晶はその夜、聡史の家に行く気は無く、一人ベッドで布団を被って泣いていた。
子供の頃なら、声を立てて思い切り泣いていたかもしれない。今ではそれすら遠慮して、何も出来なくなってしまった。
「晶。晶ちゃん」
部屋の向こう側から、遠慮がちの母親の声がした。晶は無言で母親に応じる気は無かった。
「晶ちゃん、聡史君が来てるわよ」
聡史。
これは何かの罰かもしれない。自分も悪いのだ、康一を利用して聡史を振り向いてもらいたかったのだから。晶は寒気がして布団の中で身体をうずくまらせる。
「……ごめん、今は会いたくないからって言っておいて」
「晶」
母親の代わりに聡史の声が聞こえた事に、晶は布団から顔を出す。
「晶、俺、今日、奈々子さんに会いに行ったんだ。……家まで」
聡史は何を話しているのだろうか。晶の脳は普段より働かなかった。
「晶は奈々子さんの家の事情、知ってるか」
「……聞いた事、あるけど」
泣いたせいで枯れた声で晶は、聡史に答える。
奈々子の家庭の事情。
いつも奈々子は手製の弁当を学校に持って来る。自分で作ったという弁当。それは、奈々子に母親が居ない事を意味する。その話は晶も聞き知っている。
「奈々子さんの家、母親が居ないんだ。若い男と出て行ったからって。父親も居るには居るけど、外で愛人作って家に帰る事は殆ど無いって」
「……」
奈々子のその話は、晶の知らない話だった。晶は細部まで、奈々子の内情を聞いていなかった。
「奈々子さんの家に招かれて入ったら、部屋は散らかっていて酒瓶も転がっていて、もう滅茶苦茶だった」
「……」
晶は奈々子の部屋には入った事が無かった。そういえば奈々子の家に招かれた覚えも無い。奈々子と友達になってから、晶は友達らしい接し方はしていなかった。
それは奈々子の家庭の事情が大変であると、何処か勘付いていたせいかもしれない。晶はあの時から、奈々子に対して深入りしないように、決めていた。
「……奈々子さんの手首の傷、知ってるか」
「……一度、見た事があるけど」
そう、あれは夏休みに入る前の話だった。
いつか、ああ、晶のクラスが水泳の時間だったように思う。奈々子はいつも水泳の時間は休んでいた。それを不審に思う女子生徒は多く、奈々子はそれが原因で、影で女子生徒達にいじめられていた。
晶も奈々子の様子には不審に思っていたが、半袖から除く白い肌に巻かれている包帯が目を引き、そしてそれが余りにも痛々しいので晶は目をつむる。余り奈々子には関わりたく無かったので、晶はそれについては他の生徒同様、黙認していた。
そんなある日。
晶は見てしまった。奈々子の腕にある無数の切り傷を。
晶は日直で朝一番に教室に入ったと思えば、そこに奈々子が座っていた。
奈々子はいつも一番に、教室に入ると晶に笑った。そういえば晶が登校して来る頃に、奈々子は既に教室に居た気がする。
晶は奈々子に構わず、日直の仕事をこなして行く。それを見ていた奈々子は立ち上がり、言った。
「白木さんは何も言わないんだ」
「……私は」
晶からここであんたには関わりたくないからとはっきり口にすれば、奈々子はそう、と優しく微笑んだ。
晶はそれだけで、奈々子に魅了された。
「白木さんになら、見せてもいいかな」
奈々子は笑いながら晶と奈々子以外誰も居ない教室の中で、その包帯を取ってみせた。
包帯の外に表れたのは、無数の切り傷。手首を切った生々しいその跡に、晶は顔をしかめた。
「今はもう、止めてるけど。中学の頃はね、酷かったんだ。何もかも嫌になって、自殺まで考えたから」
今の奈々子を見ると、それは夢の中の話のように晶には聞こえた。それは幸せな家族に囲まれている晶には、縁の無い話だったから。
「でもね、人間、何が転機になるか分からないね。死ぬ事を考えるより先に、生きていれば、幸せな事もあるんだよ、って気付かせてくれた人が居るから」
それはまるで悪魔から天使に変わったように。聖母のように。優しく、見詰めるその目に晶はすっかり奈々子に惹き付けられていた。
「奈々子ちゃん。私と友達になろうよ。……その幸せ、私も分けてあげられるよ」
気付けば晶は、奈々子に向けてそう言っていた。
それからだ。
晶が奈々子と一緒に居るようになったのは。
聡史は何も知らない。
晶が奈々子について、聡史にでさえ、言い触らす事は無かった。