に久住さんは答えず、教室から出て行ってしまった。と。
「――あの人達、鈴木君の何?」
「うわっ」
背後から牧原さんに話し掛けられ、驚いた僕は思わず軽い悲鳴を上げてしまった。
「びっくりした、牧原さんか」
「鈴木君が遅いから、後ろで様子を窺ってたのよ。鈴木君の親にしては若過ぎるし、親戚か何か?」
「ああ、下宿の人だよ。若い方が世話人で、オジサンの方が住人その一」
「ふうん。あのハゲたオジサン怪しげだけど、大丈夫なの」
「……多分」
牧原さんの指摘を受けて僕は、久住さんに悪いと思ったけど、大丈夫だとは断言出来なかった。
「そうだ、もう直ぐ鈴木君、休憩入るでしょ。杏奈も同じ時間に休憩だから、杏奈を誘ってあげてよ」
「ああ、分かってるよ」
その為に僕は、藤野さんと同じ休憩時間を選んだと言っても過言では無かった。
そして休憩時間になると僕は真っ先に、藤野さんに声をかけた。
「鈴木君、大丈夫?」
「大丈夫だけど……何で?」
僕と藤野さんは、コスプレ衣装のまま、人で賑わう廊下を連れ立って歩いていた。
僕達の衣装が珍しいのか、擦れ違うお客さん達から注目を集めている。僕ではなく藤野さんの方が正しいか。
「だって鈴木君、ゆーちゃんのせいで此処最近、忙しそうだったから……」
「それか。うん、大丈夫。僕は由高のお陰で牧原さんと知り合えたし、生徒会室にだって行けたんだ。それについては、感謝してるよ」
一応ね。
「生徒会といえば、宮内副会長、知ってる?」
「ああ。レポートを提出する時に居たよ。芹沢会長の後ろに常に居た人でさ」
藤野さんから出た名前を聞いて、僕は頷く。
「そうそう。いつも、芹沢会長を守るように後ろに突っ立ってるので有名な人でね」
「そうなんだ」
「それで、芹沢会長をどうして宮内副会長が守っているか、知ってる?」
「え」
その理由を僕は何も知らずに立ち止まる。
僕はただ単純に、芹沢会長を宮内副会長が崇拝しているだけかと思ったけれど。
「普通は、宮内副会長が芹沢会長を崇拝しているように見えるけど――実は、芹沢会長への嫌がらせを防ぐ為に、宮内副会長が彼女を守っているのよ」
「芹沢会長の――嫌がらせ?」
芹沢会長はあの風貌で、誰にでも好かれる存在だと思っていたが。
ああ、そうか。
芹沢会長自身の悪い噂は無くても、芹沢会長へ対する嫌がらせの噂は何処からか流れているのか。
「そう。ゆーちゃんが調べている事だから、鈴木君にも耳に入れて欲しかったから」
由高が調べている事、それは、千鳥さん関連のもので。
「それじゃあ――芹沢会長が、千鳥さんに関わっていると?」
「うん」
藤野さんは俯きながらも、否定はしなかった。