それから。
が仙舟の言葉翻訳集の本と丹恒を使って仙舟の言葉の勉強をはじめて、ひと月は経った。
その間、仙舟で使える単語も増えて、単純な文字は読み書きできるようになったし、会話も遅延関係なく聞き取れるようになった。
「へえ、、無能力者だから姫子の許可下りなくて仙舟行けないのに、丹恒のために仙舟の勉強始めたんだ。偉いじゃん」
「ウチも無能力者でもそうやって丹恒に追いつこうとするは認めてるんだ、頑張れ!」
仕事の休憩中、ステーション内で仙舟の勉強をしていたら、開拓者と『なのか』に揃って褒められ、応援された。
それからが丹恒の仙舟の言葉や文化を勉強しているというのは、開拓者と『なのか』だけではなく、ステーションのスタッフ達や星穹列車を訪ねて来るほかの星の住人達の間でも話題になって「よく頑張ってる、自分も見習いたい」と、高い評価をされ、これにははもちろん、丹恒も嬉しかった。
「……」
「……」
中でもアスターとヘルタはのそれ見て何か言いたそうだったが結局何も言えず、そのまま彼女の前から立ち去った。
そんな中、とある日の夜。
は寝ていたが、ある気配を感じて薄っすら目を開けた。
「……」
部屋の中を見回せば明かりが消えて真っ暗だったが、ある場所だけ明かりがついて淡い光を帯びていた。
「……丹恒?」
見れば丹恒が机についてそこだけの明かりをつけて、何かしていた。
丹恒の仕事は不規則で、時差の関係もあって、仕事から帰る時は、自分が寝ている時間が多い。
それでもは、朝でも昼でも夜でも、仕事から帰って急に自分の部屋に入ってくる丹恒を追い返さず、彼を受け入れて来た経緯があった。
「丹恒、帰ってたの?」
「悪い、起こしたか?」
「別にいい。気にしないで。お帰りー」
「ただいま」
いつものやり取りだったが、いつものやり取りとは少し違っていた。
「……」
「……」
丹恒はの声に反応するも、しかし、振り返らず、机での作業に没頭しているのがでも分かった。
丹恒は実は、生物学者でもある。そのため、仕事先で何か未知なる生物に触れると周囲を忘れてその観察に夢中になる時があり、自分と一緒に居てもこちらを振り向いてくれない時がたびたびあった。部屋でもその生物のレポートを書くのに忙しくしていると、構ってくれなくなる。
「……(もう。仕事が終わっても何かの生物に夢中になると、私に振り向いてくれなくなるんだから!)」
は丹恒のそれに不満を持っていたが、彼のその趣味をかねた仕事を奪う気は毛頭ないし、その探求心を崩さない姿勢は尊敬もしている。
そうでも、同じ部屋に居る時くらい、自分に目を向けて欲しいとは思う。
振り向いてくれない丹恒を振り向かせるには、自分から近付くのが手っ取り早い解決策。は故郷の星を出て宇宙に居ついて今までの中、そうやって少しずつ、丹恒の攻略法を見つけてきたのである。
は丹恒に近付くと、彼の腕を捕まえて聞いた。
「ねえ、今度はどんな生き物に夢中になってるの?」
丹恒はの思った通り、腕を捕まえてきた彼女の方を振り返り、言った。
「今回は、の観察」
「え」
「これ、お前の仙舟の勉強の添削をしていた。間違った部分があれば、修正もしておいた」
「あれ、いつもの生物観察じゃなかったの?」
「帰ったら、お前が机に仙舟の勉強をやってた形跡があって、それ見てたら添削したくなったから、それで」
「わあ、ありがとう。助かる~」
はすぐに丹恒を解放し、彼の仕業を見て、手を叩いて喜んだ。
丹恒はが仙舟の言葉の勉強を始めてから今まで、「は開拓者達と違って仙舟に行く機会もないのだから、仙舟の勉強はそこまでする必要無いだろ」と、寝ないでやるほどの事でもないと笑うが、時々、自分の知らない間に添削してくれるので本当に助かって、感謝もしている。
そして。
「ねえ、この本、知ってる?」
「仙舟ガイドか。その手の本は、絶版された翻訳本と違って、旅人向けに好評だな」
仙舟の言葉翻訳集と一緒に買い取ったもう一冊の仙舟ガイドの本を見せたところで丹恒は、ようやく自分の方を振り向いてくれた。
「仙舟って食べ物も美味しいんでしょ。開拓者や『なのか』からそれ聞いて、仙舟ガイドのグルメのページも読み込んで、色々美味しそうだと思ったんだよね。それから仙舟は食べ物だけじゃなく、お酒も美味しいものばかりとか。私もそこの食べ物とお酒、味わいたいんだけど、どうすればいい?」
「……そうだな。が仙舟グルメを味わうには、パムか姫子さんに頼んで、列車内のレストランで仙舟の料理を取り寄せるのが手っ取り早い方法だな」
「星穹列車で仙舟の食べ物、取り寄せられるの?」
「ああ。仙舟の酒はなら、気に入ると思う。次の休み、星穹列車のレストランで仙舟グルメを堪能してみるか?」
「する、する! 次の休みが楽しみね!」
わあ。は丹恒に自分の意見が取り入れられて、嬉しそうに、くるくる回る。
それからは、仙舟ガイドのグルメのページを開いて、更に丹恒に迫った。
「ね、丹恒は、仙舟の食べ物、取り寄せるなら、どれがいいと思う? このページの中から選ぶとしても、色々あって決められないんだけど! 丹恒もこの中で好きな食べ物あったら遠慮せずに――」
青い、光が。
は暗い部屋の中だったので今まで気が付かなかったが、丹恒に近付いてそれに気が付いて、息を飲んだ。
「どうした?」
いつもの優しい言葉、優しい顔――けれども。
「……あなた、誰?」
「え?」
「丹恒の目の色、いつもの青と違って発色して輝いてるし、それに……、その角と長い髪、何? どうしたの?」
は目の前の丹恒がいつもの丹恒ではない気がして、そこから一歩引き下がった。
目の前の丹恒は青く輝く目はもちろん、角がはえ、黒い髪も腰まで伸びて、それはの知らない丹恒だった。
「おまけにそれ、尻尾……? 何で丹恒にそんなもの、ついてるの?」
丹恒はが自分から引くのを見て、自分の手のひらを見詰める。手のひらに青い反射光が映る。
床に這うのは、自分の龍の尻尾であるというのも理解する。
丹恒はここで、飲月君の力が最大出力で顕現(けんげん)していたのを知った。
「……ああ、そうか、仙舟の翻訳集で本場の仙舟の言葉をなぞるうち、つい飲月君の力が顕現したか」
「い、飲月君? 何、言ってるの。私にも分かるように説明して」
「ここでこの力が現れるとは思わなかった。これは俺も予想外だった」
「だ、だから、どういうわけか説明して――きゃあっ」
は後ろがベッドであると気が付かず、そこに尻餅をついてしまった。
「、大丈夫か」
「こ、来ないで!」
丹恒は尻餅をついたに手を貸そうとするも、はそれを拒絶した。
は丹恒の変化を間近で見て震え、泣きそうだった。
「い、いつもの丹恒に戻って、お願い……」
「……」
あまりの事にベッドの上で泣いて震えるだけのと、どうするべきか困る丹恒と。
「……これだから、この力をお前に見せるのは早いと思ったし、仙舟の事も話せなかった」
「……」
ギシ、と。丹恒がと同じベッドに上がってくる。
そして。
「、俺が――余が、怖いか」
「……ッ」
丹恒はに近付いて手を伸ばすも、は及び腰で彼に触れなかった。
それだけではなく――。
「な、何、余って、あなた、本当に誰?」
「……」
は目の前の男は丹恒と同じ顔をしているのに、目の前の男は丹恒ではない気がして身震いする。
青白く輝く瞳、艶のある黒い髪は腰まで延び、頭には竜を思わせる角、そして――。
「ひっ」
極めつけ、蛇のようなウロコを持った青白い尻尾が、の体にまとわりついた。
「――」
「いやあっ、来ないで!」
男は手を伸ばすが、はそれだけで涙目になって、ガタガタ、震える。
目の前の男は薄っすら笑みを浮かべて、言う。
「……ふむ。女の反応を見て耐え切れなくなって、引っ込んだか。哀れよのぉ」
「……」
後ろは壁で逃げ場がなく、震えるしかできない。
男はしかし、に構わず彼女に向けて言った。
「女――ただの人間の娘、お前に現実を教えてやろう」
「げ、現実?」
「――仙舟の長命種である持明族、その中でも特別な龍尊である余の力を継いだものと、ただの人間の娘のお前では、釣り合わない。そのお前と奴が別れるなら、傷の浅い今のうちがいいという、現実だ」
「は、はあ、何、言ってるの。持明族とか、龍の力とか、それで釣り合わないから別れた方がいいなんて意味がよく分からないし、何で見知らぬ男にそんな風に言われなくちゃいけないの。あなたが誰か分からないけど、丹恒はどこへいったの、丹恒を返して! そ、それに、これ以上に私に近付けば、開拓者か姫子を呼ぶわよ!」
「……、そういう、弱いくせに強気な部分と、立場を利用して他人にしか頼れない部分は、第二王妃の時と変わらんか。あいつもお前のそういう所に惹かれたのだろう。ただ、無能力で普通のただの人間である娘と余の龍の力を継いだものとでは釣り合わないのは真実で、いずれその現実を知ってそれに耐えきれず、お前のそれを見ていられなくなった『あいつ』からお前に別れを切り出すだろうな」
「龍の力……、無能力者で普通の人間の私ではそれに耐えられない、それで丹恒から別れを……」
の頭では、彼のいう龍の力が何を意味するのか理解できなかったが、その雰囲気から壮大な何かだろうというのは理解するし、自分が丹恒の負担になっているのも理解している。
丹恒ではない男は、淡々と言う。
「近いうち、あいつで傷つき倒れるのは、お前の方だ。お前もそれ分かってるだろうに、あいつとずるずる付き合っている。それでも余は今までは我関せずでいたが、今回、お前が無意味で無駄な事をしているのでつい、でしゃばってしまった」
「……」
何かを悲しむように。何かを憐れむように。目の前の丹恒ではない男は手を伸ばし、の顔に触れてきた。
いつものであれば丹恒以外の男に触られたらすぐに振り払うが、今回はそれができなかった。
丹恒と同じ顔をしているのに、何か違う、異質な冷たいもの。
はしかし、異質な冷たいものであるのにとても美しいそれに目を奪われ、身動きが取れなかった。
男はに触れたまま、言う。
「ただの人間の娘よ、再度、忠告を。お前は何かを期待するように仙舟の勉強を始めたが、余の仙舟に関われば、お前の方が傷つきそれに耐えられずに、倒れるだろう。あいつは、お前のそれを危惧している」
「……」
「毒を飲まされる方は、毒と気が付かない。毒を甘い汁といい風に変換し、倒れるまで毒を飲み続ける」
「……今の私、丹恒の仙舟に関わるのが毒と分からず、それで倒れるまで甘い汁を飲まされてるっていうの?」
「そうだな。余の目には、お前は、あいつと仙舟に関するものが毒と分からず甘い汁を吸い続けるだけの、哀れな娘に見える。あいつとさっさと別れなければ、お前、いつまでもその毒を飲まされるぞ?」
「……」
もまた、頭の片隅で男の話している意味を理解している。
理解しているぶん、男の話であふれるものがあった。
「私は……、仙舟の勉強を始めたところで、仙舟に行けずに無意味な事してるって、分かってた。それに無能力者で普通の人間の私では、特別な力を持つ丹恒とも釣り合わない、いつか彼と別れる必要があるって、分かってた、分かってたよそんなの、でも、でも……、ふぇ……」
それを理解しているぶん、今までたまっていた感情があふれ、ぽろぽろ、涙があふれてきた。
の頬を触れる男の手にも、彼女の涙がつたわる。
男はの涙を拭い、そして。
「……簡単に泣けるのは、ただの人間の娘の特権、か」
「止めて、これ以上、私に触らないで」
はここでようやく、もう一度手を伸ばして自分に触れてくる男の手を振り払った。
男は構わず、続ける。
「ただの人間の娘よ、お前が仙舟を知れば知るほど、あいつの存在に耐え切れなくなる」
「……」
「あいつはいつか、姫子の星穹列車だけではなく、故郷の仙舟でも役立ちたいと思っているが、お前の存在が重荷になっている」
「もう、止めて!」
それ以上は聞きたくないと、自分の手で自分の耳をふさぐ。
それでも男の声はどういうわけか自分の耳まで、その奥まで聞こえる。
「ただの人間の娘、仙舟の勉強以外でも、お前がしている事は全てあいつのためというが、あいつにとっては無駄で無意味な事だ。それに――」
男は少し考え、それを決心したよう、の前で吐き出した。
「――それに、ただの人間の娘とあいつの間ではもう、その契約はとっくに切れている」
「!」
それは。
その事実は。
「お前があいつの手であの小さな世界からこの宇宙に来てから、一年が経つ。あいつとの契約は一年きっかりで、その日はすでに過ぎている。それが、その間に来た開拓者を言い訳に、いつまでもずるずると続いている。これには、姫子だけではなく、ステーションでお前を『監視』しているアスターとヘルタも呆れていたぞ」
「……何でそれ、あなたが知ってるの。その話は、星穹列車では姫子だけ、ステーションでもアスターとヘルタしか知らないはずなのに」
その丹恒との裏の話は、この宇宙に来てから姫子とアスター、ヘルタの三人によって提言されたもので、それはヘルタによって隠蔽され、これはヴェルトはもちろん、開拓者と三月なのかも知らないものだ。
この宇宙では完全に、丹恒、姫子、ヘルタ、アスターの五人だけの機密情報だったのに?
はそれに震えるも、男は笑みを浮かべて続ける。
「あいつの情報は余とも共有しているのでね、余のものはあいつのものであるが、あいつのものは余のものである。ただの人間の娘、お前もそれ頭では分かってるだろうに、目の前の現実を受け入れず、否定し続けている」
「……」
「更に言えばただの人間の娘、仙舟の勉強をやっている場合か? そろそろ、自分の処遇を決めなければいけないのではないか。このまま無駄な時間を過ごしていれば近いうち、スターピースカンパニーから勧告が来てそれに従わなければヘルタ・ステーションを追放され、どこへ流されるか分からんぞ」
「……」
「あいつもそれに関してお前にどう切り出せばいいか迷っていたのでね、余が出てきたというわけだ。まったく、こっちにばかり嫌な役を押し付ける……」
「……」
そんな事は目の前の男に言われなくても、も分かっていた。
は男に言われずとも、分かっている。
この一年で丹恒と付き合える時間はすでに、切れていると。
それでも。
それでも――。
は自分の手で涙を拭った後、男を睨み付けて言う、言ってやった。
「……私は、私の仙舟の勉強が無駄だって事も、特別な力を持つ彼が無能力者の私と釣り合わない事も、私の存在が彼の重荷になってるのも、全部、分かってる。そして、私と丹恒の契約、その関係が時間切れだってのも、私がこの先、どうするべきかもね」
「ふむ。ただの人間の娘、全部分かっているなら何故、それから逃げる。……お前の故郷がお前の家族のせいでレギオンに蹂躙された時もそうだったが、それからあいつと逃げても、無意味だろうに」
「うるさい。その私と別れるか別れないか、その契約が無駄か無駄じゃないか、私をどうするかそれは、彼が――丹恒が決める事だわ。それから言っておくけど私はそれから丹恒と逃げてるんじゃない、私が進む先にいつも丹恒が居て彼がそこで私を待っててくれてるだけの単純な話よ」
「――」
ようやく吐き出したの言葉は、その強さは、かつての自分を――第二王妃の時のものを取り返すようだった。
男は目を伏せ、いらだつように言った。
「ただの人間の娘、あいつの与えるもの、それが毒と分からないのか。お前はもう少し賢い方かと思ったが、これでは余も扱えんぞ。ここまでの無能な女は、ほかに丸投げするのが一番か……」
は男に、自分がバカな女で扱いきれないと、そう呆れて言われているのは理解した。
けれども。
「あなたの言うように私にとって丹恒は毒、その通りかもね。でも私はその毒にやられて倒れると分かっていても、その毒にやられて倒れる方がいい」
ひといきついて、そして、今まで見れなかった丹恒ではない男を真っすぐ見詰めて、言い放つ。
「それが私の最期に相応しい。最期、あの人の毒にやられるのであれば、本望だわ」
「――」
は男を前にして言う、言ってやったのだ。
男は伏せていた目を開け、を凝視する。
目の前の女は、ただの人間の娘のはずが、妖のような美しい笑みを浮かべている――。
は男を睨みつけ、続ける。
「あなたが私の故郷が私の家族のせいでレギオンに蹂躙されたという話や、彼との一年契約の話をを知っているのは、あなたは本当に丹恒の何かなんでしょう。でも今の私に必要なのは、あなたじゃないの。そろそろ、丹恒を返してくれない?」
「ハ、ただの無能な人間の娘かと思えば、女狐だったか。余を前にして、そこまで言う女が現れるとはな。あいつもヘルタの言うよう、厄介で面倒な女に手を出したものだ。いや、だからこそ、手を出したのか」
男は身を乗り出し、自分を睨みつけそう言ってきたの腕を掴み、強引に自分の方へと引き寄せた。
「止めて、それ以上に私に触れれば本当に開拓者か姫子か、声上げて、人を呼ぶわよ!」
「クク、やれるものなら、やってみろ」
「何言って――ッ?!」
は男を振り払い、声を上げて人を呼ぼうとするがどういうわけか、声を上げられなかった。
男の青白く輝く尾が伸びてきて、にまとわりつく。
「……ッ、……!」
それに恐怖を抱き悲鳴を上げたくても声は出ず、もがくも抵抗する力も尾に絡まれて何もできなくなる。
男は再度、の腕を掴み、彼女を自分のもとへ引き寄せる。
「……毒はあいつではなく、お前だったか、女狐」
「……ッ」
見れば男の目の青い輝きが増していて、はその美しい輝きを間近で見て再度、息を飲んだ。
男は笑み深くし、に丹恒と同じ、でも、彼とは違い冷酷な顔を近付け、言った。
「余のものは『あいつ』のものであるが、『あいつ』のものは余のものでもある。女狐――、、それをゆめゆめ忘れるな」
「……」
「、余にもあいつと同じようにその毒を与えろ。そのぶん、余もお前に力を貸そう」
「――」
は男に振り払えないほどの強い力で抱き締められたかと思えば意識を失い、その後のことは何も覚えていなかった。