有川さんが別所さんの家を出て行く、と知ったのは文化祭が終わって一息吐いた頃だった。
「本当ですか」
皆が集まる夕食の時間、有川さんの発表を聞いて僕が声を上げる。
「前々から決めてたんだ。冬になったらこの家を出るって。此処に居るのは君が来る前から、正確には俺が大学に入ってからだからもう、八年になるか。そうだよな、関口」
「……、そこで何で俺に同意を求める訳?」
有川さんに話を振られて、関口さんが睨み返す。そんな関口さんに構わず、有川さんが話しを続ける。
「最初、四月に君が此処に入るって聞いた時かな。それじゃもう、俺の役目は無いなって思ってね。仕事も軌道に乗ってるし、有紀子の事も考えてやらないといけないから」
有紀子さんか。
有紀子さんもまた、千鳥さんの関係者だった訳で。
「しかし、皆さん長い事、この家に居るんですね。有川さんと関口さんが八年目で、久住さんが五年目でしたか」
「そうだねえ、此処は居心地が良いから。実家に帰るより、此処が実家だと錯覚しちゃうんだよなあ」
「そう言って貰えると、私としても嬉しいですよ」
僕が指折り数えるのを見て久住さんがそう評価して、久住さんの評価を別所さんが微笑んで聞いている。
「梅ちゃんも、高校卒業までとは言っても、自分で出るタイミングを決めておかないと良ちゃんみたいにさ、ずるずるとこの家に住み着くようになるぞ」
「俺は、此処以外に良い物件が中々見付からないし、仕事も探している最中だから此処に居るんですよ。決して、自分の意志で住み着いている訳ではありませんから。仕方なく、ですよ」
笑う久住さんを、関口さんが最後を強調して思い切り否定する。
「それで、有川さんが出て行くとまた新しい人、入れるんですか」
「そうだね。此処は、男子限定だから、新しい子を探すのはそう難しくもないしね」
「え、そうだったんですか」
別所さんの発言は、僕からすれば初耳であった。
道理で、いつまで経っても華が来ない訳だ。
「私が女の人が苦手なのと、最初から男しか来なかった事が由来なんですけどね。女の子を入れても良いんですけど、男が管理人やってるってだけで拒否反応示す子も少なくないですから。それに、男女間で揉めたりすると、それこそ面倒じゃないですか」
そういう理由があったのか。確かに、男女間で揉め事が起きると厄介だと、僕は身を持って知っているから余計に別所さんの苦労が分かる。
「別所さんの凄い所は、その人脈だよ。広告を出さなくても、知り合いの知り合いとかが噂を聞き付けてやって来るんだから」
「関口さんも、そうだったんですか」
「まあね。大学の先輩が最初、此処に住んでて、俺がそれを受け継いだ訳」
「俺の場合は、昔、営業やっててね。外回りの最中、別所と知り合ったんだ。その後、会社を辞めて、路頭に迷いそうな所を別所に拾われたんだ」
関口さんに続いて久住さんが感慨深げに当時の事を話してくれた。
「有川は?」
「俺もあんた達と変わらない。知り合いから此処の話を聞いて来た。当時は一人暮らしの資金も無かったから、格安の下宿を探していた」
久住さんに促され、有川さんも仕方ないという感じでこの家に来た理由を話した。
皆、それぞれ別所さんと縁があった訳だ。
僕も最初、父親に言われて此処をすすめられた訳だけど。そのきっかけは、未だに分からずじまいだった。
「君のお父さんは、私の父と友達だったみたいですね」
僕と目が合った別所さんが、僕の父が此処を選んだ訳を説明する。
「古い知り合いだから、一人暮らしをさせるよりは信用出来ると言ってましたね」
「……、僕は最初、下宿よりも一人暮らしに憧れていたんですけどね。父に押し切られて、仕方なく此処を選んだんですけど――、今となっては、皆さんに会えて良かったですよ」
これは、心の底から思った事で。
笑顔で言い放った僕を見て、関口さんと有川さん、久住さんと別所さんがそれぞれ顔を見合わせてそして。
「私達も、君を入れて良かったと思いますよ」
別所さんが四人を代表して笑顔でそう、返してくれたのだった。
「有川を送る会には是非、梅ちゃんの学校の女の子達も連れて来てくれよ。特にあの、美人副会長さんをね!」
「……、久住さんのその発言で全部が台無しだ」
しんみりした所での久住さんの暴走に、関口さんが呆れる。
しかし次にはもう、皆が噴き出して声を立てて笑い合っていた。
さて。
僕の鞄の中には未だに、関口さんから託された牧原さんと男の画像が入った一枚のディスクが収められている。
それは、僕が牧原さんが抱えている秘密を本人を前にして明かして良いものかどうか、迷ったからである。牧原さんとしては、成人男性と写っている写真は他人から明かされたくない過去だろうと思うと、中々勇気が出なかった。
牧原さんと一緒に居た男の正体は、例の保険医で間違い無いだろう。しかし、保険医は行方知れずで今もこの街に居る可能性は低い。芹沢会長も手を尽くしてくれてはいるが、やはり保険医の所在は掴めないままだった。
それから僕と由高、藤野さんの関係に少しだけ進展があった。いつもは僕達三人でつるんでいるのだが、文化祭以降、牧原さんも積極的に僕達の中に入って来るようになったのである。牧原さんは最初、僕に遠慮して藤野さんと由高を遠巻きに見ているだけだったと告白した。それが文化祭で僕と接した事でその偏見は破られ、三人の仲間に入る事を決意したらしい。牧原さんは元々、由高と藤野さんとは中学時代からの知り合いで友人でもあったのだ。今ではそれも修復され、僕を加えて四人で過ごす事が多かった、その中の話だった。
「鈴木君。冬休み、予定あるの?」
牧原さんからそう話し掛けられたのは、十二月も半ばの事だ。牧原さんの助力もあって何とか乗り切った期末テストが終わり、あとは冬休みを迎えるだけとなった所である。
僕と牧原さんは高瀬から託されたクラスの人数分のプリントを山分けし、教室へ運ぶ為に廊下を歩いていた最中だったので此処には由高と藤野さんの姿は無かった。文化祭の件以降、僕は何かと牧原さんの助手として担ぎ出されている。
「正月までは、特に無いけど」
「そう。ねえ、あの約束、覚えてる?」
僕と牧原さんの間で交わされた約束とは、はてな、何があったか。
「やっぱり、忘れてるのね」
首を傾げる僕を見て、牧原さんが呆れている。
「文化祭、私が手伝ってあげたから、その代わり、デートしてくれって」
「……ああ、そういえばそんな約束したね」
すっかり忘れていた。
文化祭から随分と日が経っているし、牧原さんから特に催促も無かったせいで。しかし僕は牧原さんに反論するほど、無謀な神経をしていない。
「それで、まだその約束、有効よね。文化祭以来、鈴木君と出かける事が多くなったけどそれは、由高達も居るからデートとは言えないしね」
「……」
僕に反論の余地を与えず、一気にまくしたてる牧原さんであった。
まあ、僕としては、牧原さんと二人きりで出かけるのは、満更でも無かったけれども。藤野さんの了承も得ている事だし。
「冬休みの始めの日曜日、明けておいてね」
「分かった」
「それからこの事、絶対、由高には言わないでよ」
了解する僕に牧原さんは恐い顔で、そう念を押す。牧原さんの気持ちも分からなくもないので、僕はそれを真摯に受け止める。
「分かってる。由高に言えばアイツ、影でついて来そうだ」
「そうでしょう。私も由高に覗かれるの、嫌だから」
中学時代からの友人といえども、牧原さんに信頼されてないんだな。これも由高の自業自得らしいので今更、擁護(ようご)はしないが。
「所で、鈴木君。私に何か、隠し事していない?」
本当、唐突だった。
唐突に今の言葉を吐き出した牧原さんは、ジッと僕の顔を見つめて来る。
「……どうして?」
「文化祭以降の話だけど鈴木君が、ちらちらと私の顔色を窺っている風に見えたから」
牧原さんは中々鋭かった。
関口さんに託されたディスクの存在が、僕をそうさせるのだ。これを、牧原さんに渡して良いものかどうか迷う僕は思わず、彼女の顔色を窺う事になってしまう。
「私の気のせい? それとも、杏奈から私に乗り換えようとしているのかしら」
「そ、そんな訳あるか!」
牧原さんは軽い冗談で言ったつもりなのは、僕でも分かっている。けれども僕は予想外に声を荒げてしまった。そんな僕を見て、牧原さんが予想外にびっくりしていた。あの何事にも動じなさそうな冷静沈着な牧原さんが、である。
「……ごめん。冗談のつもりで言ったまでだから、気にしないで」
「あ、いや。僕も声を荒げて悪かったよ」
互いに頭を下げる僕と牧原さん。
そして僕は決心する。
「……、実は、牧原さんに渡したいものがあるんだ」
「何?」
「ああ、此処では渡し辛いから……、デートの時に持って来るよ」
「分かった、何か楽しみにしてる」
此処で牧原さんは、プリントを脇に抱えて空いた手で眼鏡をいじる。いつもなら照れ隠しの仕草だが、此処でそれをやるのは意味があるのだろうか、と僕は考えるが考えてもどうせ彼女の考えは理解不能だと結論し、考えるのを止めた。
「冬休みの計画、どうするよ」
教室に戻ってプリントを全員に配り終わった僕と牧原さんを見て由高が開口一番、そう言い放った。由高の後ろにはいつものように藤野さんが控えている。今は自習時間で、与えられたプリントの課題をこなすだけで良かったので、皆、思い思いに過ごしている。そんな中で僕と牧原さんは、互いの顔を見合わせる。
「どうするって、由高は何か予定を組んでるのか」
「そうだなあ。夏休みの時みたいにまた久住さん達と何処かへ行きたいなと思ってね」
それで僕に声をかけたのか。由高は久住さんに懐いていたから、その気持ちも分からなくもないけど。
「久住さん達は良いけど、有川さんはどうかな。来年の春、下宿を出ると言っていたから」
「マジで? 有川さん、家出るのか」
由高からすれば僕の話はどうやら、予想外だったらしい。
「前から決めてたらしい。だからどうやってもそれは覆せないよ」
「寂しくなるな」
「また新しい人を入れる予定だって、別所さんが」
「女か?」
「女は入れない決まりだってさ」
「何だ、つまらない」
由高は本当につまらなそうな顔を僕に向ける。
「久住さんもいつか、あの家を出て行くのか」
「それは、分からない。今の所、そんな予定は無いって言ってたけど。僕は高校を出るまであの家に居る予定だから、久住さんはそれまでに家を出て行くかもしれないし、そうでないかもしれない」
人間、何があるか分からないのは本当で。明日の予定は立てられても、それを実行出来るかどうかまではその日が来るまで分からないのだから。
「あーあ。俺も出来るなら、あの下宿に入りたかったよ。久住さん、面白いしな」
「由高と藤野さんは、家から通ってるんだっけ」
「そう。杏奈の親が度のつくほどの過保護だから、一人暮らしは当分無理そうだ。俺もそれのとばっちりを受けてね」
なあ、と由高が藤野さんに同意を求める。藤野さんも由高に頷いている。
「牧原さんは?」
「私はけっこう、自由にやらせてもらってる。大学に進学すれば一人暮らしもして良いって言われてるし」
なるほど、牧原さんの親らしい。牧原さんの成績なら、有名大学に進学出来る可能性は極めて高いとの評判であるから、その未来は直ぐ来るだろう。
「それなら、有川さんの送る会も兼ねて、冬休みにぱあっと騒ぎたいね」
「別所さんに掛け合ってみるよ」
有川さんを送る会は久住さん達もやる予定らしいからな。
「その時はよろしく、梅の君」
今ではすっかり定着した僕のあだ名を、由高が口にする。
僕も慣れたもので、梅の君と呼ばれる事に抵抗はしなくなった。
これも皆、千鳥さんのお陰だと、心の中で彼女に感謝した。
そして、冬休み最初の日曜日。
その日は、朝から曇って家を出る頃には雪がちらついていた。
僕は牧原さんの指定場所へと向かっている。
行き先は、近所にあるハンバーガーの店である。昼時から少しずれた時間のせいか、人は少なかった。店の中を慎重に見回せば、そこには由高の姿が無く僕は安堵する。
四人がけの机に、牧原さんが座っているのが分かる。牧原さんの隣には、以前何処かで見たような男が座っていた。牧原さんが手を振っているのが見えたので僕は、彼女の向かいに腰を下ろした。
何処で会っただろうか、僕が思い出すよりも先に男が立ち上がり、そして。
「初めまして。秋野太一(あきのたいち)です」
人の良さそうな笑みを浮かべて僕に握手を求める男、秋野太一。男の名前を聞いても僕は首を傾げるばかりだった。
「鈴木君には、例の保険医です、って言った方が良かったんじゃない」
ああ。
牧原さんの強烈な紹介で、僕は秋野さんの正体を知った。
「ほら、予想通りバカみたいな顔してるでしょ」
牧原さんが保険医に向かって今の僕の表情をそう、表現する。
そりゃ、バカみたいな顔になるわ。探していた保険医がこうもあっさりと僕の前に現れたのだから。
「どうして……保険医、秋野さんが此処に?」
「ずっと外国に居てね。この冬休み、休暇が取れるなら、さっさと日本に帰って来いってさっちゃんに言われて」
「鈴木君の前で、さっちゃんって呼ぶなってあれほど言ったでしょ!」
さっちゃん……! 保険医の正体よりもそちらの方が衝撃的だった。牧原さんは当然のように秋野さんに憤るが、秋野さんは笑顔を絶やさずそれを受けている。
多分、この牧原さんは由高も知らないに違いない。少し、優越感。それに秋野さんは僕が思い描いていた人物像と違い、随分優しそうな人だと思った。
それでも。
「秋野さんがずっと外国に居たのは、千鳥さんの件があったからですか」
僕の単刀直入な言葉を聞いて、牧原さんと秋野さんが互いの顔を見合わせる。
そして。
「誤解の無いように言うけど、僕と千鳥ちゃんとの間で君が思っているような関係にはなっていない」
「どうしてそう言えるんですか。有紀子さんの――、皆川有紀子さんの証言だと、そういう風な関係に捉えられてもおかしくありませんけど」
「君、有紀子ちゃんとも会っていたのか」
秋野さんは僕から有紀子さんの名前が出た事に、驚いている。
「そうです。千鳥さんの件をあたっていたら、知り合いの彼女が有紀子さんでしてね」
「へえ。偶然にしちゃ、出来過ぎてる気がするが」
秋野さんは何処か納得がいかない風だった。
僕も最初は、有川さんの彼女が有紀子さんだった事には驚いたけど。
「……、君が有紀子ちゃんの事も知っているなら今更、隠し事をする気は無い。僕の話を信じるか信じないかは、君の自由だ」
「……」
秋野さんの前には、ハンバーガーとポテト、シェイクのセットが置かれている。牧原さんにも秋野さんと同じセットがある。秋野さんはシェイクを一口飲んでから、話し始めた。
「僕が千鳥ちゃんと会ったのは、彼女が二年生になりたての頃だったかな。その頃の千鳥ちゃんはイジメの対象として有名でね。僕も彼女の名前とイジメの噂は聞いていたけど、本人を目にした事はそれまで一度としてなかったんだよ」
それが。
秋野太一と桜井千鳥が対面を果たしたのは、五月の連休が終わった間際である。
頭から足の爪先まで全身びしょ濡れの千鳥さんが、保健室の戸を開けたのだ。秋野さんはそんな千鳥さんを見て驚き、タオルを貸したのが始まりだった。
「そんな状態でも、彼女は笑っていた。僕がそうなった原因を彼女に尋ねると、彼女は誤って足を滑らせてプールに落ちたんだと、笑いながら話したんだ。明らかに人為的な仕業だと分かっていたのに僕は、彼女の言葉を肯定してしまった。あの時、僕が親身になって千鳥ちゃんの想いを聞いてあげる事が出来たなら、今回の不幸に至らなかったと思うと、残念でならない」
秋野さんは苦笑しつつ、溜息を漏らした。
僕でも秋野さんの悔しさが伝わって来る、痛いくらいに。
「それから、僕は彼女に注目し始めた。よくよく見れば、彼女の腕や足に誰かにやられたと思われるアザが多数あった。六月になっても千鳥ちゃんはそれを隠す事はしなかった。半袖から覗く痛々しい程の傷を見て、僕は千鳥ちゃんの担任にイジメをやめさせるよう、掛け合ったけど……、誰がやったか証拠が無いから無理だの一点張りだった。学校側としても面倒を持ち込みたくないんだろうね。千鳥ちゃんが傷を隠さないから、イジメもエスカレートしていく。悪循環だった」
僕は。
千鳥さんの話を聞くたび、胸が詰まる思いがする。
話を聞きたくない、此処から逃げ出したい衝動にかられるが、千鳥さんを思うとそれが出来ない。矛盾しているなと自分でも思う。
「避難所のつもりで、僕が千鳥ちゃんに保健室を提供したんだ。もし、教室に入るのがしんどいなら、保健室で学習すれば良いってね。千鳥ちゃんも、僕の提案を受け入れてくれた。だけど……、それが逆効果だって分かるのに、時間はかからなかった」
後は、僕が有紀子さんから聞いた話に繋がるのだろう。
「僕が原因で、千鳥ちゃんのイジメも壮絶なものになったらしい。後でそれを聞いて僕は、一人の子も救えないんだと知って……、限界が来て自主的に保険医を辞めた。それから、外国で暮らす道を選んだ。多分、君が思っているように、千鳥ちゃんから逃げる為に外国へ行ったんだろうと思う。当時の僕の心境は、そうだったに違いない」
当時の様子を思い出したのか、秋野さんが項垂れる。それを隣で支えるのは、牧原さんの仕事だった。
「……、牧原さんは、秋野さんとはどういう」
関係だったのか。
牧原さんは僕の疑問を、秋野さんの腕を絡ませてはっきりと、答えた。
「私と太一君は、恋人同士よ」
あの写真を見た時からそうではないかと睨んでいたので、さほど衝撃は無かった。
「桜井千鳥の件は、最初、私は何が起きているのか全く知らなかった。私は一度、太一君から桜井千鳥を紹介されているけど、彼女の何処が問題なのか全然分からなかったから。太一君が落ち込んで、保険医に限界を感じて海外へ行くっていう話を聞いた時は、私はその原因である桜井千鳥を恨んだ。だけど……、今年の春、高校へ入ってから鈴木君と出会って由高とも再会して、桜井千鳥の件を私なりに調べてみて、そして太一君が落ち込んだ原因も突き止めた。桜井千鳥の真実を知って、私も愕然としたもの。それでようやく太一君の気持ちが理解出来た気がした、だから」
だから。
牧原さんは話を続ける。
「だから、同じように桜井千鳥に関わっている鈴木君を見ていた。鈴木君が梅の君と呼ばれる原因が、桜井千鳥と繋がっているものだと直ぐに分かったから。文化祭で鈴木君を自主的に手伝うと手を挙げたのも、桜井千鳥の件があったから」
なるほど、それでか。
皆、何処かで繋がっている。その中心はやはり、千鳥さんで。
「桜井千鳥と杏奈が幼馴染だと知ったのは、その後の話」
牧原さんは俯き、そして顔を上げる。
「私が今日此処に太一君を呼んだのはね。太一君が外国から戻って来られるのが今日明日と限られていたから。太一君との貴重な一日を、鈴木君の為に貸してあげた私に感謝して頂戴」
ははは、やっぱり牧原さんは容赦無いな。
「何で、僕が保険医を探していると?」
「それはね。私、委員長だから先生の用事で職員室に行く事が多いのよね。鈴木君と違って。そこで、芹沢会長が他の教師から保険医の行方を聞き回っているのを知ったのよ」
ああ、これもまた芹沢会長のお陰か。
「芹沢会長があんなに必死であなたに協力しているのはやはり、桜井千鳥の影響でしょうね。桜井千鳥じゃなければ芹沢会長も一人の生徒の為に動かなかったと思う」
それは、僕も常々思っていた。
皆、僕ではなく桜井千鳥の為に動いているのだと。
「そう……、千鳥ちゃんが生きていれば今、こんなにも彼女を思う仲間に恵まれていたんだよねえ」
ぼそりと呟いた秋野さんの言葉は、僕の心さえ貫くには十分だった。
「そのあとの話しだけど、宮内副会長がね。芹沢会長が居ない時を見計らって私を呼び出したの。保険医の居場所を知っているなら、鈴木君に協力してくれって。あの宮内副会長が、私に頭を下げたのよ。前代未聞だわ」
「……、宮内副会長は、牧原さんと保険医の関係を知っている風だったけど」
「そうね。宮内副会長は、桜井千鳥をつけていたらしいわね。私は一度きりだけど、太一君から桜井千鳥を紹介してもらっていた。その時の様子を、宮内副会長に目撃されていたんだわ、きっと」
僕は秋野さんを見る。
「ああ、千鳥ちゃんにも学校以外で友達が出来れば良いかなって思って。さっちゃんは何かと面倒見が良いしね。だけどその後、千鳥ちゃんとの連絡がつかなくてね。僕の保健室にも来なくなって……、後は、君が有紀子ちゃんから聞いた通りだと思う」
「分かりました。今日は、僕の為にわざわざ、ありがとうございました」
僕は牧原さんと秋野さんの話に納得して、二人に頭を下げる。
「私の方はまだ、納得がいかない事があるんだけど」
「何」
牧原さんが僕を睨み付ける。牧原さんのその目は僕からすれば今更なので、僕は気にする風でもなく軽く応じた。慣れって怖いなあ。
「鈴木君、私に渡したいものがあるんじゃなかったの」
「あ」
ヤバイヤバイ。
牧原さんに画像を手渡すのを忘れる所だった。
「文化祭で、僕の下宿先の人で関口さんが来てたの、知ってるよね。デジカメ持ってた暗い感じの人」
「ああ、あの根暗な人ね」
僕の説明だけで分かったのか、牧原さんは頷く。
関口さんには悪いと思ったが、関口さんを表現する言葉がそれしか浮かばなかったのだから仕方が無い。
僕は自分の鞄の中から関口さんから預かっていたディスクを、牧原さんへ差し出す。
「これなんだけど。パソコンで見られるらしいよ」
「あ、僕、パソコン持ってるよ」
秋野さんが自分の鞄に入れていた薄型のノートパソコンを取り出す。準備の良い人だ。秋野さんは、何も無い僕の目の前に自分のトレイを置いて、空いた所でノートパソコンを置いた。
秋野さんはノートパソコンの電源を入れて、僕から受け取ったディスクを挿入する。何度かマウスを動かして、出て来た画像に牧原さんは、あ、と声を上げる。
「これ……、私と太一君じゃない。どうして、鈴木君が持ってるのよ」
また牧原さんに睨まれてしまった。
僕はこのディスクを入手したいきさつを、二人に話した。
「そういえば……、そんな事もあったね。最初、新たなナンパかと思って警戒してたけど太一君が大丈夫そうだよ、って言うから応じたのよね」
「うん。悪い人には見えなかったからね」
秋野さんの言葉で、関口さんは救われたと思う。
「良いなあ、僕も欲しいなそれ。さっちゃんのセーラー服姿は、今だと貴重だしね」
「あ、関口さんが、データはまだ残ってるから焼き増し出来るって、言っていましたけど」
「本当かい? それじゃ、お願いしようかな」
秋野さんは常に笑顔で僕に応じている。
僕も秋野さんの頼みを、快く応じた。
秋野さんは明日にはもう外国へ戻るというので今日持って来た分を彼へ手渡し、焼き増し分を牧原さんへ譲る事となった。
これで、千鳥さんの件は終わった。
「それじゃ、僕はこの辺で帰るよ」
「食べていかないの? まだ時間はあるんでしょう?」
「これ以上、二人の邪魔をする気は無いしね。僕の方は千鳥さんの話も聞けたから、十分だよ」
牧原さんの誘いを、僕は丁重に断る。
「そう。もし、芹沢会長と宮内副会長と会ったら、お礼をしておいて。私、あの人達に頼まれなかったら、太一君を呼び出す事もしなかったから」
「分かった」
牧原さんの頼みを僕は引き受け、ハンバーガーの店を出た所で。
「――秋野さんから話は聞き出せたのか?」
そこには由高と、由高の後ろにはいつものように藤野さんが控えていた。
僕は、由高の出現に驚く風ではなく、平然と応じる。
「ああ、秋野さんは良い人だったよ」
「そうか。千鳥の件も、否定していただろう?」
それはまるで由高も秋野さんに会ったような口振りだった。
「由高は、牧原さんと秋野さんの事、知っていたのか」
僕は由高と肩を並べて歩く。
「まあね。中学時代から、色々相談を受けていたんだ。俺じゃなくて、杏奈がね」
「さっちゃん、年上の人と付き合うのをためらっていたから……。でも良かった、今でも上手くいってるみたいで」
僕と由高の後ろで、藤野さんがこれまた控えめに話した。
「秋野さん、有紀子さんから執拗にアプローチを受けていたらしいね。それに耐えられなくなった時、手を差し伸べたのが当時、付き合っていたマッキーの存在だったんだと。これは、千鳥からの情報」
最後、由高は意地悪い笑みを浮かべて、僕に付け足した。
「私とちーちゃんとさっちゃん、三人仲良かったの」
ちーちゃん、とは千鳥さんの事か。
「だから、ちーちゃんがあんな事になるなんて……、夢にも思わなかった」
藤野さんの足が止まる。
僕も藤野さんと同じくして、足を止めた。
僕は振り返り、藤野さんを見下ろす。
「藤野さん」
「……何?」
藤野さんは決意したように、顔を上げる。
藤野さんは、これから僕に何を言われるのか、分かっていたかもしれない。
「僕は、藤野さんの千鳥さんへの想いをまだ聞いていなかった」
そう。
僕は、有紀子さんに始まって由高、芹沢会長、宮内副会長、そして秋野さんと牧原さん。それぞれ千鳥さんに関わって来た人達から、千鳥さんへの想いを聞いている。それが。
それが、肝心の藤野さんから肝心の千鳥さんへの想いを聞いていない事に、僕は今、気がついてしまった。
「……私は」
藤野さんは沈痛な顔を僕へ向ける。
「私は、鈴木君が好き」
それは揺るぎの無い想い。
僕でも藤野さんの想いが十分過ぎるくらい、伝わって来る。
「私は鈴木君が好き。その想いは、今も変わらない。だけど……、ちーちゃんへの想いを告白すれば鈴木君はきっと、私を嫌いになってしまう」
どうして、そう言えるのか。
僕が藤野さんを嫌いになる? そんな事、有り得ない筈なのに、僕は心の隅では千鳥さんが絡んでいるとなれば、やはり藤野さんを嫌いになってしまうのだろうかと、危うい事を考えてしまう。
「……、場所を変えようか」
そう提案してきたのは、今まで僕と藤野さんを静観していた由高である。
僕が重い足取りで由高に先導されて向かった先は――、学校だった。
冬休み真っ只中である学校のグラウンドには、人の気配が無かった。それというのも雪が本格的に降り始めたせいで、その中では外で部活に励むバカも居ない。
正面玄関を開けて、昇降口へ入る。
そうだ。正面玄関を開けて昇降口へ入り、僕が階段の一段目を踏んだ時だ。千鳥さんから声をかけられたのは。梅の香り。千鳥さんの笑顔。千鳥さんの、声。何もかもがこの場所から始まっていて。
それにしても、冬休み中の学校にこうも容易く入れるものだろうか、と僕は疑問に思った。
「鈴木君」
今は、藤野さんが階段の一段目を踏んで、僕の方を振り返る。藤野さんが僕で、僕が千鳥さんで。
しかし、全てが、過去の出来事である。
僕は千鳥さんではないし、藤野さんも僕ではない。
それは、分かっている。
十分、分かっている事だ。
「何処まで?」
僕は冷静に藤野さんへ問いかける。
藤野さんは少し笑って、
「屋上まで」
と言った。
吐く息が白い。
冷え切った屋上では、僕と藤野さん、由高しか居ない世界が構成されている。
「私ね。ちーちゃんが死ぬ所、見ていたんだよ」
藤野さんのその言葉は、はっきりと僕の耳へと響いた。
藤野さんが屋上の柵である金網に背を預ける。屋上の金網は、僕の背丈くらいはある。だから金網は見積もって百七十前後。藤野さんの背丈では、飛び越える事も不可能である事が僕を安心させるには十分だった。
「こうやって、正面を向いて。ちーちゃんは、下へと落ちた」
勿論、この屋上には金網があるので、藤野さんは両手を広げて背中から下へ落ちる真似だけをする。
「私、止められなかった。ちーちゃんが落ちると分かっていたのに、止められなかった」
「……、どうして、藤野さんはその現場に?」
それは僕でも適わなかった事で。
藤野さんは少し息を吐いて、それから。
「私もちーちゃんと一緒に、死ぬ予定だったから」
私も一緒に死ぬ予定だったから。
僕は藤野さんの言葉が信じられなかった。
「どうして……、藤野さんまで」
「私、いつも、ゆーちゃんの後ろに居るでしょ。その事で、周りからどんな風に言われてるか知ってるよ。ゆーちゃんの金魚のフン。ゆーちゃんは天才で、私は凡才以下だっていつも比べられてたの。それは、さっちゃんも同じ。さっちゃんと私、いつも比べられてた。私は、そんな私が嫌で嫌で仕方が無かった」
――杏奈は……、神崎君と同じで今と変わらない。いつも、神崎君の後ろについて回って、彼の金魚のフンだった。
それは、僕が牧原さんへ二人の話を聞いた時、彼女が下した藤野さんの評価である。
僕はその時、良い意味で藤野さんらしい、と思えたのだけど。
「ちーちゃん、事前に職員室から玄関の鍵を盗んで、明日の為に入り口を開けておいたのに、それが鈴木君が侵入してきて駄目になったから別の場所にしようって、私に連絡を入れてくれた。私も人が居るなら止めた方が良いと思って、ちーちゃんの指定場所へ向かった。一人で飛び降りるのは怖いけど、二人なら大丈夫な気がしたから」
だから、二人は学校ではなく別の場所で決行する。
先に千鳥さんが飛び降りる。
そして次、最後は藤野さんが。
「何で、最初に千鳥さんから? 二人一緒なら、手を繋ぐとかすれば……」
「分からない。その時、ちーちゃんに言われたのはね」
僕はその時の藤野さんの言葉は、理解し難いもので、彼女の唇の動きしか見ていなかった。
千鳥さんが藤野さんに言ったのは。
――私が先に飛び降りるのを、見て。
どうして。
千鳥さんから先に飛び降りてしまえば、藤野さんが足を竦ませて次に飛び降りる事が不可能なのは、僕でも分かる事だ。
どうして千鳥さんは、一人犠牲になる道を選んだんだ?
「私……っ、怖くてっ、体が震えて、動けなかった! ちーちゃんが飛び降りてからもずっと、動けなかった! 私が直ぐ下に行ってちーちゃんを快方してあげれば、ちーちゃんはまだ助かっていたかもしれない、それなのに! 全部、分かっていて、それでも怖くなって私は体が動けると分かると、その場から逃げ出した!」
藤野さんが泣きながら空に向かって叫ぶ。
「ひっ……、だからっ……、鈴木君がちーちゃんの事を調べていると分かった時、私、怖くてたまらなかった。怖くて怖くて、それなら一緒に居て鈴木君の事、見張っていれば大丈夫と思った。だからあの日、ゆーちゃんに頼んで鈴木君に声をかけてもらった」
でも、それは逆効果だった。
だって、僕と一緒に居る事で藤野さんは。
「それなのに、何時の間にか鈴木君を好きになっていた。本気で、好きになってた。あの夏祭りの日の告白は、全部本当。でも、こんな私の事はもう、突き放してくれても良い」
「……そんな事、僕は無理だ」
僕はゆっくりと、泣いている藤野さんへと近付く。
「どうして。私は、ちーちゃんを見殺しにしたんだよ。鈴木君が好きなのは、ちーちゃんだけでしょう。ちーちゃんを見殺しにした私を、鈴木君はきっと恨んでる」
藤野さんの顔は、涙と鼻水でまみれている。藤野さんはそんな顔を僕に見せたくないのか、両腕で顔を覆い隠す。
僕は藤野さんの前まで来て、優しく顔を覆う両腕を解く。
「僕はね。千鳥さんの事は、残念でならないと思っている。千鳥さんを助けられなかったのは、僕も同じだ。……、僕も藤野さんと同じなんだよ」
そうだ。
僕も千鳥さんの強行を止めようと思えば、止められた人間だった。
そして藤野さんばかりを責めるのは、僕の役目じゃない。
「僕は今まで通り、藤野さんや由高と一緒に居たいと思う。千鳥さんの事も、今まで通り忘れられない存在だけど、でも、僕は今を生きている藤野さんも一番、大切なんだ」
「……ッ」
僕は優しく藤野さんを抱き締める。
「うっ、うっ、うわああああ」
藤野さんは僕の腕の中で嗚咽を漏らし、最後は声を上げて泣いた。
「これで、お前の桜井千鳥は消えたか」
藤野さんが泣き止んで、鼻水をすすりながら僕から離れるのを見た由高の言葉がそれだった。
「僕の中の千鳥さんが消えた訳じゃない。まだ、僕の心には千鳥さんが居る。だけど僕は、千鳥さんを忘れない代わりに、藤野さんを守っていこうと思う」
そう、決めたから。
僕は藤野さんを支えながら、僕の想いを由高へ告げる。